ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

[2017年 眠れる早春] ゴルフは醸造するが如く (インナースキルを発酵させてゆく)

2017年03月18日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

睡眠は単なる休息とか、お休みではなく、ひと晩寝かせてカレーを美味しくするような行為なのだと思う。

醸造工程を経てこそ美酒が出来上がるように、
時間の経過によって、発酵現象が起きるのだと思う。

ピアノでも、まるで弾けなかったフレーズを前の晩に繰り返し練習しておくと、次の日にあらあら弾けた!みたいなことが起こる。
前の日の練習が酵母のような働きをして、ひと晩の間にもスキルの熟成が進んでいるのだ。

「春眠 暁を覚えず」という通りで春は眠い。
ロングスリーパーでいることは、時間の使いみちとしては勿体無いことのように思えるのだが、
単なる休息ではなく、何かを育み熟成させるための時間だと捉えると、勿体無いどころか大切な時間になる。

休むが勝ち、なのだ。

さて、次男の受験がひと息つくまで控え気味にしていたゴルフだが、
この日はパッティングぼろぼろ。

( ↓ ) 最終18番ロングホールがこの日を象徴している。ショットは悪くないが、集中力を欠いたパッティング。
ふざけている訳ではないのだが、どこかで、もういいや、ってなってしまう心の性のようなもの。

70cmのバーディーパットを外すと、あらあらの5パットで、ありえない8叩き。


その前、ゴルフを解禁した日の芝刈はわるくなかった。
(序盤戦の3番ショートでティーショットを2度の池ポチャ。ここは苦手意識のないホールなので予想外のつまずき。
パッティングが悪くてダボだらけだが、ショットは悪くない。)




ピアノの本だが、物事を習得するにはアウタースキルとインナースキルがある、ということに励まされる。

表には顕れにくいが、内部で熟成され、育まれているインナースキル。

ゴルフだってピアノだって、それほど自分に向いているとは思えない。
ひょっとしたら、もっとモノになりそうなことがあるのに、わざわざ遠回りばかりしているのかもしれない。
(それを言い出すと、どれもこれも向いてなくて、ついには人間失格になってしまうかもしれないですが。)

でも、インナースキルをつける、という面では、良い趣味だと思う。
何にだって共通する部分があると思うし、向いていないからこそ、足しになる余地も大きい。

私たちは体の動き、グループ経験を通して、もっと意識的に、もっと確実に、
インナースキルを成長させることができる。
そして、インナースキルとアウタースキルを一体化させることができる。

だが音楽の世界では、毎年数えきれないほどのアマチュアが、行き詰まりを感じ、
どうせ自分には才能が足りない、あるいは本来備わっている音楽的な生命力を養う前に、
レッスンをやめてしまう。

練習でうまく問題を解決できる人になれば、それだけで元気になる。
音楽だけではなく人生のあらゆることを学ぶには、自分だけの「正直なミス」を利用するのが最良の方法になる。
私たちはみんな、それぞれ自分のやり方で学ぶので、
ひとりひとり必要となるミスには、それぞれ異なるパターンがある。

練習時間を最も効率的に使う方法として、「正直なミス」をできるだけたくさん、意図的に生み出すことがあげられる。
(「正直なミス」は不注意では起きない。十分な注意を払っていたのにミスが起きてしまったなら、それはたぶん「正直なミス」だ。
「正直なミス」は、きちんと正しいものに直したいと感じるものだ。
注意を払わず、まじめに受け止めず、対応するのを怠ったなら、それは「不注意なミス」だ。

「正直なミス」は、とても役に立つ。
真実を映し出し、純粋で、具体的な情報を多く含んでいる。
今この瞬間に自分がどこにいるか、次に何が必要かを、その場ではっきり示してくれる。
正直なミスには、たいていの場合、特定の問題の具体的で隠れた理由 ― 意識的には思いつかないような理由 ―
を明らかにする高度な才覚がある。
「正直なミス」が実証しているのは、身体が、意図をもった気持ちとは異なる意味で賢い、という点だ。
何が正しいかを理解するには、何が悪いかを完全に経験しなければならないことがあり、
「正直なミス」はそのための唯一の方法になる。
「正直なミス」は、学習という行為に質感(テクスチャー)を加える。

