黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

靖国神社参拝・ナショナリズム

2008-08-17 06:50:57 | 近況
 毎年、「8・15(敗戦記念日)」に靖国神社に参拝する国会議員や閣僚の姿がテレビなどのマスメディアで取り上げられ、時の東アジア情勢(中国・韓国との関係)などとの絡みで様々に報道されるが、いつも僕が「何故?」と思うのは、例えば今年参拝した小泉元首相や安倍前首相など要職にあったほとんどの政治家が、報道陣に「どういう思いで参拝したのか」と問われて、確信犯的な「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長:島村宜伸元文相)に所属する政治家たちは別にして、誰もまともに答えようとしないことである。今年も保岡法務大臣、「消費者がやかましい」と発言して物議を醸した太田農水相、郵政選挙で離党経験のある野田聖子消費者行政推進担当相の3閣僚が参拝したというが、3人とも何故参拝したのかその理由を報道陣に語ることなく、神社を後にしたという。
 もっとも、石原東京都知事のように「日本が水運に向かわんように」と分かったような分からないような頓珍漢な言葉を残して神社を去った政治家もいたようだが、いくら戦争における犠牲者の「御霊」を祀っているとは言え、先のアジア・太平洋戦争を「聖戦」と捉え、一貫して日本の「正当性」を信じ続けてきた靖国神社に参拝するというのは、どういうことなのか、「戦争」は「絶対悪」の一つであり、「戦争」をなくすためにこそ人間の生きる意味があるのではないかと考えてきた僕にしてみれば、例えば野田聖子などというこれから「消費者問題」に取り組んでいかなければならない――ということは、食料を大量に輸入している中国やアジア諸国との関係を真剣に考えなければならないということであり、それ以前に「平和憲法」の下で教育を受けたはず、ということもある――若い政治家が参拝理由を明らかにしないまま「問題」の靖国神社に参拝する、不思議で仕方がない。野田議員が地盤とする岐阜一区の選挙民たちはどう思うのか(もしかしたら、岐阜一区の選挙民に阿て、敢えて参拝したのかも知れないが、もしそうであれば、野田聖子という国会議員は「選挙」のことしか頭にない、とんでもない議員ということになる)。そんなことを思うと、「8・15」にまつわる「おぞましさ」が倍加するが、その「おぞましさ」は戦争の犠牲者が靖国神社に祀られている「英霊」だけでなく、「敗戦記念日」の時にも書いたように、2000万人にも上るアジア全域の人々であり、また敗戦後の飢餓と混乱の世の中を生きなければならなかった日本国民全体である、という認識から生まれたものである。
 それにしても、関係者が戦争の犠牲者であるから参拝したという人は別にして、旧日本軍の軍服を着たり、進軍ラッパを吹き鳴らしながら参拝する人たちは、どのような心境なのか、彼らの姿を見ていると「おぞましさ」が先に立って、戦争から帰ってきた父親の心がどこか「壊れてしまった」と感じ続けてきた僕には、ほとんど理解できない。彼らの一人は、取材していた若い東京新聞記者に「お前は左翼だろう?」と言ったという。この言葉を聞いて、「左翼」という言葉がかつての「アカ」と同じ意味で使われている現実を知り、慄然とすると共に、このようなレッテル貼りによって社会が「おかしな方向」に動かされていくのか、と改めて思わざるを得なかった。
 そんな「8・15」にまつわる狂想曲を眺めていると、改めて日本の「ナショナリズム」がどうも「偏頗」で「狭小」なものとして顕現してきているのではないか、と思わざるを得なかった。時は「北京オリンピック」、「ナショナリズム」が最も喧伝される時、靖国神社参拝と北京オリンピック、どちらの「ナショナリズム」を前面に出してのイベント、僕らは冷静に考える必要があるだろう。