【なぜわが子を傷つけるのか】(1)鬼を見るかのような… 息子の目、恐怖と哀願(産経新聞) - goo ニュース
「結局、私の都合だと思う。いらいらしたり自分にゆとりがないときにやってしまう。その後は罪悪感。そんなひどい親でも、私が泣いていると息子はティッシュペーパーを持ってきてくれる。『ごめんね』と言って抱きしめて。でも次の日になるとまた別のことで殴ってしまう」
・・・・・
虐待とまではいかなくても、こういう気持ちは経験がある。
自分の感情に任せて怒ってしまい、泣き疲れて眠ってしまった息子の顔を見て「ごめん」って。
「大きな声で怒らない」とか「いつも笑顔で」とか、紙に書いて部屋のあちこちに貼り付けた。
本屋さんで、この本も買った。
でも、中々直せなかった。
全く、怒りんぼうの私。
昔はネットも無くて情報を得る手段もないし、
私は、初めての赤ちゃんにとまどっていた。
産院でも、乳児室に我が子の顔を見に行くこともしなかったし
退院してからも息子と二人きりでいると不安で、夫が帰宅するのを待っていた。
だから、寝ていてくれたらそれで良かった。
相手をするのは夫が帰宅してから。
前夫も優しい人だった。
24才のこの父親は仕事で疲れていても、夜泣きしている息子を抱いて1時間とかでもあやしてくれた。
考えてみたら、一番上の子って可哀想なところがある。
生んだからってすぐに母親になれるわけじゃない。(精神的に)
愛情が無かったのかといえば決してそうでは無いけど・・・
子を愛しいと思う気持ちに自分自身が気付いていなかった、と思う。
上手く愛情表現も出来なかった。
年子で弟と妹が生まれて、私は3つか4つになるまで母方の祖父母に預けられた。
小学3年で転校したけど、1年からずっと学校ではひと言も言葉を発しなかったらしく、特殊学級に入れられそうになったと母が言っていた。
幼稚園の頃の記憶といえば、ただ一つ。
お絵かきをしていたら、女の先生が画用紙を取り上げ、顔を真っ赤にして怒っている。
それだけ。
私は何を書いていたんだろう?
私が小学生だった期間、父親に殴られ蹴られしている。
銭湯へ行く道すがら、蹴られて転んだ私をまだ足蹴にする父。
酒飲みの父は食事が長い。
その間中、正座で説教される。
反抗的な目で見ると「なんじゃ!その目は!!」と暴力が始まる。
見かねた祖父が「2階に上がっとき」と言ってくれて階段を上り切ろうとしたところで足首を掴まれ引き摺り下ろされる。
妹を庇って殴られる。
そんな日々。
私も相当捻くれた子だったのかもね(笑)
夜、廊下から私たちきょうだい三人が寝ている部屋を覗きながら父と母が話している。
眠っていると思っていたみたい。
「普通、寝顔は可愛いもんやけど、masumiだけは寝とっても憎たらしいな」と父の声。
masumiちゃんの寝たふりは続く。
父の姉夫婦に子供が出来なくて、私を養女に出すと言う話があった。
何で私?
中学になると暴力はなくなった。
父曰く「家出されたら困るから」だって。
けど、言葉の暴力は続く。
「誰に飯食わせてもらってると思ってる」
中学1年の終わりから2年生の夏休みまで、家ではひと言もしゃべらなかった。
夏休みのある日、母に泣かれた。
「あんたが話し相手になってやれへんから、○○子(妹)が可哀想や」
高校生の時は
「誰のおかげで学校に行けてると思ってる」
「女が新聞なんか読まんでええ」
母に対しても、何となく遠慮みたいなものがあった気がする。
両親に心から安心して甘えたっていう経験がない。
もしかしたら記憶が無いだけかも知れないけど。
でも母が言っていたけど、電車やバスの中で、泣いている赤ん坊の私を「泣くなー!」って怒鳴ってほっぺたをぎゅううってつねっていたらしいから、多分そうだと思う。
それで、私が息子を出産したときに
「あんたが生まれたとき、お父ちゃんも凄く喜んでんで」って母に言われても「ふーん」「あ、そっ」って感じ。
そのせいにするっていうのも考えものかも知れないけど、
親子間の愛情っていうのがどうも苦手だった。
父も祖父との関係が良くなかったみたいで、こういうのって世代間で繰り返されていくみたい。
自分のところで断ち切らなくちゃ、と思うのだけど・・・遅かったかな?
