黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

やっぱり、な。――本当の「意図」は?

2012-05-31 08:35:19 | 仕事
 予想通り、と言ってしまえば身も蓋もないが、大飯原発3号機・4号機の「再稼働」がいよいよ決まりそうである。原子力規制庁設置法案が国会審議入りし、昨日細野剛志原発事故担当相が列席した「関西広域連合」がこれまで主張してきた「再稼働反対」の看板を下ろし、「(再稼働が)暫定的であることを前提に認める」という方向に転じたことから、野田首相が近々「再稼働」にGOサインを出すだろうということであるが、よく分からないのは、何故野田首相はこれほどまでに「原発再稼働」に執心しているのか(こだわるのか)、ということである。
 消費増税に関しても同じなのだが、国民の多く(過半数を超える)が「反対」しているにもかかわらず、この「ドジョウ」を自称する総理大臣は、何が何でも消費税増税と同じように、原発を再稼働させたいらしい。「ドジョウ」と言えば、今ではある種の高級料理の材料であるが、昔はウナギに対抗した庶民の食べ物として遇されてきたものである。ところが、平成の「ドジョウ」は、どうも庶民の味方ではなく、経済界(大企業)の力強い応援団のようで、経済界の要請には何でも「ハイハイ」と聞く、経済界にとっては最も好ましい首相に成り下がっているようで、何とも気色が悪い。
 特に原発再稼働に関して言えば、「フクシマ」の原因究明も十分ではなく、福嶋第1原発の廃炉はどのようなタイム・テーブルで行うのか、避難民を今後どうするのか、放射能汚染(除洗)は果たして可能なのか、農産物・海産物の放射能汚染についてどう処置するのか、等々、全てが未解決状態にあるというのに、「盛夏の電力不足」という本当か嘘か分からない理由を金科玉条の如く持ち出して、何故原発の再稼働を急ぐのか。ましてや、「フクシマ」によって白日の下に晒されることになった「高濃度廃棄物の処理」問題についても、全くどのような将来像を描けばいいのか分からない状態、つまり刹那主義的にしか原発に対応していない状況下で、何故原発の再稼働を認めようとするのか。ワケが分からないというのは、野田政権の現在のような原発政策について言うのだろうが、それにしても野田民主党政権のやり方は「ひどい」の一言に尽きる。
 今日(31日)の東京新聞は、1面に「大飯再稼働 政府、最終決定へ」「関西連合が事実上容認」の大見出しで野田政権の原発再稼働への動きを伝えながら、2面のトップで「ドイツ 太陽光、過去最高2200万キロワット 瞬間で原発20基分発電」の記事を載せていた。周知のように、ドイツのメルケル政権は「フクシマ」の後、いち早く「脱原発」を宣言し、再生可能(自然)エネルギーによる電力確保に国を挙げて舵を切ったが、この記事を見て分かることは、「やろうと思えばできる」ということである。大企業(電力会社)の言いなりに「再生可能エネルギーは不安定だ」という理由で、電力会社の既得権を守り、再生可能エネルギーの開発と増進を阻む民主党政権(野党第1党の自民党だって同じ穴のムジナでしかないだろう)、例えば原発を稼働させる経費だけを考えても、あるいは原発事故が起こった時の保障などを考えた場合、どう考えたって再生可能エネルギーの開発や増進錦を注ぎ込んだ方が得策だと思うのに、どうして再生可能エネルギーに対して十分に配慮しないのか。これも、ワケが分からない。
 このワケの分からなさは、関西広域連合の原発再稼働容認にも通じる。関西広域連合の「反原発」姿勢は、周知のように橋下徹率いる大阪維新の会がリードしてきたものであるが、何故ここに来て「大飯原発3・4号機再稼働」を容認したのか、「安全管理」や「事故対応」などについては、これまでと全く変わっていないのに、今度の再稼働は「暫定的な安全基準の下で暫定的に運転するもの」という、子供だましのような(言葉遊びのような)、「暫定的運転」と「本格的運転」にはどのような違いがあるのかも問わず、再稼働を容認してしまう。
 このような一連の大飯原発3・4号機の再稼働問題を眺めていて気付くのは、如何にこの国の経済はもちろん、政治や文化(暮らし方)、社会の在り方が、原発という「魔物」に掣肘されているか、ということである。そうであるが故に、「脱原発」「反原発」に「正義」があると思うのだが、俳優の山本太郎が反原発を叫び運動にのめり込んだ途端仕事が激減したというこの社会の在り方、あるいは「事実(歴史認識)」に基づいた僕の「南京大虐殺」に対する考えに対して、「差別用語」という認識もないままに「キチガイ左翼撲滅」などとコメントを寄せる、いわゆる「ネット右翼」と思われる輩が跋扈する社会、だんだん息苦しくなっているような気がしてならない。
 「武漢・南京」については、もう1回「都市と農村」という内容で書くつもりでいたのですが、それはまた明日以降にしたいと思っています。

