黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

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新・武漢便り(8)――地下鉄に乗ってみました。

2013-03-31 07:38:55 | 仕事

案内の学生と一緒に。 

 昨土曜日(30日)、昨年の12月に開通したという地下鉄2号線(1号線は、本格的な地下鉄ではなく、地上を走る電車)、これは武昌地区の「光谷広場」から漢口地区の繁華街まで、文字通り地下を通るもので、当然長江(揚子江)の下もくぐっており、何年もかかった大工事だったわけで、武漢が大都市であることを宣伝する(誇る)象徴的な建設物になっているようである。2号線に続いて3号線、4号線も計画されているようであるが、その正否は中国の高度成長がどこまで続くかにかかっているとのこと。
 利用してみて思ったのは、東京の地下鉄などに比べて、後発であるから当然なのだろうが、「安全策」が十分に取られていて、乗客がホームから転落しないように、ホームの線路側全体が自動ドアのガラスで覆われている。格別用事があって地下鉄を利用するわけではないので、大学から一番近い片方の終点である「光谷広場」まで行くことにして、料金はどこまでも一律で、2元。
 同行の学生2人から、「混んでますよ」といわれたのだが、乗るときはさほどではなかったのだが、光谷広場に降りたら、人、人、人の群れ。「先生、スリに気を付けてくださいよ」と注意されたが、この人混みならば、スリにとっても「稼ぎ場所」としては、最適だろうと思った。光谷広場は、武漢で第2位を誇る華中科技大学が隣接している一種のショッピング・モール街で、ロータリーの真ん中には巨大な噴水広場があり、その周りの半分に大学の建物やオフィスビルが建っているが、もう半分には地下2階、地上5階建ての巨大なモールや、そのモールを抜けるとスペイン風街などがあり、ブティック、靴屋、おしゃれ小物、食べ物屋が軒並み客を飲み込んでいて、圧倒され続けた。
 元々、人混みの中を歩くのが好きではない僕としては、店を覗くだけで疲れてしまい、簡単な食事(学食のに比べても、まずく、しかも値段が高い)をすませて、早々に帰路につこうとしたのだが、改札口へいって、これもびっくり。切符の自動販売機の数が足らない(3台)せいで、2カ所の販売所に行ったのだが、どこも長蛇の列、それも遅々として進まない状況を見て、地下鉄に乗るのをあきらめて、2階建てバス(料金は同じ2元)で帰ってきた。
 ただ疲れただけの地下鉄試乗であったが、今度乗るときは、絶対週末は避けようと思った。前に漢口地区へ見学に行ったときもそうだったのだが、繁華街へ行くと、いかに中国の人口が多いかを実感する。本当に人、人、人の群れで、押し合いへし合い、という形容が大げさでない感じがする。
 
 疲れて帰宅して、ヤフー・ニュースを見ていたら、相変わらず勘違いしているなとしか思えない、北朝鮮の「米韓が少しでも我が国土を侵害するようなことがあったら、核攻撃をする」発言があった、という。思わず、おまえは馬鹿か、と言いたくなるような、愚かな発言(考え)。おそらく、公表できない深刻な「内憂」を抱えているが故に「外(内)」に向かって勇ましいことをいわざるを得ないのだろうが、もしこの地上でヒロシマ・ナガサキ以来の核戦争が起こったらと思うと、今日めちゃくちゃに数が多い武漢の繁華街を見てきた者としては、このような人々が、僕も含めてだが核の被害者になることを想像すると、どうしても北朝鮮(金正恩)の発言は許せないと思う。
 もっとも、領土問題(尖閣諸島や竹島問題)を巡って、「戦争も辞さない」ような発言を繰り返している安倍首相や石原慎太郎日本維新の会共同代表も、メンタリティとしては金正恩とほとんど変わっておらず、悪しきナショナリズムの典型について、改めて思わざるを得なかった。
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新・武漢便り(7)――「国と国の関係」に思う

