黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

フクシマ、ここにも風評被害

2011-10-30 15:17:29 | 近況
 110月28日の「群馬県民の日」を利用して、恒例となっていた福島県南会津地方への「紅葉狩り」に行ってきた。久し振りの「骨休め」を兼ね、放射能汚染が他の福島県地方(浜通り、中通り)に比べて少ないとされる会津地方がどうなっているのか、南会津町に暮らす昔からの知り合いを(勝手に)励ましたいという思いもあって出掛けたのだが、肝心の「紅葉」の方は、例年に比べて色の鮮やかさが劣っていて、その限りでは残念であった。行く先々で出会った人の話では、やはり今夏の異常気象(酷暑や長雨)がそのような「薄汚れた感じ」の紅葉を作り出したようであり、その意味では「3・11」から始まった今年の春ー夏ー秋は、最後まで「異常」のまま終わるのではないか、と思わせた。
 毎年、南会津地方(旧舘岩村・檜枝岐村)へ、紅葉狩りをかねて「新蕎麦」を食べに行くのは、そこが立松和平に教えられた「日本の原風景」を残している地域ということもあるが、もう一つ「赤蕪漬け」と「リンゴ」がやけにおいしいからに他ならない。今年も途中の「道の駅たじま」で目的の二つを購入しておいしくいただいたのだが、例年だと山のように積まれている「生の赤蕪」(例年はこれを購入して、自分の家で「赤蕪漬け」を作っていた)が、今年はほとんどなく、理由を聞いたらやはり「異常気象」のせいだとのこと、紅葉といい、赤蕪といい、「異常気象」の影響がここまで及んでいるのかと思うと、何とも複雑な気持ちにさせられた。
 また、例年だとこの時期の土曜日となると「道の駅」など駐車場に入り切れない車でいっぱいなのだが、今年は何故か空いた駐車スペースがたくさんあり、知り合いに聞いたらやはり「フクシマ」の影響で紅葉狩りの客は半分以下に減っているとのことであった。そう言えば、知り合いの家がある「会津曲り家」で有名な旧舘岩村前沢地区(茅葺き屋根を持つ「曲り家」が19軒集中している地区)では、折しも無料でその「曲り家」を見学できる「前沢祭り」を行っていたのだが、観光客の数はそれほど多くはなかった。聞くところによると、「フクシマ」のために店を閉めているレストランや食堂が何軒もあるという。珍しい「曲り家」を見ることのできるお祭りにも人が来ない、福島県(だけでなく、高濃度の放射能汚染が報じられた地方)というだけで、実際は放射能汚染の度合いはそんなに高くないのに、人も物流も滞ってしまう現状は、文字通り「風評被害」としか言えないが、このような現実を政府や電力会社、経済界は本当に分かっているのか、と憤りを込めて思ってしまう。
 というのも、今朝の新聞を見たら、前々から報道されていたインドへの「原発輸出」に政府(野田政権)は本腰を入れた、という記事があり、1週間ほど前のベトナムへの原発輸出が本格化したという報道を思い起こしながら、「フクシマの収束を第一に考える」という野田政権の見解がいかに矛盾に満ちた虚しいものであるかを思い知らされた。
 それに追い打ちをかけるように、「(フクシマの)原子炉廃炉に30年以上かかる」「福島県に汚染物質を30年保管する中間貯蔵施設を、その後最終処分場へ」という報道があり、フクシマで大きな被害を受けている福島県に更なる精神的・物質的な負担を強いる、かといって最終処分場さえ決まっていない(存在しない)にもかかわらず、54基もの原発を建設してしまったこの国の在り方の「いい加減さ」(主な責任は、自民党単独政権とその後の自公政権にある。もちろん、それらに荷担してきた民主党(旧自民党員)にも責任はある)に対して、どのように怒りの矛先を向ければいいのか。それにしても、「廃炉に30年以上」「30年間の放射能汚染物質の中間貯蔵施設」という時の、「30年」にはどのような意味があるのか、あるいは意味がないのか。まさか「人の噂も75日」を狙ったわけではないだろうが、大事なことは、僕らがフクシマによって様々な「被害」を受けていること、このことについて「怒り」を忘れず、なお「フクシマ」だけでなく「核」と人間との関係について考え続け、政府や電力会社の在り方をずっと監視続けることだろう、と思う。
 「舐めたら、いかんぜよー」という言葉が昔流行ったが、一人一人が政府(政治家)や電力会社、営利(カネのこと)しか頭にない財界に「舐められない」ことが、今いちばん僕らに突きつけられている問題なのではないか、と思う。「ごまめの歯ぎしり」かも知れないが、ごまめだって数が集まれば「脅威」になることを、彼らに思い知らせることが今一番求められている、と僕は思っている。
 それに加えて、お互い「風評被害」に負けないようにしましょう。

