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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女 (考) ~序章~ (1)

2015年05月25日 | 俳人杉田久女(考)

40年以上前の昭和47年の秋に英彦山のふもとにある高住神社(豊前坊)に行った時、参道脇に杉田久女の句碑があるのを見ました。

        「橡の実の つぶて颪(おろし)や 豊前坊」

この句碑が私が見た最初の久女の句碑で、この句は“つぶておろし”という表現がいいな~などと思ったのを今でも憶えています。

作者の杉田久女について、名前を何となく知っていたのは、おそらく彼女の俳句が教科書に載っていたのではと思います。久女を東京在住の俳人と思い、こんな所まで吟行に来られたのか~と驚いた憶えがあります。

その後、結婚し小倉に住むようになった私は、杉田久女が旧制小倉中学の美術教師、杉田宇内の妻で、「近代女性俳句の草分け」などと呼ばれていることを知りました。それ以後久女を急に身近に感じ、彼女の事について調べようと、新聞や雑誌に彼女のことが載ると切り抜いたり、久女関連の書物を読んだりして来ました。

杉田久女はどの様な人生を歩いた女性なのでしょうか? 彼女について私なりに考え、これから時々書いてみようと思います。お気が向かれましたらお読みください、よろしく。


                        


杉田久女は明治23(1890)年鹿児島市で出生、本名はひさ。父親赤堀廉蔵は松本出身ですが当時は鹿児島県庁に勤める官吏でした。その後、父親の仕事の関係で沖縄、台湾に移り住みます。

この頃を回想して、久女は後にこんな俳句を詠んでいます。

       「朱欒咲く 五月となれば 日の光」

       「常夏の 碧き潮あび わがそだつ」

台湾での小学校卒業と同時に上京、東京女子高等師範学校付属お茶の水高等女学校に入学します。久女が当時植民地の台湾からこの学校に合格できたことが、歴史の浅い台湾の小学校の教育レベルの高さを示すものとして、新聞にも載ったようです。

お茶の水高女で彼女は、勉強の他にテニス、ダンス、西洋料理、フランス刺繍などの文化的教養を身に付けたようです。そして明治41年3月にお茶の水高女を卒業。

卒業試験の歴史の答案は特に成績がよかったらしく、平成23年秋に北九州市立文学館で催された「花衣 俳人杉田久女」展に、実際のこの答案が出展されていたのを見ました。

それには教師の「甲上 殆ど完全、秩序的によく書かれたり」という批評が記入され、更に父親の「久子卒業前、最終ノ答案二付キ記念ノ為メ保存シテ子孫ノ参考二供スベシ」という愛情のこもった付箋が貼られていました。

明治40年代にお茶ノ水高女を卒業というのは、当時の女子として最高の教育であり、その矜持は、その後の久女の俳句人生を方向づけた様に思われます。

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