黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

内部告発

2010-10-24 09:24:56 | 近況
 基本的には「アナログ」人間であり、そうであるが故に全てにおいて「デジタル」化を目指しているような現代社会の在り方に対して疑問を持っているが、その理由は近代の表徴である「個」の確立(自立)を曖昧化するデジタル社会特有の「匿名性」が、人間社会の根幹であるはずの「共同性=共生」を破壊し、仮想化してしまうことに対して危惧を抱いているからである。つまり、現在のようにあたかもそれがデジタル社会の現実であるかのように「匿名性」を許し続けていたら、現在でも加速度的に進行している人々の「孤立化」が、果たして将来的にはどうなるのだろうか、と思っているということである。
 しかし、最近「なるほど、匿名性にもこのような利点があったのか」と思わせるニュースに接した。ネット社会の唯一の「利点」なのではないか、と僕は思っているが、「ウイキリークス」というサイトが「匿名性」と「情報源」の秘匿という点に依拠して、アメリカ(アメリカ国防省が、と言ってもいいが)がこれまでずっと隠し続けてきたイラク戦争の死者数を記した「秘密文書」を「内部告発」で明らかになった、というのである。具体的には、アメリカが「石油利権」の確保と中東においてアメリカの政策に敵対し目障りな存在になっていたフセイン大統領を排除するために始めた「イラク(侵略)戦争」において、撤退が終了した時点においてアメリカ兵を含む全体の死者が「10万9000人」で、そのうち市民=無辜の民は「6万6081人」だった、というのである。
 アメリカはイラク戦争について、この間一貫して「核兵器」や「生物化学兵器」を持ってている可能性のあるフセイン大統領排除を目的とした「正義の戦争」だと言ってきたわけだが、これは「正義の戦争」だろうが「侵略戦争」だろうが、あるいは「内乱」だろうが、戦争でいつも犠牲になるのは無辜の民=市民(子供や女性・老人を含む)であるということを如実に語っていることであって、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞についての疑義につなげて言えば、「核軍縮」を唱え、イラクからの撤兵を実現したとは言え、アフガン戦争には兵を増派し、ますますその泥沼化を進めている(当然、市民の犠牲者は増加の一途を辿っている)アメリカの最高責任者オバマに対して「ノーベル平和賞」を贈るノーベル賞委員会は、繰り返すが相当「政治」的なのである。「平和」という言葉に僕らはだまされてはいけないのではないか。つまり、「ノーベル平和賞」を他の「化学賞」や「経済賞」、「医学・生物賞」、「文学賞」などと同列に扱ってはいけないのではないか、ということである。
 権力は、常に「情報」を操作し、「真実」を隠す。これは、日本がアジア・太平洋戦争中に行った「情報操作・検閲」や偽りで塗り固められた「大本営発表」を持ち出すまでもなく、権力の常道と言っていいが、そのような権力が張り巡らす「バリア=壁」を打ち破って、情報を「ありのまま」に伝える、という意味で、インターネットはすごい、と素直に思う。ジャーナリズムは、本来的には「反権力」「在野」であることによって意味があるのだと思うが、「ウイキリークス」は、まさにその典型と言っていいかも知れない(もちろん、この「ウイキリークス」が「建前」としては多くのボランティアによって支えられているサイトである、ということを僕が単純に信じていると言うことではない。全てが「カネ」によって支えられている資本主義社会に存在する以上、このサイトに何らかのおカネが入り込んでいないとは、誰にも言えない)。
 それでも、「ウイキリークス」によって与えられたインパクトは、大きい。残念ながら、日本には同種のサイト(人々)はない(僕の知る限り)。自分を「安全地帯」に置いて、他者を貶めたり、誹謗中傷する「匿名者=卑怯者」は山のように存在するのだが……。