ほとんどの大人にとって、「正直なミス」のアプローチを受け入れるのは、それほど簡単なことではない。
起きる出来事をなんとかコントロールして戸惑わないようにしたいという、強い感情に押し流されてしまう。

少し長くなるが、引用を続けよう。すごく思い当たる部分があるからだ。
少なくとも、まずは「不注意なミス」を肯定してしまうことを、やめにしたい。

「不注意なミス」は、理屈をつけ、言い逃れて終わってしまうミスだ。
それは、どのようにミスをして、どのように対処するかの怠慢だ。
集中力に欠けていて、弾き終えた後の評価も漠然としているなら(” たった二週間前に始めたにしては悪くなかった・・")
その後の混乱の土台を築いたようなものだ。
意図がはっきりしないから、ミスの一部には気づきさえしない。
気づいたミスも、そのまま放置して処理しないので、何の情報ももたらさない。
なおすチャンスを逸したミスは、後になって残念な癖になってしまうだろう。

・ ただ集中力が欠けていただけだ
・人間だからミスするのは仕方がないと、不用意に片付けてしまう
・ 全体としてはまずまずだ
・ 完ぺきに出来ているのに、なぜあんなに緊張したのかわからない

これらの考え方が、どれだけ自己陶酔に陥っているかに気づいてほしい。
どれも自我に囚われ、自分を良く見せたいために言い訳ばかりし、
目の前に在る有用で客観的な証拠を無視している。

突き詰めるなら、コントロールできるという自意識過剰な錯覚を捨てることで、
もっと深い、もっと穏やかなコントロールを手にする。
そうすればより深く学習できるようになる。
はじめは矛盾しているように見えるかもしれないが、これが実り豊かな練習に関する最も重要な洞察だ。
そしてこの原則は、音楽の領域をはるかに超えた意味を持っている。

 そうか、私は「不注意なミス」だらけで、そのミスへの対処を怠っているのかもしれない。
ミスに対して十分な注意を払い、それでも起きてしまう「正直なミス」を正していく、というプロセスに乗らずにいるから、伸び悩み、同じような所をぐるぐる回っているのだ。


たとえば、きちんと最後の1mまで、十分な注意を払って、そのホールを終える。
ティーショットの時だけ、気持ちを新たにするのではない。
思うように行かなかった後こそ、バカまじめに、気持ちを正して、決して気持ちを切らさない。
敬意を忘れず、熟達しない自分に謙虚でいる。

しかし、私は、残念ながらそれほどまじめに出来ていない。
どこか問題を抱えた、好ましくない性(サガ)を抱えている。
人生は、人に、いろいろな問題を投げかける。

ポールですら、ありとあらゆるクソを投げつけられた気持ちは分かると言っている。
([ピアノ弾きおじさんへの道] 断片的弾き歌い ~ フォー ノー ワン)

( ↓ )咆哮する声に共鳴し共振するバイブレーション。
    しかし、性(サガ)は不変の法則ではない。変えられるはずだ。

TWIST (世良公則) 『性(サガ)』

( ↓ )飲む時ばかりではなく洗い物をする時に、野菜の効果を思い知る。
スロージューサーに残っている野菜の繊維質などの残滓が、僅かばかり混ざるだけで、食器の油汚れがサラリと落ちる。
なるほど、身体の中をキレイにしてくれるはずだ。

水の冷たさも緩み、日に日に朝の陽射しが明るくなってくる早春を、毎朝のスロージューサー習慣で感じます。
咆哮の夜が明けて目覚めの春、となるのかは分からないが、
アウタースキルを急ぐことなく、インナースキルを発酵させながら。

(亡くなった渡瀬恒彦さんが出ていたのは、たしか愛情物語のほうでした。)

 原田知世 早春物語

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« [ピアノ弾きおじさんへの道] ... | トップ | [2017年 覚醒する早春 ] 「正... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