ブーゲンビリアの、紅の色が鮮やかな昨今だ。
写真の紅は、色付き初めの部分を写したものだが、花の満開となる辺りは紅一色で、顔が火照るような思いだ。色付き初めの部分は風情に趣が感じられるので、どちらかと言えばこの様なところが、虚庵居士の好みかもしれない。
娘がまだ高校生の頃であったろうか、「うつろ庵」の庭先にもブーゲンビリアが繁茂していた時期があった。「棘のある庭木は娘を縁遠くするそうよ」との言伝を、虚庵夫人が何処からか聞き及んで来た。根拠のない言伝とは知りつつも、それが気になって伐採した記憶がある。その結果か否かは不明だが、娘は遠く海を越えて嫁いでしまった。
ところが孫息子とのTV電話は、たどたどしい日本語と英語交じりになるが、物理的な距離を一気に圧縮して、地球の裏側に嫁いだことなど気にならぬ昨今ではある。
一般的に紅は花の色だが、ブーゲンビリアに限ってはごく小さな、白い部分が花の本体で、紅色の目立つ部分は萼だというから、愕きだ。 しかしながら、その様な区別はたまたま人間様が勝手に区分したもので、ブーゲンビリアの心は花も萼も関係ないのかもしれない。花であれ萼であれ、ブーゲンビリアの「みて、見て、観てよね!」との思いに、共感し心奪われる虚庵居士である。
くれないは花の色ぞと思ひしに
花を支える萼の色とは
手を合わせ花を支える萼なるに
熱き思ひを湛える君かな
手に抱くはごくいとけなき花ならば
愛しかるべし萼の思ひは
か細くも花芯は立つかな紅の
思ひを享けにしブーゲンビリアは
魂きわる花の命のみなもとを
ブーゲンビリアの萼に見しかも
海越えて嫁ぎし娘を偲ぶかな
君行く末の棘を伐りしを