もう一度、臨界前核実験について

2010-10-19 09:07:36 | 文学
 ノーベル賞つながりではないが、今朝(19日)の朝日新聞を見ていたら、大江健三郎が月に1回連載している「定義集」で、10月3日行われた「広島の平和思想を伝える」という連続講演のことを伝えたあと、自分と「ヒロシマ」との関わりについて、『ヒロシマ・ノート』(65年)でも触れている重藤原爆病院院長(当時)や金井利博中国新聞論説委員(当時)との関係を軸に書いていた。大江の広島での講演については、東京新聞が少し触れていたが朝日新聞は全く載せておらず、オバマの核軍縮演説などは大きく報道しながら、大江の講演について知らんぷりをする大新聞の核意識とは何か、と思わざるを得なかったが、それは措き、大江が『ヒロシマ・ノート』以来今日まで45年以上ずっと『ヒロシマ・ナガサキ』(原爆問題)に関わり続けてきた「持続力」について、僕らは改めて考えるみる必要があるのではないか、と思わざるを得なかった。
 言葉を換えれば、大江が「定義集」で触れている重藤原爆病院長も金井利博論説委員も、「核=原爆」というものがいかに人間をスポイルし人類に敵対するものであるかを、自分の現場(病院や新聞)を大事にしながら一貫して主張してきた人であるが、そのような人の存在について「文学=言葉」という現場から彼らとの関係について発言し、なおかつ『ピンチランナー調書』(72年)や『治療塔』(90年)、『治療塔惑星』(91年)などの作品において核時代を生きる「僕らの生き方」について追求してきた大江健三郎というノーベル文学賞作家について、現代文学の在り方に関心を持つ人は是非もう一度考えてみてほしい、ということである。
 大江は、少なくともオバマのように一方で「核軍縮」を唱えながら、他方で核開発の一環である「臨界前核実験」を行うなどというアクロバティックなパフォーマンスを行うような人間ではない。大江がノーベル文学賞を受賞した当時、鬼の首を取ったように大江は核兵器を容認する文藝春秋(株)が主催する芥川賞を受賞し、かつ文藝春秋の文芸誌「文学界」に作品を発表しているが、そのようなマヌーバー的な行為はけしからん、といった類の見当はずれとしか思えない批判(例えば、元朝日新聞記者本多勝一のような)が横行したことがあるが、流行に追随せず、おのれの反核思想に殉じているように見える大江の生き方(考え方)、現在のような混迷・混乱の様相を呈している時代だからこそ、貴重なのだと思うが、どうだろうか。
 それにしても、北朝鮮の「核疑惑」や「核実験」について声高に非難したり抗議したりする人が多いのに、アメリカ(オバマ大統領)の「横暴」「二律背反」について、「抗議」の声一つあげない政権与党民主党の政治家たち(だけでなく、一部をのぞく野党の政治家たち)というのは、どのような人たちなのか。今なお福沢諭吉の「脱亜入欧」の精神がそこに働いているとは思わないが、北朝鮮を非難してアメリカについては沈黙を守るというのは、「差別」なのではないか、と思わざるを得ない。
 と、このように書くと、またまた早とちりが「北朝鮮擁護・反日米」と受け取りかねないので言っておくが、僕は「北朝鮮」の「核実験=核開発・核保有」を絶対認めない。つまり、北朝鮮の核開発もあまりかの臨界前核実験も、両方とも「核軍縮→核廃絶」の立場からは絶対認められないということである(こんなことを改めて言わなければならないのは、情けないな、と思う)。
 ただこんな暗澹たる思いに誘う「核状況下の現在」ではあるが、朗報が1つ。林京子さんの「トリニティからトリニティへ」という中編小説がアメリカ在住の尾竹永子さんという舞踏家によって英訳刊行され、尾竹さんが教えている大学生を中心にたくさんのアメリカ人がその英訳本を読んでいる、ということである。

