黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「タカ派」が歓迎される?――忍び寄るファシズム

2012-01-28 09:48:59 | 文学
 1昨日の朝日新聞に作家高橋源一郎の「論壇時評」が載っていたが、その中でさすが全共闘世代(学生運動経験者)を代表する表現者の一人である高橋らしく、現在の日本において重要なのは「対等・平等」を原則とする「民主主義」的な思想なのではないか、と言っていた。先のアジア太平洋戦争の敗北を機にこの国の基本を形成するようになった「民主主義」、例えばそれは「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」を三原則とする「日本国憲法」に体現されているわけだが、戦後も60有余年が過ぎ、どうも僕らが当たり前のように思ってきたその「戦後民主主義」も、いつの間にか自衛隊の海外派兵が如実に物語るように、形骸化してしまったのではないか、ということが高橋の胸奥にはあるようで、僕は高橋が提案している「民主主義」の再考に賛意を表すべきだと思っていたのだが……。
 ところが、昨日から今日の新聞やテレビニュースを見ていたら、「石原新党」なる奇っ怪な文言が繰り返し出ていて、思わず「なんじゃ、これは!」と叫ばずにはいられなかった。新聞記事によると、亀井静香国民新党代表、平沼赳夫立ち上がれ日本代表が石原慎太郎東京都知事を誘って(ということは、かつて自民党内で最タカ派と言われた「青嵐会」の元同志たちということになるが)、次の総選挙を目標に石原を党首とする「新党」結成を目指すというのだが、亀井も平沼も石原も共に70代(石原に至っては、79歳という高齢になる)、老いてますます意気軒昂、と言祝ぎたい気持もないわけではないが、今更なんでこんな年寄りが糾合して「新党」を作らなければならないのか。背景には、石原らが「橋下大阪市長や大村愛知県知事らにも声を掛ける」と言っていることから推測すれば、「地方主義」「地方の活性化・復権」など耳障りの良いスローガンを掲げながら、実は地方における「民主主義」を押し潰して「独裁」的な社会を作ろうとする橋下大阪市長(大阪維新の会)らの目論見(ファシズム社会の成立)を、かつて中央政界でそのようなことを目論見ながら果たせず、莫大な経済収入(税収)を背景にすることで、思い通りの「右派」的な政策――例えばそれは、学校玄蕃における民主主義の否定(君が代・日の丸の強制や職員会議での採決の否定、など)――を進めることが可能である自信を持った石原東京都知事の、あの不遜きわまりない発言に象徴される「野望」がある、と思われる。
 この石原、亀井、平沼らの「野望」は、「大阪維新の会」から次の総選挙に何百人規模の候補者を立てると豪語している橋下大阪市長の「野望=独裁国家の実現」と、たぶん、いずれは合流するであろうと思うと、何だか背筋が寒くなってくるが、このような石原東京都知事(橋下徹大阪市長)らの野放図としか言いようがない「野望」は、現今大問題になっているフクシマ(原発)に関して、誤解を恐れずに言えば、国家と電力会社から支払われる莫大なお金(電源三法による交付金など)に群がったり、依存してきた原発立地の首長及びその首長を選挙で選んだ住民にも、責任の一端があるように、石原慎太郎を東京都知事に選んだ東京都民や橋下徹を大阪市長(大阪府知事)に選んだ、大阪市(府)民にも、その責任の一端があるはずである。
 そのような自己批判抜きで、昨今の「民主主義」の危機は乗り越えられないのではないかと思うが、僕がもう一度考えなければならないと思うのは、「民主主義」の根幹には個人主義(インデビジュアリズム)があるのは当然として、その個人主義の根っこに「ヒューマニズム(大江健三郎風<フランス語>に言ってユマニズム」が存在すること、ヒューマニズムの根源には「生命の尊重」があること、このことを忘れてはならないのではないか、と痛切に思う。
 思い出して欲しいのは、橋下大阪市長に当選したとき、橋下に反対する票は4割を超えていたのに、「私が当選したのは民意だ。私に反対した市職員は市役所から出て行け」と言ったことである。この発言に弁護士であったとは思われない橋下の「反民主主義」の思想が良く現れている。つまり、少数意見を尊重する「民主主義」の否定、言論・思想の自由の否定、反対派の抹殺(=独裁政治)、等々という「民主主義」の否定が意味するものは何か。僕らは、東京のことだから、大阪のことだから、と言って知らんぷりするのではなく、「石原新党」構想が全国区を目指していることからもわかるように、彼らの動きは相当「ヤバイ」と思わなければならないのではないか。気が付いたら、もうがんじがらめになっていた、というのでは遅いはずである。
 いつか来た「戦争への道」が、どれほど悲惨で過酷なものであるか、僕らはもっともっと知らなければ(勉強しなければ)ならないのではないか。子供や孫がいつか来た道を歩かないように、僕は声を大にして言いたいと、今日この頃は切に思う。