2013-03-26 09:07:04 | 仕事
 宿舎の窓から見えるプラタナスの巨木(僕の部屋は3階にあるのだが、その高さは木のちょうど半分ぐらいになる)も、いつのまにか一斉に黄緑色の若芽を吹き出しており、海棠の花も気がついたら散り始め、ああやはり確実に春は来ているんだなと思わせられたが、生来の貧乏性の故なのか、外の景色をゆっくり眺める余裕もなく、毎日を過ごしてきた。
 そんなここ2,3日でも、文字(簡体字)を頼りにテレビを見ていて、中国の「外交」についての報道が日本での報道と大きく異なることに気付いた。それは、日本の外交は歴代の政権が「日米関係の重視」を言ってきたことに象徴されるように、欧米中心――これは、明治時代の初めに福沢諭吉が「脱亜入欧」を唱えて以来の伝統と言ってもよく、結果的に「アジア蔑視」(中国・朝鮮蔑視)に繋がるものである――になっているが(それに加えて日本が「島国」であることとも関係するのかも知れない)、GDP世界第2位に上りつけた「経済大国」(内実は決してそのようには言えないと、生活してみて実感しているが)中国の場合は、国土が広く多くの国と国境を接しているということもあるのだろう、非常に多岐にわたっており、少しずつ変わってきているように思われる。
 例えば、現在習近平主席は、中国経済界の面々を多数引き連れてアフリカ諸国、ロシアを訪問しているが、アフリカ諸国に多額の援助をしている(及び次々と「資源外交」を繰り広げている)余裕と自信なのか、習主席は始終笑顔を絶やさず、相手国首脳の緊張しきった顔と対照的な印象を受け、「へえ」といった感想を持った。前にも伝えたが、僕が暮らす外国人教師専用宿舎は留学生会館に隣接しているが、その留学生会館に住む留学生の大半はアフリカ系の黒人やアラブ人で、彼らがどのような階層出身なのか分からないが、中国では高額所得者の印でもある車を持っている学生もおり、多くの学生が電気オートバイを乗り回していて、中国とアフリカ・アラブとの関係が大変深いことを推測させたが、「援助する代わりに中国の世界における地位を支持してほしい」といったテーマを掲げている(とされる)今回の習主席のアフリカ外交を見て、さもありなん、と納得した。
 もう5,6年前になるだろうか、筑波大学図書館情報メディア研究科とベトナム国立図書館との「交流協定」を結ぶためにハノイに行ったとき、その前年に小泉首相(当時)が経済界のお歴々を300人引き連れてベトナムとの経済協定を結び、その結果各地の大学(特に、関西のある大学が九州に設置した国際学部には数百人規模のベトナム人留学生が在籍するようになったという)にベトナムからの留学生が増えたと言うことがあったが、同じことが今の中国の外交政策にも感じられる。
 ロシアとの関係についても、中ソ論争―中ソ紛争以来決して友好的だとは思われなかった「中―ロ」関係の修復が急がれているようで、ロシアとの関係が改善されれば、国際舞台における中国の発言権が増すことは確実で、それは対北朝鮮政策の微妙な変化にも通じている。
 今朝鮮半島では、北朝鮮の「休戦協定破棄」→「(金正恩の)ソウルを火の海に、発言」、及びそれに呼応米韓合同演習によって、緊張が仮構されているように見えるが、中国のテレビはそのような朝鮮半島の状態を「冷静」(ということは、北朝鮮に対して厳しい態度で臨んでいることを意味する)に伝えているように思える。つまり、いたずらに「米・韓・日」を刺激するような北朝鮮の「瀬戸際外交」を戒めているのではないか、ということである。
 どうも「大人の外交」に変化しつつあるのかな、と思われる。こんなことを書くとまたぞろ「左翼」とか「中国びいき」などと言われかねないが、それは日本(安倍首相)のやたら「愛国心」をもてあそぶような「危険」な外交とは相当違うのではないか、という印象を与えるものである。安倍首相の尖閣諸島問題に関する言動を見ていると、北朝鮮の金正恩の「瀬戸際外交」と同質なものを感じられる。「外憂」を作って「内患」を粉塗する、何ともいじましい外交である。
 春なのに、……。
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新・武漢便り(5)――忙しい日々の中で

2013-03-24 09:42:25 | 仕事

(講演会の看板)

(講演中の僕)

(着手発表会の後、みんなで) 