「ノーベル平和賞」と臨界前核実験

2010-10-14 11:35:35 | 近況
 前回、中国の劉暁波氏の「ノーベル平和賞」受賞に関して、日本の佐藤栄作首相(当時)や昨年のオバマ・アメリカ大統領がこの「平和賞」を受賞したことに照らして、この賞が「政治」的であるということを書いたが、昨日(10月3日)に飛び込んできた「アメリカがネバタ州で臨界前核実験を9月に行っていた」というニュースを聞いて、やはりな、と思わざるを得なかった。アメリカは、これまでにも一方で「核拡散防止条約」や「核実験停止条約」などを提案しながら、他方で今回と同じような「臨界前核実験」(という名の立派な核実験)を行い、またほとんど核兵器と変わらない「劣化ウラン弾」などを実践に使用し、多くの放射能被害者などを出してきた。
 僕が「やはりな」と思ったのも、昨年オバマは、チェコの首都プラハで「核軍縮(核廃絶)」に向けて核兵器を使った唯一の国であるアメリカは行動を開始するといった意味の演説を行い、核廃絶を願う多くの人々に歓迎されたが、僕はこれまでのアメリカの核開発(核軍拡)の歴史と一貫して保持し続けてきた「核抑止論」のことを考え、オバマの「核軍縮」を呼びかけるこの演説について懐疑的であったからに他ならない(どこかでそのことを表明したと思うが)。アメリカの産業界が軍産複合体に拠ってある部分保たれている現在の状況がある限り、その産業構造を根本的に変えなければ(軍需産業依存の体質を変えないのであれば)、いくら大統領が「核軍縮」を叫んだとしても、それは「絵に描いた餅」に過ぎないのではないか、というのが僕の基本的なアメリカに対する考え方と言っていい。その意味で、今回のアメリカによる「臨界前核実験」は、まさに「衣の下から鎧が……」と言っていいことで、オバマのプラハでの演説に大きな期待を寄せていた多くの人々を失望させ、同時にロシアを始め核保有国の核実験(臨界前核実験)再開を促すことになるのではないか、と予測させる。
 ことほど左様に「ノーベル平和賞」というのは、「政治」的なのだと僕は思っている。もちろん、ここでまた早とちりする読者がいると困るので、僕は今回の劉暁波氏がこの「平和賞」を受賞したことに反対しているのではない。また、ついでに中国の「人権問題」に関して僕の考えを言っておけば、チベットの「占領」はやはり「不当」なのではないか、ということを含めて「天安門事件」などの「中国の民主化運動」弾圧について、「民主化」という名を借りた「資本主義化の強化」という側面があるのではないかとの疑いも拭えないとは言え、軍隊(国家)が武力を持って民衆の意思表示を圧殺することは、決して許されることではないと思っている。それは、戦前の日本が「治安維持法」他の法律を楯にとって人々の「自由」と「解放」を求める運動を徹底的に弾圧したことにも通じることであり、アメリカがイラクに、あるいはアフガンに軍事介入し人々の生活をめちゃくちゃにしていることと同じだからである。さらに言っておけば、このほど三代目の「世襲」が決まったと言われる北朝鮮の在り方も彼の国の「核武装」を含めて、認められることではないのではないかと思っている。
 それにしても、今朝のニュースで菅民主党政権はアメリカの「臨界前核実験」は核爆発を伴うものではないからアメリカに抗議しないと伝えていたが、被爆国の政権として果たしてこれでいいのか、何じゃこりゃ、とおもった。驚く、というより、「あきれて」しまったのである。これは同じ民主党政権が普天間基地移設問題で「日米合意」を最優先させて辺野古沖への移設を認めてしまったのと、全く同じ構図である。「日米合意」というより、「アメリカ追随」「アメリカへの従属」という情けない政治姿勢、民主党も自民党(みんなの党や公明党、国民新党なども同じ)と変わらないことを証明してしまったが、これからのことを思うと暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
 民主党のこのような体たらく、僕ら国民は今後どうしたらいいのだろうか。この時代・社会の「混迷」「混乱」を象徴しているとはいえ、このような状態を放置しておいたら、「英雄願望」ではないが、ネオ・ファシストがまた大きな声を出すのではないか。それが心配である。