村上春樹の「反核スピーチ」批判――何故「沈黙」しているのか?

2012-01-26 15:54:23 | 文学
 今日もまた、「フクシマ」や「東日本大震災」関係の書籍や雑誌を読んでいたのだが、そのうち、ふと村上春樹の「反核スピーチ」のことを思い出し、込み上げてくる「怒り」にも似た嘆息を禁じることができなかった。 
 理由は、はっきりしている。昨年6月(?)のカタルニア国際賞の受賞記念スピーチでは、あれほど「勇ましく」というか「はっきり」と大上段に「日本人は『核』についてノーと言い続けるべきであった」と言ったのに、あれから半年以上が過ぎた今日まで、僕が知るような形では、村上春樹があの受賞記念スピーチ以外のところで「核(反核)」や「フクシマ」について発言したり書いたりしたということが聞こえてこないのは、どういうことか、という思いが強くあることに、ふと気付いたということである。
 『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」時代を考える』でも書いたのだが、村上春樹ほどに世界的にも国内的にもよく知られ、近年はノーベル文学賞候補として騒がれてきた作家であれば、新聞だって雑誌だって、あるいはテレビのようなメディアだって、村上春樹が「核」(反核)」について発言すると言えば、喜んで(飛びついて)紙誌面を空けて入稿を待ち望むだろうし、テレビなどはたぶんトップニュースとして報じるだろうし、連日ワイドショウをにぎわすのではないかと思う。もし村上春樹が「反核」について発言したら、何よりも「フクシマ」以降、一部では盛り上がりを見せながら、政府の「収束」宣言が功を奏したのか、あるいは「あきらめ」の境地に陥っているのか、今や「風化」が始まったかのようにも見える「反原発」の動きが再活発化するであろうし、多くの人に「やはり」と思わせるだけの影響力を示すことができると思うのだが、彼は相変わらず「沈黙」している。
 そこで思い出すのが、エルサレム賞を受賞したときのスピーチ「壁と卵」の時も同じだったのだが、「外国」では格好いいこと=まともなことを言いながら、国内では「沈黙」を守り続けるという村上春樹の「政治姿勢」(ここで言う「政治」とは、「リアル・ポリティックス(現実政治)」と「文壇政治」の両面を指している)のことである。確かに現在の村上春樹は「世界的」な作家として知られており、内外とも発表する作品が常に100万を超えるようなベストセラーになる、現代文学を代表する作家かも知れない。しかし、カタルニア国際賞受賞の時の「反核スピーチ」のように、これまで地道に「文学」に関わりながら人間=人類(のいのち)に関わることとして「反核」を訴えてきた、大江健三郎や林京子といった戦後の文学者を蔑ろにする(無視する)ような態度は、人が一度は口にしたことを以後は「実践」で補っていかなければ、それこそ文学者としての「倫理(モラル)」が問われると思うのだが、そのことを村上春樹は分かっているのだろうか。自分の周りにいるのは、「おべっか」しか言わない取り巻きの編集者や批評家・研究者であって、誰も彼に「苦言」を呈するような人がいないとしたら、それは「悲劇」を通り越して「喜劇」でしかない。
 それにしても、かつて村上春樹はが河合隼雄との対談で、「これからはデタッチメント(社会的無関心)な姿勢をやめて、社会的なことにコミットメントしていく」と決意を語ったことが、懐かしい。文学者は「無責任」と昔から言われてきたが、村上春樹よ、お前もか、という思いが昨日・今日、してならない。こんなことでは、またノーベル文学書を逃してしまうぞ、と言っておきたい。