武漢・南京(2)

2012-05-29 16:25:20 | 仕事
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(1)は、南京城内にある門の一つ (2)歩ける広さの城壁 (3)中華門の正面の一部、ハーケンのようなものが見える 


京へは土日を利用して2泊3日の小旅行を行ったのだが、南京旅行の目的は、先にも書いたように何よりも1937年に起こった「南京大虐殺」の現場を自分の足で歩き、目で見ることであった。結果は、百聞は一見にしかず、ではないが、来て良かったと痛感した。写真や映像で何度も見、また多くの「手記」や「記録」、あるいは文学作品で「知識」としては十分に身に付けてきたと思っていたのだが、例えば、南京市内を囲む城壁の上は、万里の長城と同じように、3メートルほどの幅を持った回廊と言って良く、日本の城とは全く異なる構造をしていて、日中戦争時における都市の攻防だけでなく、南京の場合「明」の時代における遺跡も数多く残っているのだが、彼の時代における「国盗り合戦」についても思いを馳せると、「城」の役割が日本と中国とでは全く異なっていることを知らされた。
 ともかく、南京城は「堅牢」なのである。城内から場外へ出るには10数個の門を通らなければならず、この門さえ守れば城内への侵入を防ぐことができる、ということが自分の足で歩き、一目見ただけで理解できた。南京攻略戦において日本軍が、それらの門のうち、4重の構造を持つ最も堅牢と思われていた「中華門」を何日も掛けて攻め落とし、一挙に城内になだれ込み、その後に中国兵を含む市民を「虐殺」したのも、案内をしてくれた南京工業大学外国語学院(日語系)の陳先生のいう「中華門は、明の時代から南京城防御の象徴だったから」の言葉の通りなのだろうと納得させられた。「中華門」の外側には、垂直の壁にいくつもの登山で使うハーケンのようなものが打ち付けられていて、そこをよじ登って城内に入ろうとした日本軍兵士はどのような思いであったのか、たぶん多くの犠牲を払ったのだと思うと、そのような「労苦」を経たが故に、城内に入ってからの「暴虐」を止めることができなかったのではないか、そこには「鬼気迫る」ものがあり、そのような「狂気を生み出すものこそ「戦争」であることを、改めて認識させられた。
 自民党も民主党も、また石原慎太郎も橋下徹も「日本国憲法第9条」の改正を政見に盛り込んでいるが、戦争がどんなことをもたらすか、僕らはもう一度謙虚になって「侵略(領土拡張・市場獲得・資源確保)」目的で行われたアジア太平洋戦争について見直し、「戦争」によって「幸福」になる者は絶対にいないことを確認し、「反戦」の意思を強く持たなければならないのではないか、と思った。75年前、緑に覆われたこの南京市で数十万とも数万(虐殺記念館では「30万人」と明記している)とも言われる無辜の民が僕と同じ民族の血を持つ日本軍兵士によって、殺され、焼かれたことを思うと、何とも言えない「嫌な気持」になった。
 僕らは、金曜日(18日)に虐殺記念館に行ったのだが、各地から来た中国人でにぎわっていた記念館で日本人に出会ったのは1組(3人連れの若者)だけで、他の場所では何組も日本人観光客に会っているにもかかわらず、この落差は何なのだ、と思わざるを得なかった。歴史に目を背ける者は、いつか歴史によって復習されざるを得ない、というのは、いつも肝に銘じていることだが、「経済」ばかりではなく、「歴史」をきちんと共有することが必要なのではないか、と痛感した。

武漢・南京(1)

2012-05-28 16:32:47 | 仕事
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(1)は、華中師範大学の正門 (2)はキャンパス内道路 (3)は僕が滞在した外国人教師宿舎(新築)