先週は、18日(月)、19日(火)が授業(講義とゼミ)と「着手発表会」のための相談、そして20日(水)~22日(金)まで済南の山東師範大学に招かれての講演、更に23日(土)は修士の「着手発表会」、朝8:30~午後4:00まで、その後新潟大学と長崎純心女子大学へ留学する学生8名の壮行会を兼ねた慰労会(打ち上げ)、と慌ただしい1週間を過ごした。
 山東師範大学の講演「村上春樹は何故ノーベル文学賞を受賞しなかったか」は、昨年の10月頃に企画されたものが、例の尖閣諸島の国有化問題で緊張の度を深めた日中関係のあおりで「延期」にされていたのを、沈静化されたので実施したものである。周知のように、昨年のノーベル文学賞は中国の莫言が受賞したが、山東省は莫言の故郷で、別にそのために講演の標題を選んだわけではなく、山東省と言えば、青島の中国海洋大学で一時は村上春樹の専属翻訳家として名前の知られた林少華氏が教鞭を執られているところで、彼とはまだ会ったことはないが、メールでは何度も情報を交換した中であり、そのようなことがあるからなのか、中国でも村上春樹のファンが多い地域と聞いていたからである。現に、このような演題を提案したとき、講演会を企画した大学の責任者も「学生も楽しみにするだろう」と言ってくれた、ということもある。
 実際講演を行ってみると、授業中の時間設定であったにもかかわらず、山東師範大学の学生・教員だけでなく、近隣の山東農業大学や山東交通学院(大学)外国語学院などの日本語かの教員や学生が多数詰めかけてくれ、終わった後に、今まで聞いたことのないような講演だった、と一応「好評」だった。
 本当は、講演の後「質疑応答」があるはずだったのだが、「儀式」が長引き、また僕の話が長かったからか、その時間がとれず、話を聞いてくれた人たちがどのように受け止めてくれたのか分からなかったが、壇上から見る限り、つまらなそうにしている人たちはあまり見受けられなかったので、「結果オーライ」だった、と自分では思っている。
 講演会の慰労会(食事会)の席で、日本語科の先生たちの話で、この次(というのは、僕は前から話があったのだが、山東師範大学「山東省日本学研究センターの客員教授に招聘されたと報告された)には、黒島伝治の『武装せる市街』や大田洋子の『真昼の情熱』などの舞台ということもあるので、「山東省と日本近代文学」というような内容で話をしてほしいと言われ、機会があればということで山東省への「小さな旅」は終わったのだが、山東料理はあまり辛くなく、日本人(僕)の口に合うように思い、また来たいと思わせること大であった。また、武漢に比べて街が「きれい」なのも、印象的であった。

 修士の「着手発表会」は、18名中、文学が14名「文学領域」、4名が「文化領域」の発表、教師の参加は僕を含めて6名、なかなか活発な議論(質疑応答・アドバイス)であったが、結果として、多少の手直しが「文化領域」の4名で、「文学領域」は全員が一発合格になったので、文学担当の僕としては、内心ほっとしている。いずれまた、華中師範大学の大学院について箱の欄で各予定だが、それとなく伝わってきた前日までいた山東師範大学の日本語科大学院の現実(研究方法や主題設定のやり方、等)とは、相当違っているという感想を、僕は持った、
 ともかく疲れた1週間であった。
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新・武漢便り(5)――「題名」なんて、何だっていいけど……

2013-03-16 09:45:13 | 仕事
 昨日、必要があって学生とネット検索しようとしたら、ニュースとして「村上春樹の新小説、タイトルは何と20文字!」と見出しにあるのを見つけた。早速中身を見たら、何と言うことはない、村上春樹の新しい小説の題名が、題名からは内容が全く類推できない「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」だという。
 さらに、同時に村上春樹のコメント(?)――単に編集者に話した伝言のようなもの――として、「『1Q84』がいわばジェットコースター的な物語だったので、それとは違うものを書いてみたいという気持ちがありました。それがどんなものなのか、書いてみないと分からなかったけど」が、付けられていた。
 タイトルにしろ、村上春樹自身のコメントにしろ、この新作の内容がそこから類推できないことには変わりなく、『1Q84』の時がそうであったように、最近の村上春樹の在り方は、どうも出版社主導の「売らんかな」精神が見え見えの、何ともおぞましさを感じさせるものになっている。何ヶ月も前から「新作が出るぞ」と、読者の欲求をあおりにあおって、それで中身ではなくその評判だけで「売りまくる」、そこにベストセラー作家村上春樹の「驕り」がないだろうか。
 どうも最近の村上春樹は、エルサレム賞の受賞記念スピーチ「壁と卵」にしても、またカタルーニャ国際賞の受賞記念スピーチ「非現実的な夢想家として」(いわゆる「反核スピーチ」)でも、実作と結びつかない、いかにもノーベル賞狙いであるとしか思われないような、ご都合主義的な思想(考え)――たぶん、本人はそんなこと全く思っていないのだろうが、そのように思わないほどに、現在の村上春樹は今この「現実」とは無関係に「夢見る人」担っているように思える――を、その場限りという感じで披瀝してきた。
 このような村上春樹の在り方に対して、僕の教え子で『村上春樹と中国』(2011年 アーツアンドクラフツ刊)の著者王海藍は、僕に「2000年以降の村上春樹は、ニュー・リアリズムの方法を取り入れているのではないか」と言ってきたが、確かに『1Q84』などはアメリカの現代文学で流行っている「ニュー・リアリズム」(僕の理解では、高度に発達した資本主義社会の現実と人間との関係を見直す、ことを主眼とする文学方法である)による創作、と言っていいかもしれないと思う。しかし、果たしてそれは成功しているか、すでに僕は『「1Q84」批判と現代作家論』の中で、『1Q84』は壮大な失敗作だと批判し、また今度の本『文学者の「核・フクシマ」論――吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』(彩流社刊)の中では「反核スピーチ」を彼の迷走する作風と共に批判したが、例えば、日本の戦後における反核運動や戦後文学の中において収容名意味を占める原爆文学(反原発文学も含む)の歴史を無視して――あるいは、それらに対する知識がなく、つまり「無知」をさらけ出して――「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきであった」とする発言は、これまでの反核運動や林京子さんなどの被爆作家に対する「侮蔑」であり、何とも許し難いものであった。
 『1Q84』がそうであったが、オウム真理教の事件などを下敷きにして、いかにも日本の現実に基づいて作品が書かれているように見えながら、実は主人公の一人(青豆―女)が「必殺仕事人・藤枝梅安」のような「殺し屋」であるという設定は、銃社会と言われるアメリカの社会にその発想の根があり、あるいは自爆テロが頻発するアラブなどの現実(人間心理)を借りてきた、余りに「非現実的」な作風になっていたこと、このことの意味するものを僕らは考えなければならないのではないか、と思う。
 僕が、新著『文学者の「核・フクシマ」論』の「あとがき」で、村上春樹の新作に対して「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきであった」と大見得を切ったのだから、何らかの形で村上春樹の「反核」思想や「反原発」思想が反映したものになるのではないか、と「皮肉」ではなく期待したのも、彼の可能性を信じたからであった。
 果たして、村上春樹の新作は、僕の期待を満足させてくれるものになっているだろうか。早く読みたいものである。
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新・武漢便り(4)――春がやってきました、が

