黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「コメント」欄の代わりに

2008-08-08 18:30:35 | 仕事
*コメント欄に文章(返事もどき)を書いても、投稿できなくなったので、この「新規投稿」欄に、昨日から今日にかけて書こうと思っていたことを書く。そうでないと「村田」を名乗る「ネット小僧」から「卑怯者」呼ばわりされかねないからである。「村田」氏は、僕があなたとは「もう遊ばない」と言ったのに、余程友達がいなくて「淋しい人」なんだろうと思うが、図々しく「遊んでやる」などと大見得を切って、またまた見当違いの「皮肉めいた」言い方で、コメントを寄せてくれている「雄三」さんまで巻き込もうと、必死にこれ「弁明」に勤めている。その姿は、哀れを通り越して、惨めである。
 いかに「村田」氏の言説が「デタラメ」な自己満足的なものであるか、早速「田村」氏が「雄三」賛を擁護する形で反論を書いてくれた。「田村」(という名前は「村田」をひっくり返したものであり、自分は「村田」とは正反対の考え方を持っている、と言うことを示唆するものであるかも知れない)氏は、現在のドイツで一定程度の勢力を持つ「ネオ・ナチ」について言及し、暗に麻生太郎の民主党へのナチス呼ばわり(ということは、ネット小僧の「村田」氏も同じということになる)がいかに浅薄なものであるかを指摘・批判しているが、再三再四僕が言っているように、「ネット小僧」たちの手法の特徴は、発言者(僕とか「雄三」さんのようにコメントを寄せてくれる人)の主題(主張・テーマ)の核心については全くコメントせず(意見を述べず)、「揚げ足取り」や「枝葉末節へのこだわり」を延々と述べるところにある。もちろん、「匿名性」の陰に隠れて、である(と書くと、自分は「村田」と名乗っているではないか、と言うかも知れないが、「村田」などと言う人間は世の中にゴマンと存在する。「匿名性」という意味が分からないようなので、説明しておくと、年齢や職業など自らのアイデンティティを明らかにすることである。比喩的に言えば、論争時には「条件を同じくして土俵に上がろう」ということである)。
 僕が「村田」氏を相手にせず(遊ばない)と言ったのは、何度言っても自らを「匿名性」で鎧うことの「卑怯さ」に気が付かない御仁だと思ったからに他ならない。だから、「村田」氏の相手をするのは、それこそこれが最後である。僕にはそんな「卑怯な」輩を相手にする暇はない。消耗したくない。以上、終わり。

(他に「女狐」さんへの返事も書いたのだが、それも送信できなかった。ここにコピーしてものがあるので、それを記す。)

 女狐さん、お久しぶりです。お元気でしたか。
 僕は久しく「2ちゃんねる」は覗いていませんが、あそこに書き込みをする人たちというのは、どういう人たちなのかな、と思っていました。僕のブログにコメントを寄せてくれた人が、そこは「東京新宿歌舞伎町だ」といっていましたが、僕に言わせれば、かつて一度だけ訪れたことのあるフィリピン(マニラ)の「スモーキーマウンテン」を思い起こさせる場所です。悪臭(腐臭)漂うそこでは、最貧困の生活を強いられた人々が運ばれてきたゴミから再生可能なものを選び、それを売って生活していました。
 喩えとして適切でない感じもしますが、「腐臭」「ゴミの山」という印象が強烈だったので、「2ちゃんねる」というと、スモーキーマウンテンを思い出してしまうのです。
 昔、イギリスのSF作家が「リトルボーイ、再び」という小説で、未来社会の娯楽として20世紀半ばに使用された世界で最初の原爆を再爆発させて、原子雲の下を逃げまどう日本人を見物するという物語を書いて見せたが、女狐さんが言うような「ヒロシマ・ナガサキ」の被害を冒涜するような書き込みがあったとしたら、もう何をか況や、ですね。
 僕は、そのような輩が横行しているのも、「核保有国」が未だに核を放棄せず、石原慎太郎のような核武装論者を容認する風潮が日本でも蔓延しているからだと思います。もう本当に「度し難い人たち」です。彼らに核の恐ろしさを教えるのはしんどいことかも知れませんが、一つずつ地道にやっていくしかないな、と思っています。
 お元気で。

 昨日・今日の「ブログ」の文章は投稿できるのに、コメントが投稿できない、という状況に対して何ともできない自分を省みて、やはり僕はIT時代=ネット時代に十分対応できない人間なんだな、と痛感した。

