黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

どうしようもない、私たち

2013-05-31 08:50:55 | 近況
 風邪を少々こじらせて医者にかかる羽目になり、予定していた原稿執筆(『立松和平全小説』第24巻「解説・解題」)が大幅に遅れ、そのためにこの欄を書く時間が無く、余計にイライラが募るという状況にあったが、2,3日前からようやく体調も元に戻り、それに従って気力も戻ってきて、どうにか「日常」を取り戻すことができた。原稿(『全小説』の「解説・解題」)の方も、無事終わり、少し余裕が出たので、溜まっていた新聞に目を通し、また直近のニュースが知り長けてテレビのニュース番組なども見ていたのだが、「いいこと」は少しもなく、「悪いこと」ばかりの現在、何ともやりきれない気持にさせられた。
 何よりも、国民の半数に満たない人たちによって支持された自民党が、「小選挙区制」という「選挙」のマジックで「勝利」したのをよいことに、「アベノミクス」というそれこそ虚構しか言いようがない経済政策の「表層的・現在的」な成功をテコに、やりたい放題をやり、それに国民の大多数(60~70パーセントの人々)が支持するという、何とも「奇妙」で「おぞましい」現実を目の当たりにして、僕は「どうしようもないな、私たちは」と思わざるを得なかった。
 つまり、例えば、フクシマが一向に「収束」せず、10数万人の避難者(ヒバクシャ)が故郷に帰れない現実があり、多くの土地や山林、海が放射能に汚染されたまま放置されているのに、そのようなフクシマの現実に目をつぶり(無かったものの如く振る舞い)、「日本の原発技術は安全」とばかりにフクシマの現実を蔑ろにして、原発産業、大企業の利益を最優先させ「原発輸出」に精を出し、また「経済発展のために原発は必要」とばかりに原発の「再稼働」を推進するす安倍首相や産業界・電力業界、とそのような安倍首相の政策に高い支持を与える国民、どこか「おかしい」。
 また、飯島勲内閣参与の「電撃的な北朝鮮訪問」やにわかにクローズアップされるようになった「拉致問題」、これほど胡散臭いものはない。もちろん、北朝鮮による日本人「拉致」は、許されざる行為であり、家族の人たちが早い時期の帰還(帰国)を望むのは、自然のことである。しかし、小泉政権時代の「拉致被害者の帰国」の時にも書いたことだが、この「拉致問題」はこれまでも今回も余りに「政治」に利用され(振り回され)過ぎているのではないか、という印象を持っている。7月の参議院選を前に「拉致問題に熱心な安倍首相・内閣」というイメージを国民に植え付け、参院選に「勝利」して「憲法改正」を行おうとする意図が見え見えの飯島内閣参与の訪朝。
 さらに、今更言うのもこちらが恥ずかしくなるような橋下大阪市長の「従軍慰安婦」発言と駐沖米軍への「風俗業の利用の勧め」、この橋下大阪市長の発言とその後の「弁解」については、「馬鹿か、お前」と言って済ませてもいいのだが、あのはったり屋で目立ちたがり屋の「政治屋」(家ではなく)について、テレビ司会者などが未だに「優秀な政治家」だとか「真の改革者」だなどとおだて上げ、今回の発言だけはまずかった、というような評価をしていることを知ると、残念ながら、この国の「民度」も地に落ちたな、と思うしかなくなってくる。また、この橋下発言が象徴する現代政治にあって「茶番劇」を演じたのが、昨日大阪市議会に提出された「橋下市長問責決議案」に反対意見を投じた公明党であることを考えると、公明党の掲げる「平和」とか「福祉」とか「人権」とかが、単なるお題目でしかないことがよく分かり、現代がどうしようもない時代にあることを、よく私たちに教えてくれている。
 この時代に「(未来に向けた)ビジョンが無くなった」とは、よく言われることだが、目先の利益にしか関心を示さず、「今さえよければ」というどう考えてもニヒリズムとしか言いようのない人々の在り方を見ていると、さもありなん、と思えてくる。東日本大震災の少し前ぐらいから、東大の先生たちを中心に「希望学」なるものが流行り出し、またあのニヒリズムの極致世界を絵が居続けてきた村上龍も『希望の国のエクソダス』(01年)あたりから「希望」を語り出すということがあったが、今の状況を見ると、「希望」は遠く、「絶望」こそが相応しい社会になっているのではないか、と思わざるを得ない。
 何とかならないか、と思う一方で、どうにもならない、という感情がわき出てきて、どうにもならなくなるのだが、大江健三郎さんや鎌田慧さんが僕と同じような「絶望」を内に抱えながら、それでも「反原発」や「9条を守れ」と言い続けていることに、また勇気づけられるのも事実。何ともアンビバレンツな現代であることよ。

政治家の倫理観(2)――「歴史」は多様か?

