1昨日の朝日新聞に作家高橋源一郎の「論壇時評」が載っていたが、その中でさすが全共闘世代(学生運動経験者)を代表する表現者の一人である高橋らしく、現在の日本において重要なのは「対等・平等」を原則とする「民主主義」的な思想なのではないか、と言っていた。先のアジア太平洋戦争の敗北を機にこの国の基本を形成するようになった「民主主義」、例えばそれは「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」を三原則とする「日本国憲法」に体現されているわけだが、戦後も60有余年が過ぎ、どうも僕らが当たり前のように思ってきたその「戦後民主主義」も、いつの間にか自衛隊の海外派兵が如実に物語るように、形骸化してしまったのではないか、ということが高橋の胸奥にはあるようで、僕は高橋が提案している「民主主義」の再考に賛意を表すべきだと思っていたのだが……。
ところが、昨日から今日の新聞やテレビニュースを見ていたら、「石原新党」なる奇っ怪な文言が繰り返し出ていて、思わず「なんじゃ、これは!」と叫ばずにはいられなかった。新聞記事によると、亀井静香国民新党代表、平沼赳夫立ち上がれ日本代表が石原慎太郎東京都知事を誘って(ということは、かつて自民党内で最タカ派と言われた「青嵐会」の元同志たちということになるが)、次の総選挙を目標に石原を党首とする「新党」結成を目指すというのだが、亀井も平沼も石原も共に70代(石原に至っては、79歳という高齢になる)、老いてますます意気軒昂、と言祝ぎたい気持もないわけではないが、今更なんでこんな年寄りが糾合して「新党」を作らなければならないのか。背景には、石原らが「橋下大阪市長や大村愛知県知事らにも声を掛ける」と言っていることから推測すれば、「地方主義」「地方の活性化・復権」など耳障りの良いスローガンを掲げながら、実は地方における「民主主義」を押し潰して「独裁」的な社会を作ろうとする橋下大阪市長(大阪維新の会)らの目論見(ファシズム社会の成立)を、かつて中央政界でそのようなことを目論見ながら果たせず、莫大な経済収入(税収)を背景にすることで、思い通りの「右派」的な政策――例えばそれは、学校玄蕃における民主主義の否定(君が代・日の丸の強制や職員会議での採決の否定、など)――を進めることが可能である自信を持った石原東京都知事の、あの不遜きわまりない発言に象徴される「野望」がある、と思われる。
この石原、亀井、平沼らの「野望」は、「大阪維新の会」から次の総選挙に何百人規模の候補者を立てると豪語している橋下大阪市長の「野望=独裁国家の実現」と、たぶん、いずれは合流するであろうと思うと、何だか背筋が寒くなってくるが、このような石原東京都知事(橋下徹大阪市長)らの野放図としか言いようがない「野望」は、現今大問題になっているフクシマ(原発)に関して、誤解を恐れずに言えば、国家と電力会社から支払われる莫大なお金(電源三法による交付金など)に群がったり、依存してきた原発立地の首長及びその首長を選挙で選んだ住民にも、責任の一端があるように、石原慎太郎を東京都知事に選んだ東京都民や橋下徹を大阪市長(大阪府知事)に選んだ、大阪市(府)民にも、その責任の一端があるはずである。
そのような自己批判抜きで、昨今の「民主主義」の危機は乗り越えられないのではないかと思うが、僕がもう一度考えなければならないと思うのは、「民主主義」の根幹には個人主義(インデビジュアリズム)があるのは当然として、その個人主義の根っこに「ヒューマニズム(大江健三郎風<フランス語>に言ってユマニズム」が存在すること、ヒューマニズムの根源には「生命の尊重」があること、このことを忘れてはならないのではないか、と痛切に思う。
思い出して欲しいのは、橋下大阪市長に当選したとき、橋下に反対する票は4割を超えていたのに、「私が当選したのは民意だ。私に反対した市職員は市役所から出て行け」と言ったことである。この発言に弁護士であったとは思われない橋下の「反民主主義」の思想が良く現れている。つまり、少数意見を尊重する「民主主義」の否定、言論・思想の自由の否定、反対派の抹殺(=独裁政治)、等々という「民主主義」の否定が意味するものは何か。僕らは、東京のことだから、大阪のことだから、と言って知らんぷりするのではなく、「石原新党」構想が全国区を目指していることからもわかるように、彼らの動きは相当「ヤバイ」と思わなければならないのではないか。気が付いたら、もうがんじがらめになっていた、というのでは遅いはずである。