帰ってきた直後は、久し振りの海外で疲れたのかなと思っていたのだが、どうも連日30度を超す中国(武漢・南京)と朝になると10度代になる日本との気温の差に体が対応できず、風邪を引いてしまったようで、体はだるく鼻水は垂れ、のどは痛いはで、中国へ行っている間に届いていたゲラ(こぶし書房の「場」の原稿、及び解放文学賞(小説部門)の選評)を見るのが精一杯で、帰国後はこの前に書いた「帰国報告」だけで、今日(28日)の午後になって、ようやく華中師範大学のことや南京のことを書いておこうという気持になった。
 まず、華中師範大学だが、中国の他の比較的古い大学と同じように、広いキャンパスと多くの建物(教室や研究室、等の他、学生寮や留学生会館、職員宿舎、など)を持ち、いつものことだが、僕が歩いたのはその4分の1ぐらいで、僕は結果として1日12000歩前後歩いたのだが、果たしてキャンパス全部を回ったらどのくらいの時間が掛かるのか、学生に聞いても答えられる人はいなかった(そんなことに興味のある学生がいなかったということでもあるが)。先にも書いたように1週間近くいるうちに、講義(講演)は3回(院生相手に2回、学部3年生相手に1回)、その他修士論文中間発表会に出て、発表ごとに意見を求められ、総評までやらされる、ということがあり、久し振りに「教師」の仕事をこなし、充実した時間を過ごすことができた。
 とは言え、短いつきあいでその真の姿は分からないで言うのだが、院生たちの近現代文学の「知識」や「論考」に関して言えば、そんなに高いレベルにあるとは思えず(高いレベルを求めても、それに十分に応えられる体勢になっておらず、僕が求められたのも、そのことに関係あるのだろうと思っている)、熱心であり真剣に取り組んでいるのだが、「資料」不足や指導者不足ということもあって、「日本語」能力(会話や読解、作文の能力)がやはり他の大学と同じように非常に高いことに比べて、文学に関しては「貧弱」という印象を免れないものであった。それだけに、もし本気になってやれば、「熱意」は高く、日本語の読解力もあるので、論文の書き方さえ身に付ければ、相当高いレベルのものが実現するのではないか、とも思った。
 契約書に基づけば、とりあえず3年間は続けて欲しいということなので(詳細については、差し障りがあるので省く)、3年間で何ができるかよく考えて、やってみようと思った。僕を受け入れてくれた李俄憲先生は「中島敦」で新潟大学から博士号を授与された先生で、学生たちの評判ではかなり「厳しい」(は、たぶん「優しさ」の裏返し。その証拠に「嫌いだ」という院生には一人も会わなかった)ということであったが、外国語学院の副院長であり学科長である彼は、政府や省の研究プロジェクトの主査をやったりしていて、とにかく忙しく、じっくり一人一人の学生の面倒を見ていられない状態にあり、そのことも僕が招かれた理由の一つなのではないか、と思っている。
 講義(講演)で、質疑応答の時間になると、時間が足らなくなるほど「質問」や「意見」が出て、これは久しく日本の大学では(僕の経験では)見られなくなった光景で、9月からの授業が楽しみになった理由でもある。
 なお、日本にいるときから伝えられていたのだが、李先生には「日本近代文学史」の教科書(専門家が読んでも面白い)を日本語で出版する計画があり、その具体的展開を僕のアドバイスを受けて行いたい、ということで、夜は夕食をかねてその相談などを連日行い、来年夏の刊行を目指して走り出すことを決め、僕が武漢でラフ・スケッチしたものを下敷きに、早急に「執筆要項」などを決めるということにした。どうも、どこかへ行くとかなら逗子事を増やすのが僕の癖のようで、この「日本近代文学史」が成功したら、その他にも出版計画がある、などと言われ、ゆっくりしている暇はないな、という気持にさせられた。

