黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

批評の難しさ

2009-01-19 10:30:45 | 文学
 17日に新しい芥川賞が決まったので、受賞作「ポトスライムの舟」の感想を書いたら、「新浜」さんという人から、いくつかの「疑問・異論」が寄せられた。そのことについてについての「やり取り」は、コメント欄を見ていただくとして、そこで問題視された僕の「文学観」について、最新の「書評」をお知らせすることで理解をしていただく、という方法もあるのではないか、と思い、短い文章であるが、先の「感想」と似た形になっているので、以下に転載することにする。僕の「文学観」の実践編と考えてくれると嬉しい。


生命と自然への讃歌
―立松和平の新作『日光』を読む―(「下野新聞」2008年12月16日)

 立松和平の新作『日光』(勉誠出版刊)を読む。この長編は、昨年九月に『二荒(ふたら』と題して新潮社から刊行されながら、今年の二月に地元の著作家から「自著の一部と類似した個所がある」という指摘を受け、関係者が協議を重ねた結果「絶版」としたものを全面的に「書き直した」作品である。
『二荒』は、絶版したからという意味だけでなく、「不幸」な作品であった。刊行が泉鏡花賞と親鸞賞を受賞した『道元禅師』(上下 昨年七月 東京書籍刊)から近かったということもあり、この大作の影に隠れてしまったということがあったからに他ならない。立松氏によれば、『二荒』は何年も前から構想を練り執筆にも十分な時間をかけた作品で、手応えも確かであったという。だからこそ『二荒』の絶版を公表した際に、立松氏は「書き直して再刊したい」とコメントしたものと思われる。
 では、旧作(『二荒』)と、改作されタイトルも「日光」と改められた新作とでは、どこがどう変わり、変わらないものは何であったのか。まず、変わらなかったのは、当然のことだが、「生命」や「自然」への讃歌、および「人間を超えた存在」への畏れといったテーマであり、八世紀中頃における勝道上人の「二荒山」での仏道修行と大正末から昭和初期にかけて本格化した「中禅寺湖」開発の具体、及び戦後における中禅寺湖の湖畔に生きる若者の「恋愛」といった作品の内容である。そして変わったのは、小説にとって最も重要なファクターの一つである「構成」である。旧作『二荒』には、各章にその時代を説明するための作品とは全く関係ない「プロローグ」めいたものが付されていたが、新作ではそれが全て削除された。次に、『二荒』は、戦後の純愛物語を描いた第一章、中禅寺湖が第一級のリゾート地となるきっかけを作った昭和初期の「日光アングリング倶楽部」について書かれた第二章、第三章の後半に、それぞれ勝道上人の二荒山での修行場面が置かれる、という複雑な構成になっていたが、新作では勝道上人の修行―「日光アングリング倶楽部」の話―戦後の純愛、と三つの物語が年代順に置かれるようになった。もちろん、地元の著作者から「自著に似ている」と指摘された部分は全面的に削除された。
 これらの変化が作品に何をもたらしたか。まず読みやすくなり、そのことと相俟って「生(死)とは何か」「自然との共生」「超越的なものへの畏敬」といったこの長編のテーマ、つまり最近の作者が考え続けていることが、より鮮明に読者の元に届くようになった。それ故に、『二荒』から『日光』への改作は、結果として「災い転じて福となす」ものであり、『途方にくれて』(一九七〇年)から約四〇年になる立松の作家生活を記念して、来年六月からの刊行される『立松和平全小説』(全二五巻予定)に花を添える作品になった、とも言える。

