黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

少し落ち着きました。

2010-03-29 05:16:26 | 近況
 先週は、水曜日に会議があって、木曜日には卒業式、そして土曜日には「立松和平を偲ぶ会」、慌ただしい1週間でしたが、昨日グループホームで生活する義母のところを訪れ、帰りに日帰り温泉でゆっくりしたので、ようやく落ち着いた気分になることができた。
 それにしても、「立松和平を偲ぶ会」、実行委員として朝10時半に青山葬儀場の方に出かけ、準備状況をチェックしたり、役割分担の変更をしたりして、午後2時の開始を待ったのであるが、届けられた供花の数220余り、開始時刻前にすでに300席用意した会場から人があふれ、結果的に参会者数は正確に数は把握できなかったが、結果的に1000人余り、またその数に応じた供物香典の金額( )円、改めて立松がいかに多くの人に愛されていたかを知らされた。
 読まれた弔辞は、(読まれた順)
・福島泰樹(歌人・僧侶):導師として読経の合間に、立松との出会いと文学について。
・北方謙三(作家):実行委員会委員長として、若き日の出会いについて。
・黒井千次(作家):立松の文学的特徴を中心に。
・三田誠広(作家):同じ「団塊の世代」の作家としての思い出を。
・黒古一夫(批評家):27年間に及ぶ交友と『立松和平全小説』(全30巻)について。
・加藤宗哉(作家・三田文学編集長):立松との出会いと「晩年」の連載について。
・高橋伴明(映画監督):映画「光の雨」や句会のことなど。
・佐野博(知床の友人):長きにわたる交友と知床毘沙門堂・太子堂・観音堂について。
・辻井喬(作家):立松と中国との関係について。
・高橋公(ふるさと回帰支援センター):早稲田の学生だったころからの交友について。
 *辻井さんが僕らより後になっているのは、どうしても抜けられない別な会合を済ませて  からというので、後ろの方に予定せざるを得なかったのである。また、法隆寺や永平   寺、中宮寺、京都仏教界、など立松と親交のあった「仏教界」からも管長や高僧ら多数  が列席したが、「偲ぶ会」は「作家・立松和平」を偲ぶ会ということで、「弔辞」はも  らわなかった。
 いずれの弔辞も立松の幅広い活躍を証すもので、胸打たれ、自分の番が回ってきたとき、きちんと読めるかどうか覚束ない心理状態になってしまった。それでも口頭ではなく文章を読み上げればいいのだと言い聞かせ、何とか最後まで(途中で何度か言葉に詰まるところもあったが)滞ることなく読み終えることができた。弔辞を読み終えて席に座った時、ようやく立松の「不在」を実感することができ、その後はその「立松の不在」をめぐる思考に占有されることになった。ただ、時間的には沈思している余裕はなく、指名焼香が終わった後は記念品『追想集 流れる水は先を争わず』を渡す作業の責任者として、1000人以上の人に袋がきちんと渡されるか、見守ることに専念した。
 そんな帰路に立っていたからか、多くの懐かしい顔に出会った。お互い年をとったせいか、相手から声をかけられるまでわからないという人もいたが、大方は「久しぶりですね」と声をかけていただき、たちどころに往時を思い出すことができた。彼らの多くは、「偲ぶ会」のことを何らかの形で知り、駆け付けてくれたのである。大半は長くは話せず挨拶だけで終わってしまったのだが、「ご活躍ですね」などと言われ、嬉しかった。
 後始末の終わったのが4時半、それから新宿に移動し、関係者(お手伝いに来てくれた人も含む)だけの会費5000円の慰労会。多くは見知った顔であったが、その中に「偲ぶ会」の会場ではわからなかった懐かしい人もいて、立松との関係を酒の肴に大いに盛り上がった。「二次会に行こう」と誘われたのだが、酒が限界に来ていたのと、前日あまり眠れなかったということもあり、疲れ切ったので8時過ぎに新宿でみんなと別れ、つくばに着いたのが10時、そのままバタンンキュー。
 立松の「偉業」についての検証はこれからの作業ということになるが、翌朝(昨日)しみじみと思ったのは、もうあの独特な語り口の謦咳に触れることはなく、また立松の「新作」は読めないということであった(実は、立松が倒れる前まで連載したり、書き下ろしで準備していた『良寛』と『田中正造』(仮題)は、担当の編集者に聞くと、9割以上が書き終えていたので、近いうちに刊行されるとのこと、である)。なお、同時に思ったのは、改めて立松の文学がいかに人々の胸を打つものであったかということと、そのことに関連して『全小説』はなにがなんでも順調に刊行し続けなければならない、ということである。
 1冊4500円は高いかもしれないので(ただ、予約購入すると割引制度があり、3800円ぐらいで購入できるのではないかと思うが、詳細は版元の勉誠出版に問い合わせてください)、個人購入は無理だとしても、公共図書館にリクエスト(購入希望)して、できるだけ多くの人が立松の小説を読んでくれればいいな、と思う。
 なお、立松の文学については、その変遷や意義について来月刊行予定の『情況』誌に37枚書いたので、そちらを読んでくだされば、立松文学の大方は理解できるのではないかと思います。また、近いうちにNHKが1時間の「立松和平・追悼」の番組を作るということで、そこには僕も出演が予定されているので、確定しだいお知らせします。
 ついでに言えば、あと1本、追悼文が残っています。立松と僕が撰者になっていた「解放文学賞(小説部門)」の入選作が載る『解放』臨時増刊号に掲載予定のものです。まだまだ終わらない、というのが実感です。

