黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「レッテル貼り」の怖さと無意味さ

2008-08-06 06:23:33 | 文学
 この文章は、本来なら昨日書くはずだったのだが、一昨日から昨日と1週間ぶりに大学へ行ったら、事前に「夏休みだよ」と知らせておいたにもかかわらず、大学院生への個別指導の他に、いくつか重要な仕事が待っていて、全く時間の余裕がなくなり、書きたいことは朝方に考えたのだが、書けなかったものである。
 それは、「タイトル」にもあるように、「レッテル貼り」についてである。既にこのブログを読んでくださっている方々はご承知のことに属するが、このネット社会においては「匿名性」に隠れて、自分の考え(思想)と異なる者に対して、いささかも「論争」における最低限のルールさえ考慮することなく、意識的に(だと思う)「誤読・曲解」して、一方的に「左翼」だとか「勝ち組」だとか決めつけ(レッテルを貼って)、断罪する。新たな「いじめ」の形態として「学校裏サイト」なるものがあり、やはりこれも「匿名性」を最大限に利用して、「いじめ」の対象を窮地に追いやることが流行っているようであるが、ネット社会における「新たな犯罪」とも言うべきものが横行している現実も、よく考えてみると、結局は「レッテル貼り」ということで、決して「新しくない」のではないか。
 昔(というか、今でも田舎では)治安維持法が生きていた時代、「アカ」という言葉には独特な意味があり、「主義者(共産主義者や無政府主義者)ばかりではなく、時代や社会の在り方に疑問を持ったり違和感を抱いた者に対して「アカ」とレッテルを貼ることによって社会的に抹殺しようとすることが横行していた。体制に反対する者には、思想(学問)の自由も表現の自由も、はたまたその時代を「生きる」自由さえ奪うことが、公然と横行していたのである。僕の住むところは、今は前橋市だが、何年か前まで「村」であった。その「村」の時代の村長選挙の時、「○○が当選したら、村中がアカになり、役場に赤旗が立つ」と演説した候補者がいて、絶句したことがある。また、僕自身についても、(たぶん)村に住む「もの書き=批評家」というのは僕が一人だったということもあり、一般的には「胡散臭く」思われ、「あの人はアカではないか」と噂されていることを親しくなった人から聞いたこともある。
 自分と違う考え方、違う生き方をするものに対して、「アカ」ではなく今では「左翼」、「勝ち組」などというレッテルを貼って排除しようとする、いつ頃からこの「悪しき風潮」が定着するようになったのかは分からないが、ネット社会がその風潮を増長していることだけは、確かと言っていいのではないか。もう20年ぐらい前になるだろうか、まだ「北野武」が「ビートたけし」といって漫才をしていた頃、「赤信号、みんなだ渡れば怖くない」という言葉を流行らせたことがあるが、構成員のみんなが「同じ」であることによって安心するという「異端狩り」の社会を、「ビートたけし」のギャグはよく表していた――この言葉が頻繁に聞こえるようになった当初は、たけしがそんな社会を皮肉っているのかなと思っていたが、どうもそうではなく、基本的には彼が体制派だと分かってから、僕個人としては彼のその後の発言に興味をなくした、ということがある。
 長い「前置き」になってしまったが、昨日のマスコミ報道に拠れば、「危惧」していた通り、麻生太郎自民党新幹事長が馬脚を現したようで、民主党を「ナチス」呼ばわりしたという。たぶん、小泉純一郎を支持するような「ネット右翼小僧」たちは喝采をもって歓迎したのではないかと思われるが、昔も今も変わらないなと思うのは、相変わらず「レッテル貼り」によって相手を貶めようとする手法しか与党の幹事長が持っていない「悲しい」事実である。さすが、「バカヤロウ解散」を行った吉田茂の孫だと思うが、「品格」のないこと、甚だしい。本人はその品格の無さを「庶民派」などと言って「ウリ」にしているようだが、就任早々馬脚を現すというのは、彼の「ざっくばらんさ」というものが、実は軽佻浮薄がもたらしたものであることを明らかにしただけでなく、同時に彼のような人物に「レッテル貼り」をされたら、付和雷同を旨とする輩を喜ばす結果になる「恐ろしさ」も思わざるを得なかった。
 それにしても、民主党がナチスだなんて、大迷惑だろうが、反面、民主党も「高く」評価されたものだな、と思う人も多いのではないだろうか。民主党には、弱腰にならず、「レッテル貼り」の怖さと無意味さを世に知らせるため、断固麻生太郎を糾弾し続けて欲しい、とも思う。

 なお、今日8月6日は63回目の「ヒロシマの日」、祈念式典には毎年歴代首相が「平和」を祈念すると言い、「核のない世界」などという言葉を発するが、核兵器(核爆弾やそれを搭載したミサイル)を満載したアメリカの原子力潜水艦や原子力空母の寄港―母港化を許す政府の代表が「核廃絶」を口にすることのアンビバレンスこそ、日本の醜悪な現実があり、そのような「二律背反」のおかしさを見抜く力こそ、今僕らに求められているのではないか。「反戦・反核」を叫ぶと「アカ」だとか「左翼」だと言われるような風潮を片方で放置しながら、北朝鮮の核問題にはアメリカの尻馬に乗って異常に敏感となる、このような為政者の在り方もまた、世界におけるこの国の複雑な位置を表していると言っていいかも知れない。