<追加>(1月27日>
 昨日の記事で書くのを忘れていたのだが、それは村上春樹自身が半年前の「反核スピーチ」に責任を取らず「沈黙」し続けていることの問題とは別に、これまで村上春樹及び村上春樹の文学や生き方に「オマージュ(讃歌)」を送り続けてきた批評家や研究者、編集者および村上春樹を支持する読者が、この「反核スピーチ」に関して――その内容に即して村上春樹が実行していないことについて――、なぜ「沈黙」を守っているのか、僕には分からない、ということである。僕は、拙著『「1Q84」批判と現代作家論』(昨年2月刊行)の中でも書いているのだが、なぜ『1Q84』が失敗作なのかということに対して、もちろん村上春樹自身に大いなる責任があるが、それと同じくらい「取り巻き」の批評家や研究者、編集者、読者が「オマージュ」ばかり捧げて、本来の意味の「批評(批判)」を行ってこなかったからではないかと指摘し、今後の村上春樹の方向性に危惧を表明してきた。
 今回の「反核スピーチ」に関しても、僕の指摘と危惧がその通りになってしまった、という思いがある。作家と批評家(研究者)・編集者とは二人三脚だと昔から言われてきたが、相手がいなくなると二人三脚は成り立たなくなる。それと同じで、正統(正当)な批評家(研究者)がいなくなると、作家及びその作家の作品は確実に質が落ちる。作家が「唯我独尊」になってしまうからである。偉そうに聞こえるかも知れないが、村上春樹の将来を考えると、夫子自身が責任を持って「範を垂れよ」「有言実行せよ」、と言いたくなる。
 以上。

吉本隆明批判(補遺)――「無惨」「哀れ」

2012-01-25 08:54:31 | 文学
 のっけから「高見」発言になってしまって、自分でもちょっと気が咎めるのだが、昨日自分の「吉本隆明批判」を検証するために何気なくネットを見ていたら、「とんでもない記事」に出会ってしまった。
 それは、僕が最初に吉本の『「反核」異論』(82年)当時から変わらぬ「原発容認・推進論」のどうしようも無さを批判するきっかけになった「週刊新潮」(1月5日・12日新年特大号)の「『反原発』で猿になる」という記事について、娘の作家「よしもとばなな」がツイッターで、次のような発言をしていたというのである。
 「父のことですが、もうあまりちゃんと話ができないので、まとめる人の意訳があるかと。私が話したときは基本的に賛成派ではなく廃炉と管理に人類の英知を使うべきだ的な内容ではないかと察します。一部をとりあげて問題にするのはどうかやめてください。父は静かに介護生活をしていますので」
 →→「娘」の「優しい」本音といっていい言葉だと思われるが、しかし、吉本が昨年の5月に「毎日新聞」で、また同じく8月に「日本経済新聞」のインタビューで「週刊新潮」とほぼ同じ内容の「原発容認・推進」の発言をしていること、それは先にも書いたように『『反核」異論』の時代から全く変わっていないこと、娘のよしもとばななは知っていて、このような「優しい」「父親思い」の発言をしたのだろうか。「ばなな」の発言がもし「本当のこと」だったら、「週刊新潮」の記者が吉本の発言を「意訳」したことになり、そこには「悪意」さえ存在するということにならないだろうか。それにしても、誰もがいつかは迎えざるを得ないこととは言え、「戦後最大の巨人」とか「知の巨人」とか言われてきた吉本隆明が娘から「もうあまりちゃんと話ができない」などと告白されると、何故か寂しい思いもしないではないが、しかし、「フクシマ」の被害者(避難民、将来の被曝死者)のことを思うと、そうであるならば(ばななの言う「介護生活」がどのようなものであるのかは分からないが、「黙って老いていけ」と悪罵の一つも吐きたくなってしまうのも、若いとき吉本から圧倒的な影響を受けた僕(らの世代)としては、許されるのではないかと思っている。
 それにしても、同じくツイッターで「父は、今私に対してでもちゃんとお話ができるときとできないときがあります」とか「日によって頭がはっきりしている日があるからとしか言いようがない」とか言われると、池に落ちた犬を打つような仕打ちになるが、「老醜」「老残」としか言い様が亡くなってしまうが、ぼくも今年89歳になる義母が俗に言う「まだらぼけ」状態に現在あり、「昔」のことは良く覚えているのに、最近のことは週に1回程度見舞いに行っている僕の名前はもとより孫の顔さえ忘れてしまていることを思い出し、「父のことは放っておいてくれ」と言うよしもとばななではないが、「吉本隆明よ、さらば!」と言って済ませてしまいたいのだが、しかしこれも繰り返しになるが「フクシマ」のことを思うと、土井淑平の『原子力マフィア』の吉本批判を「全くその通り」と首肯し、吉本の「罪」は重い、と断罪せざるを得ないということがある。
 とは言え、僕の本音を言えば、いくら著名になったからといって娘に「弁明」してもらう(「弁明」させる)吉本の姿なぞ見たくはなかった、というのが一番正直な気持である。本当に「哀しい」。
 そんな吉本の姿から、誰とは言わないが、「変わり身の早さ」を信条とするような文学者が多い昨今を思いつつ、「変わらぬこと」の罪深さを思ったのは僕だけだろうか。吉本もまた「他山の石」とすべきなのかも知れない。それが、今のところの「吉本隆明発言」に対する僕の結論と言っていいかも知れない。
 