連休中・ジャガイモの植え付け

2010-03-23 05:00:45 | 近況
 三連休の1日目、「情況」編集部に頼まれていた「追悼 立松和平の文学」37枚を仕上げ、メールで送付し、ようやく立松和平の急逝に伴う追悼文やら立松文学についての解説、など急ぎの仕事が終わった。全部で6本、合計の枚数73枚(追悼文3本10枚、『遊行日記』の解説10枚、「下野新聞」立松和平・作品と活動11枚、「大法輪」立松和平の文学15枚、「情況」「鬱屈と激情」の行方37枚)、重複はできるだけ避けようとしたのだが、「立松和平の文学」に関しては、依頼内容が「追悼の意味を込めて」ということだったので、内容的に重なる部分が生じてしまった。それでも、「下野新聞」の場合は、立松の故郷である宇都宮(栃木県)との関係を前面に押し出すことを、また「大法輪」では「遊行」や「仏教」との関係を強調し、「情況」では立松文学の根っこに学生運動=全共闘運動体験が存在することから筆を進めていったので、3つの文章を読み比べてみれば、それなりの「違い」はわかるのではないか、と思う。
 ただ、立松に関しては、待ったなしで刊行されることになっている『立松和平全小説』(今週末には第3巻が刊行される)の「解説・解題」を以降も書かなければならず、休んでいる暇なく、「情況」誌の原稿が終わった時点で、第6巻の「解説」に取り組んでいる。立松の死を未だに納得できないのも、立松和平という作家とその文学にこの間ずっと付き合い続け、以後も『全小説』の解説・解題を書かなければならず、その間には立松との「会話」をあと2年以上続けていくことになるからかも知れない。
 その立松に関して、今「楽しみ」(不謹慎な言葉だが)にしているのは、3月27日に行われる「偲ぶ会」の当日配られる『追想集』についてである。64人が寄稿し、100ページを超える冊子になったこの『追想集』、文学仲間や先輩たちはもちろん、早稲田大学時代からの友人や故郷の友人たち、また永平寺の関係者や歌舞伎(松竹)の関係者、等々、様々な分野の人たちが、急なお願いにもかかわらず快く寄稿してくれ(原稿料タダで)、立松の人柄を伝える良い『追想集』になったのではないか、と関係者の一人として喜んでいる。
 なお、この『追想集』に関して、3月27日の当日青山葬儀場に来られない人にも、希望があれば実費でお分けすることになっているので、「偲ぶ会」事務局(ふるさと回帰支援センター・安田さん:電話03-3543-0336)にお問い合わせください。
 閑話休題。
 連休2日目と3日目は、ジャガイモの(種の)植え付け、2日は「春の嵐」が吹き荒れる中、10日ほど前に落ち葉や堆肥を入れた畑にもう一度耕運機を入れ、丁寧に耕した後、さくを切り(畝作り)、家人が半分に切って灰を付けた種イモを30センチ間隔で置き、種イモと種イモの間に油粕と骨粉を混ぜた肥料を撒き、土をかぶせて終わり。なのだが、諸般の都合で今年は、キタアカリ5キロ、メークイン5キロ、男爵5キロ、と普通の家庭菜園では考えられないような量を植え付けたので、結構時間もかかったのだが、途中から小学校2年と幼稚園を卒園したばかりの二人の孫が手伝ってくれたので、予定より少ない時間で蒔き終わることができた(「猫の手も借りたい」という言葉があるが、小学校の低学年とはいえ孫たちは「猫の手」より随分とましであった)。
 翌日は、家人の実家のお墓参り(僕の家は先週の土曜日は母親の13回忌を済ませていたので、今回はパス)を済ませ、今年から本格的に家庭菜園に取り組むという義兄の畑で、ジャガイモの植え付け(僕の家と同量、初めてなのにこれも諸般の都合で大量に種まきをした。200坪以上ある広い畑なので、15キロの種イモを植え付けても、ほんの一部でしかなかった)、それが終わった後、どうしてもアスパラを作りたいというので、種苗店に行き、アスパラの株を10個買い、1株を半分に分け、都合20個の株にし植え付けた。今年は細いアスパラしかできないと思うが、2,3年後には市販されているぐらいの太さのものが収穫できるのではないか、と思う。その他、種苗店で買ってきたキャベツの苗や水菜、ニンジン、などの種をまき、本日の農作業は終了。朝早くからの作業で疲れたので、近くの日帰り温泉(源泉かけ流し・料金300円)でのんびりし、帰宅。疲れたので、早々に就寝。
 これが、僕の連休3日間でした。