2013-03-14 04:36:51 | 仕事
 ここ2,3日、武漢は小雨が降ったり強い風が吹いたりして寒い日が続いているが、昨夕研究室からの帰りにふと宿舎の前の庭を見たら、海棠の木が淡いピンクの蕾をふくらませていて、春が来たことを知らせてくれた。そう言えば、と思いだしたのが、学生からの情報で、武漢大学のキャンパスではいよいよ桜の花が咲き始め、昨日から公に一般公開(市民に開放)を始めたとのこと。詳しいことは分からないが、日清戦争後から漢口に日本租界があった武漢だから、いずれ誰かが大学のキャンパスに桜の木を植えたのだろうが、花見に行こうか、と学生を誘ったら、ものすごい人出ですよ、と言われ、人混みが好きではない僕としては、とりあえず止めて、華中師範大学にも桜の木はあるというので、そちらの木が花を付けるのを楽しみにすることにした。
 そんなことで、春は確実に近付いているんだな、と思う一方で、ネットでニュースを見ていたら、生活保護世帯が過去最高になったというニュースの隣に、トヨタなどの自動車メーカーが春闘で軒並みボーナスの増額を決めた、とあり、やはりアベノミクスはアメリカにならって「格差社会」を増長するものだ、ということがよくわかった。
 もう10年以上前のことになるが(2000年)、在外研究でアメリカに半年滞在していたとき、アパートから大学へ行く道筋に毎日2人(時には3人)のホームレスが「Save my life’助けてください)」というダンボールで作ったプラカードを首から提げていたのを毎日見ていたのに加え、シカゴに行ったとき、当時自動車産業が日本の輸出に押されて疲弊していたと言うこともあって、かつての中流住宅地が見る影もなく荒れ果て、貧しい黒人労働者の街に変わっていたのを目撃し、またカナダのバンクーバーでは各地の教会の前に食事を求めるホームレスの長い列があったのを見て、「格差社会」の現実を思い知らされたが、それが今や日本の現実になっていること、僕らはこのことを東日本大震災(フクシマ)の復興が遅れていることと共に、オリンピック承知などにうつつを抜かしている暇があったら、もう一度真剣に考えなければならないのではないか、と思う。
 考えてみれば、「格差社会」は、アメリカの圧力を受けて「雇用」に関して様々な規制を解除した小泉内閣によってもたらされたものである。あの時代の官房長官が現在の首相である安倍晋三であり、経済政策の顧問があの悪名高き竹中平蔵である。あの時代、「改革」の名においていかに「格差社会」が増長されたか、僕らはそれを思い出す必要があるだろう。民主党政権は、様々な失政を繰り返し、その揚げ句に政権をネオ・ナショナリスト(右派)の安倍自民党に譲り渡したが、民主党政権が三代目の野田ドジョウ内閣になって「消費税増税」が象徴するようにすべてご破算にしてしまったが、少なくとも「お坊ちゃん」の鳩山由起夫内閣の時は「格差社会の是正」を目標にしていたはずだし、国民もその実現に期待していたはずだが、安倍内閣になって、さらにその「格差」を広げるような「生活保護費」の減額が行われようとしている。集団的自衛権を認めるとか、憲法改正など「きな臭い」ネオ・ナショナリスト=現実を知らないおぼっちゃまとしか思えない施策にうつつを抜かしている暇があったら、明日の生活におびえる「貧しい」人々へいくらかでも思いを寄せてほしいと思うが、苦労知らずに育った人には無理か?!
 ただ、中国でも農村部の年収が都市生活者の月給に等しい、というような「格差社会」の現実を知らされると、「格差」は資本主義体制が必然的な結果としてもたらすものであって、社会の在り方を根源的に変えない限りどうにもならないのだろうか。
 春がそこまで来ているというのに、こんなことを考える暇があったら、花見酒でもしこたま飲んで(などと言っても、下戸の僕は何を飲めばいいのか?)寝ていた方がいいのかも知れないが、来週山東省の山東師範大学で「村上春樹は何故ノーベル文学書を受賞でいなかったのか―日本の現状と現代文学」と題して講演することなっていて、そのことを考えると、ついつい「敵を作る」ようなことを書いてしまうのだが、それもまた「口舌の徒」としては仕方がないか。
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新・武漢便り(3)――あれから2年、復興は?