いつか来た「戦争への道」が、どれほど悲惨で過酷なものであるか、僕らはもっともっと知らなければ(勉強しなければ)ならないのではないか。子供や孫がいつか来た道を歩かないように、僕は声を大にして言いたいと、今日この頃は切に思う。
ところが、昨日から今日の新聞やテレビニュースを見ていたら、「石原新党」なる奇っ怪な文言が繰り返し出ていて、思わず「なんじゃ、これは!」と叫ばずにはいられなかった。新聞記事によると、亀井静香国民新党代表、平沼赳夫立ち上がれ日本代表が石原慎太郎東京都知事を誘って(ということは、かつて自民党内で最タカ派と言われた「青嵐会」の元同志たちということになるが)、次の総選挙を目標に石原を党首とする「新党」結成を目指すというのだが、亀井も平沼も石原も共に70代(石原に至っては、79歳という高齢になる)、老いてますます意気軒昂、と言祝ぎたい気持もないわけではないが、今更なんでこんな年寄りが糾合して「新党」を作らなければならないのか。背景には、石原らが「橋下大阪市長や大村愛知県知事らにも声を掛ける」と言っていることから推測すれば、「地方主義」「地方の活性化・復権」など耳障りの良いスローガンを掲げながら、実は地方における「民主主義」を押し潰して「独裁」的な社会を作ろうとする橋下大阪市長(大阪維新の会)らの目論見(ファシズム社会の成立)を、かつて中央政界でそのようなことを目論見ながら果たせず、莫大な経済収入(税収)を背景にすることで、思い通りの「右派」的な政策――例えばそれは、学校玄蕃における民主主義の否定(君が代・日の丸の強制や職員会議での採決の否定、など)――を進めることが可能である自信を持った石原東京都知事の、あの不遜きわまりない発言に象徴される「野望」がある、と思われる。
この石原、亀井、平沼らの「野望」は、「大阪維新の会」から次の総選挙に何百人規模の候補者を立てると豪語している橋下大阪市長の「野望=独裁国家の実現」と、たぶん、いずれは合流するであろうと思うと、何だか背筋が寒くなってくるが、このような石原東京都知事(橋下徹大阪市長)らの野放図としか言いようがない「野望」は、現今大問題になっているフクシマ(原発)に関して、誤解を恐れずに言えば、国家と電力会社から支払われる莫大なお金(電源三法による交付金など)に群がったり、依存してきた原発立地の首長及びその首長を選挙で選んだ住民にも、責任の一端があるように、石原慎太郎を東京都知事に選んだ東京都民や橋下徹を大阪市長(大阪府知事)に選んだ、大阪市(府)民にも、その責任の一端があるはずである。
そのような自己批判抜きで、昨今の「民主主義」の危機は乗り越えられないのではないかと思うが、僕がもう一度考えなければならないと思うのは、「民主主義」の根幹には個人主義(インデビジュアリズム)があるのは当然として、その個人主義の根っこに「ヒューマニズム(大江健三郎風<フランス語>に言ってユマニズム」が存在すること、ヒューマニズムの根源には「生命の尊重」があること、このことを忘れてはならないのではないか、と痛切に思う。
思い出して欲しいのは、橋下大阪市長に当選したとき、橋下に反対する票は4割を超えていたのに、「私が当選したのは民意だ。私に反対した市職員は市役所から出て行け」と言ったことである。この発言に弁護士であったとは思われない橋下の「反民主主義」の思想が良く現れている。つまり、少数意見を尊重する「民主主義」の否定、言論・思想の自由の否定、反対派の抹殺(=独裁政治)、等々という「民主主義」の否定が意味するものは何か。僕らは、東京のことだから、大阪のことだから、と言って知らんぷりするのではなく、「石原新党」構想が全国区を目指していることからもわかるように、彼らの動きは相当「ヤバイ」と思わなければならないのではないか。気が付いたら、もうがんじがらめになっていた、というのでは遅いはずである。
いつか来た「戦争への道」が、どれほど悲惨で過酷なものであるか、僕らはもっともっと知らなければ(勉強しなければ)ならないのではないか。子供や孫がいつか来た道を歩かないように、僕は声を大にして言いたいと、今日この頃は切に思う。