迷走続く民主党政権

2010-03-21 07:11:57 | 近況
 鳴り物入りの「政権交代」も、どうやら化けの皮がはがれ始めたようで、初めからそんなに期待していなかったということもあるが、最近は新聞やテレビの「政治」報道に接しても、出てくる言葉は「またか」で、どうもこの国の政治は当分「混迷」「瞑想」の状態から抜け出せないのではないか、と思われてならない。
 「政権交代」というのは、本来ならアメリカやイギリスの例を持ち出すまでもなく、現実政治の場面では根本的な「変化」がなければならないのに、民主党の中核が「元自民党」によって担われていることが象徴するように、基本的なところで「自民党政権」時代と変わっていない。政権の座に着いた途端噴き出した党首の鳩山由紀夫と幹事長の小沢一郎に関わる「政治とカネ」問題がいい例だが、自民党政権の時代に何度この「政治とカネ」問題(収賄事件や利権問題)は生起したか。どうも本人たちはそれほど世間を騒がせる問題か、と思っているようだが、実質的に収入が目減りしている現実に四苦八苦している庶民にしてみれば、自分たちに全く無縁な金額を「政治資金」として使っている政治家に自分たちの生活を託す気持ちになれないのは、ごく自然なことである。「コンクリートから人へ」というのは、民主党のマニフェストの一つであったが、「相変わらずコンクリートへ」となってしまったのも、そこにはこの国の経済を底支えしている土木建設業界の「カネ」が大いにものを言ったからではなかったか、と思われる。
 前にも何度も書いたことなので詳細は避けるが、仕事柄これまで多くの「地方」へ行った経験から言わせてもらえば、東国原(そのまんま東)宮崎県知事が何と言おうが、もうこれ以上高速道路はいらないのではないか、「高速道路建設は、地方活性化の起爆剤だ」という思想が有効性を失ったから「コンクリートから人へ」と宣言したはずなのに、選挙目当てなのかどうかわからないが、また再び「高速道路建設の推進」が叫ばれ、政権与党もそれを認めるという事態になっている。これでは「政権交代」のスローガンが涙を流すのではないかと思われるほどに、自民党政権・自公政権時代となんら変わらないことになってしまう。
 また、これはあまり大きな議論にならなかったようだが、「CO2 25パーセント削減」という目標値を実現するために、今後原発を14基増設するという。すでにこの狭い日本に53基が稼働しており、これからは次々と耐久年数を超えた原発の処理問題が起こってくるというのに(原発から排出される「高濃度放射能廃棄物」の最終処分地さえ決まっていないうえに、これからは古い原発を解体し、高濃度放射能に汚染された炉心部分を処理しなければならないというような問題が解決していないのに)、である。原発を増設するお金があったら、なぜ自然エネルギー(太陽光発電)の獲得に力を注がないのか。昨日、久しぶりに高崎線に乗って上京したが、沿線から見える住宅に太陽光発電用のパネルを乗せているいる家は数えるほどであった。太陽光発電設置に補助金を大量に出した方が、より「エコ」になるのではないか、と思うが、どうも民主党政権にはそのような発想はあまりないらしい。どうなっているのか。
 そして、決定的なのは、普天間基地移設問題である。どうやら、迷走に迷走を重ねながら、結論としては「沖縄県内」に移設先は決まりそうだが、これほど国民を裏切ることはないのではないか。この普天間基地移設問題は、日米関係(とりわけ安保条約=日米軍事同盟を中心とした)を「見直す」よい機会だったのに、アメリカに屈する形で(自公政権時代から何ら変わることなく)「県内移設」だという。国際政治が多極化している現在、2700億円余りの「思いやり予算」が象徴しているが、これほどまでにアメリカに追随していてよいのか。沖縄県民(日本国民)の「怒り」がどこに由来しているか、民主党政権も自公政権と同じようにわかっていない。素朴に考えて、あんなに数多くある沖縄の米軍基地のうちの一つを「つぶせ」ないで、何が「対等」か、である。
 多くの国民が、この「政権交代」は何であったのか、と失望を感じていると思う。だからといって、自民党に今後の政治を託すこともできない。国民も「迷走」せざるを得ない。
 どうなっちゃうのかな、と思いつつ、天気が良くなったので(風は強いが)、今日はジャガイモの種植えをする予定。土つくりは先週たっぷり落ち葉(腐葉土)と堆肥を入れて出来上がっているので、今日は畝を作って種イモを植えるだけで済む。準備した種イモは、キタアカリ7キロ、メイクイーン5キロ、男爵3キロ、である。6月の収穫時に、どれほどができるか、楽しみである。