2013-05-23 15:28:55 | 近況
 武漢にいた時の習慣が帰国してから続いていて、昼食の後小一時間「昼寝」するようになっていたのだが、1週間ほど前、仕事の都合でその昼寝が長くなってしまい、気が付いたら2時間カーペットの上で寝ていたことがあり、そこで風邪を引いたのか、鼻水が止まらず、また咳も続き、ずっと難儀してきた。そのためにブログを書く気力もなくなり、「従軍慰安婦」や「沖縄駐留の海兵隊はもっと風俗業を利用すべきだ」という発言に端を発した橋下大阪市長の一連の「釈明」――彼は発言を撤回せず、さすがタレント弁護士と思わせるような、少しずつ論点をずらしながら、自分の正当性を主張する方法で何とか失地回復を図ろうとしているようだが、ウルトラ右翼の石原慎太郎「日本維新の会」共同代表や平沼赳夫国会議員団長、あるいは「今でも韓国の売春婦が大阪にはうろうろしている」などと、とんでもない発言を行った西村真吾衆議院議員などの「応援団」の発言を見れば、橋下が「従軍慰安婦は必要だった」「沖縄のアメリカ兵は風俗業を利用すべきだ」と本気で思っていた、というのが「真実」だろう、と思っている――を聞き、体調不良(風邪気味)も重なって、その「うんざり度」はずっと鰻登りになっていた。
 それに加えて、今夏台湾の出版社から刊行される「国際村上春樹研究」(季刊)から求められていた『ノルウェイの森』論――24年前の『村上春樹論―ザ・ロスト・ワールド』(89年 六興出版刊)に収録した『ノルウェイの森』論の改訂版(加筆・訂正)を寄稿して欲しい――、という要望に応じるべく、『ノルウェイの森』を読み直し、かつ3分の1ぐらいはほとんど「新稿」と言っていい原稿を書くということがあった。鼻水をすすり上げ、咳を飛ばしながらの『ノルウェイの森』論執筆、自分では納得のいく作品論が書けたと思っているが、いずれ公開されたとき、どのように評価されるか楽しみでもある。
 そんな1週間ほどであったのだが、昔の自分の作品論を読み直し、また『ノルウェイの森』を何年かぶりに読み直し、僕自身が齢を重ねたということもあり、また橋下大阪市長を初めとする政治家たちの「倫理観=モラル」のかけらもないような発言に接して思ったことは、「歴史」は常に「改ざん」されるということであり、「政治」というものが決して国民のため」ではなく、「私利私欲」、言い方を換えれば、「公」の場において「私怨」あるいは「私の思い」を実現するものなのではないか、ということであった。
 例えば、安倍晋三首相の国会答弁における「学問的にも国際的にも<侵略>の定義はない」という発言について、これについては弁護士であり国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ事務局長である伊藤和子が、1974年国連総会において有名な「決議3314」で「侵略」の定義を行っており、また近々では2010年に国際裁判所において、日本も参加して「侵略の罪」について定義しているという。ここで、「侵略行為」とは、「他国の主権、領土保全または政治的独立に対する一国による武力の行使、または国連憲章と両立しない他のいかなる方法によるもの」指しているというのだが、素人の僕が読んでも、この「侵略の定義」は、よくわかる。にもかかわらず、安倍首相は、「侵略の定義は決まっていない」、と強弁する。安倍首相の意図は明らかである。自分の祖父(岸信介)も深く関与した中国大陸への「侵略」を、何とかして「無化」し、そのことによって「戦前の政治」総体を「よきものであった」と掬い上げようとしているのである。その揚げ句に「アベノミクス」なる大企業優遇・富裕層優遇の「いかがわしい」経済政策に乗って、「憲法改正」までを実現し、「美しい日本=戦前の日本」を実現しようとしている。
 安倍首相にどんなブレーンが付いているのか知らないが、このような安倍首相の「歴史認識」ではとうてい国際政治(東アジアの政治・外交及び日米関係)の舞台では通用しないのではないか。自国中心主義の「歴史観」が国を危ういものにしてきたのは、「歴史」が物語るとおりである。もう一度、僕らは人間が「国家」のために「殺し合う」ことを経験しなくてはならないのか。何ともおぞましいことである。政治家たちが「倫理観」をなくすと、こんな状態になる、という見本のような状況を今日の僕らは経験しているとも言える。
 それにしても、そんなめちゃくちゃな「歴史認識」・「政治感覚」しか持たない安倍首相率いる自公政権に「70パーセント」近い支持を与え、かつ今度の参議院選挙では40パーセント以上の人が自民党に投票するという。政治家のモラルも問題だが、こんな世論調査の結果について平然としている国民のモラルも問題である。もし、今度の参議院選挙で、自民党が過半数を獲得したら、安倍首相は「憲法改正」も承認された(実際は、世論調査で第9条の改正に賛成の人は過半数以下であるにもかかわらず)として、一挙に「戦争のできる国」にするだろう。「国民主権」で穴区「閣下の主権」を大事にし、「表現の自由」も「公共」の名の下に制限される(さしずめ、僕のブログなど、「公共の秩序を乱す」として、閉鎖を強制されるかも知れない)、僕らはそんな「危険な状況」が目の前に来ていることを、もう一度認識すべきである。
 「甘言」にだまされてはならない。



