Being on the Road 2

日常の中に旅があり、旅の中に日常がある。僕たちは、旅の途上。
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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/高岡

2024年10月19日 | 旅行

2024年の記録

10月に出張した富山県高岡市の朝の散策の記録

(前回のiPhone画質の不満から、今回はNikon COOLPIX P5100で撮影)

 

トップ写真は、お気に入りの赤レンガ建築の旧高岡共立銀行本店。

 

 

足尾から高岡まで、高速をクルマで走って、片道約6時間。さすがに日帰りにできず、1泊したお陰で、高岡市山町筋重要伝統的建造物保存地区(重伝建)を散策できた。

 

山町筋重伝建が散歩圏内といった我が儘な上司に気を使ってくれた部下のチョイスはアパホテルだった。アパホテルに宿泊したのは、久しぶりのこと。理由は、料金設定が高めなのと、嫌中書籍設置問題で、来日中国取引先の宿泊には利用できないこと。

 

日本は言論の自由がある国なので、件の書籍を設置する自由がある。しかし、十分な議論のできない環境で、歴史認識に関わる問題を提議するのは、如何なものか?というのが、僕の見解。

歴史認識を改めるとか、一致させるなど、できない、そもそも、歴史認識は、一致させるべき性質のものではない。事実は1つでも、それをどのように認識するかは、その人のバックポーンで、異なるものだからだ。

 

アパホテルのビジネスモデルは、ある意味で独特。アパ・カレーなるレトルトカレー等のプレゼントがあったり、狭い部屋に異常にデカイテレビモニターを設置したりと。無駄と言えば、無駄なのだけど、それが“お得感”や“ゴージャス感”になる。まぁ、一泊するのは良いが、3連泊以上は、「ちょっとね!」と僕は思う。

 

 

山町筋は加賀前田家二代当主前田利長が高岡開町に際し、近隣の城下町から町人を招いて北陸道沿いに商人町を造ったことが始まりで、高岡は江戸期から明治期にかけ物資集散の拠点として発展し、中でも山町は商業活動の中心だった。

 

現在でも残る街並みは、1900年(明治33年)の大火の復興にあたり、防火構造である土蔵造り主屋が建てられたことによる。それらの土蔵造り主屋に混じり、本格的な洋風建築の赤レンガの銀行や洋風建築の意匠を取り入れた主屋等も建ち、特色ある歴史的景観となっている。

 

 

1914年(大正3年)に高岡共立銀行本店として建てられた。擬ルネッサンス様式の建物で、屋根は銅板葺きである。その後は北陸銀行高岡支店、1964年(昭和39年)11月からは富山銀行本店として使用された。

 

建物の設計は、東京駅を設計した辰野金吾の監修のもと、清水組の田辺淳吉が担当した。

 

2019年(令和元年)の富山銀行本店移転に伴い、建物は2021年(令和3年)、高岡市に無償譲渡された。市の建物診断では、大地震で倒壊の恐れがあり、大規模な耐震補強工事には、工法の違いにより3億5千万から5億円程がかかるとされている。なお、施設活用案として、交流・展示施設や飲食・物販施設などの利用も考えに入れ検討している。

 

 

山町筋から路地を入っても絵になる街なみがあった。

 

 

【メモ】

「令和の米騒動か?」と言われた夏が終わり、コメの収穫期の秋を迎えたが、店頭にならぶコメの価格は高止まりだと嘆く友人たち。農家の立場からすると、原価の上昇分は、まだまだ農家の持ち出しだ。肥料も農業資材も、そして農機の燃料も輸入である。それでも、コメの生産をやめないのは、農家にとって農業が事業ではなく家業、つまるところ収益をあげることが目的ではなく、継承することが目的になっているからだ。

 

日本のコメが、安いか、高いかと言えば、チョー高い。アジア圏に住んだ経験のある人なら分かると思う。高い理由をひと言で言うと、無理して作っているからだ。日本は南北に長いのに、多くの農家は、ゴールデンウィークに田植えをする。理由は、兼業農家だからだ。そんな訳で、田植え機が稼働するのは、年数日間。稼働時期が、重なるので、自前で所有するしかない。一戸の規模が小さいのに田圃が散在していることも多く、効率も悪い。そのため、専業農家も請け負いを躊躇するので、大規模化は遅々として進まない。

 