「立松和平を偲ぶ会」について

2010-03-19 05:46:09 | 文学
 すでにお知らせしたことですが、来る3月27日(土)午後2時~、東京青山葬儀場(地下鉄千代田線乃木坂駅徒歩3分)にて「立松和平を偲ぶ会」が開催される。古くからの友人や関係者が実行委員(委員長:北方謙三)となって遺族と相談しながら企画・準備してきたものだが、「偲ぶ会」が近づくにつれて、改めて立松和平の新作がもう読めないのだという悲しい思いとともに、立松の急逝を惜しむ人々がいかに多いか痛感している。
 「偲ぶ会」には、参会してくれた人に記念品として各界・各層から寄せられた「思い出」や「お別れの言葉」(最長800字)『流れる水は先を争わず―立松和平追想集』(タイトルは、立松が色紙などに好んで描いた言葉で、立松の筆跡をそのまま使っている。64人が寄稿・100ページ余り)に持って帰っていただくことになっているが、その北方謙三以下の寄せられた文章を読むと、立松が多くの人(多彩な分野の人)から如何に愛されていた作家であるか、がわかる。「社会派の作家」などと書くと、立松は苦笑いしながら「そんなこと言うなよ」と言うのではないかと思うが、「時代とともに」あった作家にふさわしく、北は北海道知床で立松と一緒に毘沙門堂を建立した人から、南は沖縄の文学者(大城立裕・高良勉)まで、数多くの人が立松の急逝を心から惜しむ文章を寄せている。
 当日はどのくらいの人が参会してくれるのか、予想もつかないが、実行委員の一人として「偲ぶ会」が滞りなく進むことだけを今は願うばかりである。
 なお、それとは別に、立松の新刊(エッセイ集)『遊行日記』(勉誠出版刊)が1週間ほど前に刊行されたが、版元から依頼され急遽「解説」を書いた者から言わせてもらうと、生前の立松が刊行を強く望んでいただけあって(そうであるが故に、余計そのように思うのかもしれないが)、ここに収められた文章の多くが、僕には立松の「遺言」のように思えてならなかった。言い方を換えれば、立松の家族をはじめとする人間存在そのものに対する限りない「愛=全肯定の思想」がこの本の中には書かれており、僕にはそれが立松の「最後のメッセージ」のように思えてならなかった、ということである。
 これは、最新の小説2冊『寒紅の色』(北國新聞社刊)・『人生のいちばん美しい場所で』(東京書籍刊)にも言えることで、読みながら思わず「和平さんよ、人間に対してこんなに優しくなっちゃって、いいの」と言いたくなるような作品に仕上がっていた。最初読んだときは、立松も「老境」に入ったのかなとも思ったのだが、立松が最後にたどりついた「ブッダの思想」とも言うべき「全肯定の思想」がこの2作で実践されている、と思わざるを得なかった。読んで決して損をしたと思わない本である。