新芥川賞作品「ポトスライムの舟」を読む

2009-01-17 14:54:34 | 文学
 悩まされていた「歯痛」の方は、昨日友人の歯医者の所に行って、上下の奥歯を2,3本削ってもらったら、大部痛みも軽減し、明日辺りから日常に復帰できるようになるのではないかと思えるようになった。それにしても、友人の話では、年を取って疲労すると「歯が浮く」ようになって、噛み合わせが狂い、それで歯痛が起こるのだという。それに歯周病が重なる老化現象の一つだとも言われ、気持だけは全く「老い」を感じないということもあって、少々ショックであった。
 そんなこともあって、昨日発表された芥川賞作品を読んでみた。「ポトスライムの舟」(津村記久子 「群像」2008年11月号)というその作品、そんなに長くないのですぐに読めてしまったが、結論的に感想を言うと、「何でこれが芥川賞なの?」というものであった。大学を卒業して「正社員」として4年間勤めた後、上司や同僚から「嫌がらせ」のようなものを受け(主人公の「推測」に基づく)会社を辞めた後、今問題になっている契約社員になった30歳間近な(作品中で30歳になる)女性の、水だけで育つ「ポトスライム」と共にあるような日常を「淡々と」描いたこの作品、繰り返すが何故この作品が芥川賞を受賞したのか、正直言って僕には分からなかった。
 彼女は、8歳の時父親と離婚した母親と築50年ほどの雨漏りのするような家に住んでいるが、化粧品の瓶詰め工場での仕事の他に、大学時代の友人が開いているカフェで夜アルバイトし、家に帰ってもデータ入力の内職を行い、また土曜日にはパソコン教室の講師もしている。何のためにこんなに働いているのか、契約社員の手取りが13万円余り、ということもあるが、現在は163万円かかる「世界1周クルーズ」に参加したいという「ささやかな夢」を実現するため、ということになっている。
 友人の離婚話があり、「幸せ」な家庭生活を送っている大学の同級生との絡みがあり、風邪をこじらせて10日ほど寝込むというような話があって物語は進んでいくのであるが、確かにこの作品には小林多喜二の「蟹工船」が読まれるような、あるいは「派遣切り」された労働者がためらいなく共産党に入党する(「朝日新聞」の報道による)ような現在の労働状況を反映している、と言えなくはない部分もある。しかし、4つも仕事を同時に行わなければ生きていけないような状況に対して、この小説の主人公は「怒る」ことも、「嘆く」ことも、はたまた「絶望」することもなく、そっくりそのまま受け入れてしまっている。当世の若者(女性)はそんなもんだよ、という声が聞こえてきそうであるが、何もかも状況を受け入れる生きる生き方を描いた作品、これが現代文学を代表する作品であるとしたら、現代文学状況は津村記久子氏一人の問題(責任)ではなく、文学状況そのものがかなり疲弊している、と言っていいのではないか、と思えてならない。
 ここ何年か、青山七重、楊逸、川上未映子、と芥川賞は女性優位に展開しているようであるが、いずれの作風も「日常・生活」に自閉した世界を描いているもので、「世界」や「社会」と切り結ばない、という点に特徴を持っているようで、こんなことで現代文学は時代のニーズに応えることができるのか、と思わざるを得ない。この世の中の若い表現者(作家)たちから、この社会や世界の在り方に対する「怒り」や「苛立ち」、「怨念」、「悲しみ」などといった感情が消失してしまったのだろうか。
 僕も無力だが、このような文章を書いている今も、パレスチナ自治区ガザへのイスラエルの攻撃は続いている。死者も1000人を超えた。このような事態に対して「憤り」を感じ、そのことを裡に潜めた作品を書くことこそ、現代作家の使命なのではないだろうか。「炭坑のカナリア」(カート・ボネガット)こそ作家の役割だと思っている僕にしてみれば、この頃の新人作家たちには歯がゆさしか感じられない。これも年齢のせいだろうか。

今は「時」を待つべきか?