政治家の倫理観

2013-05-14 18:57:05 | 近況
 連休中からずっと掛かりきりになっていた村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の書評(4.5枚「図書新聞」掲載予定)と論評(15枚「国際村上春樹研究」創刊号―今夏に台湾の出版社から刊行予定。武漢に滞在中、中国の村上春樹研究者に依頼された)をようやく書き上げ、ほっとしてテレビのニュースを見ていたら、あの橋下徹大阪市長(日本維新の会共同代表)が、「従軍慰安婦は必要だった」「沖縄の普天間基地を視察に行った時、米軍司令官にアメリカ兵はもっと(沖縄の)風俗業を利用すべきだ、と進言したが、冷たくあしらわれた」と発言したというニュースが飛び込んできた。
 一緒にコーヒーを飲みながらテレビを見ていた家人の反応は素早かった。彼女の「この人、前から変な人だと思っていたけれど、こんなに酷い人だとは思っていなかった。女性を馬鹿にしている。慰安婦や風俗が売春だということを、分かっているのかしら。こんな人が大阪市長や政党のトップだなんて、信じられない。馬鹿みたい」との言葉は、まさに橋下徹の思想・倫理観がいかに「お粗末」なもので、女性蔑視そのものであることを的確に言い当てたものだと思う。普段は、あまり「政治的」な事柄について発言しない彼女だが、今回の橋下発言には余程腹が立ったのだろう。
 この橋下発言には、僕もあきれるしかなかったのだが、この橋下発言は今大手をふるっている右派の思想・倫理観がいかにお粗末なものであるか、また歴史的「事実」に基づかないものであるか(資料や調査に基づかないものであるか)を如実に示すものであった。従来、従軍慰安婦について、そのようなことを日本軍は組織的に行ったことはない、というのが、「従軍慰安婦」の存在を否定する右派の論理であったが、このことについて従軍慰安婦が登場する小説(例えば、五味川純平の『人間の条件』でも、あるいは火野葦平の「兵隊三部作」(『麦と兵隊』「土と兵隊」『花と兵隊』)でも何でもいい)を読めば、そこには「朝鮮ピー屋」(朝鮮人慰安婦宿)や「ピー屋」(日本人慰安婦=売春婦の宿)が出てきて、彼女(慰安婦・売春婦)らが「強制的」・「半強制的」に戦場に狩り出され、将兵たちの性奴隷になっていたことが明らかであり、またそのような日本軍の「蛮行」――そこには中国大陸における「三光作戦=焼き・殺し・奪う」やアジア各地の虐殺事件も含む――に関する諸書類は、多くの人が証言しているように、あるいは敗戦前後の日本を映した映画などにも出てくるが、敗戦からアメリカ軍が日本へ上陸してくる間に、必死になって「秘密」書類を燃やし続けた事実(心に疚しいことがあったから、あるいは戦犯裁判にかけられる証拠になると思って)について、橋下氏や橋下氏の言説を「間違っていない」と弁護した石原慎太郎は、どのように思っているのか。