営農のために我が家の家計が大赤字にならないのは、国の補助金があるからだ。家業でやっている農家に、なぜ補助金を拠出するかというと、食糧安保という大義があるからだ。しかし、既述した通り、肥料から燃料に至るまで、農家の買い物の大半は輸入なので、輸入がストップすれば、コメの生産はもちろん、農業そのものが、できなくなる。化学肥料を人糞に替え、農機を使わずに人力で、何から何までやったら、収量は激減して、食糧危機は回避できない。

 

結局のところ、食糧安保を大義にした日本の農業政策は、時代錯誤になってしまった。ほんとうの目的である“票田”の家族経営農家は、瓦解してしまった。コメの輸入を解禁すれば、小麦同様、国内生産は限りなくゼロになる。国内の農業効率化を目的に企業の農地所有を解禁すれば、きっと海外資本のものになってしまうだろう。

 

展望のない、農家の愚痴になってしまった、頓首!

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

https://blog.goo.ne.jp/dandyzhen/0

 


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/日本縦断と浅草・日光

2024年10月06日 | 旅行

2024年の記録

8月と9月の散策の記録

 

 

トップ写真は、浅草寺雷門。日本の観光地の象徴か?日本人観光客は、パラパラ、マジョリティは、外国人、近未来の日本の姿か?

 

 

居宅から東京の本社に出勤するときは、東武日光駅までは、クルマで約40分。東武日光駅から浅草まで行き、営団地下鉄銀座線に乗り換えて日本橋へ。浅草で都営地下鉄浅草線に乗り換えれば、そのまま京浜急行直通で、羽田空港へ乗り換え1回で行ける。

 

 

北九州空港を飛び立ち、一眠りして目が覚めて、窓から外を眺める。三重県志摩市上空を飛行中。

 

 

静岡県上空では、雲の間から富士山の山影が見えた。

 

 

神奈川県三浦半島上空。

 

 

航路は、神奈川県から千葉県上空まで飛び、その後大きく旋回して、北側から南下して羽田空港に向かった。南房総市富津町~君津市~長柄町。

 

 

 

7ヶ月前まで住んでいたワラビスタン上空。まだ、1年も経ていないのに遠~いいむかしのことに思える。

 

 

東京都中央卸売市場上空、東京湾岸フロンティア。

 

 

羽田空港に無事着陸!

 

 

羽田空港駅から都営地下鉄浅草駅まで直通電車で30分、駅から徒歩5分。浅草寺雷門は、抜群にアクセスが良い。英語や中国語で、行き交う人に話しかければ、実践的なインターナショナルコミュニケーションのトレーニングになるだろうな、ちょっと怪しがられるけどね。

 

 

仲見世通りを進み、宝蔵門をくぐると正面に本堂、左手に五重塔。

 

 

雷門門前にある浅草観光文化センターの展望室からは、雷門から仲見世通り、宝蔵門までを一望できる。(本堂は宝蔵門の陰になって見えない)

 

 

東武鉄道浅草駅ビル(現:EKIMISE(エキミセ))は、1931年(昭和6年)竣工の基本意匠をネオ・ルネサンス様式とした関東初の百貨店併設駅ビル。

 

 

日光から足尾への帰路、日光東照宮神橋から日光金谷ホテルを眺める。

 

 

【メモ】

部下から「円高は、このまま進みますかねぇ?」と聞かれた。

「そんなのわからないよ。だって、世界では、戦争が2つも続いているんだぜ。」 

そうなのだ、2つも戦争があり、毎日、何の罪もない人を殺し、殺されている。それに対して、何もできない自分。言い知れない無力感を覚える。

 

イスラエルのガザへの空爆が、レバノン、イランへと拡大していることについて、「日本への影響は? 石油が高騰するのかなぁ」とバラエティ番組でコメントしたゲストがいた。正直な気持ちなのだと思うが、あまりにも不謹慎なコメント。僕は憤りを覚えた。戦争が終結するならば、石油価格が倍になっても僕は許容するよ。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/鉱都足尾・夏の思いで

2024年09月28日 | 旅行

2024年の記録

足尾の短い夏、6月~8月の散策の記録

 

 

週末になると茶色とゴールドのツートンカラーのディーゼル機関車が、客車を牽引して、足尾駅まで運行される。

 

 

