人の意識は、一リットルの脳髄内の活動によって生み出されているという。
” 世界中を飛び回っていると錯覚しつつも、人の意識はいつだって実は狭い脳髄を一瞬たりとも離れない脳内現象としてこの世界にある "、
そんな言葉を思い出した。
( 若冲の雀 ~ 一リットルの脳髄 )
未だに、あの心がひりひりするような場所に、この男はいるのだ。
岩壁で、死と向き合わせになった瞬間にしか出会えない、自分の内部に存在する感情。世界との一体感。
いや、それは言葉でそう思っているだけだ。実際のあの感覚は、どういう言葉にもできない。岩壁をよじ登っている時には、それを言葉にしようなんてことは、これっぽっちも思わない。
しかし、間違いなく、それは、その時あったのであり、間違いなく、その神聖な体験を登攀(とうはん)者の魂はしたのである。
さすが、山岳小説の傑作だ。
エベレスト、チョモランマ、あるいはサガルマータ、
地域によって様々な名前を冠される「神々の山嶺」のディテールが克明に描かれる。
(宇宙が、そこにむき出しになっているような凄い星空、
その星空の中に刺さっているエヴェレストの頂、地上に降りてくる狂おしい静寂。)
”山屋は、ただ登ればいい。自分は、山でのあれこれを、文章にしたり、言葉にしてしまったりすることがあまり好きではないのだ。
それをしてしまうと、自分の内部に在る濃い量の感情が、減ってしまうような気がする。”
時に寡黙に、無骨になりながら、
連綿と描写されるのは「なかなかに一つの場所に留まろうとしない、人間の思考や、思い、あるいは感情」。
壮大で空と山の境界すらあいまいになるエヴェレストに在って、
僅か一リットルの脳髄が生み出す人間の孤独や葛藤が、同等以上のレベルで描かれる。
だから、山岳小説でありながら、もっと普遍的で、困難に在ってそれに向き合っていく人の話として迫ってくる。
一千頁を超えるボリュームなのだが、気持ちに寄り添ってくる。ロッキーラックーンに出てくるギデオンの聖書みたく、手元に置いておきたいと思った。
いいか、その人間が、不幸か幸福かだったかは、ただの結果だ。
生きたあげくの結果だ。
幸福も不幸も関係ない。
そういう結果を求めて、おれは山に登ってるんじゃない。
あんた、どうだ。
山に、なんかいいもんでも落ちてると思ったか。
自分の生き甲斐だとか、女だとか、
そういうもんが山に落っこちてると思ったか。
あの頂に立ったって、答えなんかない。
たぶんそんなことはどうでもいいんだろう。
何故山に登るのかなんて、そんな答えを捜しちゃいなかったよ、羽生は。
本当に本当のところは、心の奥では、たぶん、
何故山に登るかの答えを捜して山にゆくんじゃないってことくらいは、誰でもわかってるよ。
あの時は「永遠のゼロ」に勇気づけられたが、
今度もどこか似た、”正面からたたきつけるような力いっぱい、ど真ん中の直球”の話。
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