黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

お盆

2008-08-13 07:03:37 | 近況
 お盆が来ると思い出すことがある。それは、8月13日(今日)の「迎え盆」に家紋の入った提灯をもって墓に行き、そこで提灯に火をともして家まで帰り、その提灯の火で、家の門口に用意された野菜で作った動物(馬など)と共においてあった麦藁に火を付け、その火で仏壇のろうそくに点火することであり、また16日の「送り盆」の時には、仏壇のろうそくから提灯に火をつけ、墓まで消えないように持って行く、一連の盆行事のことである。お盆中は、殺生することを避ける風習があったので、連日近くの川へ行ってヤスでついたり釣りをしたりする子供の「遊び」も自粛され、子供も何となくおとなしく過ごしていたものである。
 そんなかつての「盆行事」も今では全く廃れ、墓参りさえ余り行われないことがあるという(これは、僕の家の墓がある住職の話でもあるが、都合があって盆の最終日に墓参りをしなければならなかったとき、何軒かの家の墓には供花も線香の燃えかすもないのを目撃したことがある。僕の家の墓は田舎にあるのだが、余程の事情がない限りほとんどの家が13~15日の間に墓参りをする)。今流行りの「スピリチュアル」何とか、に加担するわけではないが、日本人の間に「先祖を敬う」風潮や大袈裟に言えば「宗教心」が希薄になってきていることは、非科学的と言われるかも知れないが、最近気になって仕方のないことの一つである。
 それというのも、僕が最近訪れたスロベニアでもベトナムでも中国、アメリカでも通過中に見た墓地のほとんどの墓には、現地の人に聞くと特別な日ではないということだが、花などが飾ってあり、墓参する人の姿もずいぶん見かけた。キリスト教とか仏教とかの区別なく(と、僕には思えた)、墓(先祖)に対する思いが日本人と違うのではないか、と思ったものである。
 こんなことを書くと、またぞろ「悪いのは日本人だけか」といった風なナショナリストからの批判を受けるかも知れないが、自分が今在ることの意味を広く考えたら、自分を生み出してくれた先祖や関係する人たち(親戚など)への思いを強く持つこともまた必要なことなのではないか、と思うのである。「ジコチュウ」に陥るのも、自分の存在が他との関係で成り立っていることに無自覚であり、他への関心が希薄だからなのではないか、と思えてならない。「ジコチュウ」と墓参りは直接的には関係ないかも知れないが、まず自分の周りの人たちに対してどのように対応するか、とうことを考えたら、墓参りを機に、自分の今在ることに思いめぐらせるのも、いいことなのではないか。また、僕の家の墓が田舎にあるせいか、古いけれど立派な墓石を見ると、必ず何基か「戦死者」の墓がある。いつの戦争によって亡くなったのかは、墓名碑や墓の後ろ(横)の文字を読めば分かるが、墓参りのついでにこの国の「歴史」について思いを巡らせるのも、自分一人で生きているのではない、ということを確認する意味でも大切なことなのではないか、と思うが、どうだろうか。
 古臭い、と言われるかな?
 これから恒例となった僕の家と家人の家の墓参りに行ってきます。同じ群馬県内なのですが、かなり離れているので1日がかりです。