世間では、酷暑、酷暑と呟かれる2024年の夏。しかし、日足トンネルを抜けて旧足尾町に入ると、別世界の涼しさ。標高600~1000米の高さに加え、周囲を山に囲まれているため、良くも悪くも15時をすぎると、日が沈んでしまう。ほとんど、エアコンを使うこともなかった。(足尾が長い人は、涼しさに慣れてしまい、それなりに暑くて、使っているが・・・・。) ただし、朝晩には、霧が発生するため、湿度が高く、除湿のためエアコンを使うことがあった。

 

 

梅雨の最中、雨あがりの空に一瞬のあいだ虹が掛かった。(足尾町掛水)

 

 

虹が消えた後、夕焼けを映した東の空が、燃えるような紅色に変った。(足尾町掛水)

 

 

旧国鉄色のキハ35型ディーゼルカーが停まっている足尾駅。

 

 

DE10型ディーゼル機関車と12系客車で編成されるわ鉄・トロッコわたらせ渓谷号

 

 

僕の勤務先の目の前の岩壁、今でこそ、植樹の成果で青々としているが、“日本のグランドキャニオン”と呼ばれ、岩肌剥きだしの絶壁になっていた。

 

 

粟野町(現鹿沼市)上粕尾と足尾町(現日光市) を結ぶ粕尾峠は、最高地点が標高約1100米。

1896年(明治29年)に鉄索(ロープウェイ)が設けられ、粕尾の材木や木炭が運搬されていたが、現在、鉄索の跡はみつからない。写真は、最高地点の市境付近から足尾側の展望。

 

 

足尾製錬前の古河橋を渡り、本山坑口前を抜け、銀山平に至る足尾の裏道の最高点が舟石峠である。冬季通行止め。

 

 

松木川左岸(上流から下流側を見る)の自動車の通行できるドン詰まりにある銅(あかがね)親水公園。

 

 

粕尾峠を越え、国道122号線のバイパスと交差した付近の足尾町向原の内ノ籠川。

 

 

粕尾峠旧粟野町側の青空、白い雲、そして路傍の花。

 

 

山林からしみだす水、その流れは、思川となり自宅のある下野市をかすめて、野木町で渡良瀬川と合流、利根川を経て太平洋へ注がれる。

 

 

居宅のベランダから見る空、住めば都。どこよりも落ち着く場所かもしれない。(足尾町掛水)

 

 

足尾は、山に囲まれた谷底にあり、北東と南西が僅かに開けている地形のため、夕焼けが見られるのは稀だ。日光市今市のショッピングモールの駐車場で、久々に夕焼けのパノラマを見た。

 

 

【メモ】

自民党の新総裁が決まった、日本の新総理大臣が決まったに等しい。そのことを深く議論するつもりはない。まぁ、タカ派のTさんが総理になって、対中関係が荒れると困るなぁ、といった心配は、杞憂に終わり、やれやれ、といったところだ。

 

僕の祖父は、戦前、政商みたいなことをしていたらしい。そのためか、父は、政治家を政治屋、政党を政治業者と呼んで、軽蔑していたが、その一方で、義父もその父も、そして義母の父も政治家というのも皮肉か。

 

政治家の世襲は、良くないという人もいるが、悪くもないと思う。世襲議員の方が、ある意味で、自由なのだ。政治家が、政治家でいるためには、選挙に勝たなくてはならない。世襲した地盤があれば、絶対安泰という訳ではないが、地盤もなく選挙に勝つためには、人脈やカネの面倒を見てくれる親分に仕えなくてはならない。そんなことをしていると、自身の志など、どこかへ吹っ飛んで、地位や権力を掌握することが目的となってしまう。

 

頭脳明晰で、弁が立ち、世襲でもない議員がいるが、どうも彼らは、日本を変えたいのではなく、日本を変えられる権力が欲しいだけに見える。自身の政治信条を語るのではなく、マーケッティングの手法でリサーチした、大衆に受ける、票を集められることを言う。世界的な大衆迎合主義の一端か?