2009-01-16 09:14:08 | 近況
 暮れから正月にかけて悩まされていた何十年ぶりかの歯痛が続いている。今日、明日にでも歯医者に行こうと思っているのだが、近所で開業している古い友人の歯科医の所に正月明け早々行ったところ、ものすごく混雑していて、痛い個所(虫歯でなく、たぶん歯槽膿漏から来る痛み)をざっと見て、「急ぐことはない。後でゆっくり見るから今日は薬だけ出しておく」と言われたということもあって、混雑具合によって日にちを決めようと思っている。
 それにしても、これまでにもいろいろ聞いていたが、「歯痛」がこれほどまでに何事に対しても「意欲」を減退させるものか、この1週間、改めて認識せざるを得なかった。四六時中ずっと痛いのなら何らかの対処も考えたのだが、何の前触れもなく、食事をしている途中やコーヒーを飲んでいるとき、あるいは車の運転中に激痛が襲うのでは、もともと歯医者など行きたくないので、我慢できなくなると件の友人がくれた鎮痛剤を飲むしかなく、速効の場合と全く効かない場合があって、正直言って難儀した。
 そんなこんながあって、気が滅入っているときに、昨日さらに追い打ちをかけるようにショックなことがあった。それは、昨日の学部一年生対象の授業(知識人と大衆の違い、知識人の役割、などについて検討する内容)で、驚くべき不可解な事件として報じられている中央大学理工学部教授刺殺事件について話が及んだとき、ある学生が「とっさに先生(僕のこと)のことを思った」と発言したことに関わって、である。どういうことか、とその発言をした学生に聞くと、「先生は、ストレートにものを言うから、恨みを買う可能性があるのではないか、と思っていたので」と答えてくれたのだが、どうも話の流れから言うと、大学の教師は元より小中高の「教師」が学生(生徒)を注意したりすることが少なくなっていて、その理由は注意された学生(生徒)が「反省」するのではなく「逆ギレ」するケースが多いからであって、そのために教師の側も学生・生徒の側に何か「悪いこと」があっても「知らんぷり」をする傾向が強くなっている、ということらしい。そのような現状を経験してきた件の学生からすると、どうも僕(黒古)は違うし、体制批判なども平気で行うので心配していた、というのである。――因みに、この授業で展開していた「知識人の役割」で、僕は「知識人は、言論の自由を武器に、自由に批判先進を発揮する存在である」と講義していたので、このような議論になったのかも知れない。
 そこで僕が気になったのは、こんな不況時だからなのか(そうではなく、景気がいいと言われていた時代でもそうだったと僕は思うのだが)、みんな危険を察知した亀のように「甲羅の中に首を引っ込めている」ことについてである。前にも、別な院生に「先生、ブログでこんな発言して大丈夫なんですか」言われたことがあったが、「匿名性」に隠れて執拗に自分と意見を異にする人間を攻撃するネット社会の「負の部分」と併せて考えると、何事も御身大事とばかりに「唇寒し」状況を各個人に強いるこの社会の在り方、やはりどこか「異常」なのではないか、と思わざるを得ない。このことは、巷でこの時代を反映してか、プロレタリア文学の「蟹工船」(小林多喜二)が読まれているというのに、大学ではそのような文学状況など素知らぬ顔で、「左翼」拒否を公言する教師たちが罷り通っている状況と通底しているのかも知れない。果たしてそれで大学が「学問の府」などと言えるのか、というのが僕の持論だが、「学問の府」を信じている人たちは、大学は暗黙の内に進めている(と僕には思える)「左翼」排除の状況について、どう考えるのだろうか。
 なお、中大の先生がどのような理由で刺殺されたのか分からないが、刺殺された場所が大学構内のトイレということを考えると、「通り魔」ということはなく、大学(あるいは件の教授)に何らかの関係を持っている人による凶行だろう。だとすると、ますます大学における教育や研究が「人間を育てる」という本来の役割を忘れ、「歪み」、「萎縮」していくのではないだろうか。件の殺された教授は、「優秀」で、何ら問題を起こすような先生ではなかったという。そのような「良い人」が殺される世の中、それが「金儲け主義」一本で突っ走ってきた結果の一つであったとしたら、何とも悲しい。

