川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

「もっともらしい話に騙されるな」系の新書を二冊続けて読む

2007-02-25 20:34:02 | ひとが書いたもの
議論のウソ議論のウソ
価格:¥ 756(税込)
発売日:2005-09


統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか?統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか?
価格:¥ 777(税込)
発売日:2006-10-17


「もっともらしい話に騙されるな」系の新書を二冊続けて読んだ。
前者「議論のウソ」は、はじめて書籍として「ゲーム脳批判」をしたので有名なのだけれど、これまでちゃんと読んでいなかった。
オーセンティックな批判が展開されていて、今日でも色あせていない。

もっともらしい「ウソ」の類型を示してくれており、ふむふむと納得。

ぼくとしては、ゲーム脳のことよりも、「ゆとり教育」が学力低下を招いたとする、一般に流布した説を「ムード先行のウソ」として扱った章が興味深かった。


後者「統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか?」は、タイトル通り、統計数字でかなり恣意的に操作できるものをあれこれ教えてくれる。
よく耳にする「経済効果」など、説明されると、ホント?ってくらいいい加減だ。

また、犯罪論の「割れ窓理論」がどれだけ有効かというのは、なんとなく納得。支持者が信じるほどの効果は実証しにくいという。かつて、「緑のマンハッタン」でその「支持者」についてぼくも書いたことがあるから、これは知っておくべきことだった。あの頃、共和党のジュリアーニも、リベラルな「ガーデン」支持者たちも、ともに「割れ窓理論」を信奉していたと言うことか。

統計にあらわれない「地下経済」の章が興味深い。

二冊を連続して読んだせいか、ちょっと疲れたかな。
「騙されるな」「疑え」というメッセージの本が最近どっと出ているので、そろそろ、「騙されるな情報」とどう付き合うべきかという論考も必要になっているかも、と思った。

ひとつ響いた言葉は、小笠原氏の次の言葉。いきなり前書きからの引用で恐縮。

もっと必要なのは、そういう『嘘』であるかどうかという判断自体が場合によっては変わりうるという、多様な次元で多様な結論があり得るという姿勢を貫く強靱さではないか。
こんな時代には、むしろ立ち止まって、本当のところはどうなんだろうと考えてみるのも必要ではないだろうか。反応の早さを競わずに、愚鈍なくらいに判断を躊躇してみる。議論を重ねて、なかなか結論をださない。私は、そんなことが必要だと思っている。
民主主義というのは、多数決ではなく、みんなが議論に参加し、結論を急がず考えてみることではないだろうか。誰かエライ人間なりエリート官僚なりが結論を出して、人々を引っ張っていくのではなく、延々と議論を重ねる中で、みんなが考えるようになる、そうした人が増えれば増えるほど、より民主主義に近づくように思えるからである。

よし、ミンシュシュギ。大事にしようぜ。
と思った次第。


岩波の「科学」で脳科学特集(読了して、追記)

2007-02-25 08:11:33 | トンデモな人やコト
科学 2007年 03月号 [雑誌]科学 2007年 03月号 [雑誌]
価格:¥ 1,400(税込)
発売日:2007-02-27
「教育を変える脳科学」という特集のタイトル。
「ゲーム脳」についても話題になっており、ぼくも
「《座談会》“神経神話”が問いかけるもの──科学と社会の関係を考える」
というのに参加しています。「ふたこと」くらいしか発言は出ていないんですけどね(サイエンスアゴラでの座談会を採録したもの)。

読了して、追記。
 まず、津本忠治による特集の「巻頭言」は、

 脳科学の知見から教育や子育てへの示唆を得ようとする試みは有意義な場合もあるが、誤解あるいは拡大解釈に基づいている場合も多い


 と警句めいたもの。

その上で彼自身の論考は、「"臨界期"概念の成立、展開と誤解」というもの。
早期教育が一部の脳機能の発達には有効かもしれないが、普遍化できるほどのものではないと解説している。
なるほど、これはスロースターター万歳なぼくには意を得たりな概説だった。

坂元章による「テレビゲームが子どもに及ぼす影響」という概説もある。これはゲーム脳理論を意識したもので、直接の言及もある。

あと、発達障害について今の脳科学が到達している地点についてのもいくつかの論考が掲載されており興味深い。

ぼくが参加している「《座談会》“神経神話”が問いかけるもの──科学と社会の関係を考える」は、よくまとまっている。編集者の剛腕ぶり。
座談会を終えた後での松村京子(兵庫教育大学)の「教育現場で「神経神話」がはびこる背景」は一読の価値有り。ゲーム脳や水からの伝言への言及がある。

よい特集だと思う。
にもかかわらず、一番琴線に触れたのは、特集外のエッセイで、神経心理学の田中茂樹による「子育て?最高の体験を生きるために」。

親の過大な期待を背負ってしまう子どもが多くいる現状に心を痛めてこう書く。

……ごく?部にはイチローやヨーヨー・マのような人も出てくるだろう。しかし、しばしば指摘されるように,そのレベルにあとー息,二息でたどり着けなかった何百何千の人たちがいる。彼らは気楽に過ごせたはずの子ども時代を捨てて親の選んだ目標に挑むことに、大人になってからでは同意しなかつたかもしれない。

(中略)

私は地元のスポーツ少年団で小学生のサッカーの世話をしている。毎年冬になると,受験の準備のために4年生や5年生の何人かがクラブをやめていく。三度の飯よりサッカーが好きな子どもたちが、大人のような表情とあらたまった口調で、お世話になりましたと言った後,背中を向けてから泣きはじめた子もいた。そんな彼らの姿にはなんともいえないものがある。塾に行くために退部することになったある子どもの母親は「プロ選手になるわけじやないから……」と言った。稼ぐ手段にならないサッカーではなく、稼ぐ手段になる勉強をするために塾へ行く,というのだろうか。それじゃあまるでもう仕事が始まっているようなものではないか。サッカーは楽しむためにやるものだ 。そして,そもそも私たちは楽むために生きているのではないのか? その年齢でしか楽しめない仲間がありサッカーがある。それを捨てる(奪う)リスクに見台うゲインが、母親には見えているのだろうか。


しんしんと胸が痛い。