 どうも、右派の政治家たちの言動を見ていると、安倍晋三首相もそうだが、何故か日本がアジア太平洋戦争に「敗北」したことことから手に入れた(学んだ)戦後的価値を認めたくないようで、その結果、誰もがモラル・ハザード状態にあるように思えてならない。
 例えば、憲法「96条」(改正手続きに関する条項)を改正して、改正手続きのハードルを低くし、その先には憲法第9条(戦争放棄)を改正し、戦後の価値を象徴する「平和と民主主義」を否定して、「戦争のできる国」、「国権を最優先する国」に変えようとする意図が明々白々なのに、そのような人物が率いる内閣に「70パーセント」を越える支持を与える国民、あるいは橋下徹や石原慎太郎など「ウルトラ右翼」としか思えない人物を首長に選ぶ(選んだ)市民・都民、すべては「金儲け=金権主義」最優先の考えから出た結果とも考えられるが、みんな、みんな倫理観がおかしくなっているのではないか、と思わざるを得ない。
(追加―15日)
 さらに、余りに怒りが激しかったので、書き忘れてしまったのだが、沖縄駐留のアメリカ軍(海兵隊)将兵に対して、「もっと風俗を使うべきだ」と進言したということについて、橋下徹は自らの発言が問題になった後も、ツイッターなどで「日本の風俗は合法的なものだから、それを使うべきだ」といった主旨の発言を繰り返しているが、橋下はかつては弁護士だったはず。風俗業界における「合法」が有名無実な状態になっていて、実際は「売春防止法」(管理売春の禁止)に抵触する行為を繰り返していることを、よもや知らないわけではないだろう。女性を「商品」として扱い、そこには「人間の尊厳」も、また「人間としての権利」も存在しないことを、何故無視するのか。全く理解できない。この「風俗を使うべきだ」という発言は、明らかに「戦争中に慰安婦は必要だった」という論理と同じである。
 第一、そのような風俗を利用すれば、駐留米軍の犯罪が亡くなると思っていること自体が、おかしな論理と倫理で、橋下の論理に従えば、沖縄を初めアメリカ軍基地のある地域の風俗(売春)は許容すべきだ、と言っていることになり、これもまた弁護士でもある彼の発言としては、お粗末、というか「女性蔑視」も甚だしい「最悪」な発言(考え方)である。テレビに映る沖縄住民が「あきれて、ものが言えない」とうんざりした表情で、橋下発言を難じていたが、大阪市民(女性)及び全国の女性(男性)も、このような橋下氏の発言、そしてそれを擁護する石原慎太郎や日本維新の会に対して「ノー」を言い続けるべきである。橋下発言は、日本を「維新」するものではなく、復古調の単なる「権力亡者」の集まり、と思えるからである。こんな発言をする共同代表を頭に抱く日本維新の会の政党支持率が下がるのは当たり前である。(追加はここまで)
 そのことを考えれば、何よりも橋下氏や石原慎太郎が率いる日本維新の会に所属する女性議員、沈黙していていいのか、と思う。それは、先のアジア太平洋戦争を「侵略戦争」と認めない安倍氏が率いる自民党の女性議員についても、同断である。
 本当に、政治家の思想・倫理はどうかしている、と思う。嫌になっちゃう。