久々の上京で知ったこと

2011-10-27 05:33:27 | 仕事
 昨日(26日)、ほぼ1ヶ月ぶりぐらいの上京(いかに現在の僕が「田舎者」であるかを告白するようなものだが)で、改めていくつかのことを考えさせられた。上京の目的は、僕の新しい本を出してくれる出版社(論創社)と『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」を考える』の版元(勉誠出版)、それと『「1Q84」批判と現代作家論』を出してくれたアーツアンドクラフツの各担当者に会い、次回出版する本のことや現在の進行状況を確認するためであった。そして、それらが終わったあとに、何度も会う約束をしながらお互いのスケジュールが会わずに会えなかった昔河合塾でお世話になった人に会い、夕食を共にした。
 さて、久々の上京で知ったこと(気になったこと)の一つは、当たり前と言えば当たり前のことだが、喫茶店でコーヒーを飲んでいる人、あるいは夕食を取るために入った蕎麦屋で酒を飲み蕎麦をすする人、みな「放射能なんて関係ないよ』というような顔をしていたが、ふと聞こえてくる会話から、東京人もまたフクシマによる放射能について大変気にしているということがわかり、いかにフクシマが人々の心をむしばんでいるか、がよく分かったということである。ある編集者は、僕のこのブログをよく読んでくれているようで、前回書いた家庭菜園のことに関して突然「大丈夫ですか」といわれ、居合わせた他の編集者共々自分は毎回の食事時に放射能のことを考える、と話してくれた。不安でどうしようもない、という状態ではないが、僕が抱えている鬱屈と同じものを彼らが抱いていることを知って、フクシマがいかに深刻な問題を僕らに提示しているか、改めて考えさせられた。遅く帰宅してネットのニュースを見たら「ベトナムへの原発輸出は堅持」というのが目に飛び込んできた。どのような事情がベトナムにあるのか知らないが、フクシマ間を起こした国が他国へ平気でそのような危険な原発輸出する、経済人や官僚たちのモラルはどうなっているのか、と思わざるを得ない。それこそ「恥を知れ」といいたくなるが、蛙の面に小便という感じがして,虚しくなる。
 二つめ、山手線や総武線に乗っているときに気付いたのだが、ひたすら携帯電話(スマートフォン)を眺めている人が2とすれば、その半数ぐらいの人が文庫本や単行本を広げていて、数年前のような誰もが携帯の画面とにらめっこしてゲームに興じ、メールを打つ続けるという光景が少なくなった、という印象を持ったが、本当に電子本派と活字派に2極分解したのか、にわかには信じがたいとしても、世のスマートフォン協奏曲を尻目に、何かが変わりつつあるのかな、と思った。
 しかし、10時過ぎの電車に乗って、降車駅についたときには11時半を回っていたのだが、1車両に数人しか乗っていない車内を見渡し、出版業界(新聞業界)が惨憺たる状態になっている現実をいやというほど見せつけられた。10年前、いや5年ほど前なら終電車間際の電車の網棚の上には夕刊紙や漫画雑誌が必ず何部か(何冊か)乗っていたのだが、昨夜は皆無、車内はきれいなもので、掃除する張り合いもないのではないか、と思った。ことほど左様に「活字離れ」が進んでいくのかと思うと、先の山手線や総武線の光景と矛盾するが、ぞっとするものがあった。昨日会った編集者たちが、ともかく本が売れないと嘆いていたが、不況とはいえ、本を読まない人が増えた国が果たして発展するか、デジタル社会で大丈夫なのか、本気で心配になった。と同時に、そんな社会の状況にあっても、ともかく僕の本が出るということ、幸運を思わないわけにはいかなかった。

どこまで耐えられるか?