吉本隆明批判(その三)

2012-01-23 08:55:10 | 仕事
 忘れていたわけではないのだが、前回(昨日)のこの欄に書いた「吉本隆明批判・再度」をざっと読み直していて、しばらく前に気付いたことを書き忘れていることに気付いた。それは、吉本の「原発容認論=科学神話信奉」には、核の被害者(死者やヒバクシャ)が視野に入っておらず、現体制(資本主義体制)がそのような被害者=犠牲者をブルトーザーのごとく押し潰して進んでいくことを容認(肯定)しており、そこに論理的特徴がある、ということである。
 かつて、吉本は大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(六五年)がベストセラーになったとき、放射能被害の特殊性(一瞬にして戦闘員も非戦闘員も殺戮する一方で、生き残った人も「被爆者」として苦悩の末に死を迎えるという特殊性)を全く理解せず、「ヒロシマ」の死者も他の戦争における死者も、交通事故の死者も、「死」ということで全く等価であるという「無知」をさらけ出した乱暴な論理で大江を批判したことがあったが――それでもこの時は、核の犠牲者に対して間違った認識ということはあったが、まだ「死者」を問題にしたということでは、現在のように「科学の進歩」にとって核の犠牲者など問題ない、とするような態度とは違っていた――、「放射能の被害は制御できない」ということに関して真逆な「科学神話」に呪縛された吉本の「核=核兵器・原発」認識という点では、昔も今も全く変わっていない。
 これは、つい先日芥川賞の選考委員を辞任したということで話題を集めた石原慎太郎の、東日本大震災が起こった際の「天罰」発言――地震と津波によって大きな被害を受けた人々のことを全く考慮しない、文字通り「罰当たり」な発言だったが、本人があわてて「訂正・謝罪」したからというわけではないだろうが、マスコミが以後全く石原の件の発言の「非人間性」「犯罪性」を追求しないのはどういうことなのか。石原の「確信犯」的発言は彼の「本音」であり、そのような考えを持つ人間がこれまで芥川賞の選考委員を務めていたこと自体が、現代文学の「衰退」を象徴しているのではないか、と僕は思ってきた――と同じで、「死者=被害者・避難民」への想像力を欠如させた「文学者」(と僕は思っていないが)にあるまじき姿勢に他ならない。
 その意味で、現体制(資本主義体制)を「賛美」するという点で、石原慎太郎と吉本隆明は「いいコンビ」である。少なくとも、少数派であることを辞さず、吉本が『言語にとって美とは何か』や『共同幻想論』で、(たとえ「間違い」や「思いこみ」が多くあったとしても)「想像力」について真剣に取り組んだ時代を知る者にとって、原子力産業から多額の資金が提供されて刊行されてきた「原子力文化」に、いくらインタビューのギャラが出たのかは知らないが、原発を容認する発言を行い(原子力産業に媚びを売り<しっぽを振っって>)、それでいて「知の巨人」などといわれてやに下がっている吉本は、一体何を考えている化、と思わざるを得ない。
 「転向文学」の白眉といわれる中野重治の『村の家』には、中野とおぼしき主人公の勉次が父親から「いままで書いたものを生かしたけれや筆ア捨ててしまえ。(転向の言い訳をするのは)いままで書いたものを殺すだけなんじゃ」と言われ、勉次が「それでも書いていきます」と言う場面があるが、吉本の老体にむち打って「原発容認」を繰り返し発言する姿を見ていると、「何を今更」と思うと同時に、貴方のこれまでの文学的発言や政治的発言が「無」になってしまうのではないか、とも思わざるを得ない。
 特に、吉本の出発が先のアジア太平洋戦争における「戦争(戦時下)体験」であることを思うと、「原発用に」発言は、余りにも無惨としか言いようがない。というようなことを強く思ったのは、昨日も書いたようにこのところ集中して「大震災」や「フクシマ」関連の本を読んでいるが、その中に「死者=命」(この中に、放射能によって緩慢な死を強いられるフクシマの被曝者も含まれている)への想像力を基点に自分に何ができるかを真摯に問いかける池澤夏樹の『春を恨んだりはしない』(一一年九月一一日 中央公論新社刊)があったことを思い出したからである。この池澤の本に書かれていることと、「死者」(=人間の命・存在)に関する想像力を欠如させた吉本隆明(および石原慎太郎)と、いかに「大きな違い」があるか、僕らはこの「違い」をかみしめながら、「フクシマ」や「東日本大震災」に向き合っていかなければならないのではないか。
 文学がまさに「人間の生き方=いのち」の問題を問うのと同じように、「核」について考えることは、人間の生き方(=いのち)を問うことであり、そのような意味において「文学」と「フクシマ=核」問題は交差するということ、このことを肝に銘じて、これまでもそうであったが、これからもずっと「フクシマ=核」と向き合っていきたいと思っている。

