むかし道を行く 完結編

ご無沙汰いたしました。ゴールデンウィークに入り、ようやく執筆の時間がとれたCABEZÓNでございます。前回執筆したころは、まだ自宅にいられる生活でしたが、とうとう、ほぼ自宅には寝に帰るだけの生活となってしまいました。新型コロナウィルスの影響により、経済的な打撃を受けていらっしゃる方々のことを考えると心が痛む日々ですが、自分は極端な多忙な毎日に追い込まれてしまい、ほんのわずかな余裕があれば寝ているというような日々でございます。そんなわけで、このチャンスを逃すと、そろそろ天に召される頃にならなければ執筆できないのでは?という焦燥感から本記事を書いております。無理やり完結編としてしまいましたので、写真だけで途方もない数になってしまい、満足いくような記事となるかは何とも言えませんが、みなさま、ごゆるりとお付き合いくださいませ。

というわけで、前回のラストショット、足元に見えてきた水根貨物線跡、その全貌をお伝えします。





今まで、下から見上げるだけだった路盤が見えてきました。この水根貨物線跡は、休止線なので線路は残されたままなのです。しかも、右にはハエタタキが!と書いても、かなりマニアックな言葉なのでわからないと思いますので、ハエタタキについての詳しい情報は、こちらをご覧ください。いわゆる昔の鉄道専用電信電柱ですね。





さらに真上から。廃線とはいえ、線路が残っていると、そのうち列車が走ってきそうな錯覚にとらわれてしまいます。当然、休止線という立派な鉄道専用施設ですので立ち入りは禁止です。





立ち入り禁止ですから~(笑)

まぁ、このあたり西武朝比奈線と同じ状況ですのでご察しください(笑)。
実は自分、ここに降り立つ前に滑ってコケそうになったのはヒミツ(笑)。





ここからコンクリート橋なのですが、幅が広い上に路盤もしっかりしているので、高いところにいる実感が全くありません。





というわけで、そのまま進むことにしました。この草生した感じが廃線独特の風情で、自分にとってはたまらないのです。





さらに進むと、法面が崩れて路盤に差し掛かっているところもありました。苔むした線路がいいですね。





切通を進みます。





自然に帰りつつある路盤。





それでも、ここに人と物資の往来があったことを物語ります。





そして落ち葉に見え隠れする姿。
心に染み入るかつての人の営み。





脇に立つ電柱さえもが、廻りの木々に溶け込んでいます。





崩れ落ちた岩が、この地の不安定さから保守に苦労したであろうことがうかがえます。














こ、これは!!!
上路式プレートガーター橋
ではありませんか!!!
もちろん、危険ですから
わたってはなりません!!!





怖いよぅ~

結局わたっているし・・・、っていうか、プレートガーター橋って、枕木の隙間から地面が見えるんだよね、、、怖いよぅ~





でも、鉄橋の上でなければ見ることのできない景色であります。
他の二方に遅れることしばらく、無事にわたり切ることができました。





もちろん、良い子は真似してはならない行為ですので、回り道とはなりますが、遠巻きの山道がありますので、通ってきた路盤の様子をもう一度別の角度で見てみました。





こうやってみると、コンクリート橋もかなりの高さだということが分かります。





っていうか、ガードレールのおかげで、あんなに大きな開口部があってもそれほど怖くは感じなかったのは幸いでした。下手に落ちていたら、ケガどころでは済みませんから。





さらにその先には隧道が・・・





この線は蒸気機関車の時代に休止となっていますから、隧道の上には煙突からもうもうと上がった煙の煤が残っています。コンクリート産地とはいえ、きれいな壁面からは、そんなに時を経たものとは思えません。





比較的短い隧道で、すぐに明るい出口が見えてきました。





隧道を抜けて振り返ります。しっかりしたつくりは、まだまだそのまま使えそうですね。





小河内ダムの建設のために、ここをたくさんの資材が通って行ったのです。恐らく、そのころは現在のバスが通る道も、今ほどは立派なものではなかったでしょう。人の往来と物資の運搬には鉄道が欠かせなかったのです。