2011-10-25 14:11:00 | 仕事
 前回書いたように『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」を考える』(勉誠出版刊)の250ページ近い「通しゲラ」を、自分が関係した文章を中心に丹念に読み、返したと思ったら、戦犯参加した「反核から反原発運動へ」という座談会(出席者:菅孝行・黒古・外山恒一・スガ(本来は漢字)秀実 『述』5号ー近畿大学国際人文化学研究所紀要)のゲラが送られてきて、早急に校正して戻して欲しいということで、そちらの方も見て、ということで、実は気になることがあったのだが、書くことができなかった。
 気になること、それは、前々から言われてきたことだが、文科省から具体的に「汚染マップ」が出て明らかになったのだが、福島原発から100キロ以上離れている群馬県も場所によってセシウム汚染が相当高い数値を示していることに対して、ささやかな家庭菜園で「無農薬・有機農法」を目指しす僕の「農業」はどうなるのか、ということに他ならない。「汚染マップ」によれば、幸い前橋市はかなり低い数値を示しているのだが、しかし、各地に存在する「ホットスポット」のことを考えると、にわかに文科省の数字を鵜呑みにすることはできない。そうでなくとも、政府・文科省・東電の示す「数字」には嘘が混じっており、彼ら「権力」の隠蔽体質をどう打ち破っていけばいいのか、戸惑っているということがある。
 現在、我が家の家庭菜園は、僕が大学を退職したということもあって、少しずつ他種類の野菜が植えられていて、羅列すると、大根(漬物用・煮物用)・にんじん・インゲン・敏いも・水菜・チンゲン菜・蕪・ラデッシュ・白菜・絹さやエンドウ豆・空豆・秋ゴボウ・ネギ・ほうれん草・キャベツが植わっていて、すでに里芋やにんじん、インゲン、水菜、ネギなどは食しつつあり、大根、白菜も旬日で食べられるようになる状態になっている。これらの野菜、果たしてどのくらい放射能に汚染されているのか。
 僕のブログに寄せられた最新コメントには「少量の放射能は健康によい」などという、昔から「原子力ムラ」の一部の学者や関係者が言い募っていた「愚説」が寄せられているが、このような「内部被曝」ということを知らない人の言は、まさに「悪しき風評」としか言い様がなく、僕としては、どこまで我が身を襲う放射能汚染に(精神的に)耐えられるか、今冬が鍵だな、と密かに思っている次第である。
 しかし、毎朝菜園に出て、伸びていく絹さやエンドウ豆や結球しつつあるキャベツの若芽を見ていると、これらが少量とはいえ放射能に汚染されていることを思い、改めて怒りがこみ上げてくるのを禁じ得ない。
 なのに、電力会社は「やらせメール」事件などどこ吹く風とばかりに、居直り、政府も「原発輸出」を止めようとしない。本当にどうなっているのか。
 「世直し」が本当に必要になってきているのかも知れない。

『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」を考える』近日刊行

2011-10-21 04:47:33 | 仕事
 8月末締め切り、ということで広島や長崎はもちろん、北は北海道から南は沖縄まで各地で活躍している文学者に寄稿を依頼していた『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」を考える』が、いよいよ近日刊行の運びになった。アメリカ、インド、トルコからの寄稿者を含めて総勢17名、ヒロシマ・ナガサキやフクシマについて「生命」の存在と深く関わる文学に携わる人間に相応しく様々な意見が寄せられた。編者として、今最後のゲラ点検をしているところだが、寄せられた原稿を通覧して、手前みそ的な言い方になるが、現代文学に関わる人たちというだけでなく、現代人の「良心」を今感じている。
 「目次」を紹介して、前宣伝にしたいと思う。

『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」を考える』目次

第Ⅰ章 私たちはヒロシマ・ナガサキから何を学んだのか?
 ・若い人たちへの希望―ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ   (対談)林京子×黒古一夫
 ・「何とも知れない未来」に向かって―原発がつくるヒバクシャ 満谷マーガレット(翻訳家 アメリカ)
 ・ヒバクシャとともに生きる                 三浦精子(作家 広島)
 ・広島から福島第一原発事故への様々な思い          古浦千穂子(作家 広島)
 ・「フクシマ」その前・その後                伊藤真理子(詩人 東京・広島)
 ・トルコにて「フクシマ」を考える
    ―チェルノブイリ・原爆文学・フクシマ         フィリズ・ユルマルズ(トルコ)

第Ⅱ章 私たちは核にNOと言ってきたか?
 ・「ヒロシマ・ナガサキ」から「フクシマへ」
    ―「核」がもたらす隠蔽と差別の構造           黒古一夫
 ・債務支払いの覚悟を―原発損壊が告知するもの         菅 孝行(劇作家 東京)
 ・福島の未来を予言した詩人は夢想家ではなかった
    ―村上春樹氏への公開書簡                鈴木比左雄(詩人 東京)
 ・核状況を拒むセカイへ・セカイから
    ―ナウシカ・AKIRA/エヴァンゲリオン・そしてCOPPERION   田村景子(研究者 東京)
 ・原発と落書き―鶴彬・岡本太郎・Chim↑Pom           楜沢健(批評家 東京)

第Ⅲ章 私たちは福島からどこへ向かうのか?
 ・若い兵士たちの死顔は美しかったか              (対談)辻井喬×黒古一夫
 ・人類は核で死滅する                     小檜山博(作家 北海道)
 ・琉球弧から視る核時代批判                  高良勉(詩人 沖縄)
 ・部屋の中の象、あるいは世界の終わり
    ―北陸の地で考える、アナロジカルな黙示録的状況     雪谷コウ(作家 石川)
 ・基点に立ち返る                       横手一彦(研究者 長崎)
 ・未来は私たちのものです―推進か反対か、岐路に立つインドから ナレシュ・クマール(インド)

 原発や核に対して様々な言説が飛び交っている今日、この本が「屋上屋を重ねる」ことになるのか、それとも新しく問題提起を為す本として受け取られるのか、それは僕らの判断ではなく,この本を手に取ってくれた人の判断に委ねられると思っている。是非多くの人が手に取ってくれることを願っています。
 定価や正確な発行日などはまだ決まっていませんが、多くの人に読んでいただきたいので、版元と相談して僕のブログを読んでくださって版元へ直接注文した人には何らかの「特典」が得られるようにしたいと思っています。詳しいことは、刊行日が決まった時にお知らせします。
 よろしくお願い致します。