停滞と沈鬱

2009-01-10 09:03:37 | 仕事
 新年早々だというのに、どうも景気のいい話はどこにも転がっていないようで、そんなに長くもない冬休みを経て授業やゼミが再開されたのだが、大学のどこもかしこも「どろーん」とした澱んだ空気に満たされている感じがしてならなかった。「停滞」感しかもたらさない昨今の社会(政治)状況を反映した結果なのか、それとも冬休み疲れなのか、判断に迷うところだが、学生(院生)たちの顔を見ていると、僕から言わせてもらうとそこに漂っているのは「沈鬱」としか言いようのないもので、「溌剌さ」とは全く異なる表情であり、会う学生会う学生が皆、大江健三郎の作品タイトルではないが「憂い顔」ばかりで、当方も全く彼らから元気をもらうことができず、新年とはこんなものか、と思いながら昨日帰路についたという次第である。
 そして今朝(10日)配達された新聞を読んでいて、面白い記事に出会った。それは、「東京新聞」がウリの一つにしている文化欄の「大波小波」という匿名批評の欄に書いてあったことなのだが、麻生首相の「漫画好き」に関連して、彼が漢字を余り知らず、国会演説や答弁で漢字の読み方を何度も間違ったことから、「漫画は頭の悪い人や強要のない人が読むもので、漫画ばかり読んでいるとバカになる」というようなマスコミ・ジャーナリズムの言説に対して、果たしてそのような「俗説」は正しいか、と疑問を投げかけた後、「何故漫画界からそのような漫画批判(批難)に対して反論がなされないのか」という疑義で締め括られたものである。
 これはまさに「正当(正統)」な疑問であり、僕が高校生の時に創刊された「少年サンデー」と「少年マガジン」以来(というより、戦後もの心ついたときから身のまわりにあった「面白ブック」や「少年クラブ」、「少年」、「冒険王」等の漫画雑誌以来と言ってもいい)、ずっと長く漫画と付き合って来た僕としては、今度のように「特別給付金」に関する国会答弁が迷走している麻生首相の漫画好きがきっかけで、漫画という「表現」がこのように貶められていることには、麻生擁護ということでは全くなく、「大波小波」の言うとおりだな、と思わざるを得ない。
 このように書くと、またぞろ「お前はどうなのだ?」とツッコミを入れられることを覚悟で言えば、大所高所から(グローバルな視点から、と言い換えてもいい)当事者が本質的な議論(批判)を展開せず、議論=批判が起こるのは、「匿名性」に支えられているという意味で、本質的に「内閉・自閉」していると思っているネット社会(そのもの自体は、巨大な情報網なのに)のような場でしかない、というのは、どこか現代の社会全体が「歪んでいる」からではないか。もちろん、このような僕のネット社会(情報化社会)の隆盛がもたらしたものに対する意見は、来るべき社会の予兆で、何ら問題を胎んでいるわけではない、という考え方も成り立つだろうということを前提しての言い草なのだが。
 そう言えば、新年早々の授業で、確かバイトしなければ学生生活を送れないような厳しい状況が続いていることに対して、何故学生は怒らないのだろうか、おとなしすぎないか、と言ったところ、学生から「ネットには怒りの文章が充満しています」との返事が返ってきた。確かに、僕の少ない経験からも、少し前のことになるが、自民党の総裁選で麻生さんが秋葉原で熱狂的な若者に歓迎されたという報道とネット上に横溢する「怒り」の言葉とのギャップに戸惑ったことがあるのを思い出した。「匿名」によって、とりあえず自らの安全を確保し、その上で他者を「批判(誹謗中傷も含む)」する。それがこの社会の「歪み」を象徴しているのではないかというのは、例えば「学校裏サイト」と呼ばれるものが何をもたらしているかを考えれば、一目瞭然だろう。

 なお、ここまで書いてきて思い出したのだが、昨秋僕のブログが「炎上」したそもそもの発端である栗原裕一郎氏の「<盗作>の文学史」に対する「感想(疑問)」を陳べる原因の一つに、井伏鱒二の「『黒い雨』盗作疑惑」問題というのがあったのだが、この問題の発端になった広島在住の歌人豊田清史による「資料」(「黒い雨」やその原型となった「重松日記」等々)の「改竄・捏造」、あるいは氏を批判する者への「誹謗中傷」「罵詈雑言」、等々に対する広島の地における多くの文学関係者による批判が続いていることである。僕が栗原氏の著作に「不満」をもたらしたのも、そのような豊田清史批判について十分にフォローしていないのではないか、と思ったからであり、他にもいくつかの点で不満があっても全体としては刺激的な書物である、という前提があったということを、この際だから付け加えておきたいと思う。

2009年は?