さらに路盤は続きますが、ここからは、水根線を所有する奥多摩工業株式会社の専用地となりますので、ガチで立ち入り禁止です。この先にも隧道があり、さらには日原川を渡る最大の日原川橋梁がありますが、現在は立ち入り禁止となっています。実は、10年以上前、その立ち入り禁止となっていない時代にその橋梁を渡ったことがありますが、立派なコンクリート橋だったことを覚えています。

これ以上は、どうにもならないので一旦、奥多摩駅まで戻ることにしました。





途中、その日原川橋梁を望みます。





駅の近くには、懐かしい風情の八百屋があります。この店名は『三河屋』ではありませんゾ。三河屋は、看板が指し示す、この先にある旅館です・・・。





駅へ戻ったので、素直に帰るかと思いきや、ここまで来て、これだけで帰る我々ではありませんん(笑)。ここからは番外編!





奥多摩工業株式会社の裏道を登ってゆきます。





工場の敷地内を通るようなルートを歩くと、あたかも工場の中を通っているような、いけないことをやっているような感覚になります。





工場って、なんだか秘密基地のような魅力がありますよね。こっそり入ってみたくなるような。





その敷地外れから、先ほどの日原川橋梁がはるか彼方に見えます。





























!!!!

















山に分け入ると、奥多摩工業の曵鉄(えいてつ)線が見えてきました。これはケーブルカーのようなもので、線路間のケーブルに引かれた車両が無人で走行し、山奥で採取された資材を運ぶものです。





平日なら定期的に運航しているそうですが、行動したのは土曜日だったので、残念ながら運休でした。





これにて、ようやく駅まで戻り、駅前のバス待合横の食堂で軽く乾杯。密にならない程度に、水根貨物線や曵鉄線の話題で盛り上がりました。





この店、前も来たことがあるはずなのですが、こんなに美味かったかな(笑)。お店の方も気さくで、楽しむことができました。





行動が早かったので、駅に戻ったのが17時前、解散してみなさま、帰路につきました。あ~あ、楽しかった!!!

















ん?



ちゃうちゃう





















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むかし道を行く Vol.3

随分と時間が経ってしまいました。昨年の12/12投稿分の続きとなりますが、我ながらどれだけ時間が無いんだといいたくなるような悲惨な状況ですね。

まぁ、それはさておきPC橋を堪能した我々はそのままむかし道を下り続けたのですが、このあたりからは水根貨物線と並行するルートとなるので、結構な頻度で遺構を目の当たりにすることができます。この写真も、道端の林からうかがうことができた隧道と橋の遺構ですね。





さらに進むと、こんなに立派なガーター橋が目に飛び込んできます。使われなくなったとはいえ、現役当時はC11が貨物車両を引いてあの橋を渡ったわけですから、写真があったら見てみたいものです。鉄道の勾配は緩やかなものですから、先ほどは近くに見えた線路もとても高いところを走っています。





で、さらに下ることしばらく、駐車場とトイレが道のわきにあるのが見えてきました。





そして、その駐車場の奥まで進んでみると・・・





やはり橋脚が見えてきます。





途中、高台に登るルートになり、広い自動車道はそのまま分かれて奥多摩駅の方へ向かうのですが、むかし道はここから改めて廃線跡に向かいます。





ここにも・・・





ここにも。コンクリートの産地だからでしょうか、橋の状態がとてもよく、何十年も径消しているとは思えません。





しかも、我々が歩いている道がどちらかというと登り勾配なので、廃線跡がどんどん近づいてくるのです。





道路が急に曲がるところに祠などがあり、趣のある建物もありました。





やはりたくさんの人々が通り過ぎた道なのですね。とても長い歴史を感じさせてくれます。





実はこの時点で、既に廃線跡は自分たちの下に。



そしてとても素晴らしい姿を見せてくれるのです!



