黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「民意」の行方

2012-12-27 09:45:46 | 近況
 昨日、第二次安倍内閣が成立した。マスコミは「再チャレンジ内閣」だとか「重厚内閣」とか「安倍カラー(保守色の濃い)内閣」だtか、様々に言挙げしていたが、たしかに5年前の「失敗」に懲りたのか、それとも年を重ねて「狡猾」になったのか、今度の安倍内閣は閉塞感をどう突破するかという国民の「希求」を上手にすくい上げ、選挙中の公約に上げた「憲法改正→国防軍の設置・集団的自衛権の行使容認」などと言った「タカ派」色を後背に退けながら(しかし、今回の内閣の布陣を見ると、本音は右傾化をいっそう進めたいと思っているは間違いないだろう)、来年の参議院選挙を射程に、「景気回復」などという誰もが反対できないような政策を全面に掲げて出発したように見える。
 しかし、後背に退いたとは言え、「憲法改正→国防軍の設置・集団的自衛権の行使容認」といった「保守」と言うより「ネオ・ナショナリズム(新国粋主義)」に凝り固まった思想が、「日本国憲法」の中核を形成する「平和主義」と「民主主義」に対する挑戦であり、そのような思想がこの国の中心になるようなことは断固阻止しなければならないと思うが、それとは別に、今度の内閣が前民主党政権が経済界との暗闘の末に打ち出した「2030年までに原発ゼロ」政策を根本から否定し、「政権交代」以前の原発推進・容認路線に転換することに対して、このような「刹那主義」「金儲け主義」は絶対認めないと言う態度を、僕らは今から明確に示していかなければならないのではないか、と思う。
 つまり、「フクシマ」を蔑ろにする安倍第二次内閣に対して、具体的には来年夏の参議院選挙で明確に「ノー」を突きつける必要があるのではないか、ということである。そのためには「反・脱原発派」が分裂を乗り越え「大同団結=統一」する必要があるが、そのような戦術は今措くとして、僕らはもう一度「フクシマ」(とそれ以前のスリーマイル島やチュエルノブイリ、JCOなどの原発事故)から得た「核(原発及び核兵器)と人類は共存できない」という教訓=思想を確認し、原発の再稼働や新増設を認めるような言動を決して許さないといった態度を明らかにすることが肝要なのではないか、と思う。
 マスコミは「フクシマ」の「風化」を問題にしているが(党のマスコミがその「風化」に手を貸しているという自覚がないことも、また深刻な問題だと思う)、まさにその「風化」が原発容認・推進派を勢いづかせていることについて、再確認する必要がある。
 折しも、原子力規制委員会が専門家に委託して調査していた下北半島の東通原発の敷地内に「活断層」が存在すること明らかになり、これは敦賀原発に続いて二例目で、自公時代(自民党時代)の原発政策がいかに「いい加減」で、電力会社・経産省(旧通産省)や御用学者などの言いなりになっていたかの証拠なのだが、たぶん今度の第二次安倍内閣は、「景気回復・経済優先」の路線を突っ走りながら(失敗する可能性も大)、原発問題(脱・反原発)を置き去りにするのではないか、と思えて仕方がない。原発の下に活断層が存在するということは、僕らは「フクシマ」が再び起こる可能性を常に意識しながら生きていくということを強いられているということであり、それはまた現在及び未来を生きざるを得ない僕らが皆「ヒバクシャ」になる可能性を意味しているということなのだが、原発推進・容認派はこんな「核」に対するイロハも分かろうとしないのではないか、と危惧する。
 彼ら(原発推進・容認派)が好きな「愛国心」とか「日本主義」だって、もう一度どこかで原発が爆発すればこの苦のそのものが粉々に砕け散ってしまうことを思えば、真にこの国を愛する人間は、必然的に「反・脱原発」にたどり着くことに思い至り、「愛国心」→反・脱原発こそを自分たちの思想にすべきなのに、現実はそうではない。そこに何か「からくり」があるのだろうが、やはり一人一人の「自覚」が必要なのかも知れない。
 だから、何でこんな「おかしなこと」が生じているのか、という僕の疑問は、実は一向に解消されていない。たぶん、その責任の一端は吉本隆明の「原発容認論=進化論的科学論(神話)」や、昨年年の夏にも批判したが、村上春樹の「反核スピーチ」に象徴される核認識にあるのではないか、と僕は思っているのだが……。この僕の考えについては、来年春頃には刊行される予定の『「核・フクシマ論」を論ず』(仮題)の中で詳しく論じるつもりだが、改めて言えば、原発問題こそ日本の、世界の喫緊の問題である、という認識が今最も求められていることなのではないか、ということである。

