*コメント欄に文章(返事もどき)を書いても、投稿できなくなったので、この「新規投稿」欄に、昨日から今日にかけて書こうと思っていたことを書く。そうでないと「村田」を名乗る「ネット小僧」から「卑怯者」呼ばわりされかねないからである。「村田」氏は、僕があなたとは「もう遊ばない」と言ったのに、余程友達がいなくて「淋しい人」なんだろうと思うが、図々しく「遊んでやる」などと大見得を切って、またまた見当違いの「皮肉めいた」言い方で、コメントを寄せてくれている「雄三」さんまで巻き込もうと、必死にこれ「弁明」に勤めている。その姿は、哀れを通り越して、惨めである。
いかに「村田」氏の言説が「デタラメ」な自己満足的なものであるか、早速「田村」氏が「雄三」賛を擁護する形で反論を書いてくれた。「田村」(という名前は「村田」をひっくり返したものであり、自分は「村田」とは正反対の考え方を持っている、と言うことを示唆するものであるかも知れない)氏は、現在のドイツで一定程度の勢力を持つ「ネオ・ナチ」について言及し、暗に麻生太郎の民主党へのナチス呼ばわり(ということは、ネット小僧の「村田」氏も同じということになる)がいかに浅薄なものであるかを指摘・批判しているが、再三再四僕が言っているように、「ネット小僧」たちの手法の特徴は、発言者(僕とか「雄三」さんのようにコメントを寄せてくれる人)の主題(主張・テーマ)の核心については全くコメントせず(意見を述べず)、「揚げ足取り」や「枝葉末節へのこだわり」を延々と述べるところにある。もちろん、「匿名性」の陰に隠れて、である(と書くと、自分は「村田」と名乗っているではないか、と言うかも知れないが、「村田」などと言う人間は世の中にゴマンと存在する。「匿名性」という意味が分からないようなので、説明しておくと、年齢や職業など自らのアイデンティティを明らかにすることである。比喩的に言えば、論争時には「条件を同じくして土俵に上がろう」ということである)。
僕が「村田」氏を相手にせず(遊ばない)と言ったのは、何度言っても自らを「匿名性」で鎧うことの「卑怯さ」に気が付かない御仁だと思ったからに他ならない。だから、「村田」氏の相手をするのは、それこそこれが最後である。僕にはそんな「卑怯な」輩を相手にする暇はない。消耗したくない。以上、終わり。
(他に「女狐」さんへの返事も書いたのだが、それも送信できなかった。ここにコピーしてものがあるので、それを記す。)
女狐さん、お久しぶりです。お元気でしたか。
僕は久しく「2ちゃんねる」は覗いていませんが、あそこに書き込みをする人たちというのは、どういう人たちなのかな、と思っていました。僕のブログにコメントを寄せてくれた人が、そこは「東京新宿歌舞伎町だ」といっていましたが、僕に言わせれば、かつて一度だけ訪れたことのあるフィリピン(マニラ)の「スモーキーマウンテン」を思い起こさせる場所です。悪臭(腐臭)漂うそこでは、最貧困の生活を強いられた人々が運ばれてきたゴミから再生可能なものを選び、それを売って生活していました。
喩えとして適切でない感じもしますが、「腐臭」「ゴミの山」という印象が強烈だったので、「2ちゃんねる」というと、スモーキーマウンテンを思い出してしまうのです。
昔、イギリスのSF作家が「リトルボーイ、再び」という小説で、未来社会の娯楽として20世紀半ばに使用された世界で最初の原爆を再爆発させて、原子雲の下を逃げまどう日本人を見物するという物語を書いて見せたが、女狐さんが言うような「ヒロシマ・ナガサキ」の被害を冒涜するような書き込みがあったとしたら、もう何をか況や、ですね。
僕は、そのような輩が横行しているのも、「核保有国」が未だに核を放棄せず、石原慎太郎のような核武装論者を容認する風潮が日本でも蔓延しているからだと思います。もう本当に「度し難い人たち」です。彼らに核の恐ろしさを教えるのはしんどいことかも知れませんが、一つずつ地道にやっていくしかないな、と思っています。