次回からはこのハイライトをお伝えいたします。





つづく



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更新予定

ようやく、何とか書こうという気になりました。ちょっと待ってね。
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むかし道を行く Vol.2

おサルさんたちをやり過ごしてしばらく、既にほとんど散ってしまった紅葉が見事に残っている樹がありまして、ここぞとない景観なので遅ればせながら昼食を摂ることとしたのです。





車の運転はありませんし、とりあえず終点までは歩き続けられる程度の炭酸飲料を摂取しました。





あては、、、ではなくて食べたのは、アナゴ寿司やらなんやら。ワタクシはとあるものに夢中になってしまって、すべてをカメラでとらえきれることはできず。





立食での軽い昼食でした。





実は、ここに近づく時点で、チラチラと何やら気になるものが見えていました。





そうそう、これです!なにせ、学生のころからこんなものに夢中になってしまって、はたから見たらただの変態だと心の高まりを押さえつつ愛でた廃線。





廃線跡を愛でること自体が、社会に受け入れられて良かった、、、などと喜ぶだけでなく、バンドメンバーと現場を訪れることができるなんて
・:*:・感(*ノ∀`*)動・:*:・





<<水根貨物線とは>>

1952年(昭和27年)に開通して運行していた、東京都水道局の専用鉄道で、正式名称は「東京都専用線小河内線」という。運行期間はわずか5年半のみであったが、東京の水がめである小河内ダムの完成に重要な役割を果たした。総延長は10kmにも満たないが、鉄道ならではの勾配への弱点を考慮し、あえて走行距離を稼ぎながら登坂する路線を選んだという。険しい山道となるため、保線にも苦労が絶えず、一度は転落事故まで起こして殉職者を出したという記録もある。休止は1957年(こんな長い年月を経ても廃止ではなく休止だというところがすごい)、その多くは、まだ手付かずのままで残されているため、往時をしのぶ景観を目の当たりにできる。





通常、奥多摩湖に行くにはバスを利用することが一般的だと思いますが、バスで通りかかるとこんな橋なんて一瞬にして遠ざかってしまいますから、じっくり愛でることはできません。





昼食を終えて、じっくりと愛でた後、そこを後にしてまた先を急ぐことになりました。





つづく





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むかし道を行く

昨日、ただ何となく青梅駅から電車に乗り込んだら、





良く知る二人が乗っていた。というのはありえなく、マッティ事業計画の一環として計画されたものであった。そもそも、自分自身は日常をこなすにも事欠くような酷い毎日なので、この計画について声掛けされたものの、行けるかどうかさえもわからない状態だったので、ようやく金曜日になんとか行けそうな気がして参加表明した次第。





その計画とは、鐡道という公共交通機関にひそむ危険性について、とりわけ急カーブのホームは大変なことになっているゾ!と、





見て見ぬふりをして奥多摩駅に降り立つの図である。もちろん、ここが目的地ではなく、





さらにバスに乗って奥多摩湖畔まで。実は、この近くからむかし道という歩道が整備されていて、これをがむしゃらに歩くという計画なのである。





それこそ入り口はさりげないのであるが、





進むにつれてだんだん険しく、





硬度、もとい、高度もどんどん上がっていくので、





見晴らしのいいところからは、小河内ダムまで展望がのぞめたりするのである。





人里離れたちょっとした平場には、こんな構造物があって、てぶろんは、

『これは城址に違いない!』

いや、ちゃうちゃう(笑)

鉄筋が突き出ているコンクリート製の城址なんて、見たことないし(笑)。たぶん昔には村落があったのでしょう。いくつもの土台が残されていましたよ。





まぁ、滑落もせず、山道を何とか抜けるとちょうど折り返し地点。腹も減ってきて、食べられる場所を探したのですが、ちょうどいいところは全て占拠済み。しょうがないので、隧道マニアの煮えたぎる血をなだめるがごとく、見知らぬ隧道を攻めてみました。