「民意」って、何だろう?(2)

2012-12-22 09:39:18 | 仕事
 あの自民党が「圧倒的」に勝利した総選挙から1週間、来る26日に発足する第二次安倍政権は、着々とその「基本方針」を打ち出し始めているが、どうもその成り行きを眺めていると、「定見」があるように見えて、実は「日和見」でしかない保守政治家特有の「揺れ・ブレ」があるように思える。この「揺れ・ブレ」は、マイナスとしか思えないものとプラスと思えるものの両方があるが、例えば政権を握っていた民主党の「失政」をついて勝利した先の選挙において、その「失政」がもたらした「時代の閉塞感」を「右=ネオ・ナショナリズム」の思想(観念)で打ち破るべきべく打ち出した「憲法改正→国防軍の設置・集団的自衛権の承認」や「強硬な対中・韓外交政策」を、当面「控える」という戦術を採ろうとしてことに、それは現れていると言える。
 一例を挙げれば、選挙中にあれほど声高に叫んでいた「憲法改正」について、294名の当選者を出した総選挙後には安倍次期首相はほとんど発言せず、代わって「軍事オタク」と言われる石破自民党幹事長がしきりに「平和外交」を叫んでいる構図は、「右=ネオ・ナショナリズム」(それ自体は「危険」な考え方だが)の思想によってこの国と時代を覆っている「閉塞感」を突破してくれると期待した国民の期待を裏切ることになると思うのだが、自民党は「数の力」を得たからか、そんなことは一向に気にせず、どうやら「昔の名前で出ています」式の公共事業頼り一辺倒の庶民生活を置き去りにした「景気(浮揚)対策=デフレ脱却」を前面に押し出し、来年の参議院選挙まで「猫を被り」、参院選で多数派を占めたら、一挙に憲法改正(第9条を改悪して国防軍の設置、集団的自衛権の承認、等)に突き進む、という戦略を考えているのではないかと思われる。
 あれほどガチンコ勝負のように言っていた「竹島」問題(日韓関係)や「尖閣列島」問題(日中関係)についても、もちろんドンパチなどまっぴらごめんだが、「軟化」=改善させようとする姿勢(様相)を見せており、もしこれもこれも「猫を被っている」ものだとしても、とりあえず歓迎すべき姿勢と言ってのではないか、と思う。
 しかし、選挙の時の公約を「破る・修正」するということで、まさに「本音」をさらけ出したもので、これは絶対許すことができないと思うのは、「原発ゼロ」に関する公約である。選挙中は、「将来的には原発に頼らないエネルギー政策を」と言っていたのに、もうすでに今日の新聞を見ると、安倍次期総理は「原発の新増設を認める」と言うような発言を行っている。元々自民党は財界をスポンサーとする政党であるから、電力会社を中心とした財界が後押ししている「原発の再稼働」や「原発輸出」「原発の新設」など、民主党政権以前の状態と代わらないエネルギー政策を採ると思っていたが、案の定、選挙中はあいまいな言い方をしてフクシマを経験した国民を「騙し」、選挙が終わったら、一挙に「本音=原発容認・推進」を言い出す。
 僕は、先の総選挙で自民党に1票を入れた人たちからの非難を覚悟で言うのだが、「景気対策」も、そして「ガチンコ外交」も(憲法改悪以外は)、それは考え方の違いだから僕の考えと違っても仕方がないとして思うが、「原発ゼロ」に関しては、人類(人間存在)の「未来」、具体的に言えば、僕やあなた方の子供や孫、ひ孫、そしてさらにずっと先の人間に対して、僕らが堂「責任」を持つか、という問題である。自民党を支持した人に是非「再考」をお願いしたいと思う。再びフクシマが起こったら、この区の「未来」は永久に閉ざされてしまう。そのことを考えてもらいたいと思うのである。
 原発問題に関しては、僕らも含めて是非もう一度フクシマの「原点」に戻って考えるべきだ、と声を大きくして何度でも言いたいと思う。
 

「民意」って、何だろう?