<武漢みやげ1>
 16日に武漢空港に着いたのは3時30分、長い着陸態勢の間に、地上の風景を眺めていたら、あっというものが目に入ってきた。あの世界共通とも言っていい巨大な「鼓型の円筒」が4基、微かに白煙を上げていたが、1000万人都市武漢からどのくらい離れているのだろうか、その光景を見てからおよそ30分間飛行機は飛んでいたから、「郊外」なのだろうが、都市に非常に近い場所に存在する原発、同じような建造物を武漢から南京へ行く途中の駅近くでも見たから、中国では「過疎地」にではなく、都市近郊に原発が存在するというのが当たり前になっているということか? 何とも複雑な気持ちになった。果たして中国人に「フクシマ」は伝わるのだろうか。僕は、講義で取り上げようと思っているのだが、9月からが楽しみである。

帰ってきました。

2012-05-26 05:36:09 | 仕事
 16日から23日までの、たった8日間という武漢(南京)への短い「旅」でしたが、無事帰ってきました。
 帰ってきたら、自分はこんなにも忙しい毎日を送っていたのかと思えるほどに、メールやら手紙やらが届いていて、それの処理に1日(実はまだすべてが終わったわけではない)、また武漢(南京)で依頼されたことの処理(コピーを取ったり、資料を探したり)に、また1日、何だか疲れてしまい、時間だけがだらだらと過ぎていった。
 というのも、帰国日の23日は朝の7時に大学の宿舎を出て9時20分発の飛行機に乗り、北京で乗り換え、成田に18:00に着き、そこから高速バスで自宅に10時に着くという強行軍だったからではないか、と思っている(それとも、歳なのかも知れない。若いときと違って、少し無理をすると疲れが溜まり、体が「仕事」をするな、とブレーキを掛ける、そんな歳になっているんだな、と実感させられた)。あるいは、武漢(南京)にいる間は、携帯の万歩計で測ったら、連日12000歩から15000歩を歩いていて、普段の2,3倍も歩いていて、また連日夜遅くまで講演(講義)やら会食やらで、体に疲労が溜まっていたのかも知れない。
 というわけで、今朝になりようやく「武漢便り」が書けるようになったのだが(本来は、武漢から少しずつ書いて送るつもりでPCを持参したのだが、PCに不具合ができ、「日記」風なものは書けたのだが、残念ながらこの欄では送信できなかったのである)、武漢(南京)での日々は、一言で言って、全てが「新しい経験」で、結果として今年の9月から(最長で3ヶ月間+α)武漢にある華中師範大学外国語学院(日本語科)で「楚天学者(特別招待教授、話を聞くと相当偉いということである)」として大学院生を対象に週3コマ(他に卒論ゼミ)ほど「日本近代文学」について教えることが正式に決まった。とりあえず3年間ということで、毎年9月から武漢で暮らすことになるのだが、この8日間に接した華中師範大学の学生たち(院生と学部3年生)の姿を見る限り、(本当の姿はまだ分かりませんが)教え甲斐があるのではないか、と思った。院生たちに2回講義(講演)をして、学部3年生に1回、他に修論の中間発表会にさんか下経験だけで言うならば、僕の話を乾いた砂に水が染み込むように聞いてくれ、いろいろな意味で「可能性」を感じられ、ここでもう一度頑張るのもいいかな、と思わされた。
 アメリカの州立大学(シアトルのワシントン大学など)よりも広い印象のキャンパスは、緑にあふれ、背院生や学生たちの話しでは「夏と冬しかない」そうで、それでも食事は朝食などで何度か利用した学生食堂(もちろん教職員が利用してもOK)のメニューを見る限り、日本人(僕)の舌にあっているようで、何よりも「安く」、1食に100円も出せば、結構満足のいく食事ができることもわかった。ただ、コーヒーをのむところが無く、学外にスターバックスが1軒あり、そこを利用するしかないのが玉に瑕かも知れない。
 南京には、武漢からの手配で南京工業大学の「陳」さんという日本語科の助教授が案内してくださり、南京大虐殺記念館をはじめ、いろいろ「南京攻略戦」の戦跡をを見て回った。これについては、また別の日に写真なども整理して紹介したいと思うが、現地に来て記念館で「資料」を見て、戦跡をいくつか巡ってみれば、「南京大虐殺はなかった」というのは「妄言・妄想」の類であり、現実に起こった人類史に稀な出来事だったと納得させられるのではないか、と思った。河村名古屋市長も石原慎太郎東京都知事も、その他諸々も、謙虚になって一度南京に来て見学してみればいいのである。百聞は一見にしかず、である。南京城内(南京旧市内)の広さ、城のすぐ近くを流れる揚子江の大きさを知れば、南京を陥落させたとは言え、そこを支配することの難しさ(それは、中国大陸で戦争を始めた軍部の無謀さに通じる)を痛感したはずである。つまり、南京城内の広さとそこに住んでいた市民の数を考えれば、敗残兵狩りと称して、老若男女を問わず南京市民を大量虐殺した「日本軍」の心理が想像できる、ということである。「戦争は狂気をもたらす」という言い方があるが、石川達三の『生きてゐる兵隊』やその他の戦争小説及び南京攻略戦に参加した将兵の『証言』や「手記』を読むと、なるほどその通りだと思う。
 南京での経験もいずれ写真付きで紹介するつもりだが、ともかく疲れたが充実した8日間の武漢(南京)への旅であった。