どうなるのか?この国の形(2)

2011-10-19 04:51:36 | 仕事
 「フクシマ」が起こって明確になったことは、この国の未来は明らかに「原発」への対応を軸に展開するだろうということであった。その意味では「グズ菅」と揶揄されてきた菅前首相が、最終的にはいくらか曖昧になったが「脱原発依存」の方向へ舵を切ったのは、菅前首相なりの将来を見据えた国家像ができていたからだと思われる。まさか、どこかのノーベル文学賞候補者のようにパフォーマンスだけで「脱原発」を叫んだのではないだろうと思ったが、野田政権のいよいよはっきりしてきた「原発」への対応は、管政権の時代より大幅に後退しているとしか思えず、ここに至って野田政権の誕生を経団連(米倉会長)が歓迎したことの真意が見えてきたように思う。野田政権になって「脱原発」から「減原発」という訳の分からない原発政策を進めようとするその裏には、どうもフクシマ以前のような「原発容認・推進」があるように思えてならないからである。その証拠に、あの九州電力の「やらせ」問題に対する「第三者委員会」の方向所を無視した(コケにした)「最終報告書」は、野田政権が内心は電力会社が望むような原発容認・推進の立場に立っているということを見越してのものだったのではないか、と思えるからである。さすが、フクシマに対して官房長官として必死の対応をした(必ずしも「正直」だったとは思わないが)枝野経産大臣は不快感を露わにしたが、あの人を喰ったような九電社長の記者会見を見ていると、完全に政治(政治家・政権)を見下しているようで、最早この国が「政治主導」はもとより「官僚支配」でさえなく、経済界支配の下にあることをはっきりと示しているように見え、空恐ろしくなった。
 かつて「夏の電力不足」が叫ばれていたとき、経済界はこのまま「電力不足」(実際はデマゴギーだったが)が続けば、日本の企業は海外に活路を見いだし、日本の経済は空洞化が進む、などと「脅し」めいた言い方をしていたが、図らずももうすぐ首都のバンコクまで迫ろうとしているタイの大洪水が、もうすでに日本企業の海外進出は既定の事実であり(バンコク北部の工業地帯の大部分の企業ー400社以上ーが日系企業であるというのは、想像を超えていた)、電力不足とか何とかという「言い訳」は、ただ単に原発の再稼働・新設を促すための「口実」に過ぎなかったのだということを明らかにした。
 一方野田首相は、昨日(18日)も福島県に出掛けて放射能汚染の除去作業を見たり、避難所に行って避難民たちに「除洗して自宅に帰れるようにしますから」などと言っていたようだが、彼が朴訥さを装いながら「できるだけ早く除洗を」と言うと、その言葉の真意が原発の再稼働・新設を促すためのパフォーマンスのように思えるのは、僕だけだろうか。野田首相の記者会見などの答えを見ていると、どうも「改革」はお嫌いなようで、原発に関しても「できるだけ早く点検済みの原発は再稼働し、建設中の原発もその進捗状況によって認めたい」と言っているようで、何ともとぼけたドジョウ首相だな、と思わざるを得ない。あの丸顔の「人の良さそうな顔」の裏側に隠されている「保守」思想=「改革」否定の思想が、僕たちに何をもたらすのか。
 ただはっきりしているのは、野田政権はこの国の形がどうしようとしているのか、全く不明だということである。前にも書いたが、村上龍の『愛と幻想のファシズム』は、「英雄待望」のポピュリズムが私たちの生活を破壊し、暗黒の未来をもたらすことを明らかにした近未来小説だったが、野田政権もダメ、加えて東の東京都西の大阪で「ネオ・ファシズム」とも言うべき政治が進行しているという現実を考えると、今こそ僕らはどんな社会が望ましいのか、しっかりと将来像を構築しなければならないのではないか、ニヒリズムに身を委ねている暇はないのではないか、と思わざるを得ない。
 怒りが静まらない。