2012-12-17 09:08:50 | 近況
 昨日の総選挙の結果、政権を担っていた民主党が「大惨敗」し、自民党が単独過半数を遙かに超える294議席を獲得し、自公で獲得した325議席という数は、衆参の「ねじれ」状態を解消して、どんな法案も通過させるだけの数であり、また51議席を獲得した日本維新の会の存在は、「改憲」を標榜していたこの党と「改憲」を党是としてきた自民党が組めば、いよいよ日本国憲法の「改正(改悪)」が現実的なものになったことを意味するものであった。
 これが昨日の選挙で示された「民意」ということになるが、しかし、「改憲派」が圧倒的な議席を獲得したことと様々なメディアによる世論調査の結果(改憲と護憲が半々ぐらい、メディアによっては護憲派の方が多い場合がある)との「ズレ」、あるいは「脱・反原発」に関しても世論調査では70~80パーセントの人が「脱・反原発」を支持しているのに、原発維持・推進派の自民党や「核武装論者」を党首に仰ぐ日本維新の会が、圧倒的に「勝利」したという矛盾を考えると、昨日の選挙結果が本当に「民意」なのか、と思わざるを得ない。
 その証拠に、選挙に関してどのような項目を重視して投票するかという質問に関して、圧倒的に多かったのは「経済政策・雇用」であって、「改憲」や「原発ゼロ」政策は両者とも10パーセント前後であった。結果と動機が大幅に「ずれている」今度の選挙、分かってきたのは、「民意」が千々に乱れていた、ということである。
 正直に言うと、昨夜から今朝にかけ、以上のような「民意」が示された選挙結果について「腹立たしい」思いを持つと共に、大きな「ショック」も受け、ブログに僕の心情など書いても仕方がないと思うが、今は相当に「落ち込んでいる」。そして、その「思い」は、このまま「改憲派」が勢いのまま、憲法第9条の「改悪」に走ったらどうするべきか、という近い将来における僕自身の「決断」に関わるものとして重くのしかかり、また反面、自民党や日本新の会などの「改憲派」を支持した有権者の全てが「改憲」を望んでいるわけではないのではないか、という淡い「期待」にも繋がるものとしてもある。
 いずれにしろ、「政権交代」を成し遂げた民主党のこの3年3ヶ月に及ぶ「政治」が、「仕分け」の中途半端(尻切れトンボ状態)で終わったことや「脱原発」を宣言しながら青森県六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場を存続させ、また産業界の要請を受け開発途上国への原発輸出を承認したこと、さらには消費税増税の躍起となった野田政権が象徴するように、「改革」からはほど遠いものとなってしまい、民主党という政党が「改革派」ではなく「保守派」になってしまったことに、今回の選挙における「敗北」の原因があること、自民党や日本維新の会の「勝利」は「敵失」によるものであって、いわば「消極的」な支持であったこと、これらのことを考えながら、もう一度自分たちの在り方を探るしかないのかな、と今は思っている。
 ただ、どのような選挙結果であろうと、フクシマは依然として「放射の汚染」状態を脱しておらず、「核」と人類は共存できないということ、このことだけは肝に銘じて前に進むしかないのも、確かなことであるだろう。

 今日はこれぐらいしか書けないが、自民党や日本維新の会などの「改憲派」が、今後どのような行動に出るか、一人の批評家(文学研究者)として「注視」だけはし続けていきたいと思っている。

