予想通り、と言ってしまえば身も蓋もないが、大飯原発3号機・4号機の「再稼働」がいよいよ決まりそうである。原子力規制庁設置法案が国会審議入りし、昨日細野剛志原発事故担当相が列席した「関西広域連合」がこれまで主張してきた「再稼働反対」の看板を下ろし、「(再稼働が)暫定的であることを前提に認める」という方向に転じたことから、野田首相が近々「再稼働」にGOサインを出すだろうということであるが、よく分からないのは、何故野田首相はこれほどまでに「原発再稼働」に執心しているのか(こだわるのか)、ということである。
消費増税に関しても同じなのだが、国民の多く(過半数を超える)が「反対」しているにもかかわらず、この「ドジョウ」を自称する総理大臣は、何が何でも消費税増税と同じように、原発を再稼働させたいらしい。「ドジョウ」と言えば、今ではある種の高級料理の材料であるが、昔はウナギに対抗した庶民の食べ物として遇されてきたものである。ところが、平成の「ドジョウ」は、どうも庶民の味方ではなく、経済界(大企業)の力強い応援団のようで、経済界の要請には何でも「ハイハイ」と聞く、経済界にとっては最も好ましい首相に成り下がっているようで、何とも気色が悪い。
特に原発再稼働に関して言えば、「フクシマ」の原因究明も十分ではなく、福嶋第1原発の廃炉はどのようなタイム・テーブルで行うのか、避難民を今後どうするのか、放射能汚染(除洗)は果たして可能なのか、農産物・海産物の放射能汚染についてどう処置するのか、等々、全てが未解決状態にあるというのに、「盛夏の電力不足」という本当か嘘か分からない理由を金科玉条の如く持ち出して、何故原発の再稼働を急ぐのか。ましてや、「フクシマ」によって白日の下に晒されることになった「高濃度廃棄物の処理」問題についても、全くどのような将来像を描けばいいのか分からない状態、つまり刹那主義的にしか原発に対応していない状況下で、何故原発の再稼働を認めようとするのか。ワケが分からないというのは、野田政権の現在のような原発政策について言うのだろうが、それにしても野田民主党政権のやり方は「ひどい」の一言に尽きる。
今日(31日)の東京新聞は、1面に「大飯再稼働 政府、最終決定へ」「関西連合が事実上容認」の大見出しで野田政権の原発再稼働への動きを伝えながら、2面のトップで「ドイツ 太陽光、過去最高2200万キロワット 瞬間で原発20基分発電」の記事を載せていた。周知のように、ドイツのメルケル政権は「フクシマ」の後、いち早く「脱原発」を宣言し、再生可能(自然)エネルギーによる電力確保に国を挙げて舵を切ったが、この記事を見て分かることは、「やろうと思えばできる」ということである。大企業(電力会社)の言いなりに「再生可能エネルギーは不安定だ」という理由で、電力会社の既得権を守り、再生可能エネルギーの開発と増進を阻む民主党政権(野党第1党の自民党だって同じ穴のムジナでしかないだろう)、例えば原発を稼働させる経費だけを考えても、あるいは原発事故が起こった時の保障などを考えた場合、どう考えたって再生可能エネルギーの開発や増進錦を注ぎ込んだ方が得策だと思うのに、どうして再生可能エネルギーに対して十分に配慮しないのか。これも、ワケが分からない。
このワケの分からなさは、関西広域連合の原発再稼働容認にも通じる。関西広域連合の「反原発」姿勢は、周知のように橋下徹率いる大阪維新の会がリードしてきたものであるが、何故ここに来て「大飯原発3・4号機再稼働」を容認したのか、「安全管理」や「事故対応」などについては、これまでと全く変わっていないのに、今度の再稼働は「暫定的な安全基準の下で暫定的に運転するもの」という、子供だましのような(言葉遊びのような)、「暫定的運転」と「本格的運転」にはどのような違いがあるのかも問わず、再稼働を容認してしまう。
このような一連の大飯原発3・4号機の再稼働問題を眺めていて気付くのは、如何にこの国の経済はもちろん、政治や文化(暮らし方)、社会の在り方が、原発という「魔物」に掣肘されているか、ということである。そうであるが故に、「脱原発」「反原発」に「正義」があると思うのだが、俳優の山本太郎が反原発を叫び運動にのめり込んだ途端仕事が激減したというこの社会の在り方、あるいは「事実(歴史認識)」に基づいた僕の「南京大虐殺」に対する考えに対して、「差別用語」という認識もないままに「キチガイ左翼撲滅」などとコメントを寄せる、いわゆる「ネット右翼」と思われる輩が跋扈する社会、だんだん息苦しくなっているような気がしてならない。