どうなるのか?この国の形

2011-10-18 05:16:33 | 仕事
 どうもこの頃気になってならないのは、ドジョウ内閣こと野田政権がどこに向かっているのかよく理解できないことである。
 元々民主党という政党は、右は「自民党タカ派」から左は「社会党」までが政党としての思想性(綱領的立場、未だに民主党は綱領を持っていない)など関係なく、ただ単に「政権奪取=政権交代」をただひたすら求めて集まってできた「野心」の固まりみたいな政党だからあまり多くのことを望んではいけないのかも知れないが、鳩山-菅-野田と続く民主党政権を見ていると、特に最近の「武器輸出三原則の緩和」「国連PKO活動への参加・武器使用の拡大」「沖縄・普天間基地問題への対応」「PTT問題への対応」「脱原発方針の転換」「官僚主導の復活」等々を見ていると、かつての自民党政権時代やその後の自公政権時代を訪仏させるようなことばかりで、これでは何のために「政権交代」を国民は望んだのか、その意味がなくなってしまうのではないか、菅政権時代より何もかも後退しているのでは、と思わざるを得ない。
 何よりも問題なのは、野田政権からはこの国を将来どういう国にしようとしているのか、その形が全く見えないことである。特に、野田政権における「外交」問題を仕切っている感のある前原政調会長の言動は、いかにも「タカ派」然としたもので、自衛隊の海外派兵を決めた自公政権時代の小泉純一郎首相にも匹敵する日本国憲法の「平和主義」を否定するような「アメリカべったり」外交には、慄然たる思いを禁じ得ない。例えば、「武器輸出三原則の緩和」など、自国は日本国憲法の精神を尊重すれば「戦争はできない国」であるにもかかわらず、他国へは戦争の道具である武器を輸出する、という矛盾をそのままに、ただ「経済の活性化=金儲け」ということで推進するつもりなのだろうが、この野田政権(前原政調会長)に「戦争と平和」に関するビジョンはあるのだろうか、と思わざるを得ない。
 これは、「フクシマ」を起こしながら、なお第三世界への原発輸出を止めようとしない民主党政権(菅政権・野田政権)と同じ発想で、野田首相、前原政調会長の出身母体である松下政経塾が元々「保守」であることを考えると、諾(むべ)なるかなと思わないわけにはいかないのだが、普天間基地の辺野古沖移設問題についても、「国外・県外移設」などには全く言及せず、年内にも「環境アセス」を提出して、強引に移設を強行しようとしている。沖縄駐留のアメリカ軍海兵隊のグアム移転に伴って何百億円もの大金を払い、はたまた普天間基地移設で何百億円使う、僕は決して偏狭なナショナリスト(国粋主義者)だとは思っていないが、国民が増税問題で苦しんでいるとき、他国(アメリカ)の軍隊のために何故これほど多額の税金を使わなければならないのか、全く訳が分からない。これは、多額の郵貯の放出を狙ったアメリカの圧力によって郵政改革を強引に推し進めた小泉政権と、やり方は全く同じである。こんなアメリカべったりの追随外交を展開しているから、石原慎太郎東京都知事や橋下徹大阪府知事のような「ネオ・ファシズム」的な指導者が、社会に蔓延するポピュリズムを利用して一定の勢力を伸ばしてくるのだろうと思う。
 いずれにしろ、アメリカべったりの外交は、経済発展が著しい中国や韓国に象徴されるようなアジア軽視につながるもので、尖閣諸島問題や竹島問題などの領土問題への「タカ派」的対応と裏腹で、まさか福沢諭吉時代の「脱亜入欧(入米)」ではないだろうが、この国がどのような方向に進んでいくのか皆目分からないところに、世の中に蔓延している「ニヒリズム」「不安」の原因があるのではないか、と思える。
 ただこの間にも一つだけ「朗報」もあった。それは、日本がアメリカと組んで計画していたモンゴルに原発からの高濃度廃棄物の最終処分場を建設するという目論見が、モンゴル大統領の命令で中止になった、ということである。自国で処理できないもの(だから、原発は人間と共存できないのだ)を他国に持って行く、という経済優先の考え方、こんなご都合主義(ジコチュウ主義)が許されないのは当たり前だが、このモンゴルにおける廃棄物処理の問題は、改めてまだまだ原発問題は大きな課題を抱えていることを僕らに知らせてくれるものであった。
 となると、どうしても「オルタナティヴ」(もう一つの生き方)を考えなければならないのだが、本気で考えたいと思う。