2009-01-05 09:48:20 | 近況
 この歳になると、正月だからと言って何も特別なことをするわけでもなく、例年通り元旦は眠くなるまで本を読み、「村上龍論」の続きを書き、2日、3日、4日と年始客との付き合いの合間に、同じようなことをやって過ごしたのだが、大晦日の日に「年越しそば」を5軒分(約3キロ)打ち、2日にも姉たちのために約1.5キロのそばを打ったのが響いたのか、昨年末からじんわりと痛みが増していた奥歯が本格的に痛み出し、症状から見て「歯槽膿漏」の悪化だと分かったのだが、何せ4日まで友人の歯科医院はもちろん近所の歯科医院も休みという状態の中で、24時間続く疼痛に悩まされ続けた。
 こんな目にあった冬休みは久しぶりなのだが、休みとはいえ、やらなければならないことは山ほど有り、1月中には「復刊第1号」が刊行される予定の『月光』―歌人の福島泰樹が編集長を務める短歌を中心とした文芸総合誌、季刊。立松和平や僕も編集委員として参加することになっている。価格などもまだ決定していないのだが、250ページ余りの本格的な雑誌になる予定。版元は、勉誠出版、小説や詩、短歌、評論を公募しており、それぞれ立松和平(小説)や福島泰樹(短歌)、僕(評論)などの編集委員が選者となって、優秀な作品は掲載することになっている。なお、『月光』は定期購読者を募集しており、定期購読者には特典が与えられることになっている。詳しくは、また後ほどお知らせしますが、『月光』存続のために、是非多くの人に定期購読者になって欲しいと思っている。―に寄せた文章「文学・文化時評」(25枚)の手直しをし、「村上龍論」を書き続けた。
 他に、「下書き」として送られてきた卒論の最終章の添削を行い、授業再開に向けて準備を始めたのだが、卒論ゼミが本格化した3年生たちの就職活動のことを思うと、僕に何ができるというわけではないのだが、気が重くなってしまう。急激に悪化した経済状況に対して、かけ声ばかりで有効な手だてを施さない政府に対して、誰もが「倦んだ」ような状況だと思い、ただひたすら「おのれ一個」のことしか考えない風潮が蔓延している現在、どうしたら窮境を突破できるのか。僕自身に関しても、「怒り」が沈殿して外に向かってほとばしっていかないのは何故なのか、という疑問は沸いてきても、その疑問すらもいつの間にか「沈静化」してしまう現況に、戸惑いしか感じられない不思議。
 それは、250通余り届いた年賀状の「挨拶」や「近況報告」にも反映しているようで、(新年の挨拶を運ぶ年賀状だからかも知れないが)現況に対する「怒り」がどこからも伝わってこないことと通底していることなのかも知れない―もっとも我が家の年賀状における印刷した文面も例年通りの「近況報告」で、一部の人には「手書き」で現況に対する「怒り」や「不満」を陳べたけれど―。ともかく、何もかも「停滞」しているようにしか見えない現在、「春の曙」はいつ訪れるのだろうか。
 なお、「ブログ炎上」の因となった文学作品に関する「盗用・盗作」問題に関して、僕自身の発言の背景には畏友立松和平の『二荒』(新潮社刊)絶版宣言事件(昨年6月末)があったのだが、「盗用・盗作」を主張した郷土史家の登用されたと言われる著作を取り寄せ、立松の作品と照合した結果、何故これほどのことが大袈裟に「盗用・盗作」と騒がれたのか、と疑問に思わざるを得なかったので、2著の詳細な「対照表」を作って公表することにした。『月光』に発表する「文学・文化時評」にそれは書かれているが、それとは別に絶版宣言の際に立松が「書き直して再発行したい」と言っていたことは昨年暮れに実現した。書き直された作品は、タイトルも『日光』と変えられ、「酷似している」と言われた個所は全面的に削除され、構成も大幅に変更されたものになり、その結果、読みやすく内容の濃い小説になった。「生(死)」とは何か、という大問題を背景に、躍動する「生命」や峻烈な「自然」への讃歌をテーマとしたこの『日光』の良さを多くの人に知って欲しい、と今では思っている。
 しかし、この立松の『二荒』事件に関してもそうであったが、何故こうもネット上では「マスコミ報道」だけを鵜呑みにして、ろくに対象となった作品や文章などを読まずに、(匿名で)勝手に誹謗・中傷している文章が横行しているのか、ネット社会(情報化社会)の在り方について、つくづく考えさせられた。