扁額には『西久保トンネル』と読み取れました。





そのトンネルを抜けるといい雰囲気の橋。ただし、その高さが半端ではなく、谷底を見るだけで縮み上がる感じでありました。





結局、食事をとれるわけでもなく、また先を目指して進むことになったわけです。





しばらくすると、先ほど縮み上がりそうになった橋を見上げる形になりました。普通の建屋で言うと14階ほどでしょうか。えらく高いところにあります。





途中につり橋もあったので、わたってみたり、





別荘と思しき味わいのある建物などもありました。





さらに進むと、おサルさん!一応荷物の中には、まだ食べていない食料がありますから、絡まれたらちょっと大変。





しかも、見上げると電線を渡るおサルさんまで。一行は、見ず知らずの態を装いながら、さらに進みましたとさ。





実は今回、非常に濃い内容にシフトする予定なのですが、序章でこんな長さになってしまったので、書きかけということで次回に続く形をとろうと思います。というか、何とか書きたいのでありますから、近いうちにお届けすることができるでしょう。このようにお約束しておかなければ、簡単に流れて行ってしまいそうで、ここにお約束いたします。





つづく





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彷徨

新年早々、息子のけたたましい目覚ましに追い立てられるように家を出てしまった。取りあえず、府中用水は歩き通し、それでも起きる様子がないので、今度は五鐵跡を踏破ちう。グロインペイン君も台頭し始めていてめでたい。
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気になるなぁ

萌え~
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大阪窯業専用線

某書籍にも掲載されて、モニュメントとしては著名な部類に入る。見ただけですぐにわかる橋台である。その昔、八王子から大阪窯業株式会社八王子工場への専用線があって、現在の京王電鉄をオーバークロスしていた(地図)。この工場は、昭和40年代ころまでは操業していたようである。地図でもわかるとおり、廃線跡を再利用した道路は皆無と言っていい状態で、この橋台以外に往時をしのばせるものはまったくない。

一方で気になるのが、その橋台の低さである。一般的に、後ほど電化された線路をオーバークロスしていた鉄橋は、当時はなかった架線の分低めであったりする。ところが、京王電鉄は、創業当時から電気鉄道なのである。当然、架線もあったわけで、こんな低い橋台で越えられるとは思えないのである。恐らく、当時の鉄橋は太鼓橋のように湾曲していたのだろう。





















ウソ





こんな橋を鉄道が通れるわけがない。





たぶん、当時より道床が立派に(高く)なったのだとおもう。





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あそこは今

調布駅付近、かつて京王八王子方面との列車が行き交った道。地下化に伴い役目を終えたそれは、新しく生まれ変わろうとしている。ワタシ個人の好みで言えば、自然に飲み込まれてゆく姿が最高なのだが、都市部ではそれもかなわない話だろう。再開発に予算をとれないから自然に還ってゆくのと、予算をかけてでも再開発して利便性を良くするのとは対照的なのである。





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駅今昔 補遺

旧熱塩駅の構内には、ラッセル車と旧型客車が保存されている。





オハフ61は、木造客車を改造して鋼製客車としたものである。木造車体は事故に弱く、被害者を増大させていると考えられていた。短い客車を長く改造したので、台枠をよく調べると、継ぎ足した跡が見られるという。





普通列車での運用が前提とされたために、接客設備は最低限とされたそうだ。そして、その設備も少なからず木造時代の部品が流用されたらしい。時には車両不足のために急行でも運用されたそうだが、扇風機もない木製背もたれの座席で長旅は辛かったであろう。





前位に連結されているラッセル車の車内に入ってみる。表記では『ロキ287』となっているが、形式としては『キ287』であり、キ100形式の事業用貨車(単線用ラッセル式除雪車)である。内装は木製であり、その歴史を感じさせる。





ラッセル車は、機関車に押されて線路上の雪を左右にかき分けるために用いられた。前面には旋回窓が設置されている。通常のワイパーは、降り積もる雪には無力である。常に回り続けて前面の視界を確保できる旋回窓は、雪国の車両では標準装備である。





窓から乗り出して前方を見てみる。通常の雪害対策はラッセル車で対応したが、大雪ともなると歯が立たなかった。そのために、キマロキと呼ばれるロータリー除雪車を含む編成を投入して、唯一の路を守ったのである。雪の深い国では、鉄道こそが命綱だった。





役目を終えた車両たちは、今も静かに歴史を語りかける。老夫婦に連れられた孫であろうか、活発に遊び回る様子が印象的だった。





熱塩温泉 示現寺(2012/8/25)