沖縄返還「40周年」記念日に

2012-05-15 16:53:12 | 近況
 40年前の今日5月15日、敗戦から27年間続いてきた沖縄のアメリカ軍による「占領」が終わり、「本土並み」返還が実現したわけだが、あれから「40年」経って、果たしてアメリカ軍による「占領」状態はなくなり、また明治維新に伴って行われた「琉球処分」以来ずっと続いてきた「沖縄差別」は、果たしてなくなっているのか?
 沖縄の友人や教え子からの情報、あるいはマスコミ・ジャーナリズムが伝える「情報」を考え合わせれば、この「40年間」沖縄は一貫して「本土=ヤマト」の犠牲になってきたことは、未だに日本に存在するアメリカ軍基地の「75パーセント」が沖縄に集中していることに、それは象徴されているだろう。また、「普天間基地問題」が全く解決していないことからも、沖縄と本土=ヤマトとの関係がよく分かるのではないだろうか。誰がどのように抗弁したとしても、本土=ヤマトは沖縄は「犠牲」の上に成り立っているのである。このことは、沖縄は一度でも行ってみればすぐ分かることなのだが、確かに「観光の島」として「青い珊瑚礁の海とさわやかな風」「マリン・スポーツの島」という側面があるとしても、島の至る所が「日本人立ち入り禁止」のアメリカ軍基地になっていること、そしてまた市街地の真ん中や隣に「広大な軍事基地」が存在するその光景は、「異様」としか言いようがない。
 思い起こせば、僕と沖縄との関係は、批評家になって以後は大城立裕氏や又吉栄喜氏、高良勉氏などとの親交に加え、目取真俊の小説や川満信一の詩などに惹かれ、「沖縄の文学」ということでいくつかの文章を書いてきたが、その「原点」はまだ沖縄が返還されていなかった1970年前後の「政治の季節」における「沖縄闘争」で逮捕され、以後ずっと裁判闘争を闘ってきた年下の友人の行方が分からなくなったことがあり、また沖縄から「特別進学枠」で医学部に来ていた親しい後輩(今でも沖縄に行くと必ず1晩一緒に過ごす)と「沖縄返還」を巡って激論の末に殴り合い寸前の喧嘩となったことがあり、いずれも「トラウマ」のような状態になり、返還から十五年以上、沖縄関係の仕事を断り、沖縄にも行かなかった(行けなかった)ということがあった。それが氷解したのは、沖縄で医者をしていた後輩から「遊びに来ませんか?」と誘われ、ちょうど沖縄の文学者に取材の仕事があったということも重なったからである。今夏は、娘の家族と「40年後の沖縄の現実」を確認するために出掛けていくことになっている。
 それにしても、「普天間問題」一つ解決できず、自民・自公時代と変わらず「沖縄振興策=カネ」で何とかケリを付けようとしている民主党政権の現状を見ると、現在沖縄では「琉球(沖縄)独立論」が圧倒的な支持を受けている状況について、石原慎太郎東京都知事の「パフォーマンス」であり、「中国嫌い」の現れでしかない「尖閣諸島買い取り」などに気を取られることなく(尖閣諸島問題についての僕の考えは、前から言っているように日中で「共同管理」すればいいのである。それで問題の大半は解決する)、僕らはもっと関心を持つべきなのではないだろうか。

