茶花の「小葉の髄菜」が咲いていた。
茶人とは誠に粋な人種で、数ある花の中から「これは」という花を選び、或いはたった一枝・一草を投げ入れただけで、茶室に見事な小宇宙を創り出し、客をもてなす術を身につけているから愕きだ。「小葉の髄菜」の房花も、そのような茶花として時々使われているようだ。
「うつろ庵」にも、そのような小宇宙を造りたいものと希っているが、それを満たすだけのスペースも、財力もないのが残念だ。 が、考えようによっては茶室はなくとも、普段の居室や書斎の一隅であれ、一枝の花を挿すだけでそのような空間を創り出せれば、それに越したことはあるまい。秀吉が造らせた黄金の茶室も、利休の侘び茶も、虚庵居士の居間の空間も、そこに居る人間の心の在りよう次第で、無限の可能性を創り出せるのではなかろうか。
茶花の「小葉の髄菜」を観ていたら、勝手気ままな思いが頭をよぎった。
自由奔放に想いを描き、日常生活の中で活かせれば、もって至福と云うべきであろう。持たざる者の負け惜しみかもしれないが・・・。
序でのことながら「小葉の髄菜」なる花名が気になって、図鑑のお世話になった。
花名の謂れを探すのは並大抵ではなかったが、それらしい記述が見つかった。この花の枝の「髄」は、乾燥して行燈の灯心に使ったらしい。乾燥した髄は灯油を吸い上げて、灯心にふさわしいものだったに違いあるまい。昔の人々は自然の特性を知り尽して、上手に活用したのであろう。また、髄菜の中でも葉が小ぶり故に「小葉」と呼んで、区別したとの解説であった、
行燈の明かりのとうときいにしえは
髄菜の灯心 頼りにしつらむ
あるじ居らば一枝を乞ふに人影の
なきぞ哀しも庵の飾りに
莚敷き小葉の髄菜のその脇で
野点の一服いただく心地す