迫力の踊れるライブパーティー【プラチナサルサ(10/20)】





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駅今昔 Vol.2

かつての熱塩駅は、県道333号に沿ってひっそりとたたずんでいる。熱塩温泉局(郵便局)の向かい側の路地を上がったところである。







旧駅舎の脇には、日中線記念館の案内看板。





日中であれば(ダジャレではない)、旧駅舎内(記念館)を見学することが出来る。





出札口も当時のまま、時間が止まってしまったかのようである。





朝夕に訪れたつかの間の賑わいも今はない。





しかし、近代化産業遺産としての時間は流れ続ける。





西欧風の意匠も自慢の駅舎だったに違いない。





国鉄全盛期のサボなども展示されている。





行き先ごとに切符はまとめられていた。





終点の喜多方駅方向を望む。

駅長も、何度となくこの位置で列車を迎えたのだろう。















迫力の踊れるライブパーティー【プラチナサルサ(10/20)】





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駅今昔 Vol.1

日中線は喜多方駅熱塩駅を結ぶ長閑なローカル線だった。廃止時点では、朝夕の3往復が運転されるのみで「日中走らぬ日中線」と揶揄されたという。1984年4月1日廃止。今回は、廃線跡を調査したわけではないので、その後の駅の様子などをお伝えしようと思う。表題写真は、子どものころに親から買ってもらった鉄道図鑑のローカル線の解説ページからとったもの。欧風の駅舎が子供心にも印象的で、記憶の片隅にとどまることとなった。





熱塩駅は、現在日中線記念館として保存されている。廃止当時は、相当荒廃した状態だったようだが、現在は近代産業遺産として管理されているので状態は良い。ここ、熱塩駅のあった熱塩加納町は、豊富な温泉が湧き出でる湯治場だが、日中線の輸送はもっぱら通学輸送が主だったようである。つまり、日中線が存在していたころから、湯治客はまったく利用していなかったことになるわけで、考えようによっては本当にもったいない話である。















迫力の踊れるライブパーティー【プラチナサルサ(10/20)】





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在りし日を偲ぶ



自動券売機もなかった時代



切符を買うにも人とのふれあいがあった









列車を待つ人がいなくなった駅



そして、路線バスもまた、消えようとしている







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廃線跡を歩く(下津井電鉄下津井電鉄線)Vol.5

最後まで残った中では最大の下津井駅。列車が行き来した構内は、だだっ広く荒れるがままになっていました。



風の道として整備されてから建てられた駅名票。新しいその姿とは対照的な、プラットホームの草生し具合。



かつて車両が行き交った路盤に降りて、来た道を振り返ります。東下津井駅からここまでの距離は、約2km、雨さえ降っていなければ、手頃な散歩道です。往事は、遠くに見える道路橋をくぐって電車がやって来たのでしょう。



下津井駅は終着駅だったので、立派な駅舎も構えていました。しかし、建物の老朽化で2005年に解体されてしまったのだそうです。鉄道のある風景 - 下津井電鉄では、その在りし日の姿をご覧になることが出来ます。















この下津井駅で忘れてはならないもの・・・






それは、廃止以来眠り続ける車両たち・・・




















この車両は、モハ1001、1983年10月頃から車内外への落書きを公認しそれを目玉にした落書き電車となり「赤いクレパス号」と呼ばれて、テレビや雑誌などでも取り上げられて有名になりました。



その奥の車庫とおぼしき場所、これは当初下津井駅構内にあった温室をそのまま車庫として再利用したのだそうです。車庫の中、一番手前に見えるのが、観光鉄道への転身を図って新規製造されたレトロ調電車「メリーベル」。しかし、相次ぐ会社の経営不振により、たった3年間使用されただけで、そのまま眠りにつきました。その後も、他の鉄道で復活する話もあったそうですが、実現には至らずそのままとなっています。



角度を変えて、横から見てみました。温室は、既にボロボロの状態で、車両も風雨にさらされたまま。また、2005年の台風の高潮により全車が冠水したと見られており、全ての車両はとても酷い状態になったそうです。現在は、ボランティアの方々の手により、車体の修繕などが行われているとか・・・。