 さて、僕は明日から1週間ほど中国の武漢に出掛けてくる。昨年から武漢にある中国の重点大学である華中師範大学外国語学院日本語科から、大学院生に文学を教えて欲しい、と言われていて、今秋から本格的に教えに行くことになっているのだが、その打ち合わせと下見に行くことに、急遽なったのである。久し振りの外国になるが、途中で「軟禁」に行く予定で、その他にもいろいろな意味で刺激の多い旅になるのではないだろうかと期待している。帰ってきたら報告します。
 では、行って参ります。

「反戦」・「反核」を言い続ける理由(続き)

2012-05-07 09:03:27 | 仕事
 昨日は、このブログを書いている途中で長電話が入ったため、中途半端な形で終わってしまい、尻切れトンボの印象を与えたのではないかと思い、「続き」を書くことにする。
 昨日の記事で僕が言いたかったことは、この20日間余り、『井伏鱒二と「戦争」』(仮題)で出版を計画している原稿の見直し(修正・加筆)を行い、同時に「夏野菜」の種を蒔き、苗を植える日々を過ごしている内に、気付いたこと(確信したこと)があり、それは僕の批評は「反戦・反核」の思想を根っこに持ったものである、ということを改めて確認する必要があると思った、ということである。
 理由は、吉本隆明が最期の最後まで「科学神話=原発安全神話」を手放すことがなかったことのは何故か、そして、そのような吉本の「科学神話=原発安全神話」の影響下で自らの思想を形成した者が、「団塊の世代」を中心にして予想通り数多く存在していることを知り、改めて僕らが受けた「戦後民主主義教育」(反戦思想と民主主義思想を軸とした)とは何であったのかを、井伏鱒二の「戦争観」や「反核論」を整理しながら考えたからである。あわせて、野菜の芽吹きや成長を日々見守りながら「生命(いのち)とは何ぞや」などということを考え、「生命」を育むことの難しさを改めて痛感したからに他ならない。
 つまり、「反戦・反核」もその根っこには「生命(人間)尊重主義」(大江健三郎流に言えば「ユマニズム」ということになるが、一般的には「ヒューマニズム」)の重要性を改めて考え続けけていた、ということである。この「ヒューマニズム」に「エコロジー」を加味すれば、ずっと前から僕が言い続けている「緑の党」的な国家像の構築ということにもなるのだが、とりあえず、わかりやすく言えば、戦後民主主義及び70年前後の「政治の季節」で叫ばれた「殺すな!」の論理と倫理をいかに日常化するか、ということになるのではないだろうか。
 そのような考え方から、現在進行しつつある「原発再稼働」の動きや、中国や北朝鮮を「仮想敵国」とするようなネオ・ナショナリズム(ネオ・ファシズム)の動き、橋下徹大阪市長(大阪維新の会)が推し進めている「教育改革」という名のファシズム的教育の推進(「競争原理」の導入と権力の教育への介入、これは実は石原慎太郎が東京都知事になってから「教育委員会」名で推し進められてきた東京都の教育政策とほとんど同じものである)、等々、世の中の「不穏」な動きに警戒心を持つ必要があるのではないか、と言い続けてきたのである。
 そして、先走ってこの国の状況について言っておけば、もう「競争原理」(これを資本主義体制との関係で言えば、金権主義(金儲け主義)ということになる)で何とかなるような状態にはなく、オルタナティブ(もう一つの生き方、例えば「スローライフ」)のことをみんなで真剣に考えなければいけないのではないか、と思う。昨日で「原発0(ゼロ)」になったが、僕らがこの「原発0」状況を如何にきちんと過ごすか、「フクシマ」を受けての最初の「試練」になるのではないか、と思う。「無駄な電気は使わない」、そのことから始めるしかないだろう、と思う。「原発0」になったって、「廃炉」までに何十年もかかるし、高濃度汚染核廃棄物(プルトニウム、など)に至っては、何十万という単位で「処理(埋設)」しなければならないことを考えれば、原発立地の自治体の首長たちが「原発マネーが予算の70パーセントだから、原発が再稼働しなければやっていけない」という、何とも「哀れな」悲鳴こそ原発がもたらした非人間的所業の極致の現れだ、と思う冷厳な態度こそ、いま僕らに求められているのではないだろうか。
 僕は、今後も「生命」より大事なものはない、という立場を堅持していきたいと思っている。予定されている『井伏鱒二と「戦争」』もそのような思想で書かれたものである。