この世を覆うニヒリズムの深さ

2011-10-10 04:09:51 | 近況
 この3連休の前半、8日、9日とパソコンの前を離れて、奥日光の湯の湖に遊んできた。2年前に亡くなった立松和平との関係で知り合った気の置けない友人たちとの、毎年春と秋の2回行われる「句会と温泉めぐり」に参加してきたのだが、参加者のいずれも一家言を持つ全共闘世代(団塊の世代)、それぞれの場から発言される最近の、例えば東日本大震災やフクシマに関する情報やそれらに対するコメント(考え)は、どうしても一方的になりがちな棒の思考に大きな刺激になった。特に、参加者の内2人が東北出身(一人は、福島県相馬市で、今でも実家は津波で跡形もない状態のままだという)で、何度か現地に入って得た結論「政治家や官僚たちの後処理のやり方は最悪だ。彼らは被災者や避難民の生活の現実を全く理解していない」は、そうだろうな、と思っていたので確かに説得力のあるものだったが、僕がはっとさせられたのは、政府や政治家の無策のために、最初抱いた期待が急速にしぼみ、今は全体に「無力感」が漂っている、という発言であった。
 これは、連日マスコミが伝える「復興しつつある被災地」「元気を届けようと、ミュージシャンたちが現地へ」「除洗計画進む」といった一見「前向き」の報道とは真逆のもので、例えば、将来の津波被害に備えて海岸線近くの漁業関係者の住宅を高台に造るべきだ、というのは「漁師の生活を知らない全くの愚案=机上の空論だ。そんなことを考えているから、半年経っても復興が進まず、瓦礫の山もそのままなのだ。そのような机上の空論は、フクシマに対する不誠実きわまりない避難民への対応と同じだ。政府も東電も、また原子力関係の御用学者も、そしてマスコミも全くそう思っていないのに、近いうちに帰郷できる、原発事故は・放射能汚染は収束に向かっている、などとデマゴギーを流している」というのである。
 誰も彼も「ポリシー(信念・哲学)がない」ということなのだろうが、泊まった湯の湖温泉の宿の女将から伝えられていた「この時期の3連休、例年通りなら「いろは坂」は上るのも降りるのも大混雑で6・7時間かかる」という言葉とは裏腹に、行きも帰りも車はすいすいと普段と変わらず、途中で寄ったお店の人の話では、「やはり不景気なんですかねー。お客の数が少ない」とのこと、またこれは僕の主観なのだが、せっかくの行楽なのに、宿泊客も観光客もおしなべて「楽しそうでなかった」というのは、世相を反映してのことだったのかも知れない、と思わざるを得なかった。
 政治がろくでもないから、世相もそれに連動して「絶望」的にならざるを得ない、というのは、先に書いた村上春樹がノーベル文学賞を受賞するかしないかを巡るマスコミの対応にも現れているようで、僕が取材を受けた産経新聞の記者も日本テレビ(大阪よみうりテレビ)のディレクターも、「何だか今年は静かですね」というのが、いやにリアリティがあった(僕に取材した記事は、産経新聞10月4日付、日本テレビは7日の「キヤネ屋」という情報バライティー番組に顔写真付きで登場)。村上春樹がもしノーベル文学賞を受賞すれば、それは久々の「快挙=慶事」のはずなのに、僕と違って「可能性がある」と言い続けている批評家や出版関係者たちの言動も「静か」で、去年までのマスコミ対応とは明らかに違っていた。こんなところにも日本全体を覆う「ニヒリズム」の影が、と思ったものだが、その原因はどうもこれからの日本がどこへ行くか分からない状態にあるのではないか、と思った。
 こういう時は、空元気でもいいから元気を出すことが大切なのかも知れない。

村上春樹は何故ノーベル文学賞を受賞できなかったのか

2011-10-07 04:20:02 | 文学
 昨日の夕方、日本テレビの報道局を名乗る女性から電話があり、「今夜8時にノーベル文学賞の発表があるが、受賞したらコメントを戴きたい」というので、一応「いいですよ」という返事をしたのだが、その時思ったのは、例年に比べ今年はあまりフィーバーしていないが、何故だろう、ということであった。10日ほど前にも、産経新聞大阪本社の文化部(学芸部?)だというY氏(女性)から「村上春樹文学の特徴を教えて欲しい。また彼は今年ノーベル文学書を受賞するだろうか」という電話があり、1時間ほど話をして(その時話をしたことは、ネットから10月4日の「産経ニュース」で読むことができる)、「そうか、またそういう季節になったんだな」という思いをしたのだが、ノーベル賞の各部門(物理学賞など)が発表になったにもかかわらず、僕の購読している朝日新聞も東京新聞も、また娘の家で購読している地方紙にも「村上春樹」の名前が出ることはなく、日本テレビから電話が来るまですっかり忘れていた、というのが正直な話である。
 産経新聞の取材にも、また日本テレビの取材でも、僕は村上春樹のノーベル文学賞の受賞は難しいのではないか、と答えておいたのだが、すでに多くの人が知っていると思うが、結果は昨夜の8時に僕が予想したとおり、今年もダメであった。
 この結果について、冗談まじりに本音を言えば、村上春樹について2冊の本を出している僕としては(産経新聞も日本テレビも、また昨年・1昨年のNHKも拙著を読んだので、取材するのだ、と言っていた)、村上春樹のノーベル文学賞受賞によって、それらの本がいくらかでも売れてくれればいいな、という思いはいつも持っていたので、残念だという気持ちは多くの村上春樹ファンと変わらないのではないか、と思っている。
 ところで、何故、ここ何年か毎年ノーベル文学賞の候補としてノミネートされ、イギリスの「ブックメーカー(賭け屋)」などによれば常にその掛け率が高く、可能性を伺わせ続けてきて「今年こそ」という思いを本人も、また関係者(出版社や編集者、など)も抱いていたであろうに、これまでずっと受賞しなかったのか。
 現時点で、理由は二つあるように、僕は思っている。一つは、これが最大の理由だと思っているが、作品内容に「ブレ」が多い、ということ。「ブレ」とは、これまでのノーベル文学賞の受賞者を見てくると、大江健三郎もそうであったが、ノーベル文学賞作家には「社会性」(辻井喬流に言えば「論理性」「思想性」ということになる)が必要で、つまりその作品内容が現実世界や社会の問題とどのように関わりを持つか、あるいは人間の過去―現在―未来といった「歴史」とどのように交差してくるのか、というようなことが重要視される傾向にあるが、村上春樹の作品にはそのような「社会性」「歴史性」を持つものとそうでないものとが混在していて、(たぶん村上春樹はそのことに無自覚だと思うが)そのような作品内容の「違い」(作者の「迷走ぶり」)のことに他ならない。文明批評・社会批評の側面が村上春樹の文学にはあったりなかったりしている、と言ったらわかりやすいか。
 例えば、この「ブレ」は、一つの作品の中にも見られ、すでに拙著『「1Q84」批判と現代作家論』の中で詳述しておいたが、『1Q84』の「book1」および「book2」と「book3」とが、全く違う作品のような構成になっている、というようなことである。多くの評者は、これぞ「ポスト・モダン文学だ」などと言って村上春樹の文学を称揚してきたが、この「ブレ』が存在する限り、ノーベル文学賞は遠いのではないか、と思う。
 二つめの理由は、例えば先に僕が批判したカタルニア国際賞の受賞スピーチにおける「日本人は核に対して『NO』を叫び続けるべきだった」というような「社会的発言」、あるいは1昨年になる「壁と卵」と題するエルサレム賞受賞講演を、何故日本国内で日常的に行わないのか、文学が国民(民衆)と共にある(その国民の精神的な抑圧からの解放を主眼とする)ものだとすれば、世界でいくら数多くの読者を得ていたとしても、国外で単発的に行うスピーチはその内容に間違いがなかったとしても、ある種のパフォーマンスにみえるのではないか、ということである。
 いずれにしろ、村上春樹がこのままの作風でいるならば(『1Q84』のような作品を書き続けるならば)、ノーベル文学賞の受賞は当分のあいだ難しいのではないか、というのが僕の率直な感想である。日本テレビは、受賞しなかったという報告電話のあとに、「また来年お願いします』といっていたが、はてさて来年はどうなるか。来年ことを言うと鬼が笑うから、来年ことは来年が来たら、ということにしておこう。