2013-03-11 10:02:15 | 仕事
 昨日(10日)から今朝にかけて、こちらのテレビはどのチャンネル(基本的には国営だが、中央電視台<中央テレビ>も、総合から、教育、軍事、子ども向け、京劇専門、など多くのチャンネルがある。また、日本の地方局に相当する省専用のチャンネルもある)のニュース番組で、世界各地で繰り広げられた「反原発集会」や「デモ」の様子を伝え、また復興が進まない東日本大震災の被災地の様子を伝えている。
 時々、記者たちの報告に混じって、放射能の検査をしている医師や被災者の生の声(日本語)が聞こえるので、毎日中国人学生による日本語を聞いている僕としては、なにやら「懐かしい」気もして、ついつい膝を乗り出して画面に見入るのだが、日本語が聞こえてくるのはほんの10秒ほど、また画面の中国語を必死に読みとる日常に戻らざるを得ない。
 以上のようなことからも分かることなのだが、2年前に起こった東日本大震災及びフクシマは、日本人(僕もそれにふくまれる)が思っている以上に、世界が注目してきた大震災であり大規模被害をもたらした原発事故だった、ということである。死者・行方不明者及び関連死者を含めると優に20.000人を超える犠牲者を出したこともさることながら、こちらのテレビが伝えるのは、その「復興の遅さ」である。もちろん、これは日本のマスコミ・ジャーナリズムも大々的・持続的に伝えてきたが、その伝え方は「政治=政権」との絡みであったり、経済的側面からのものが多いように僕には思え、そのような日本のマスコミ・ジャーナリズムの報道とこちらのテレビ報道とでは、「外国」だからということもあるのか、結果的にはストレートに「生命=人間の尊厳」の問題として伝えているように見える。
 僕は、先にお知らせしたように、今頃書店の店頭に並んでいるだろうか(それとも、あと4,5日か)、この2年間一介の批評かとして「文学者」の「フクシマ」や「核」に対する発言に注目し、それを『文学者の「核・フクシマ」論――吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』(彩流社 1900円+税)としてまとめた。430枚ほどの本文を貫いているのは、フクシマ(核)の問題を「生命=人間と文学」の関係で考えるというもので、その観点から「生命=人間」の問題、主要にはヒロシマ・ナガサキの死者であり、これから「被曝死」の問題と直面せざるを得ないフクシマからの避難者(被曝者)を蔑ろにしている吉本隆明と村上春樹の「フクシマ(核)論」を批判したのが、本書である。大江健三郎は、吉本や村上春樹の対極にある文学者として、「人間=生命」を中核とした反核・反原発論の文学者の代表として登場させた。
 そのような観点から、僕の「原爆文学論」「反原発論」の集大成的な意味もある本書がどれだけ読者のもとの届くか気がかりではあるのだが(応援、よろしく!)、それというのも、どこか「人の噂も75日」的な気質を持つ日本人故か、停止している活断層場の原発さえも「安全点検がすめば再稼働させる」(誰が、「安全」宣言するのか?! 結果的には、これまでと同じように政府の意向をくんだ「傀儡」的な原子力関係の官僚や学者が「安全宣言」するのだろう。)と繰り返し言明し、また原発の新増設も「認可する」と公言している安倍政権に60~70パーセントの支持を与える日本国民の在り方に、「非国民」との誹りを覚悟で言えば、根源的に「不信感」を持っているからである。もちろん、各種の世論調査で、「原発ゼロ」が望ましいとの答えが「70パーセント」あるということは知っていても、である。
 「バブル時代」の「豊かな生活」が忘れられない世代(40~60代)をターゲットに、「経済=金儲け」を優先させる政策に、コロリと騙されてしまう(僕にはそう見える)国民、それは東日本大震災の復興が遅々として進まず、フクシマからの避難民がいまだ十数万人故郷に帰れない現状があるにもかかわらず、5000億円以上もの巨額の金をオリンピックに注ぎ込むことを是とする東京都民の在り方と、全く相似である。そのお金を被災地の復興に回せば、どれほど被災地の「再生」が早まるか、こんなことは子どもでも分かる道理なのに、何故か、日本人は……。
 しかし、絶望ばかりしていても、仕方がない。少しでも「希望」を求めて、批評かとしての仕事をしていくしかない、と新著を刊行して、改めて思った次第である。
 新著、是非手にとって見てほしい。近くの本屋さんにない場合、僕のブログを見たと言えば、版元(03-3245-5931)は著者割引(2割引)にしてくれるとのことです。よろしくお願いします。
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新・武漢便り(2)――異国から日本の現状を見ると

