「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「山葡萄」

2010-06-07 22:38:29 | 和歌

 「うつろ庵」の珊瑚樹の生垣に絡めた葡萄が、沢山の房を付けて、花が咲いた。

 ふた月ほど前に、芽吹の感激を 「芽吹く葡萄」 とのタイトルでご紹介したが、よもや山葡萄が房を付け、花を咲かせて呉れようとは思いもよらなかった。葡萄が蔓から垂れ下がる姿は、これまでに何遍か
見て来たが、「ぶどうの花」を間近で見ようとは・・・。





 まだ若葉も開ききらない葡萄が、最早、房を付け花を咲かせるその自然の営みの「用意周到さ」には、只ただ脱帽だ。

 どこぞの国では、政権奪取のための見栄えのするマニフェストを掲げて、見事長期政権を覆したが、
現実離れしたマニフェスト、ポピュリズムに走ったマニフェストの実現のための再検討を怠った政権党の
リーダーは、半年余で国民の信頼を失い、彼の言葉に耳を貸す者は激減した。

 葡萄の房を数えたら、小さな一株の蔓にも拘わらず何と百個を越えていた。百個を超える葡萄が実り、熟したら、壮観だろう。 と、思わずほくそ笑んだが、マテ待て、これには何かの備えがあるに違いない、
と気付いた。風で吹き飛ばされる新芽もあろう、枯れ落ちる花もあろう、或いは身の程を知って自ら青柿を落とす ”June drop ”の例もある。 自然の営みとは、そのような様々な事態にキチント備えていることに
思い至った!

 愚かな人間どもは、少しは自然の営みを見習い、吾が身を振り返りたいものだ。
斯く申す虚庵居士も、慎みある言動、そのような自省は? と問われれば、返す言葉もないのだが・・・。





            若葉すら未だ開かぬに房ぶどうの

            花を観しかもトキメキ抑えて


            この子らの熟す秋の日夢みつつ

            房数かぞえぬ稚児の如くに


            一株の葡萄の営み様々な

            備えをなすとは在るがままにて


            百房を超えるぶどうに「願」かけぬ

            孫の摘むまで幸く在れかし