権力の恐ろしさ(2)

2011-10-06 09:28:39 | 文学
 先にも最近の野田政権が露骨な形で僕らの前に開示した「権力」のことについて書いたが、今度出る『辻井喬論―修羅を生きる』(仮題)を書いている途中、ずっと思っていたのは、「主権在民」とは言いながら、実際は「主権官僚」ないしは「主権政治家」と言うべき実態を日々知らされると、僕らにできることは一体何なのか、ということであった。特に、現代のポピュリズム(大衆主義・長いものには巻かれろという生き方)に乗った石原慎太郎東京都知事や橋下徹大阪府知事の言動が象徴するような「政治」の在り方――東日本大震災やフクシマに関する石原都知事の言動(それは、今ベストセラーになっているという『新・堕落論―我欲と天罰』<新潮新書>によく現れている)や橋下大阪府知事の「日の丸・君が代」条例の制定や大阪府民を馬鹿にしたような知事を辞任しての大阪比朝鮮への出馬表明など――を目にすると、石川啄木がいわゆる日露戦争後(明治末)の「冬の時代」の中で発した「われわれ日本の青年は、いまだかつてかの強権にたいして何らの確執をもかもしたことがない」という言葉(後に大江健三郎がこの言葉を「強権に確執をかもす志」ということで、反権力を象徴させた)の意味を、改めて考えざるを得なかった。
 それは、対象として書きつつあった辻井喬が、西武百貨店(セゾングループ)の総帥堤清二として戦後の日本経済の一端(流通部門)を牽引してきながら、胸奥にかつて東大生だったときに共産党員として関わった革命運動時代の「志・思想」を秘めでいたからなのであろう、この困難な時代に大江健三郎と同じように「強権に確執をかもす志」の大切さを随所で書き、語っていたからでもあった。辻井喬の言説に接していると、どんなに絶望的な時代であっても、斜に構えたり「ニヒリズム」に陥ることは犯罪的でもあるのではないのか、という思いを抱かせられる。
 文学にも「力」があるんだな、と思わせる瞬間であるが、しかし現実に起こっていることは、先にも書いたフクシマにおいて猛毒放射能であるプルトニウムやストロンチウムが半年も経ってから発見されたという何とも「情報隠し・情報操作」が見え見えの報道――マスコミにも、政府発表に追随してきた「罪」があるのではないか、と思う――であり、「復興財源」の確保という名目で増税案を提出しながら、公務員宿舎や地方における(国の出先機関用の)合同庁舎の建設に何百億円も支出するという、何とも笑えないちぐはぐさに「おかしいのではないか」と思わない政治家とそれを裏で操る官僚たちの感覚、前にTBSテレビの「ニュース23」で「壊」をテーマとして取り上げていたことがあったが、まさに現代は社会の隅々で「壊」が進行しているのではないか、と思わざるを得ない。
 それもこれも「権力(構造)」だけが強固に国民の頭上に君臨して、「人間」がスポイルされても、それに気付かない社会になっているからではないか。実に由々しき事態になっているが、一介の文学の徒(批評家)に何ができるか、今こそ真剣に考えなければならないのではないか、と思っている。

