今週でようやく3学期の授業が終わり、個別入試(前期)も終わり、3月から「春休み」ということになるのだが、小学校や中学でも2学期制を採用するご時世だというのに、日本の国立大学の中で唯一(?)3学期制を取っている筑波大学の「春休み」は、授業がないとは言え、卒業や新学期に向けた準備などで、結構忙しい。
忙しいと言えば、個人的な事情は別にして、国立大学が法人化されてから、年々大学が忙しくなっているような気がしてならない。余程時間をうまくやりくりしないと、「研究」の時間が取れなくなってきている。同僚と話をしていても、僕と同じように感じている人が多いように思う。政府は「科学立国」を叫び、文科省は「教育の高度化=大学院の充実」を要求しているが、現在のような「忙しさ」の中で、果たして十分に研究成果を上げることができるのか、はなはだ疑問である。
なぜ、大学が考も忙しくなったのか。どうもそこには、金=経済を握った文科省の意向が働いているのだとしか思えないが、事務官とは別に教員たちが「研究者」であることを投げ捨てて「小役人」化し、やたらと会議を開きたがり、「痒いところに手が届く」ような教育をやらせたがる結果、我々教員が忙しくなるという構図になっているように思えてならない。「ほっといてくれ」と言いたくなるようなことが多く、これはたぶん学生たちも感じているのではないか、と思う。
昔は良かった、と言うつもりはないが、少なくとも僕らが学生だった頃は、18歳で大学に入れば学生自身も世間も「大人」扱いしたものであるが、法律云々は別にして、大学主催の新入生歓迎の祝賀会でアルコール類が一切出なくなったことに象徴されるように、「大学」という組織が「退化=幼児化」しているのではないか、と思えてならない。確かに、入学したばかりの学生が急性アルコール中毒で緊急入院(死亡)などということが起これば問題であり、大学生の幼児化は何も大学だけの責任ではなく、社会(世間)全体の幼児化=退化を象徴しているとも言えるのだが、大学という高等教育機関は、もっと学生も教員も「自由」に放っておくべきなのではないか、と思えてならない。「痒いところ」があれば、何とか工夫して自分で掻け、と何故突き放すことができないのか? 余り公表されていないが、大学生が精神を病んで休学したり退学したりするケースが年々増加傾向にあるのも、僕はこの大学の退化=幼児化にその原因の一端があるのではないか、と思っているが、どうだろうか?
それはまた、大学の至る所が「官僚化」「形式化」しているのではないか、と思えてならないこととも関係あるかも知れない。。例え「象牙の塔」と罵られようが、「知」の集積場だった大学が、社会に対する「批判=文明批評」を忘れてしまって、目先の利益(効果)しか考えない組織に化してしまっているとしたら、それこそ由々しきことなのではないか。「知」が企業に擦り寄ったり、国家に擦り寄ったりして良いことなどあるはずがない。そのことは、洋の東西を問わず、歴史が如実に語っていることである。
誰かの台詞ではないが、「もっと自由を!」というのは、今や大学人の切実な願いになっていると言っても過言ではない。
忙しいと言えば、個人的な事情は別にして、国立大学が法人化されてから、年々大学が忙しくなっているような気がしてならない。余程時間をうまくやりくりしないと、「研究」の時間が取れなくなってきている。同僚と話をしていても、僕と同じように感じている人が多いように思う。政府は「科学立国」を叫び、文科省は「教育の高度化=大学院の充実」を要求しているが、現在のような「忙しさ」の中で、果たして十分に研究成果を上げることができるのか、はなはだ疑問である。
なぜ、大学が考も忙しくなったのか。どうもそこには、金=経済を握った文科省の意向が働いているのだとしか思えないが、事務官とは別に教員たちが「研究者」であることを投げ捨てて「小役人」化し、やたらと会議を開きたがり、「痒いところに手が届く」ような教育をやらせたがる結果、我々教員が忙しくなるという構図になっているように思えてならない。「ほっといてくれ」と言いたくなるようなことが多く、これはたぶん学生たちも感じているのではないか、と思う。
昔は良かった、と言うつもりはないが、少なくとも僕らが学生だった頃は、18歳で大学に入れば学生自身も世間も「大人」扱いしたものであるが、法律云々は別にして、大学主催の新入生歓迎の祝賀会でアルコール類が一切出なくなったことに象徴されるように、「大学」という組織が「退化=幼児化」しているのではないか、と思えてならない。確かに、入学したばかりの学生が急性アルコール中毒で緊急入院(死亡)などということが起これば問題であり、大学生の幼児化は何も大学だけの責任ではなく、社会(世間)全体の幼児化=退化を象徴しているとも言えるのだが、大学という高等教育機関は、もっと学生も教員も「自由」に放っておくべきなのではないか、と思えてならない。「痒いところ」があれば、何とか工夫して自分で掻け、と何故突き放すことができないのか? 余り公表されていないが、大学生が精神を病んで休学したり退学したりするケースが年々増加傾向にあるのも、僕はこの大学の退化=幼児化にその原因の一端があるのではないか、と思っているが、どうだろうか?
それはまた、大学の至る所が「官僚化」「形式化」しているのではないか、と思えてならないこととも関係あるかも知れない。。例え「象牙の塔」と罵られようが、「知」の集積場だった大学が、社会に対する「批判=文明批評」を忘れてしまって、目先の利益(効果)しか考えない組織に化してしまっているとしたら、それこそ由々しきことなのではないか。「知」が企業に擦り寄ったり、国家に擦り寄ったりして良いことなどあるはずがない。そのことは、洋の東西を問わず、歴史が如実に語っていることである。
誰かの台詞ではないが、「もっと自由を!」というのは、今や大学人の切実な願いになっていると言っても過言ではない。