 さて、3月14日のNHK・FM放送「トーキング ウイズ松尾堂」をお聞きくださった方々、ありがとうございました。僕も半分耳をふさぎながら聞いたのですが、ある人から所々「群馬弁(上州弁)」が混ざっていておもしろかった、と言われ、大江さんと長時間話すというので緊張したせいかな、と苦笑いしてしまいました。ただ、大江さんの文学や新作の『水死』については、ぼくの思うところを話せて、僕としては満足してます。

放送日(3月14日)が近づいてきました

2010-03-12 05:58:11 | 文学
 以前にもお知らせしましたが、大江健三郎さんと大江さんの最新作『水死』を中心に「おしゃべり」したNHK/FMの放送日が近づいてきました。
 番組名を改めてお知らせすれば、「トーキング ウイズ松尾堂」です。毎週日曜日のお昼12:15~1400まで、ホストの松尾貴史がゲストを招いて、その時々に話題となっていることについて「おしゃべりする」、というものです。今回は、「大江文学と時代を語る」と題して、難解と言われる大江文学について、本人(大江さん)の解説を交えて僕の解釈や文学史的位置(意味)、系統性を語ると同時に、『水死』がどのようなメッセージを発している作品なのかを話しました。
 『水死』に関しては、今回のこの放送の他に、大江さん自身が新聞や雑誌のインタビューでその創作意図を語ったり、多くのメディアに「書評」や論評が載り、その意味では『水死』に関して一大キャンペーンが展開されたという印象を持ったが、とかく「難解」と言われる大江文学について、どのような形であれ、読者に対して「親切」であるのは、決して悪いことではないと思っています。何故なら、『水死』の関する(たぶん)版元が仕掛けたであろう今度の一大キャンペーンは、出版不況の代名詞の如く言われている「純文学」作品の不振に対する「反攻」、あるいは「異議あり」の姿勢を示すものと言ってよく、文学作品を「読む』(つまり、「考える」)ということの意義・意味を改めて伝えるものになっていると思うからです。
 例えば、最近「電子書籍」(とそれを読む機器の進化)についての話題がマスコミ・ジャーナリズムを賑わしているが、IT端末で「本を読む」という行為は、真に「本を読む」ということなのか、と考えてしまうということがあります。これはもしかしたら、僕のように基本的にはアナログ人間の僻みかも知れませんが、どうもインターネットで得られる「情報」(電子書籍も「情報」として処理されているのではないでしょうか)は、「見る」あるいは「知る」ことには便利でも、「考える」という行為には不向きなのではないかと思っているからです。つまり、何年か前流行った「あらすじで読む日本文学(世界文学)と同じように、ミステリーやケータイ小説などのエンターテイメント作品などはいいかもしれないが、「純文学」作品を果たして「iPad」などの端末で「読む」(考える)ことができるのだろうか。1ページに大体700~800字ぐらい入っている書籍(冊子体)に対して、CMなどを見ていると、せいぜい1ページに100字程度しか入らない電子書籍は、小学校から大学まで冊子体の教科書で文章を読む(考える)ことに慣れてきた者にとって、「見る」ことはできても、「考える」のには不向きなのではないだろうか。僕らは、ケータイ小説が何故一部の若者にしか受け入れられないのか、僕の知る限り大学生になるとケータイ小説は完全に否定される(バカにされる)のは何故か、もう一度考え直さないと行けないのではないか、と思う。僕の知る限り、IT王国(先進国)のアメリカにおいても依然として「冊子体」の書籍の読者が圧倒的に多いのは何故か、繰り返しますが、今僕らはそういうことを根本的に考える必要があるのではないだろうか。