けれども10のものを5には出来たんじゃないかとは思う。
次の子は妊娠した時から可愛かった。
自分のお産に感動して泣くくらい。
昔の写真を見ると、息子は前夫に、娘は私に懐いているのが一目瞭然だ。
息子には愛情表現が上手く出来ないままで、ぎくしゃくした関係がずーっと続いていたけど
大学に入ってから、ある事があって、
その時に私は息子に思いっきりの愛情表現をした。
それからは良い関係。のハズ(^^;
父親に対しては、
ぼちぼち行こうと思っている。
重い話で ごめんね
「結局、私の都合だと思う。いらいらしたり自分にゆとりがないときにやってしまう。その後は罪悪感。そんなひどい親でも、私が泣いていると息子はティッシュペーパーを持ってきてくれる。『ごめんね』と言って抱きしめて。でも次の日になるとまた別のことで殴ってしまう」
・・・・・
虐待とまではいかなくても、こういう気持ちは経験がある。
自分の感情に任せて怒ってしまい、泣き疲れて眠ってしまった息子の顔を見て「ごめん」って。
「大きな声で怒らない」とか「いつも笑顔で」とか、紙に書いて部屋のあちこちに貼り付けた。
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本屋さんで、この本も買った。
でも、中々直せなかった。
全く、怒りんぼうの私。
昔はネットも無くて情報を得る手段もないし、
私は、初めての赤ちゃんにとまどっていた。
産院でも、乳児室に我が子の顔を見に行くこともしなかったし
退院してからも息子と二人きりでいると不安で、夫が帰宅するのを待っていた。
だから、寝ていてくれたらそれで良かった。
相手をするのは夫が帰宅してから。
前夫も優しい人だった。
24才のこの父親は仕事で疲れていても、夜泣きしている息子を抱いて1時間とかでもあやしてくれた。
考えてみたら、一番上の子って可哀想なところがある。
生んだからってすぐに母親になれるわけじゃない。(精神的に)
愛情が無かったのかといえば決してそうでは無いけど・・・
子を愛しいと思う気持ちに自分自身が気付いていなかった、と思う。
上手く愛情表現も出来なかった。
年子で弟と妹が生まれて、私は3つか4つになるまで母方の祖父母に預けられた。
小学3年で転校したけど、1年からずっと学校ではひと言も言葉を発しなかったらしく、特殊学級に入れられそうになったと母が言っていた。
幼稚園の頃の記憶といえば、ただ一つ。
お絵かきをしていたら、女の先生が画用紙を取り上げ、顔を真っ赤にして怒っている。
それだけ。
私は何を書いていたんだろう?
私が小学生だった期間、父親に殴られ蹴られしている。
銭湯へ行く道すがら、蹴られて転んだ私をまだ足蹴にする父。
酒飲みの父は食事が長い。
その間中、正座で説教される。
反抗的な目で見ると「なんじゃ!その目は!!」と暴力が始まる。
見かねた祖父が「2階に上がっとき」と言ってくれて階段を上り切ろうとしたところで足首を掴まれ引き摺り下ろされる。
妹を庇って殴られる。
そんな日々。
私も相当捻くれた子だったのかもね(笑)
夜、廊下から私たちきょうだい三人が寝ている部屋を覗きながら父と母が話している。
眠っていると思っていたみたい。
「普通、寝顔は可愛いもんやけど、masumiだけは寝とっても憎たらしいな」と父の声。
masumiちゃんの寝たふりは続く。
父の姉夫婦に子供が出来なくて、私を養女に出すと言う話があった。
何で私?
中学になると暴力はなくなった。
父曰く「家出されたら困るから」だって。
けど、言葉の暴力は続く。
「誰に飯食わせてもらってると思ってる」
中学1年の終わりから2年生の夏休みまで、家ではひと言もしゃべらなかった。
夏休みのある日、母に泣かれた。
「あんたが話し相手になってやれへんから、○○子(妹)が可哀想や」
高校生の時は
「誰のおかげで学校に行けてると思ってる」
「女が新聞なんか読まんでええ」
母に対しても、何となく遠慮みたいなものがあった気がする。
両親に心から安心して甘えたっていう経験がない。
もしかしたら記憶が無いだけかも知れないけど。
でも母が言っていたけど、電車やバスの中で、泣いている赤ん坊の私を「泣くなー!」って怒鳴ってほっぺたをぎゅううってつねっていたらしいから、多分そうだと思う。
それで、私が息子を出産したときに
「あんたが生まれたとき、お父ちゃんも凄く喜んでんで」って母に言われても「ふーん」「あ、そっ」って感じ。
そのせいにするっていうのも考えものかも知れないけど、
親子間の愛情っていうのがどうも苦手だった。
父も祖父との関係が良くなかったみたいで、こういうのって世代間で繰り返されていくみたい。
自分のところで断ち切らなくちゃ、と思うのだけど・・・遅かったかな?
けれども10のものを5には出来たんじゃないかとは思う。
次の子は妊娠した時から可愛かった。
自分のお産に感動して泣くくらい。
昔の写真を見ると、息子は前夫に、娘は私に懐いているのが一目瞭然だ。
息子には愛情表現が上手く出来ないままで、ぎくしゃくした関係がずーっと続いていたけど
大学に入ってから、ある事があって、
その時に私は息子に思いっきりの愛情表現をした。
それからは良い関係。のハズ(^^;
父親に対しては、
ぼちぼち行こうと思っている。
重い話で ごめんね
この記事を書くとき、意外と心を乱さずに書くことが出来ました。
嬉しいです。