「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「人類の過ちと 原爆のトラウマ」 

2009-08-29 10:34:42 | 和歌

 原子力eye誌8月号に拙稿を掲載したので、供覧に付したい。
 皆様の忌憚なきご批判を仰ぎたい。

 原子力発電の社会的受容性: 

 原子力発電所の設備利用率は先進諸国の90%台に対して、我国は60%台で最悪だ。原因の一つは、原子力発電所が一旦停止すれば、「国・自治体・事業者の三すくみ」により、再立上げが出来ないことにあると以前に指摘したが、今回は「三すくみ」問題と深い関りのある、原子力発電に対する社会の
受容性について考えてみたい。

 原爆のトラウマ: 

 世論調査では、「原子力発電の必要性」について75%が理解を示しているが、「でも不安だ」との反応は65%だ。原子力関係者はこの「不安」にどこまで真正面から向きあって来たであろうか。 かつてNHKスペシャル「汚された大地から:チェルノブイル20年後の真実」が報道された直後に、筆者は次のように抗議した;二度の原爆を罹災した日本人は、「核」と「放射能・放射線」に極めて大きな「トラウマ/心的
外傷」を負っています。チェルノブイルに名を借りて「悲惨な被ばくの結果」だけを報道することは、とりもなおさず「原子力=放射線被ばく=癌多発=排斥すべし」との、短絡的な誤解を誘導することに繋がります。「原子力の平和利用」を否定する感情論の種を撒くことは、公な報道機関のNHKには許されない行為です(中略)。チェルノブイル事故は、欠陥原子炉だと先進諸国から指摘され、かつ「やってはイケナイ行為」の重畳が大惨事を招いたものです。この様な重要な解説が欠落したまま、「原爆のトラウマ」を煽る報道には猛省を促したい(後略)。
 平和利用と対極の原爆は神をも畏れぬ「人類の過ち」だ。戦争という異常事態での軍事行為だが、戦闘員が対象ではなく、何の抵抗手段すら持たない国民・婦女子を巻き添えにすることが明白だった「原爆投下」は、人道上決して許されない「人類の過ち」だ。

 人類の過ちを糺す: 

 「原子力の平和利用」は、エネルギー資源の乏しい日本の国家戦略だが、「平和利用の研究開発・利用の促進と、核軍縮・廃絶の政治運動は別次元の問題だ」として、原子力関係者は国民の核アレルギーから目を逸らせ、口を噤んで来なかったか。核の究極課題「核軍縮・廃絶」を、原子力関係者も国民と共に世界に訴え続ける義務があろう。日本の安全保障は米国の核の傘に守られているのは現実であるが、人類の正義と現実の矛盾を凌駕する姿勢を示さなければ、世界も国民も納得しまい。 

 オバマ米大統領のプラハ演説: 

 彼は「核兵器なき世界」への包括構想として、核軍縮交渉の推進、包括的核実験禁止条約(CTBT)批准、大量破壊兵器の拡散防止強化などを明言した。「核兵器を使用した唯一の核保有国として、米国には行動する『道義的責任』がある」との、米国大統領としての演説には万鈞の重みがある。
原子力関係者が「原爆のトラウマ」を真摯に受け止め、日本国民の不安の根源である「核」に対して明確な姿勢を示さぬ限り、国民の真の「信頼」は得られまい。「原子力発電の社会的受容性」の改善も、元を辿ればここに帰着しないだろうか。原子力関係者が信頼に足り得るか否かを国民は見ている。「信頼」の判断基準の一つは、国民と思いを共有し、頼りに出来る仲間か否か、ではなかろうか。

 科学的な説明は金科玉条か: 

 「放射能・放射線」も「原子力安全」も科学的に平明な説明がなされなければ理解は得られまい。「原子力基本法」が昭和30年に制定以来、原子力関係者は半世紀余に亘って、丁寧な説明を積み重ねて来た。結果的に国民の大方の理解は得られつつあるが、未だに国民の不安感情は拭えていない。日本の原子力はその生い立ちからも、科学的合理性だけでは信頼を得るには無理があることを、原子力関係者と共に咬み締めたい。
  原発の安定運転確保と隠ぺい体質の改善などは言を俣ないが、原子力関係者に「真摯な姿勢とは何か、国民と共有すべき思いは何か」をこの際、改めて問い直したい。