 

義父を悪く言いたくないが、議員になる方が、医者や弁護士、教師になるより手っ取り早く「先生、先生!」と呼ばれると考えたのではないか?世襲の地盤を最大限活用してね。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/ふらっと群馬 第5回

2024年09月21日 | 旅行

2024年の記録

7月末に来足(足尾に来る)した友人を相老まで送った後に桐生市の教会巡礼と8月に桐生川源流林の撮影後に再び桐生を散策した時の記録

 

 

足尾に居を構えて以来、つくづく思うのだが、渡良瀬渓谷の空は美しい。

 

 

来足した友人と旧足尾町内を散策した後、富弘美術館に連れて行き、東武桐生線の相老駅まで送った。その後、桐生市内の教会を散策し、1週間分の買い物をして帰宅。

 

 

草木湖畔にたたずむ富弘美術館は、不慮の事故により手足の自由を失い、口に絵筆を咥えて創作活動をした詩画作家 星野富弘さんの作品を展示している。(草木湖畔は、星野富弘さんの出身地群馬県旧東村=現みどり市東町である。)

素朴で美しい詩と透明感ある水彩画は、見た記憶のある方も少なくないと思う。

 

作品の美しさもさることながら、手足の自由を失う絶望を乗り越えて創作活動を始めた精神力には、感動、尊敬しかない。事故当初は、喋ることも、首を振ることさえできず、文字盤へ注ぐ視線でコミュニケーションを開始している。もし、僕が同じ境遇に陥ったら生きる希望を失い、安楽死を切望するだろう。

 

 

旧群馬県衛生所(桐生明治館)は、1878年(明治11年)竣工の木造二階建て擬洋風建築で、重要文化財に指定されている。

 

群馬県衛生所兼医学校として新築後、県立女学校、師範学校付属小学校、群馬県農会などに転用、1928年(昭和3年)に相生村役場として、現在地に移転・改築工事開始、翌年工事完了。1986年(昭和61年)創建当初の姿に復元し、桐生明治館」として公開。

 

 

カトリック桐生教会聖堂は、1958年(昭和33年) 外観はロマネスク風、内部の尖頭型アーチや窓枠等はゴシック様式が取入れられた鉄筋コンクリート造として竣工。一部2階、塔4階となっている。

 

 

日本基督教団桐生教会教会堂は、1930年(昭和5年)竣工。木造平屋建て、外壁はモルタル塗りで、ドイツ壁風に仕上げられている。2024年に国の有形文化財に登録された。

 

 

桐生市内で偶然発見した教会堂建築。

株式会社カチタスという東証プライム上場の中古住宅を買い取り、リフォームして販売する中古住宅再生会社の本社敷地に隣接している。ググってみたもののヒットせず。

ご存知の方が、いらっしゃいましたらご教示のほどお願い致します。

 

 

【メモ】

テレビ番組を視聴していて、アナリストのコメントを聞いて、「勝手なこと言って」と憤った時の愚痴を記録しておく。(女性読者の反論、異論を是非!)

 

アナリスト先生(女性)曰く、「日本の上場企業は、女性役員比率が、依然として10%未満ですね。」と男女共同参画社会が進んでいないと指摘。

僕の愚痴 「何言ってるんだ!高々10年で変る訳ないだろ。そもそも、役員になって、企業を牽引しようって女性が、どれだけいるんだよ」

良いことではないが、日本社会は、ず~っと、女性は“従”みたいな教育をして、女性の可能性を限定してきた。そんな悪しき社会が、5年や10年で変わる訳ないじゃないか。

さらにアナリスト先生曰く、「特に重工系(←僕もその端くれ)が酷い、女性役員ゼロや社外取締役やヘッドハントの中途採用者で、体裁だけ整えている。“生え抜き”の女性役員がいない。」

僕の愚痴 “生え抜き”という言葉で、キレた。国のトップは、人材の流動化を促進し、人材(雇用)市場の活性化みたいなことを掲げているのに“生え抜き”に拘る意味不明!

そもそも、僕が就職した頃、重工系製造業で、女性総合職採用など聞いたことがない。女性の採用は、一般職で“寿退社”前提の人選だった。(要するに経営に直接携わろうといった志向のない女性を採用していた) “生え抜き”の女性を役員に抜擢するには、30代で抜擢しなくてはならない。30代社員に役員業務の遂行能力がないとは言わないが、オーナー系は、別にして、30代で役員業務が遂行できる教育もしていなければ、組織にもなっていない。今の今、“生え抜き”女性役員数を云々言うのは、現状認識甘すぎ!