「反戦」・「反核」を言い続ける理由

2012-05-06 10:10:52 | 仕事
 前回記事を書いたのが4月17日だから、もう20日余り経つ。いつもの台詞だが、決してサボっていたわけではなく、この間やっていたことを書いておくと、次の本として予定している『井伏鱒二と「戦争」』(仮題)の原稿整理に、思いがけず時間を取られ、いくつかの資料や井伏の作品を読み返し、かつ原稿の修正を行うという作業に没頭していたのである。
 この本に関して、この10年くらいの間に依頼されて書いた「井伏論」――『黒い雨』論はもちろん、井伏が徴用中(1942年)に書いた『花の町』や戦後の『遙拝隊長』についての他、『徴用中のこと』などについての作品論をはじめ、戦中の過ごし方、等について書いたもの7本と新たに書き下ろした「井伏鱒二と原発」論(これに関しては、川村湊が同じような「材料」を使って「原発と日本の文学者」(『いまこそ私は原発に反対します』日本ペンクラブ編 平凡社刊所収)というタイトルで一文をものにしているが、内容は全く別で、川村は急いで書いたようで、川村文にはいくつか基本的な誤りがある。また、ここで書いておくが、川村文に刺激されて拙論を書いたのではない。)、併せて370枚ほど、それに関連する戦中―戦後の文学者の在り方について論じた過去の4つの論文約100枚を併せて、約480枚ほど、各論の重複を消去し、足らない部分を加筆する。一番古い文章は11年前の2000年に書いたものなので、基本的なことは変わらないとしても、年号やその時々の文学状況などは変わっており、その「調整」に思わぬ時間を取られる、ということがあった。
 知る限り、『黒い雨』論や『遙拝隊長』論などはこれまでにも「定番」的に論じられてきたが、井伏鱒二を「戦争」というテーマで論じるというのは、これまでなかったのではないか。故に、僕は面白い本になるのではないか、と思っているのだが、「文学評論」や「作家論」の類が驚くべき状態で読まれなくなっている現在、果たしてこの本が日の目を見るかどうか、近日中に前から読みたいと言ってきている出版社に原稿を送り、結果を待とうと思っている。
 また、その合間にある作家(決まったら、明らかにします)の「全集」の企画を立て、「卷立て」(全巻構成)に時間を取られると言うこともあった。全作品にざっと目を通し、主題別、刊行順で全巻の構成を考えるのは、全作品を一度は読んだことがあってもなかなか大変な作業で、これにも時間が取られてしまった。
 他に、大学を退職した後、望みとしては「晴耕雨読だ」と言ったということもあり、夏野菜の種まきや苗植えは待ったなしでその季節がやってきて、自分で食するものぐらい「無農薬・有機栽培」で行いたいということもあり、そうなると野菜のケアとは別に雑草との闘いが続き、毎日毎日、取っても取っても生えてくる雑草を引き抜くために畑に出なければならず、これにも時間が取られてしまう。そして、つくづく思う。「晴耕雨読」は「悠々自適・のんびり」の代名詞ではなく、自然との闘いであり、労働の原点(肉体労働)を教えてくれるものだということを。そんなわけで、小さな吾が家庭菜園に植わっている野菜を列挙しておくと、ジャガイモを筆頭に、タマネギ、長ネギ(2種類)、にんじん、ゴボウ、空豆、絹さやエンドウ、モロヘイヤ、キャベツ、ラディッシュ(2種類)、ナス、カボチャ、キュウリ、ミニトマト、ピーマン、里芋、こんにゃく、ごま、ショウガ、瓜、セロリ、サニーレタスの24種類、畑が少し広くなったからと言っても、手入れが大変である。
 ただ、「畑仕事」にもちゃんと効用があって、野田民主党政権の「原発再稼働」への目論見や石原慎太郎の「尖閣諸島買収問題」、橋下徹大阪市長(大阪維新の会)の計り知れない「野望」などで苛ついた気持や焦りを、無心に野菜のことばかりを考える畑仕事は鎮めてくれる、ということがある。とは言え、野田首相の何も具体性のない「日米同盟の高み」発言ほど、今日の「空洞」的な状況を表しているものはなく、絶望的に成らざるを得ない。
 心身共に「元気」になりたいのだが、状況がそれを許さないとしたら、ではどうしたらいいのだろうか。