スポーツと「政治(利用)」

2013-05-09 18:48:17 | 仕事
 学生だった頃だから、今から40年以上も前のことになるが、ある教授が「スポーツ振興はもう一つの政治である。スポーツを盛んにすることによって政治の欠落(失敗)を糊塗しようとする」と言ったことがある。確か、数年前に終わった東京オリンピックに関するコメントを学生に求められて回答だったと思うが、昨今の猪瀬直樹東京都知事の2020年東京オリンピック招致に関する「不適切発言」や、長嶋茂雄と松井秀喜への「国民栄誉賞」授賞式における安倍首相の「はしゃぎぶり」を見ていると、40数年前に恩師の言葉が鮮やかに蘇ってくる。
 猪瀬東京都知事の発言は、いつもの「尊大さ」が現れたもので、あの発言こそ猪瀬の本質だと考えればそれで済むが、安倍首相(安倍政権)の「国民栄誉賞」に現れた「あざとさ」、それはあの安倍氏の「笑い」に全て集約されていると思うが、何とも言えぬ不気味さを感ぜざるを得なかった。まさに恩師の一人が言った「スポーツと政治(利用)」を地でいった安倍首相、思わず「貴方は今にこやかに笑っているが、貴方が進めようとしている憲法改正が実現し、例えば集団的自衛権が行使されれば、この野球場に集っている若者の何人かは戦場に狩り出され、もしかしたら死者となって帰ってくるかも知れないのだが、そのことについて貴方はどう考えるのか」とつぶやかざるを得なかった。
 そして、同時に想起したのは、これも今から45年ほど前になるが、あの1970年前後の「政治の季節」(全共闘運動・学生叛乱の時代)において、運動部のほとんどが、大学当局に操られ日本刀を振りかざして全共闘が立てこもる校舎に殴り込んできた日大の運動部がそれを象徴していたが、その歴史的意味を知ろうとせず学生運動を弾圧する側に回ったこと、このこともスポーツが「政治利用」されたことの一例として記憶から消すことができない。
 猪瀬発言、長嶋茂雄・松井秀喜の「国民栄誉賞」について、そんな大げさに考えなくとも、と大方の人は思うかも知れない。しかし、一番「恐ろしいこと」「嫌なこと」は、「あめ玉=甘言」と共にやってくるというのは、歴史の「法則」でもある。
 フクシマが一向に「収束」していないにもかかわらず、中東(サウジアラビア・トルコ)やベトナムに「日本の原発技術は高い。フクシマがあったから安全には気をつけている」という、まさに屁理屈としか思えない理由で「平気な顔」をして原発輸出を行い、その「トップ・セールス」ぶりを自慢している安倍首相である、もし憲法(第9条)が改正され、この国が「戦争のできる国」になったとしたら、有頂天になって周りが見えなくなり、「日本のため(天皇のため)」と称して、若者たちを戦場に狩り出していくかも知れない。
 周知のように、僕は昨年9月から中国(武漢)で暮らしてきたが、そこで知った中国人のメンタリティに照らして判断すれば、もし自分たちの顔が潰されるようなことがあったら(馬鹿にされたら、あるいはプライドを傷つけられるようなことがあったら)、迷わず相手に立ち向かっていく、と思われる。つまり、自分たちのプライドのためなら戦争も辞さない覚悟(メンタリティ)を誰もが持っている、ということである。
 日本人は、「脱亜入欧」を唱えた福沢諭吉の時代から、ずっと中国(人)や朝鮮(人)を「蔑視」してきたが、それが根本から間違っていること、僕は5ヶ月に及ぶ武漢暮らしで、そのことがよく分かった。
 その意味で、安倍首相は「スポーツ(国民栄誉賞)」などにうつつを抜かしている暇があったら、もう一度アジアの歴史(とりわけ近代史)を学ぶべきである。まさか、副総理の麻生さんのように「漫画」(『マンガ日本の歴史』)を読んで歴史を学んだつもりになっているわけではないだろうが、せめて発禁処分を受けた石川達三の『生きてゐる兵隊』(1938年、日中戦争開始直後)を読んでから、憲法改正や『侵略』について発言してもらいたいものだ、と思う。

国威掲揚と「経済=金権主義」――何だか「亡霊」を見ているようだね!