2013-03-08 10:17:42 | 仕事
(華中師範大学の大学院生と教員)
 
 日本を発って武漢を再訪して5日、到着した翌日から授業を始め、1年生から3年生まで懐かしい顔に出会い、この3ヶ月の空白は何であったのかを考えさせられたが、つらつら思うに、インターネット社会の今日、学生たちも僕もインターネットという「便利」な通信ツールを最大限使って、学生たちからはレポートや質問が届くし、僕の方もそれに応えるということがあり、日本に多3ヶ月間が全くの「空白」だったということはなく、「日本文学(の研究)」を通じて「つながっていた」からこその「懐かしさ」だったのか、と実感した。
 それに、街や大学のたたずまいも帰国する前とほとんど変わらず、地下鉄(武昌地区から漢口地区へ)工事が終わった正門前の珞瑜路も、工事用の遮蔽物が取り除かれただけで、相変わらず車と人でごった返しているのは帰国前と同じで、変わっていたのは、自転車やリヤカーに乗せて売っている果物がミカンやリンゴからイチゴになったぐらいで、相変わらず街は「平穏」そのもの、と僕には感じられた。
 そんな「平穏」な武漢から、ネットのニュース(ネットでは、すべての新聞やテレビのニュースを見ることができ、メディアによって同じ案件を報道するにしても、全く違う見解に基づくものがあり、その意味では「メディア=情報媒体」とは何か、とまさに今日の社会が抱えた重要な問題を考えるのに好都合である)を通じてであるが、日本の政治(安倍政権の政策・思想)を考えると、これは日本にいるときにも言ってきたことであるが、相当「やばい」状態にあるのではないか、と思わざるを得ない。
 その原因は、「日米関係の重視」と言いながら、「アジアの盟主」(安倍首相のおじいさん・岸信介がその一人として画策した戦前の「大東亜共栄圏」と同じような発想に感じられる)を目指すこと、つまり「経済大国」を背景に「国粋主義」を鼓吹するその姿勢から生じている「ねじれ」に、安倍政権は全く気づいていない点にあるように思われる。安倍政権は、最近の週刊誌があおり立てる「日中開戦か?」とか、「もし日中が開戦したら」といった記事に、僕から見たら「悪乗り」しているとしか思えない。
 だからなのだろうか、例えば、昨夜(7日夜)から、沖縄の普天間基地に常駐しているオスプレイの夜間訓練が四国上空で始まったが、アメリカ本土でさえ「訓練」でできなかったオスプレイの夜間訓練を日米安保を理由に黙って認める一方で、沖縄が「屈辱の日」と言っている、サンフランシスコ条約(講和条約)が発行した「4月28日」を「主権回復の日」として国家行事として執り行うという、何ともアナクロニックな考えを披瀝する。「主権回復の日」は、近々閣議決定されるという。「主権回復」といい、先の「教育復興諮問会議」(?)が諮問した「道徳教育の教科化」といい、安倍政権の「復古調=右傾化政策」には目に余るものがある。
 このような、日米関係に寄りかかりながら国内的には「右傾化」を更に進める、このような何とも不思議な政治思想を持った政権に、必ずしも積極的ではないが「60~70パーセント」の支持を与える日本の国民とは何なのか。これは、高速道路の補修や校舎の耐震化、あるいは生活保護世帯の増加、保育所不足などの様々な問題を掲げながら、いっこうに復興が進まない東日本大震災やフクシマの現状を尻目に、オリンピックの2020年開催に「70パーセント」の賛成(本当だろうか?僕の知り合いはほとんど反対だが)を寄せた東京都民と、全く同じ精神構造のように見える。
 何ともおぞましい気がしてならない。
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新・武漢便り(1)――スモッグの中を