フクシマの「風化」を憂う

2012-12-14 05:02:40 | 近況
 フクシマから1年9ヶ月余、9月から11月まで3ヶ月間中国で過ごしてきたからか、フクシマが「風化」過程に入っているのではないか、と思えてならない。フクシマが今度の衆議院選挙における「争点」の一つになっているにもかかわらず、である。
 何故、そのように思うのか。それは、本質的(根源的)な意味でフクシマが――もちろん、フクシマだけでなく、ヒロシマ・ナガサキに始まって、ビキニ事件、ウラルの核惨事(旧ソ連の高濃度放射性廃棄物貯蔵庫が爆発した事件)、スリーマイル島の原発事故、チェルノブイリ原発の大事故、東海村JOCの事故、等々の「核」事件が――私たちに教えてくれた「核と人類は共存できない」という問題を、私たちは「経済」問題や「成長」問題に矮小化してしまっているのではないか、と思えてならないからである。つまり、私たち人類の「未来」に対して根源から「警告」を発したフクシマに向けて、目先の、あるいは見せかけの「豊かさ」の方が重要であるというようなデマゴギー(幻想)が、今度の選挙戦などを通じて振りまかれ、人々の視線をフクシマの現実からそらし、「核」に関わる産業やそれを保護する官庁(あえて、「原子力ムラ」などとは言うまい。日本経済の全体がフクシマの「風化」に向かって全力を傾けているように思えるからである)を助長させているように思える、ということである。もちろん、そのようなフクシマより「経済=豊かさ」を追求するという姿勢、それは紛れもなくフクシマの「風化」を意味するのだが、そのような姿勢は、政治の世界や経済界だけに存在するものではなく、今度の総選挙で原発の存在を容認する(原発政策を推進してきた)自民党に過半数の支持を表明し、原発の容認・推進だけでなく「核武装」まで目論む日本維新の会にやはり一定程度の支持を与えている「国民」にもまた見ることができ、フクシマの「風化」に関しては保守系の政治家や経済界と「国民」も同罪なのではないか、と思っている。
 人の噂も75日、ということわざがあるが、先ほど原子力規制委員会が調査した敦賀原発はじめ各地の原発が「活断層」の上や近くに建設されていて、もしまた大きな地震が原発の周辺で起こったら取り返しの付かない大事故を起こすだろう、と言われていながら、それでも「現在」の豊かさを求めるこの国の人々の在り方、これは「安全神話」の中で次々とこの狭い日本列島に原発を作り続けてきた(そのような政策・経済界の動向を容認してきた)国民のメンタリティーということになるが、何だか「悲しく」なってしまう。
 それはまた、ヒロシマ・ナガサキから始まったこの国の「反核運動=原水禁運動」や反原発運動が、村上春樹に「私たちは『核』についてノーと叫び続けるべきであった」と言わせるほど「微弱・微力」なものであったということを意味するのかも知れないが、大学院時代から原爆文学を研究・批評対象の一つとしてきた僕にしてみると、例え村上春樹の言うように「反核運動」が微弱・微力なのものであったとしても、「核アレルギー」などという感覚的なものではなく、理念として「反核」はこの国の人々の間に根付いてきた、と思いたいのだが、今更ながら、原発に対する「安全神話」がこれほど根強いものであったのか、とも思わざるを得ない。
 このようなフクシマの「風化」に深く関わる「原発の安全神話」を根強いものにした一つの要素として、これは僕らの世代だけかも知れないが、フクシマから約1年後に亡くなった吉本隆明の「原発=科学神話」の言説があるのではないか、と思う。「科学は無限に進化する」「科学の結果(原発)は科学で処理する」といった考えに、僕ら全共闘世代(とそれに続く世代)はもろに影響を受け、マスコミ・ジャーナリズムの世界で生きる人たちを中心に、事ある毎に「安全神話」を振りまいてきた。これは、吉本について追悼文を書いた人たちのほとんどが吉本の「原発推進論」に触れていないという事実によって明らかにされている。
 以上のように、フクシマは「風化」しつつあるというのが僕の考えだが、ここでもう一度立ち止まって考えなければならないのは、本当にフクシマをこのまま「風化」させてしまっていいのか、ということである。当面、見せかけの「豊かさ」とは無縁となっても、私たちの「未来」を確実なものにするために、今一度「反原発」「脱原発」の原点に返って、フクシマのことを考えるべきなのではないか、と僕は今、痛切にそのことを思っている。その意味で、どんな「高度」な技術を持っていたとしても、「自然の力・脅威」の前では人間の考えたことなどたかが知れていることを証明したのがフクシマであったこと、このことをもう一度私たちは根本から考えるべきだと思う。子や孫、そしてそれに連なる人のために、である。

本当にこれでいいのかな?