謹賀新年

2009-01-01 07:55:22 | 近況
 明けましておめでとうございます。

 1月1日、2009年が明けました。皆さん、お元気ですか。
 さて、昨年9月20日に記事を書いて以来、3ヶ月余り、2つの理由でこのブログを主観的には閉じていましたが、今日から「再開」します。
 理由は、ブログを「閉じる」原因の1つであった「多忙」が幾分か解消され、毎日ではないが「日記=ブログ」を書ける余裕がうまれてきたからです。それと、これは未だ自分の内部では十分に処理できているとは思わないのですが、「ブログ」というメディアを中心としたネット社会(情報化社会)に対して、僕なりの考えがある程度固まってきたということがあります―このことについては、「捕らぬ狸の皮算用」的な言い方しかできませんが、今年中に書き上げなければならない「ネット上の文学」(仮題)の中で言及したいと考えています―。
 そこで、「再開」するに当たって、もう一度「原則」を確認しておきたいと思います。まず、このブログの主宰者は、もちろん僕なので、僕は僕の意見や考え方を自由に書くが、その僕の意見や考え方に対する「コメント」に対しては、「悪意」が感じられ、かつ「匿名」の場合、「応接」しないことにします。僕が昨年の3ヶ月余りの「沈黙中」に学んだことは、どのような「善意」も、「獲物」を捜しているネット小僧たちには通用せず、応接するほど「つけあがって」こちらが消耗するのを待ち、「沈黙」すれば(おそらく)密かに自分は「勝利した」と思って祝杯でも挙げているのではないか、ということです。彼らに「真摯さ」というものが感じられない以上、僕が沈黙しているときに「無視すべし」とアドバイスしてくれた何人かの知り合いに従って、まともに相手にする必要がないのではないか、と僕は思っています。
 また、しかし、このブログを志を同じくする者の「梁山泊」のようなものにしたいという思いは変わらないので、是非ともこのブログが散在する者の「意見交換」の場になればいいな、と思っています。この場合、それぞれ事情のある人もいると思いますので、「匿名」でも可です。ネット小僧たちは、「無原則だ」と言うかも知れませんが、何を言われようと、その点に関しては僕が勝手に判断します(何しろ、このブログの主宰者は、僕なのですから)。
 以上の2点を「原則」として、「再開」しますが、今日は年頭なので、今年の僕の仕事についてお知らせします。
 まず、刊行物ですが、
①「増補 三浦綾子論―生きることと愛することの意味」(柏艪社)が1月中に(もしかしたら、2月に)出ます。これは、1994年に小学館から刊行されたものに、その後に雑誌などに書いた「三浦綾子」関係の文章を130枚(400字詰め)ほど加えて成ったものです。装幀は司修さんにお願いし、素敵な本になりました。非キリスト者が書いた「三浦綾子論」としてはかなり有効な論が展開していると自負しています。
②「村上龍論」(勉誠出版)が今年の上半期に出ます(現在執筆中で、秋から忙しかった最大の理由です。まだ書き終わりません。1月中には終わりたいと思っているのですが)。内容については、全く新しい村上龍像が提出できるのではないかと思っています。
③「書評集」(同)、ほとんど準備は整っているのですが、他の著作者の「書評集」と一緒に出すので、他の人待ちになっています。300冊余りの本の書評が載ります。
④「立松和平全小説」(30巻 責任編集)の全巻解説を書きます。刊行は連休明けぐらいになりますが、どのような形で刊行するか、版元との詰めが残っています。毎月1巻、3年ぐらい掛けて出すか、第1期10冊、第2期10冊、という具合に出すか、思案中です。
⑤「ネット上の文学」(仮題)、先に書いたものと同じですが、いつ着手できるか、夏休みになるかも知れません。
 以上ですが、よろしくお願いいたします。
 改めて、読者のみなさん、よいお年をお迎えください。