2013-05-03 07:28:50 | 近況
 帰国してから今日で6日目、帰国してすぐに両親の墓参り、過程では面倒見られなくなり施設にいる義母のお見舞い、そして武漢にいるときからぐらぐらが激しくなった奥歯の治療のため友人の歯科医のところへ、放置されたまま大根の花が咲き誇り、雑草が我が物顔に蔓延っている家庭菜園の片付け、また「解放文学賞」の選考会(これについては、少し落ち着いてから書きたいと思っている)、等々、そんなことをあれこれやってうちに、時間はあっという間に過ぎていったのだが、僕が武漢にいる間に溜まった新聞の整理をしていて「はっ」と思ったのだが、どうもこの国は明治時代から昭和戦前まで(アジア太平洋戦争の敗戦まで)続いていた「膨張主義=覇権主義=海外侵略」という、どう考えても結果的には「破滅」しかない道を歩き始めているように思えてならなかった。
 たぶん、そのような僕の予想には、中国にいて放送される「領土問題=尖閣諸島問題」に関する日本の対応に必ず登場する「日の丸」の旗を振って安倍首相の演説を応援する若者たち(「ネトウヨ」=ネット右翼と呼ばれる一群の若者たち)の姿に、大いなる「違和感」を抱かざるを得なかったと言う感情も反映しているのだろうが、それ以上にこの国全体が「国威掲揚」に向かってひた走っているように見えるからに他ならない。
 言い方を換えれば、アベノミクスなどと言われる「経済政策」(TPP参加も含む)から取り残された多くの国民(貧困層)を尻目に、自分たちが大企業中心の現代社会からの「落ちこぼれ」(というか、「落ちこぼされた」)であることに無自覚な(これは意図的に「無自覚」を装っているとも言える)若者たちの思想的な退廃でもある、と僕は思っているが、他者(他国)の在り方に対して想像力を巡らせず、一方的に「我が国」の優位性や正当性を信じ込んでいるその様は、どうも戦前の「暴戻」を見ているような気がしてならない。
 帰国してこのようなことがしきりに頭をよぎったのだが、それはたぶんに武漢の大学で、中国人学生もほとんど読んだことないという日中戦争が明らかに「侵略戦争」であることを証明した石川達三の『生きてゐる兵隊』(「中央公論」1938年3月号、直ちに発禁処分)とその続編と言っていい『武漢作戦』(同 1939年1月号)をその前後の作品や自筆年表、同時代のエッセイ等を参考にして読んできたことと関係しているのかも知れない。数は分からないが、確実に「南京大虐殺」という非戦闘員を大量に殺戮した南京攻略戦を想起させる表現が何カ所もある『生きてゐる兵隊』と、占領した南京から揚子江をさかのぼって武漢を占領しようとした日本軍の実際を、持ち前のリアリズムの処方を用いて描いた『武漢作戦』、これらの作品を通して透けて見えてくるのは、「無謀」としか思われない中国侵略を後押しした国民の「ナショナリズム」(国威掲揚によって醸成されたもの)であり、「大東亜共栄圏建設」に見られるアジアの盟主志向・経済膨張思想である(安倍晋三氏の祖父岸信介が戦犯として問われたのも、この時期「革新官僚」として日本の中国・アジアへの侵略政策に辣腕をふるっていたからに他ならなかった)。
 誰かが「歴史に学ばないものは馬鹿だ」と言っていたが、安倍首相の今度のロシア・中近東訪問で明らかになった「トップ・セールス」は、サウジアラビアやトルコへの「原発輸出」が如実に語るように、「経済=金儲け」のためなら、歴史の「改ざん」(具体的には「フクシマ」が全く収束していないにもかかわらず、国民支配のため」でしかない原発を兵器で輸出する(輸入する)、という何とも腹立たしいばかりの「歴史」抜きの商売、フクシマだけが問題なのではない。核廃棄物の最終処分場も決まっておらず、また廃炉にどのくらいの費用と時間が掛かるかも不分明なまま、「安全」を強調して危険きわまりない原発を輸出しようとする神経、僕にはとうてい考えられないが、この国がどんどん困った状況に進んでいることだけは確か、と言えるだろう。

 そして今日は「憲法記念日」、ほとんどの政治指導者が戦後の「平和と民主主義」の時代を知らない現在にあって、本来ならそんなに変える必要がない憲法改正のハードルを下げるための「96条改正」が論議されている。いまだに、国民の半数以上が「改正反対」にもかかわらず、選挙で大勝したからと言うことで「憲法改正」、それは「戦争のできる国にする」ことが目的であるようだが、日本人が兵隊を中心に300万余りの人が死に、アジア全域で2000万人以上の人が犠牲になった先のアジア太平洋戦争のことを考えれば、戦争になっても絶対戦場に出ることのない安倍氏(とその一族郎等たち)がどんなに戦争に恋いこがれても、戦争反対・軍備は認めない「憲法9条」は守り抜かなくてはならないのではないか。
 それにしても、あのように「国威掲揚」と「金儲け」のことしか頭にない安倍氏がトップに座る自民党に、国民はあれほどの議席を与え、高い支持率を与えているのだろうか。僕らはもっともっと「反省」しなければならないのではないか、と思う。