お元気で。
昨日・今日の「ブログ」の文章は投稿できるのに、コメントが投稿できない、という状況に対して何ともできない自分を省みて、やはり僕はIT時代=ネット時代に十分対応できない人間なんだな、と痛感した。
いかに「村田」氏の言説が「デタラメ」な自己満足的なものであるか、早速「田村」氏が「雄三」賛を擁護する形で反論を書いてくれた。「田村」(という名前は「村田」をひっくり返したものであり、自分は「村田」とは正反対の考え方を持っている、と言うことを示唆するものであるかも知れない)氏は、現在のドイツで一定程度の勢力を持つ「ネオ・ナチ」について言及し、暗に麻生太郎の民主党へのナチス呼ばわり(ということは、ネット小僧の「村田」氏も同じということになる)がいかに浅薄なものであるかを指摘・批判しているが、再三再四僕が言っているように、「ネット小僧」たちの手法の特徴は、発言者(僕とか「雄三」さんのようにコメントを寄せてくれる人)の主題(主張・テーマ)の核心については全くコメントせず(意見を述べず)、「揚げ足取り」や「枝葉末節へのこだわり」を延々と述べるところにある。もちろん、「匿名性」の陰に隠れて、である(と書くと、自分は「村田」と名乗っているではないか、と言うかも知れないが、「村田」などと言う人間は世の中にゴマンと存在する。「匿名性」という意味が分からないようなので、説明しておくと、年齢や職業など自らのアイデンティティを明らかにすることである。比喩的に言えば、論争時には「条件を同じくして土俵に上がろう」ということである)。
僕が「村田」氏を相手にせず(遊ばない)と言ったのは、何度言っても自らを「匿名性」で鎧うことの「卑怯さ」に気が付かない御仁だと思ったからに他ならない。だから、「村田」氏の相手をするのは、それこそこれが最後である。僕にはそんな「卑怯な」輩を相手にする暇はない。消耗したくない。以上、終わり。
(他に「女狐」さんへの返事も書いたのだが、それも送信できなかった。ここにコピーしてものがあるので、それを記す。)
女狐さん、お久しぶりです。お元気でしたか。
僕は久しく「2ちゃんねる」は覗いていませんが、あそこに書き込みをする人たちというのは、どういう人たちなのかな、と思っていました。僕のブログにコメントを寄せてくれた人が、そこは「東京新宿歌舞伎町だ」といっていましたが、僕に言わせれば、かつて一度だけ訪れたことのあるフィリピン(マニラ)の「スモーキーマウンテン」を思い起こさせる場所です。悪臭(腐臭)漂うそこでは、最貧困の生活を強いられた人々が運ばれてきたゴミから再生可能なものを選び、それを売って生活していました。
喩えとして適切でない感じもしますが、「腐臭」「ゴミの山」という印象が強烈だったので、「2ちゃんねる」というと、スモーキーマウンテンを思い出してしまうのです。
昔、イギリスのSF作家が「リトルボーイ、再び」という小説で、未来社会の娯楽として20世紀半ばに使用された世界で最初の原爆を再爆発させて、原子雲の下を逃げまどう日本人を見物するという物語を書いて見せたが、女狐さんが言うような「ヒロシマ・ナガサキ」の被害を冒涜するような書き込みがあったとしたら、もう何をか況や、ですね。
僕は、そのような輩が横行しているのも、「核保有国」が未だに核を放棄せず、石原慎太郎のような核武装論者を容認する風潮が日本でも蔓延しているからだと思います。もう本当に「度し難い人たち」です。彼らに核の恐ろしさを教えるのはしんどいことかも知れませんが、一つずつ地道にやっていくしかないな、と思っています。
お元気で。
昨日・今日の「ブログ」の文章は投稿できるのに、コメントが投稿できない、という状況に対して何ともできない自分を省みて、やはり僕はIT時代=ネット時代に十分対応できない人間なんだな、と痛感した。