北京オリンピックについて

2008-08-08 05:17:38 | 近況
 今日開幕を迎える「北京オリンピック」、世の中はオリンピック一色に染まっているように見えるが、44年前(1964年)の「東京オリンピック」の思い出もたいしたものがなく、元々オリンピックに関して強い関心を持っていない僕としては、例えば北京のホテルが通常の8倍の値段(通常1泊8000円が、オリンピック期間中は65000円)になっているというこの「狂想曲」については、どう考えても異常としか思えない。オリンピックが終わったら北京と他の地区へ行く予定のある僕としては、ホテル代が「高値安定」になってしまったらどうしよう、という懸念しかないというのが、本音である。なお、「東京オリンピック」に僕が無関心だったのは、当時付き合っていた同い年の彼女がスポーツ少女で、余りに「オリンピック、オリンピック」というので、嫌気がさしたというのと、高校を卒業して就職した会社を辞めて大学に進学するかどうか悩んでいた時期に重なっていたからであり、決してスポーツが嫌いだからというわけではない。
 そんな僕であるが、テレビの報道番組やワイドショウを見ていて、一つ気になって仕方のないことがある。それは、「サピオ」や「正論」といった右派言論と同じように、それらの中国報道(北京オリンピック)がどう見ても「中国バッシング」としか思えないことである。例えば、昨日は「開会式」に出席する各国の首脳が続々と北京入りしたそうであるが、その警備に5万人の警察官が動員されたことを各局の報道とも強調し、「厳戒態勢です」「テロに備えてでしょうか?」「昨日この路線を走るバスの後部から煙が出ていました」(大都市を走る何万台ものバスのうち1台ぐらいが故障することなど、日本をはじめどの国だってあるだろう)などと、いかにも中国が「特殊・特別」であるかのように、大声で鬼の首を取ったように報道する特派員たち。
 1ヶ月前の日本(洞爺湖)で行われた「G8サミット)のことを思い出して欲しい。650億円もの税金を注ぎ込んで行われた洞爺湖サミット、そのサミット経費の大半は警備費だったと言うが、近くの洞爺湖温泉では閑古鳥が泣くほど観光客が来なくなるほど、サミット反対派の排除やテロ対策を目的として「過剰」な警備を行った日本、1ヶ月前のことなのに、このことを日本のマスコミは忘れてしまったのだろうか。アフガン紛争、イラク戦争、ソマリアをはじめとする不安定なアフリカ各地における紛争が絶えない、このご時世である。世界の要人が集まるとき、「過剰」と思えるほどの警備をするのは、主催国の「礼儀」(面子)になっているのではないか。そのことを承知しながら、ことさら中国の在り方だけを居丈高に批難する。洞爺湖サミットの警備では、一般的には余り知られていなかったが、自衛隊の治安部隊まで待機していたという(そういえば、この前の岩手県地震で「原発」の安全確認のために自衛隊機が数機飛び立ったと報道されたが、いよいよ自衛隊が「治安」の全面に出てきた日本、嫌な雰囲気になってきた)。
 昨夜など「報道ステーション」で感情移入の激しい男性キャスターが「世界の資源をかき集めている中国云々」というコメントを発していたが、世界の資源をかき集めているのは「資源の乏しい」日本ではないか、と思わず突っ込みたくなってしまった。そのキャスターは事ある毎に「日本の食糧自給率は39パーセントです。異常です」と重苦しい雰囲気で伝えるきた人であるが、鉱物資源だけでなく食料も世界中からかき集めることで現状を維持している日本、中国を批判することなど露ほどもできないのではないかと思うが、そんなことなど関係ないとばかりに、現在はヒステリックとしか思えない調子で「中国バッシング」が行われている。この前のカシュガルで起こった爆弾テロ、イスラム問題を抱えた中国が「過敏」になるのは、当たり前のことである。それなのに……。
 このようなことを書くと、またぞろ「ネット右翼」たちが黒古は「中国贔屓だ」というようなことを言い出すのではないかと思うが、僕は「ナショナリズム」一色に染まるオリンピック(とその報道)が好きではない、どうにかならないのか、開幕前の昨夜までの報道はどう見ても酷いのではないか、と思っているだけである。もっと冷静に報道できないのか、つくづくそう思う。