2013-03-06 10:01:26 | 仕事
 3月3日(日)、午前5時に前橋を発って、成田ー上海ー武漢の旅、武漢に着いたのは予定より1時間半遅れの7時過ぎ、迎えの車で大学内の宿舎まで約1時間ほど、日曜日ということもあって空港からの高速道路もまた一般道も空いていたのだが、街灯に照らされる空気が、どこか日本のそれとは違うという感じであった。迎えに来てくれた学生に、武漢のスモッグについて聞くと、2,3日前に雨が降ったので、今日はきれいだとのこと、そういえば、宿舎に着いて、夕食のための「中国風ピザ」を買い、それを食してから寝ようとして何気なく空を見たら、半月が煌々と照っており、なるほどきれいなんだ、と納得した。
 しかし、上海の空港(浦東<プドン>空港)に着陸する前も、またそこから武漢に向けて飛び立ったときも、上空は真っ青なのに、下界は茶色に霞んでおり、これが日本でも大騒ぎしている「M2.5」のスモッグなのか、と思わされた。事情は武漢でも同じで、着陸する前はいつもきれいに見える下界(農村地区)がよく見えず、中国の東半分を覆っているスモッグの「ものすごさ」を改めて実感させられたのだが……。
 ところが、武漢市内に入ると、先にも記したように少しの「違和感」はあるものの、街を歩く人の誰一人としてマスクをする人がおらず、慣れてくると、全く「違和感」が消え、昨年の秋と同じような感覚で生活できるということを覚らされた。
 なお、これからは春を迎えるということで、学生たちの話では、春になれば1週間に1回は雨が降るそうなので、そうすればスモッグも内場になるだろう、と思い、時間の経つのを待つことにする。

 到着した翌日(4日)から、日本から知らせておいたように、授業を開始する。4日は、1,2年生の授業だったのだが、冬休み(春節)を故郷で過ごしてきた学生たちは、一回り大きくなったようで、これからの展開が楽しみである。1,2年生とも、文学作品の読み方が概念的なので、1年生には引き続き「近代文学概論(戦後文学史1)」を講義するほかに、武漢(中国)に関係する石川達三の『生きてゐる兵隊』と『武漢作戦』を時亜kんを掛けて丁寧に読むつもりで、授業計画を立てたのだが、果たしてうまくいくかどうか(理由はよく分からないのだが、中国の日本語科<学部でも大学院でも>における「日本文学」の授業で『生きてゐる兵隊』を取り上げることはほとんど無いようで、作品の存在を知らない学生も数多くいた)、これからの展開が楽しみである。
 昨日(5日)から、オフィス・アワーも開始したので、『着手発表』を3月末に控えている2年生、修論を完成させなければならない3年生が引きも切らず、まだ慣れないということもあって疲れ、早々に宿舎に引き上げてきた。
 後期の授業が始まった大学は、キャンパスも食堂も人、人で賑わい、その人の群れを見ているだけで疲れるという感じもあり、早く慣れないと、と思った。
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対米従属度を強める安倍政権