 なお、これもすでにお知らせしていると思いますが、3月14日(日)放送の大江さんとの「おしゃべり」、これはすでに1ヶ月前の2月15日に録音をしたものです。3時間近くのトークが1時間45分に編集されるというわけですが、どのように編集されたのか、楽しみです。因みに、このトーク番組では、「おしゃべり」だけでなく、僕と大江さんがそれぞれ思い出深い曲を2曲ずつ選んで放送するほか、もう1曲、確かモーツアルトの「交響曲第40番ト短調」の第1楽章が流れます。僕が選んだ曲は、秘密です。
 どうぞ皆さん、お時間のある方は日曜日の午後の一時、NHK/FMの放送をお楽しみ下さい。

「核密約」、あるいは権力の狡猾さについて

2010-03-10 09:09:56 | 近況
 昨夜のテレビニュースに始まって今朝の新聞各紙は、その1面に外務省が「有識者」に依頼して調査していた「核密約」に関する報告書に関する報道で埋まっていて、それを見たり読んだりした限りにおいて、「報告書」は国民(僕)が予想した範囲を出るものではなく、その意味では、少々期待はずれであった。もっと「爆弾情報」のようなものが出るのではないか、とも期待していたのである。
 そもそも、この「核密約」問題は日本が「国是」としてきた「非核三原則」の一つ「持ち込ませず」に関して、アメリカの艦船や航空機が核を搭載して日本の港や基地に立ち寄ることを認めるか否か、について「密約」があったかどうかというものであった。またそれは、アメリカ(西側)がソ連や中国(東側)と敵対関係にあった「冷戦構造」下の、「冷戦」といえども「戦争」状態にあった時代の「アメリカに従属する日本」の現実がもたらしたものであった。具体的に言えば、1960年代の後半、ベトナム戦争が激化するに伴って原子力潜水艦が横須賀や佐世保に寄港し、三沢や岩国、沖縄(嘉手納)などの米軍基地から直接ベトナム攻撃のために航空機が飛び立っていくようになったが、まさに「冷戦」構造の産物であるベトナム戦争において、一方の戦争当事者であったアメリカ(軍)が、日本が「非核三原則」を掲げていたからといって、原潜や原子力空母、あるいは航空機に搭載していた「核弾頭=核兵器」をいちいち取り外すはずはなく、「事前協議」がなかったから「核兵器は持ち込んでいない」という政府(自民党)の説明は、「現実」は密約に基づき核兵器を「持ち込ませる」ものであったが、「非核三原則の堅守」という「幻想」を語ることによって、「あることもないことにしよう」とする姑息な手段だったのである。
 つまり、国民の多くは「非核三原則」が「幻想」であると知りながら、「本当のこと=現実」を知りたくないが故に、政府の「非核三原則は堅守している」という言葉にすがって、現在をやり過ごそうとしていたのである。僕が大学に入った1965年、学生運動の最大の対象は「原潜寄港反対・阻止」であった。被爆国日本に「核」が「持ち込まれる」ことに学生たち(学生だけでなく、当時青年労働者を組織していた「反戦青年委員会」や当時の「総評」(現在の「連合」)など)は反撥し、各地で集会やデモを行っていた。僕も、1年生でありその意味を深く知ることはなかったが、子供の頃から育まれていた「反核」意識に基づいてデモや集会に参加していたのである。
 友人がパスポートを持って上陸していた復帰前の沖縄から、極東最大の米軍基地嘉手納には、どうも「核兵器貯蔵庫」があるらしい、との報告などもあり、僕の中でアメリカ軍が日本に核兵器を「持ち込んでいる」のは当たり前のこととしてあった。
 長じて、「原爆文学」や「核問題」についていろいろな文献を読み、実際に見聞したりするようになり、若い頃は直感的であった「核の持ち込み」の現実について、それは「実際のこと」であると確信するようになった。国民の大多数は僕と同じように思っていたのではないか、思う。テレビや新聞が大騒ぎしながら報道しても、このニュースに対して国民は「冷めた」感じだなと思われるのも、それは「既知」のものだったからではなかったか。今「核」に関して問題なのは、北朝鮮の「核疑惑」や肥大化する中国の国防費との関連で、日本も「核武装すべきである」という政治家や論客が存在することに他ならない。彼らの存在こそ、「権力」を握ったら「ファッショ=全体主義的」な政治を行い、日本を再び「破滅」へと導くもので、問題にすべきことだと思う。
 普天間基地の移転問題がデッドロックに乗り上げているように見えるのも、今度の「核密約」と同じように、戦後65年、日本が「経済」の面ではいざ知らず、「政治・外交」の面ではアメリカに追随してきた(日本をアメリカの「54番目の州」と揶揄する人もいる)ことの現れであり、「対等な関係」を求める民主党政権に対するアメリカ側の「揺さぶり」でもあるのである。ちょっと考えてみれば、現在の軍事力(兵器をはじめとして艦船や航空機の能力)を持ってすれば、いざ有事の際に嘉手納基地を抱える沖縄から出撃するのと、例えばグアムやサイパンから出撃するのと、大差はないのではないか、と素人は考える。それよりもアメリカ軍が沖縄に居座ろうとしているのは、毎年毎年日本政府から支出される莫大な「思いやり予算」を宛にしているからではないか、と邪推したくなる。
 ともあれ、これを機会に本当に「非核三原則」は遵守され、「核廃絶」に向けて日本は精力的に行動を起こすことができるのか、底が問われているのではないか、と思う。