鉄で出来た車両が、海辺で風雨にさらされ、しかも一度は高潮に洗われている・・・。それは、とりもなおさず、全ての部品が錆びて朽ち果ててゆくことを意味します。願わくば、少しでもその修繕によって、歴史を物語る存在として残り続けて欲しいものです。




かつては海運・軍事の要衝であった下津井港。歴史の流れで、現在では瀬戸内海有数の漁港として栄えています。しかし、その水産業は下津井電鉄線を必要とはしなかったのです。



かつての駅前にぽつんとたたずむ廃墟。これは、かつて旅人が体を休めた千歳旅館のなれの果ての姿。鉄道を失ったこの町を訪れるためには、わずか日に二本のバスを利用するか、タクシーを利用するしかありません。訪れる人がいなくなった町に、旅館も必要なかったのです(往事を偲ぶ写真)。





雨脚がさらに強くなる中、しばらく物思いにふけったCABEZÓNは一軒の食堂兼旅館に飛び込み、そこの方の好意に甘えてタクシーを呼んでいただきました。その時は帰ることばかりを考えていたのですが、今更のように、そこの食堂で食事をとっておけば良かったな、後悔しています。たかだか一時間遅れても東京には戻れますし、好意に甘えるだけでなくわずかばかりでもお返しが出来れば良かった、、、と、とっさの自分の行動を省みるのでありました。



















自分が大学生だった頃、もう少し行動力があれば、その晩年の姿を見届けることが出来たかも知れない下津井電鉄下津井電鉄線。奇しくも、この鉄道が廃止された1991年は、Latin Factoryが産声を上げた年でもあります。今更のようですが、それを果たす間もなく過去の存在となってしまった姿を目の当たりにして、過ぎ去った年月の長さ、重さを感じずにはいられません。








Editor CABEZÓN


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廃線跡を歩く(下津井電鉄下津井電鉄線)Vol.4

鷲羽山駅を出ると、瀬戸大橋が見えてきました。下津井電鉄線が晩年に、観光鉄道として転身を図った時期には、ここからの眺めも売りだったのだそうです。しかし、実際に見渡せるのはごく一部の区間の為、あまり集客には寄与しませんでした。



その景色を左に見つつ、路盤は徐々に下り勾配となって行きます。暫く進むと、岡山県道393号とクロスします。この県道は、かつては鷲羽山スカイライン(鷲羽山有料道路)という有料道路だったそうですが、現在は無料開放されています。



大きな道路の建設によって大きく地形まで整備されるため、この様な場合には、その路盤の行方も良く確認しなければなりません。幸い、道路にさしかかったときにはよくわからなかった路盤が、道路を渡るとはっきり見えてきました。



ここからは、山もなく平坦な地形を進むことになります。



その先の東下津井駅。ここは倉敷市立下津井中学校の最寄り駅だったそうですが、現在はここを通る学生も皆無でしょう。とても、寂しい景色です。




さて、東下津井駅は、終点下津井駅の一つ手前の駅。ということは、あともう少しで目標に到達する・・・



ところが、沿線では東下津井~下津井の駅間が一番遠いんですねぇ(笑)。



しかも、その路盤はどんどん人気のない方向に進んでゆくし、周りには人っ子一人いないので心細いったらありゃしない。さらには、この時点で雨がかなり強く降ってきて、いよいよずぶ濡れも覚悟かと orz...



すると、その先に道路橋をくぐる場所があったので、暫く雨宿りしました。ふと見上げてみると、鉄道の架線を保護するためのネットが、主を失ったままその姿を残していました。もう、君も頑張る必要は無くなったんだね ・゜・(ノД`)・゜・



雨宿りついでにを摂取して休んでから再出発。いつまでも、ここにじっとしていたら、そのうちこんなものが出てくるかもしれないし(笑)



うっそうとした切り通しを抜けると、また人里が見えてきました。



家や畑を縫うように、港を目指して路盤は方向を変えてゆきます。意外だったのが、その集落に新しい建物が多かったこと。鉄道が現役だった頃から存在する建物も、もう少ないかもしれませんね・・・



やがて右側に県道22号線が現れます。



その県道の下をくぐれば終点下津井駅





























やっと着いた・・・




つづく



Editor CABEZÓN


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