 

しばしば思うことだが、議会やマスコミ・・・で発言・発信する人たちは、平均的な日本人ではないので、彼らの志向と平均的な日本人の志向は、一致していない。我々庶民を見下されても困るが、我々庶民の志向と発言・発信する人たち自身の志向は違うことぐらい理解して、発言・発信して欲しいものだね。

 

 

旅は続く

 

過去記事は、

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美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/足尾山地・夏の渓流

2024年09月18日 | 旅行

2024年の記録

8月、9月に足尾山地の渓流を散策した時の記録

 

 

すでに9月も半ば、中秋の名月のも終わって、「残暑お見舞い」は、ないだろう。しかし、関東平野部の日中は、30℃を超える。一方、日光・足尾地区の朝晩は、「寒い」の一歩手前。

今さらながら、これでもかと、足尾山地の渓流写真をアップする。

 

 

日光・足尾地区には、有名無名の滝や渓流がある。あえて、マイナーな滝と渓流を選んでいる。

 

 

桐生川源流林は、群馬県桐生市を流れる利根川水系渡良瀬川支流の桐生川の源流に広がる。桐生市は、酷暑地点として、耳に覚えのある人もいると思うが、源流林は、別世界。

一般的なアクセス方法は、酷暑の桐生市街から北上し、桐生新町重要伝統的建造物群保存地区を抜け、梅田ふるさとセンターを目指す。しかし、栃木県側からは、渡良瀬川を堰き止めた草木湖(草木ダム)を渡り、三境峠、屋敷山を越え、源流側から入る。

 

桐生市街から北上するルートは、河原は家族連れのキャンパーに占領され、路肩に駐車するクルマで、往来に支障が発生することも。一方の三境峠から入るルートは、対向車もほとんどなく、アクセスは快適だ。

 

 

地蔵滝は、国道122号線・日足トンネルを足尾側に抜けて、すぐ右側にある。足尾方面に走っていると、気がつくことはない。逆方向の日光方面に走っていても、気がつかない角度にあるため、知名度が極端に低い。

 

豪雨の谷間、雨が止んだタイミングで、水量が増した豪快な滝を狙って撮影に行った。何しろ、居宅から10分ほどのところにある。

 

 

裏見の滝は、“裏見の・・・”であって、“怨みの・・・”ではない。日光三名瀑(華厳の滝、霧降の滝、そして裏見滝)の1つであるが、華厳の滝、霧降の滝と比較するとマイナーで、訪問者も少ない。

 

国道122号線から清滝安良沢町の階段状の分譲地を抜け、トイレ完備の駐車場にクルマを停め、大谷川の支流荒沢川に沿う遊歩道を10分ほど進むと、高さ約20メートルの裏見の滝にたどり着く。

 

名前の由来となっている滝の裏に不動明王が祀られているが、現在は参拝できない。

 

 

【メモ】

至極個人的な備忘録になることをご容赦いただきたい。

 

2週間ほど前、脳梗塞が愛犬を再び襲った。今年3月に続き2度目。前回は奇跡的な回復で、脳梗塞前の9割以上に回復したが、今回は、前回以上に重篤である。視覚、聴覚、臭覚までも失い、躓きながらもよたよたと徘徊を繰り返す。居たたまれなくて、見ていられない。首が固まってしまい、餌も水も自分では食べることも飲むこともできず、チューブで口に含ませている。医者からは、“看護”でなく“介護”と宣告されてしまった。そんな期間が2週間ほど続いた一昨日、徘徊が治まり、僅かに視覚、聴覚が回復した。一進一退の1つの一進なのかは、わからない。すでに16歳の高齢犬、少しずつでも回復してくれればと思う。

 

愛犬を見ていて思うことは、生きとし生けるもの、必ず最期は来る。医者からは、MRIを薦められたもののお断りした。病名が確定しても、治療できるとは限らないし、治療ができても強い副作用を伴う。犬のMRIは、全身麻酔が必要で、全身麻酔そのものにリスクがある。愛犬が、視覚、聴覚、臭覚を失った暗黒の世界で何を考えているのかは、僕にはわからない。自分自身のこととして考えれば、如何に長く生きたかではなく、如何に良く行きたか、と考えている。

 

僕にも、いずれ最期が到来する。全力疾走する最中にストンと落ちるような最期を迎えられれば幸せだが、長い闘病生活の果てに最期が来るのか、それは、だれもわからない。

 

支離滅裂で、取り留めのないメモランダムとなったことを重ねてお詫びします。

 

 

旅は続く

 

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