望郷

久しぶりに実家のあたりを歩いてみた。思えば、中学生の頃ここに移り住んだときには、殺伐とした荒野という印象だったのだが、現在は家も建ち並び、当時の面影も探さなければ見つからない。当時、立川から砂川に至る立川飛行場を巡る道路は南北道路と呼ばれ、砂川紛争の名残とも思える寸断された道路が、飛行場の北側にみられたものである。

玉川上水は、言わずと知れたかつて江戸市中へ飲料水を供給していた人工の上水である。その工事を請け負った庄右衛門・清右衛門兄弟の話は、小学生の教材にも登場する。この玉川上水の開削には、実は二度の大きな失敗があった。一度目は日野からの開削で水喰土により水が吸い込まれたことによる失敗、二度目は福生からの開削で岩盤に当たったことによる頓挫である。そして、三度目の羽村からの開削で、ようやく日の目を見た。工期が伸びたために経費がかさんだので、兄弟は家を売り払って完成。夜中も突貫工事を進め、提灯をもった人が水路に立って開削状況を確認した話は有名である。その功績が認められて、工事を請け負った庄右衛門・清右衛門兄弟には玉川姓を与えられ、本上水役を命じられた。

かつて、この玉川上水は水田などの灌漑用水としても用いられていため、川の至る所に取水堰がもうけられている。実家近くの砂川分水堰は現在も残り、わずかながらの水をたたえているようだ。その砂川分水と立体交差する形でもうけられていた源五右衛門分水の取水堰は、残念ながら見影橋の拡幅工事で新しく作り替えられてしまっていた。今でも目をつむると、橋の南側にあった水田ともつかぬだだっ広い作地と、古びたコンクリート製の灌漑設備が浮かび上がる。

Editor CABEZÓN

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