哀しきアナログ世代

2010-03-06 10:30:30 | 近況
 今使っている(このブログを書いている)ノートPCにガタが来始めたので(具体的には、接触が悪くなったようで電源スイッチがなかなかONにならず、シャットダウンをクリックしてもこれまたすぐには消えないとか、USBの差し込み口が1個全く機能しなくなるとか、その他いろいろ。しかし、現任は全く分からず、もしかしたらちょっとした修理で解決する問題なのかも知れないが、本当のところは分からない)、新しいPCを購入した。「Windows 7」を搭載している最新モデルで、なかなか使い勝手はいいようなのだが、僕がPCに求める重要な機能の一つ、インターネット(ワイヤレス)が繋がらず、昨日から困った状態にある。
 我が家は「光電話」を入れているので、それを導入するとき設定してもらったワイヤレスが機能せず、依頼されていた原稿を「添付」で送るつもりだったのが、送れない状態になってしまい、やむなく、古いPCを持ってきて、ワープロもネットも前と同じように、細かい困難を克服しつつ、作業を続けている、という状態に今はある。
 我ながら「アナログ世代」は生きづらい時代になったな、とつくづく思っているが、果たしてこの現象は「世代」の問題なのか、ということがある。先頃亡くなった立松和平は、PC(ワープロ)を一切使わず、原稿は全て「手書き」であり、さすがわが世代だなと感心したこともあるのだが、日常的にPCを使わなければならない大学生や卒業生は別にして、そのようなものと無関係に仕事をしている人たちとの「格差」が今後どんどん広がっていくのではないか、と今実感している。
 「進化するコンピュータ」と言ってしまえばそれまでだが、その「進化」から取り残される老人や女性・子供、「格差」が広がれば、必ずやその社会は「解体・崩壊」する。これは、果たして放置していい問題なのか。1日半、何とか新しいPCにネットワークを繋げようと悪戦苦闘しながら、結局は、月曜日に業者」に説明を受ける約束しかできなかった現実に、我が身の哀しさを痛感している。
 と、嘆いても、何の解決にもならないこの現実社会、この現実が仕事に直結していることを思うと、余計に哀しくなる。

