ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその501-現在のJPOP

2020年12月01日 | J-POP
聴く価値が本当にあるのか。

日本の戦後第一の流行歌は映画「そよ風」挿入歌「リンゴの歌」であるのが定説だ。
この明るい、希望に満ちた楽曲は、敗戦で落胆していた、日本人の心にしみた。
そして先日まで、NHKの朝の連続テレビ小説「エール」の主人公になった、古関裕而。彼もまた「長崎の鐘」など、人々の心に残る歌を書いている。
その後、日本のポップス(敢えてこのように表現するが)は、ロカビリー、カバーポップス、グループサウンズなどを経て、現代のJPOPへと続いている。
上記の日本のポップスとは、歌謡曲も含む。特に昭和30年代から昭和50年代までは、日本のポピュラー音楽としての「歌謡曲」の存在は大きい。
順当に歩んできた日本のポピュラー音楽は、正確に言うと1985年あたりから、その道を外れてくる。
女性アイドルも冬の時期になり、若手バンドの青田刈りが始まり、1990年代には、職業作曲家・作詞家がほぼ不要の時代となってきた。
しっかりした勉強もしたことのない、新しく作られた楽曲は、最初は耳あたりのいいこともあり、ヒットした。
更にCDと言う音楽媒体が普及し、難しい操作なく高音質で再生できることとなり、CDも爆発的に売れた。
しかし、残念ながら、ヒットして、暫く愛される楽曲は出来たものの、永劫となるような楽曲はなくなり、人々は音楽を単なる消費物と考えるようになってきた。
まだ味の残っている「チューインガム」を新しい曲が発表されれば、それをプイと吐き捨て、次のチューインガムを頬張るように手をつける。これでは、未来永劫人々の記憶に残る音楽は存在しようが無い。
良く言われる言葉に「昭和の楽曲は記憶に残るもの、平成の楽曲は記録に残るもの」と言われるのも当たり前だろう。

最近のJPOPシーンを見ていると、楽曲の不自然さが目に付く。
あのようなファルセットの入り方や、シンコペーションの入り方は如何にも不自然である。
人間の感性というものは、誰彼かかわらず似たような所をもっている。特別に感性の変わった人間など、殆ど居ないに等しい。
よって私が思うには、作曲者は一度曲を完成させ、それを譜面に書き、その譜面を見ながら、様々な譜面への「加工」して、曲を完成させているのではないだろうか。
また詞に関しても、表面的な表現が連なっているだけで、聴いている者に感銘を与える物はない。そしてあくまでもパーソナルな内容のラブソングが多く、世相を反映しているものが全くない。それどころか、自分の表現したいものを伝えているような詞も全くない。

音楽は素晴らしい。だからこそ、もっと素直でソリッドな音楽の登場に期待したい。