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ちょっとそこからヒマラヤの奥地まで

隠岐の旅 3 西ノ島~中ノ島

2016-02-07 00:04:13 | 国内旅行
11月15日 続き

昼食後も西ノ島の観光続行。

次に訪れたのは焼火(たくひ)神社。
 
ちょっとした山道を植物好きのガイドさんに案内されて上って行くと
  
ようやく晴れてきた空の下、海の向こうには島前でも一番小さな知夫里島が見える。

 さらに上がって鳥居をくぐると
 
まるでお城のように立派な石垣があり、それを過ぎると社殿が現れるが
 
本殿の屋根は後ろの崖にめり込んでいるなんとも印象的な姿。
この社殿は1732年に作られた隠岐でも一番古い建築だそうで
 
欄間の彫り物なども立派。そしておもしろいのは大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祭る神社でありながら、
 
同じ拝殿の中に雲上宮として地蔵菩薩が同居していること。神仏習合のいい例だが、納められたお地蔵様が美しい。

この山を下りたところにあるのは大山神社。
  
元来は焼火神社のある山をご神体としてまつる神社だったのだそうだ。

別府港の近くまで戻って、西ノ島最後のお参りは黒木神社。
 
この小さな神社のご祭神は後醍醐天皇。
 というのもこの神社の裏手には隠岐に流された後醍醐天皇の行在所だったとされる黒木御所の跡があるからで
  
敷地内には碧風館という小さな資料館もある。

後醍醐天皇は鎌倉幕府討幕に失敗して1332年に隠岐に流されたが、わずか一年で脱出に成功。
その手助けをしてのちに皆殺しになってしまった名和一族の墓には出雲に行った時にお参りしたっけ。

 
後醍醐天皇はこんな景色を眺めながら脱出計画を練ったのだろうか。

 
西ノ島の別府港から中ノ島の菱浦港までは、今度は小さな「いそかぜ」にわずか7分で運んでもらう。

そしてすぐに向かったのは宮内庁管轄のこちら。
 
後鳥羽上皇の火葬塚に行在所跡。
後醍醐天皇より100年前に隠岐に流された後鳥羽上皇は19年をこの地で過ごして亡くなったそうだが、和歌を作る以外にすることもなくてさぞや退屈だったことだろう。

 行在所の向かいには歴史民俗資料館があり
 
展示は複製だけれど、後鳥羽院の手形を押した文などがある。

日が傾いてきても神社めぐりはまだ続く。
 田んぼの向こうにあるのは宇受賀命神社(うずかみことじんじゃ)。
 
今は小さな田舎の神社の風情だが、土地の神様を祭るここは隠岐国4大社の1社なのだそうだ。

渋いお参りを終了したら今夜の宿、マリンポート海士にチェックイン。
 
 
そしてすぐに海の物づくしの食事となったが、そのわけは本日のプログラムがまだ終了していないから。

食後またバスに乗って向かった先は、後鳥羽上皇の行在所に建てられた隠岐神社。
本来神社の参拝とは日があるうちにするものなのだそうだが、隠岐神社では申し込めば夜の参拝ができるのだ。

 
暗い参道に点々と小さな明かりだけが灯された中を進み
  
薄暗い拝殿でご祭神の後鳥羽院に正式参拝。ちょっとミステリアスな雰囲気で、我らがリーダーの宮司はなにやら感じ取った様子。
昼には軽妙な解説で行在所を案内してくれた隠岐神社の若い宮司もさすがにこちらでは神妙だ。

ところで隠岐神社は歴史がありそうで実は昭和14年といささかきな臭い時代に作られた新しい神社。
そしてこの夜の参拝は観光誘致の一環として町の観光課が企画したものらしい。
バスで案内してくれたその観光課のお姉さんは東京からの移住者、神社で迎えてくれたもう一人の青年も福岡出身とのことで、聞けば隠岐の中でも人口わずか2500人ほどのこの海士町というところは積極的にIターンを誘致して成功しているのだそうだ。

青年いわく「町の人も移住者に慣れてきたので疎外感はないです」とのこと、他のガイドさんも「釣りはし放題、自然が好きならいいところだ」と言っていたし、島への移住もいいかも?


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コメント (2)
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