「国威掲揚」の裏側に……

2010-03-01 04:12:25 | 仕事
 先週は、ずっと近々刊行される「『少女倶楽部・少女クラブ』総目次」(ゆまに書房)の「解説」を書くのに費やされた。この「『少女倶楽部・少女クラブ』総目次」は、「ゆまに書房」が何年も前から取り組んできた「書誌・書目シリーズ」の一冊で、2年前に刊行された「『少年倶楽部・少年クラブ』総目次」の姉妹編にあたる。この仕事は、基本的には今では手に入りにくくなっている「戦前」の雑誌(教養主義的な雑誌についてはすでにそのほとんどが終了し、現在は「大衆雑誌」に移っている)の「目次」を新組で残し、メディア研究に幾らかでも貢献したいという思いから行っているものだが、これまでに僕の「監修」(解説の執筆)ということで、「戦前『週刊朝日』総目次」(大学院博士課程在籍の山川恭子さんの労作)と「戦前『サンデー毎日』総目次」(同)と先の「『少年倶楽部・少年クラブ』総目次」の三冊(といっても、それぞれ上中下の三巻本)を出してきた。
 今回の『少女倶楽部』(戦後の1946年から『少女クラブ』と改題)の場合、1923(大正12)年1月に創刊され、戦後の1962(昭和37)年12月に廃刊されるまで、臨時増刊号を含めて全504冊、その「総目次」の執筆は別な人が行い、僕は「解説」を書いただけなのだが、送られてきた全504冊の目次ページのコピーを見ていて、これまでの時と同じなのだが、改めて戦時下において如何に「大衆」が大勢(国家権力)に組み込まれていったか、を痛感せざるを得なかった。
 というのも、時あたかもバンクーバーオリンピックの真っ最中で、女子フィギアの浅田真央選手の活躍を中心にして、マスコミ・ジャーナリズムは「メダル獲得」に一喜一憂し、浅田選手が銀メダルを取ったら、どこの新聞だかは知らないが「号外」まで出すという狂奔ぶりに、戦時下、つまり満州事変から太平洋戦争の終結(敗北)までの「十五年戦争」下における『少女倶楽部』の誌面を重ねざるを得なかったからである。「面白くてためになる」をモットーに刊行され続けた大日本雄弁会講談社の「大衆雑誌」(8種類)の1冊として刊行され続けた『少女倶楽部』であるが、満州事変以後は児童小説や童話、詩、童謡、漫画などの他、例えばグラビアページや「読みもの」や「特集」記事で、繰り返し「満州」(大東亜共栄圏建設のモデルとして)のことや「支那事変=日中戦争」のこと、また「太平洋戦争」のことが取り上げられ、「銃後の小国民」としてのいかに「戦争協力」をするか、を強いられた。太平洋戦争開始直後(昭和17年1月号)には、時の首相・東條英機の「大詔を拝し奉りて」が「大東亜戦争ニュース」や「進め1億火の玉だ」の記事と共にが載り、言ってみれば誌面全体が「戦時色」に染まり、「国威掲揚」を鼓舞される状態にあった。
 「威風堂々と満州に日の丸の旗が」、「大陸で活躍する兵隊さん」、「鬼畜米英をやっつけろ」といった『少女倶楽部』の記事と、オリンピック選手(特に、モーグルの上村選手やフィギアの高橋選手、浅田選手といったメダル獲得が期待された選手たち)に寄せられたマスコミ・ジャーナリズム(国民)の異常な期待、その裏側にあるのは紛れもなく「国威掲揚」で、もちろんこの「国威掲揚」は日本だけのものではなく、各国に共通するものだが、オリンピックという「スポーツの祭典」が実は「国威掲揚レース」に堕してしまったようで、何だか興を殺がれてしまったのは、僕だけだろうか。今やオリンピックは、その華々しさの裏側でいかに開催国や参加国に経済効果をもたらすか、が目的になってしまった観があるが、そこに「国威掲揚」が重なると、いささか感傷的ではあるが、クーベルタン男爵の「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉が何故か懐かしく思い出される。
 それは、「国威掲揚」がろくなことをもたらさず、せいぜい偏狭な「ナショナリズム」しか生み出さないとしたら、オリンピックは「参加すること=競技することに意義がある」という原点に帰るべきなのではないだろうか。メダルを獲得できなかった選手たちが流した涙は、もちろん純粋に「悔し涙」だったと思いたいが、果たしてそれだけだったのだろうか。「国威掲揚」の重圧から解放された涙、ということはなかったのか。スキーの滑降やフィギアの演技で転倒する選手の姿を見ていると、余計にそう思えてならない。
 それにしても、「『少女倶楽部・少女クラブ』総目次」の解説23枚は、結構きつかった。