昨今の「フクシマ」のこと(2)―「権力」の怖さ

2011-10-04 04:55:35 | 近況
 昨今の「フクシマ」に関する報道を見ていて、時々「薄ら寒い」感じを覚えることがある。それは、単純に「権力」と言ってもいいし、あるいは「権力構造(システム)」と言ってもいいのだが、今まで経験したことのない「フクシマ」が出現したことで、それまではベールに包まれてていてはっきりとは見えなかったその「権力」あるいは「権力構造」が剥き出しにその真姿を見せるようになったからである。
 例えば、九州電力という1企業が佐賀県知事や県議会、及び佐賀県民を「カネ」で籠絡し(操って)、原発を建設し続け、挙げ句の果て、「フクシマ」が起こったら、我が社の玄海原発は「安全である」ということをアピールするために、社員やその関係者を公聴会や公開討論会に動員して「玄海原発は安全」「原発は(危険なプルサーマル計画を含めて)推進すべきである」といった発言をやらせる、しかもそれらの「原発容認」発言を県知事が促す、といった「やらせ」は、何のために行われたのか。「やらせ」は九電だけでなく北海道電力でもあり、明らかにこれは原発が「国策」であり、その国策は「国民」不在の経済最優先のこの国の在り方によってもたらされたものであること、そのことの恐ろしさを僕らは真剣に考えなければならないのではないか、と思う。
 二つめは、僕らが毎月毎月払っている電気料金の仕組みが「フクシマ」後に次々と明らかになってきているが、その電気料金に加算されている、例えば原発建設に伴う加算、誰がどのような形で承認したのか、またその実際の加算額はいくらなのか、本当に加算されるべきものなのか、等々、不明のものが多く、どうもこれは電力業者の思惑もあったのだろうが、それよりはどうもその加算で経産省(旧通産省)や財務省などの「天下り」先が潤うような仕組みを考えた官僚と電力会社から政治献金(パーティ券購入も含む)を受けていた一部の政治家によって決められたもののようで、その仕組み(構造)が垣間見せる伏魔殿的な在り方、何とも不気味である。
 三つ目は、何とも「姑息」なやり方で隠蔽されていることではないのだが、国内では「脱原発」やら「減原発」を唱えながら(このかけ声も、野田政権になってだんだん曖昧になり、これからはどうなるのか分からないが)、外国へは平気で原発を売り出そうとする政財界一体となった「経済優先」体制、そこで思い出すのが、かつて水俣病を引き起こしたのと同じ肥料会社が国内では生産が制限されるので東南アジア(タイ)に進出し、そこで工場排水を垂れ流したのか、タイ湾で獲れる魚に水俣近くの海でよく見られた「奇形魚」と同じものが増えてきた、というニュースである。「カネ」のためなら他国がどうなろうと知ったことではない、これが資本主義の本質であり、資本主義の最先端を行く欧米の先進国が第三世界に対して行ってきた所業だとしても、これは人間という存在を基本的なところでスポイルすることではないのか。
 第4番目におかしいなと思うのは、「フクシマ」が起こって、国会でも代替エネルギーの開発・促進が議論され、代替エネルギーに関する法案さえできたのに、電力業界の既得権を守るためなのか(様々な形で流れ込む「政治献金」のためなのか)、一向に代替エネルギーを開発しようという機運が感じられないと言うことである。これは、当然にも「節電政策」にも連動している。マスコミを動員して連呼している「電力不足」に対して、研究者を含め多くの人が「自然エネルギーや眠っている火力、水力発電の装置を稼働させれば、全く問題ない」と言っているのに、そのことをまともに取り上げることなく、いかにも当然だとばかりに「電力不足には原発ありき」といった論理だけが罷り通る今日、フクシマで何が起こっているのか、本当に分かっているのか、疑いたくなる。首相自らが「安全性を向上させて、止まっている原発を再稼働させる」と言っている政権に多くのことは望めないと思うが、ひどいな、としか言いようがない。
 その他にも「フクシマ」関係の情報を小出しにしか出さない、東電、経産省(原子力保安院、等)、文科省、とそれにくっついている原子力学者(研究者)たちの有り様、すべて「国民・大衆」を置き去りにしたところで起こっており、これが「権力」(権力構造)か、と痛感させられる。そして思うのは、この国は「主権在民」を謳った日本国憲法を持つ国ではないのか、ということである。
 「オルタナティブ」が必要だな、としみじみと思う。