「武漢・南京」については、もう1回「都市と農村」という内容で書くつもりでいたのですが、それはまた明日以降にしたいと思っています。
消費増税に関しても同じなのだが、国民の多く(過半数を超える)が「反対」しているにもかかわらず、この「ドジョウ」を自称する総理大臣は、何が何でも消費税増税と同じように、原発を再稼働させたいらしい。「ドジョウ」と言えば、今ではある種の高級料理の材料であるが、昔はウナギに対抗した庶民の食べ物として遇されてきたものである。ところが、平成の「ドジョウ」は、どうも庶民の味方ではなく、経済界(大企業)の力強い応援団のようで、経済界の要請には何でも「ハイハイ」と聞く、経済界にとっては最も好ましい首相に成り下がっているようで、何とも気色が悪い。
特に原発再稼働に関して言えば、「フクシマ」の原因究明も十分ではなく、福嶋第1原発の廃炉はどのようなタイム・テーブルで行うのか、避難民を今後どうするのか、放射能汚染(除洗)は果たして可能なのか、農産物・海産物の放射能汚染についてどう処置するのか、等々、全てが未解決状態にあるというのに、「盛夏の電力不足」という本当か嘘か分からない理由を金科玉条の如く持ち出して、何故原発の再稼働を急ぐのか。ましてや、「フクシマ」によって白日の下に晒されることになった「高濃度廃棄物の処理」問題についても、全くどのような将来像を描けばいいのか分からない状態、つまり刹那主義的にしか原発に対応していない状況下で、何故原発の再稼働を認めようとするのか。ワケが分からないというのは、野田政権の現在のような原発政策について言うのだろうが、それにしても野田民主党政権のやり方は「ひどい」の一言に尽きる。
今日(31日)の東京新聞は、1面に「大飯再稼働 政府、最終決定へ」「関西連合が事実上容認」の大見出しで野田政権の原発再稼働への動きを伝えながら、2面のトップで「ドイツ 太陽光、過去最高2200万キロワット 瞬間で原発20基分発電」の記事を載せていた。周知のように、ドイツのメルケル政権は「フクシマ」の後、いち早く「脱原発」を宣言し、再生可能(自然)エネルギーによる電力確保に国を挙げて舵を切ったが、この記事を見て分かることは、「やろうと思えばできる」ということである。大企業(電力会社)の言いなりに「再生可能エネルギーは不安定だ」という理由で、電力会社の既得権を守り、再生可能エネルギーの開発と増進を阻む民主党政権(野党第1党の自民党だって同じ穴のムジナでしかないだろう)、例えば原発を稼働させる経費だけを考えても、あるいは原発事故が起こった時の保障などを考えた場合、どう考えたって再生可能エネルギーの開発や増進錦を注ぎ込んだ方が得策だと思うのに、どうして再生可能エネルギーに対して十分に配慮しないのか。これも、ワケが分からない。
このワケの分からなさは、関西広域連合の原発再稼働容認にも通じる。関西広域連合の「反原発」姿勢は、周知のように橋下徹率いる大阪維新の会がリードしてきたものであるが、何故ここに来て「大飯原発3・4号機再稼働」を容認したのか、「安全管理」や「事故対応」などについては、これまでと全く変わっていないのに、今度の再稼働は「暫定的な安全基準の下で暫定的に運転するもの」という、子供だましのような(言葉遊びのような)、「暫定的運転」と「本格的運転」にはどのような違いがあるのかも問わず、再稼働を容認してしまう。
このような一連の大飯原発3・4号機の再稼働問題を眺めていて気付くのは、如何にこの国の経済はもちろん、政治や文化(暮らし方)、社会の在り方が、原発という「魔物」に掣肘されているか、ということである。そうであるが故に、「脱原発」「反原発」に「正義」があると思うのだが、俳優の山本太郎が反原発を叫び運動にのめり込んだ途端仕事が激減したというこの社会の在り方、あるいは「事実(歴史認識)」に基づいた僕の「南京大虐殺」に対する考えに対して、「差別用語」という認識もないままに「キチガイ左翼撲滅」などとコメントを寄せる、いわゆる「ネット右翼」と思われる輩が跋扈する社会、だんだん息苦しくなっているような気がしてならない。
「武漢・南京」については、もう1回「都市と農村」という内容で書くつもりでいたのですが、それはまた明日以降にしたいと思っています。