2012-12-12 06:05:19 | 近況
 2,3日前、車を走らせていたら、信号近くの道路脇の空き地に、今度の総選挙で民主党から日本維新の会に鞍替えした候補者のポスターを張っている支援者が2,3人いるのに気付いた。いかにも農業用の軽トラックとしか見えない車2台に分乗してきたようで、最初はこのような人たちも日本維新の会を支持しているのだ、と感心して見ていたのだが、そのうちどう見ても60代後半から70代前半の農民としか見えない彼らは、失礼ながら本当に日本維新の会の「政策」を理解して支持しているのだろうか、と思ってしまった。
 というのも、その候補者は民主党に所属しているとき、農民から多くの支持を受けていたと伝えられており、もしかしたら彼らは日本維新の会の「政策」などとは関係なく、何かのしがらみ(関係)があって、その候補者が政党の鞍替えをしたことなど関係なく、相変わらず「支持」し続けているのだろう、と思ったからである。おそらく、僕が目撃した彼らの行動(選挙活動)は、「政策」や「政治理念」とは関係なく、何らかの「利害関係」があってのことだと思うが、もし本当に「政策」や「政治理念」と実際の政治活動が乖離しているとしたら、今度の選挙はこの国のの「民主主義」が本当に危機に瀕していると言っていいのではないか、と思われる。
 たぶん、このような現象は、民主党の「失政」の果てに行われる今度の選挙では、至る所で見られるのではないかと思われるが、各種の世論調査が示す「自民党、圧倒的勝利」「日本維新の会議席を伸ばす」といった現象も、またそのような「政策」や「政治理念」とは関係ないところの結果であるとしたら、まさに僕らは今度の選挙の結果、「憲法改正」(=第9条「平和条項」の改正)という恐ろしい状況の到来を目撃することになるのではないか、と思われる。何とおぞましいことか。僕ら60歳代半ばの世代(団塊の世代・全共闘世代・第一次ベビーブーマー)は、生まれてからこれまでずっと「殺すな!」を理念=思想の根幹において生きてきたはずであるが、そんな僕らの「生き方の定義」が根幹から問われているのが今回の選挙だとしたら、それこそまなじりを決して対処しなければならないのではないか、と思う。
 それにしても、先の日本維新の会の候補者を「支持」していると思われる僕らと同じ世代の人たちは、果たして日本維新の会の代表(石原慎太郎)が「核武装論」を唱え、また拉致被害者を取り戻す一番の方法は、憲法を改悪して北朝鮮に対して「攻め込むぞ」「攻撃するぞ」と脅かすことのできる「軍隊」を作ることであると発言していること、そのような「戦争への道」を画策している人物であること、そして代表代行(橋下徹)が日本農業に壊滅的な打撃を与えるであろうTPPへの参加を積極的に唱えていること、等々を十分に知っているのだろうか、またそれらのことを知った上で支持しているのだろうか、と疑問に思わざるを得ない。つまり、自分たちの子供や孫が67年前と同じように悲惨・苛烈な戦場に引き立てられていくことを、「国のためだから仕方がない」といって認めるのか、そういうキロに今僕らは立っているということを、深く考えてもらいたい。
 同じことは、自衛隊に代わって「国防軍」を創設する、そのためには憲法を改正すると「公約=政策」に掲げている自民党を支持する人たちにも言える。確かに民主党への「機体」は儚くも潰えてしまった。僕も民主党があれほど「理念」無き政党に堕するとは思っていなかった。しかし、かといって実質的には「利権集団」としか思えない「古い」自民党に、「目先の利益」を求めて回帰する人々の感覚が僕には理解できない。また、TVの広告に登場する安倍晋三は、しきりに「戻す」と言っているが、自民党を支持しているように見える人々が皆「古い自民党」、あるいは「右傾化した自民党」を支持しているわけではないということを分かっているのか、とも思わざるを得ない。とりわけ、フクシマ(原発)への態度を明確にしていない自民党を支持するということは、原発を容認するということになるが、果たしてそれで日本の「未来」に対して責任を持つことになるのか、今一度「3・11フクシマ」を思い出して欲しい、と思う。
 つまり、今の自民党の「人気」は敵失によって得たものであるということを支持者は認識し、国防軍の創設などまっぴらごめん、という態度を取るべきではないか、ということである。その意味では、上から目線と批判されることを覚悟で言うのだが、今自民党を支持している人たちが何らかの形(支持を撤回する)で、「自民党単独で過半数確保か」というような報道に有頂天になっている安倍自民党の「暴走」を止めない限り、この国の未来は「破滅」への道を歩むことになるのではないか、と思うのである。
 前にも書いたが、このような政治の「右傾化」を支持する人たちが表面的には多くなっている現象の底には、ぬぐい去ることのできない「ニヒリズム」が存在するものと推察できるが、自公政権に「復古」したときの息苦しさを今から思うと、何ともやりきれない思いがしてならない。

帰国して1週間――「日本」は何処へ行くのか?