またまた、2週間が……

2010-10-11 09:40:32 | 仕事
 こんなタイトルでしかこの欄の文章が書けないというのは、我ながら情けないと思うのだが、代替200~200字近くを書くこの欄に費やす時間は、1時間から1時間半、書き始めるとそのぐらいの時間はどうということもないのだが、文章を書くためには、それなりの精神的準備が必要で、闇雲に文字を連ねればいいというわけではない。
 というわけで、今回も「弁解」から始まったのだが、ともかくこの2週間は忙しかった。それを「大学教師」としての仕事と「批評家」としての仕事に分けると、
 まず大学教師としては、僕の学部ゼミでは一種の決まりになっている卒論の「下書き」(今回は「第1章」の)を5人分(一人あたり400字詰め原稿用紙30枚平均)を「添削」し、「赤ペン」を入れるという作業があり(提出された論文が真っ赤になるほど書き込む)、それに加えて、今秋の水曜日に行われる「中間発表」のレジュメを点検し、書き直させるということがあった。
 この時期は、卒論だけでなく修士課程の中間発表、修論、博士論文の提出・審査といった「行事」が目白押しで、今年は、中間発表者2名、修論の提出1名、博士論文の審査1名、という具合で、「発展途上」の人の論文を読むというのは、普段僕らが読む研究論文や批評文と違って、代替が「読みづらく」「論理矛盾」などがあって、時間がかかる。得の、僕のところは外国人留学生を多数抱えているので、「日本語」の問題があり、難儀することが多い。それに、僕の勝手な感想になるが、最近の学生は「ジコチュウ」の度合いが進んできたようで、僕を含めて他者の存在が見えないのか、計画やその他日常的にも「自分中心」で、他者の都合など考えない学生が多い。それに加えて、変に「自信過剰」で、プライドも高いようで、応接にとまどうことが多い。
 次に、批評家としての仕事は、「立松和平全小説」第12巻・第13巻の「解説・解題」併せて40枚近くを書き、その他には「アスパラクラブ」の11月号のために準備をしながら、僕自身の次の著書『現代作家論』(仮題--この本は、村上春樹の『1Q84』批判約122枚を中心に、これまで書いた「辻井喬論」「立松和平論」『小檜山博論」「野間宏論』など10編ほどの作家論を集めたもので、「反現代文学論」といった趣のある本である。今年中か来年初めにできあがる予定なので、できあがったら是非1冊手元にご購入ください。『1Q84』批判は、他に類を見ないものだと思います。村上春樹が何故ノーベル文学賞をもらえないか、が解明されていると思います。版元は、アーツアンドクラフツという昔冬樹社という出版社にいた人が設立した小さな出版社です)のために、原稿に手を入れるといった日々を送っていて、ブログにまで気が回らない、というのが実情でした(コメントにだけは、答えたのですが……)。

 ところで、中国のノーベル平和賞受賞者「劉暁波」氏を巡って、日本のマスコミはまたまた『中国の情報操作」とか「自由のない権国家」などと喧しく騒いでいるが、元々この「ノーベル平和賞」は「平和賞」というより「政治賞(ショー)」のようなもので、僕は日本で佐藤栄作首相が受賞したときからそのように思い、他のノーベル賞とは別な意味合いを持つものだと思っていたので、今度の劉氏の受賞についても、「大国」として世界に売り出し中の中国への「県政」の意味合いが強いのではないか、と思っていた。昨年「平和」のために何も後継しておらず、単に「核軍縮」の演説をしただけでオバマ・アメリカ大統領にこの「平和賞」が与えられたのも、おかしかったが(イラクからは撤退したとはいえ、アフガンで派兵を増強し相変わらず「戦争」をしているアメリカという存在は何なのか)、今度のもその「政治的意図」が見え透いている、と僕は思った。もちろん、中国の「情報統制」や「人権抑圧」は許せないが、国家は共産党の一党独裁で、経済は市場経済で、という矛盾した体制でここまできた中国、批判するのは簡単だと思うが、それより前に、僕ら日本だって「言論・思想の自由」が制限されていた時代があり、また現在もそのようなことがあるという事実を、もう一度考えるべきなのではないか、と思う。