2013-03-01 06:24:47 | 近況
 昨日(2月28日)の安倍首相の国会における「施政方針演説」の「安全性が確認されたら原発を再稼働させる」という言葉を聞き、また夕方のニュースで「オスプレイの訓練、本土で開始」というのを聞いて、先の日米会談において安倍首相がオバマ大統領への「手みやげ」としたものの正体が、具体的になったと実感した。――再三言っていることだが、決してナショナリストではない僕でさえ、先の日米会談は、外見上は「対等・平等」な互恵関係に基づくものだと言いながら、内実は飼い主の下にしっぽを振って近づいていく犬を思い出させる、何とも奇妙な光景であった。相も変わらない宗主国への「就任のご挨拶」、思わず安倍首相を強力に支持する「ネトウヨ」の皆さんは、あのアメリカ大統領に異常にへりくだったような安倍首相の態度に怒りと情けなさを感じなかったのだろうか、と思ってしまった――
 しかし、前民主党政権でも同じだったが「安全性が確認されたら原発は再稼働」という言葉、またしても「安全性」、あるいは「安全性の確認」であるが、フクシマによって原発の「安全性」は「神話=信仰」で葦か亡かったことが実証され、そして停止中の原発に対する「安全規制庁」によるその後の点検によって、東通原発(青森県)や敦賀原発(福井県)など多くの原発敷地内に、地震の原因となる「活断層」が走り、如何にこれまでの「安全性の保障」がいい加減なものであったかを明らかにしたが、またぞろ「安全性が確認されたら再稼働だ」と言う。このような「安全性」が、吉本隆明が亡くなるまで主張し続けてきた「科学神話=科学は永遠に進歩し続ける」に象徴される「科学絶対視」、これは段階的に原発を亡くしていくのがいいと主張する立花隆や寺島実郎などの考えの基になっているものであり、原発輸出を肯定する連中の「日本の原発技術は高度であり、安全は確保されている」という立場に連なるものであるが、いずれにしろ「原発の安全性」を主張する輩の頭からはフクシマの現実が全く抜け落ちていることだけは、確かである。
 フクシマで働く原発労働者が、原発労働が必然としている元請けー下請けー孫請けーひ孫請けという労働構造によって「ピンハネ」され、あまつさえ被曝線量の記録もろくに行われない状態で働かされ、また放射能除洗も「形式」的・杜撰な状態なまま避難民が何時故郷に帰れない状況にあること、このことに関して「再稼働」賛成・「原発の新増設」賛成を唱える人たちは、何を考えているのか、と思わざるを得ない。
 考えられるのは、原発を維持・推進したい保守派の政治家(安倍首相はその代表格と言っていいだろう)や税界の一部にの中に根強く存在する「原発を安全保障の武器に」によって原発の再稼働も新増設も主張されている、ということである。つまり、原発を動かし続けることによってそこからの使用済み核燃料を再処理して、原爆の材料である「プルトニウム」を確保し――現在日本は、長崎型原爆を数千発製造するだけのプルトニウムを国内外に保持している。IAEA(国際原子力監視委員会)が国内に常駐して日本の「核」を監視している現実を僕らは知るべきである――原発を稼働させれば、それは増える一方である。これも前に書いたことだけど、日本の科学技術を持ってすれば、早ければ3ヶ月、遅くとも6ヶ月で数十発の原爆を製造することが可能であるという。
 そのように考えれば、原発再稼働が極めて「政治的」な意図の下で発言されたものであり、中国や北朝鮮、あるいはロシアを牽制するために「日本の核(プルトニウム)存在」を必要悪と認めざる得ないアメリカの「苦渋のアジア戦略」が透けて見えてくることだろう。アメリカのパートナー・シップ(国際協調・国際協力)というのは、伝統的に「自国の利益」のためであって、決して相手国(他国)のためではないことを、私たちはもっと深く思い知るべきである。
 そのことは、「沖縄」問題についても言えることで、自国内で訓練さえ思いのままにならなかった「危険」なオスプレイを沖縄普天間基地に常駐させ、そして岩国を皮切りに今後は本土の各地でオスプレイの「低空飛行訓練」を行うという。それを防衛省(政府・安倍首相)は認めるという。安倍首相が日米会談で、普天間基地の辺野古沖移転を、地元の沖縄が全体で反対しているにもかかわらず、確約してきたのも、アメリカへの「忠誠」ぶりを示しただけではなく、何を取り戻したいのか(「戦前の日本」なのだろう)「日本を取り戻す」ことが、日米軍事同盟の強化と不可分だと、確信しているからだと思われる。
 そんな「危険な宰相」が率いる安倍政権に「60~70パーセント」の支持を与えるこの国の国民、その国民が同じ割合で「原発ゼロ」を表明しているのだが、この「矛盾・アンビバレンス」を僕らはどう解釈すべきなのか。ぼくは、ここに日本人のフレキシビリティ(柔軟性)を見たいのだが、安倍首相が「憲法改正」を言い出した現在、その「柔軟性」が用法校に向かうことを祈るばかりである。

 なお、私事であるが、3月3日(日)からまたしばらく中国(武漢)の大学に戻って、大学院での仕事を再開することになった。武漢からは、「新武漢便り」ということで、このブログを続けるつもりである。
 よろしく。
 なお、あと2週間ほどで拙著『文学者の「核・フクシマ」論』が発刊される。是非お読みいただければ、と思う。
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