2012-12-08 11:35:44 | 近況
 毎日はそれなりに忙しかったのだが、全体としては「のんびり」していた武漢での3ヶ月の生活を一応終えて、衆議院選が熱を帯びてきた日本に帰ってきて1週間、溜まっていた郵便物の処理(帰国の挨拶を兼ねた手紙を10通書き、その他にもメールで連絡をし)と、武漢の学生たちに約束していた「資料・参考文献(修論用)」のコピーと該当書籍や雑誌の探索、そして家人が留守中に世話になった人への挨拶、等々で慌ただしい時を過ごしてきたのだが、それでもどこか「浦島太郎」の心境が未だ抜けない状況のまま今日まで過ごしてきたが、毎日配達される新聞を読み、テレビのニュースを見るたびに、武漢に滞在していたときと同じ感覚・目線で日本の現在(在り様)を眺めている自分がいることに気付き、はっとさせられることがある。
 特に、「憲法改正」(主に第9条の「平和条項」、つまり「いかなる戦力も持たない」の改正)を前面に押し出して選挙戦を展開している自民党や日本維新の会、あるいは新党改革、国民新党などがかなりの支持を得ていること、それは各種の世論調査など「自民党が単独で過半数に迫る勢い」というような結果が如実に物語っているのだが、そのような「ネオ・ナショナリズム」が台頭している現実を目の当たりにして、本当にこんな「危うい」状況でいいのか、と思わざるを得ない。確かに、「政権交代」を成し遂げた民主党の3年間は、無惨としか言いようのないものであったが、それにしても自衛隊を「国防軍」とし、何かことが起これば(アメリカ軍がどこかの国を「テロ国家」と名指して攻撃した時、などに)アメリカ軍と共に作戦を遂行できる(戦争ができる)「集団的自衛権」を認めようとする自民党に、「過半数の支持」を寄せる日本国民とは、一体どのような存在なのか、と思わざるを得ない。
 フクシマに関しても同じである。フクシマによって原発は人類と共存できない代物であると理解したはずなのに、「原発容認・推進」をする自民党や日本維新の会に支持を寄せる日本国民、何を考えているのだろうか、と不思議でならない。あれだけの被害をもたらした原発事故(フクシマ)は、もうすでに僕らの現在と未来とは関係ない「過去の出来事」だったというのだろうか。原発を容認する自民党や日本維新の会を支持する人たちに子供や孫たちはいないのだろうか、と思ってしまう。「現在(いま)」がよければそれでいいのか、と思わず悪態をつきたくなってしまうが、どうも「現在がよければそれでいい」という考え方にはニヒリズムが横たわっているようにしか思えない。
 先のアジア太平洋戦争下を思い出して欲しいのだが、「ナショナリズム」の高揚と「ニヒリズム」は表裏一体の関係にあり、ナショナリズムが叫ばれている時代は、まさにそのような状態へ「異議申し立て」ができないような、石川啄木が言う「時代閉塞の現状」にあるということであって、人々は時代の底を流れる「ニヒリズム」に気付きながらも「大勢」に従ってしまうという、まさに現代が「個」の尊厳を基にした「民主主義」が危機的な状況にあることの証拠なのだろう、と思う。
 「核武装論」を唱える石原慎太郎と「権力」を手に入れることに汲々としている橋下徹が「野合」した日本維新の会が「第3極」の中で一番人気を博している現象も、また不思議と言わなければならない。どのような勢力に入れ知恵されたのか知らないが、「尖閣列島」の購入案をアメリカで発してに中間系に「緊張」をもたらし、国民の中に根強い「アジア蔑視」(差別)に便乗する形で、この国を「危うい」方向に導こうとする石原・橋下連合、どうもこの国はとんでもない方向に進もうとしているのではないか、と思わざるを得ない。
 武漢に滞在している間に、2年前に約束していた北海道(札幌・石狩市)へ講演のために行ったのだが、「農業大国」北海道の人々がTPPに対してどれほどの危機感を抱いているか、いろいろな人から話を聞くことができた。一部の「大規模農家」にとってTPPなどは何でもないことかも知れないが、中小農家にとってTPP参加は「農業を止めろ」というのに等しく、国の根幹である「食料」が危うい状況になること、これは火を見るよりも明らかである。にもかかわらず、TPP問題もなおざりにされたまま、選挙は進んでいく。
 こんなことを書くと、またぞろ「左翼」呼ばわりされるのだろうと思うが、「左翼」でも何でも結構、この国が「戦争をしない国」であり続けることに対して危機感を抱いているのは僕だけではないだろうことを信じて、しばらく様子を見たいと思う。

帰国しました。

2012-12-03 16:09:41 | 仕事
 12月1日(土)、予定通り帰国しました。
 昨日、今日の今まで、山のようになっていた郵便物、新聞、本、等々、家人が段ボール箱に中に入れておいてくれたものの「整理」で終わってしまった。衝かれた。帰国して3日、実感的に日中の様々な点において「差」を感じているが、そのことについては、また後で、と言うことで今日はこのまま眠る。