 <追加>ネットでも署名が可能です。「原発止めろ、一〇〇〇万人署名」について、ご協力を!

吉本隆明批判・再び――ひどすぎる老醜

2012-01-22 09:45:13 | 文学
 1昨日(20日・金)、偶然が重なり、午前中に『辻井喬論―修羅を生きる』(論創社刊)の、そして午後に『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」時代を考える』(勉誠出版刊)の取材を受けた。前者は、地元紙「上毛新聞」から、後者は記事を全国配信している『時事通信社」からであった。それぞれ、何故僕がこのような本を書いたのか(作ったのか)という書籍執筆(編著)のモチーフを中心に様々な角度からの質問を受けやい、また僕の現代文学や現代の「核」状況について話したのだが、大学を退職して以降、仕事の都合もあって、やむにやまれぬ場合以外は自宅に「引き籠もって」活字と格闘する(本を読み、原稿を書く)日々を過ごしていたので、1昨日は午前も午後もとても「新鮮」な感じがし、併せて充実感のようなものも感じることができた。その意味で、1昨日の経験は、「他者」との会話も、僕のような仕事をする人間にとって大切なんだな、と改めて思い知らされるものだった、ということになる。
(閑話休題)
 1昨日の「取材」とも実は関係あるのだが、このところ井伏鱒二の「戦争」に関する文章(小説・エッセイ)を『全集』をめくり返しながら読む合間に、買って積み重ねたままにしておいた「フクシマ(原発)」や「東日本大震災」関連の本を少しずつ読んできて、改めて思い知らされてきたのは、僕らの世代に圧倒的な影響を与えてきた(と言われてきた)吉本隆明の「ダメさ」である――僕自身が吉本と「さようなら」をしたのは、1980年代初頭に起こった「文学者の反核運動」に対する吉本の「反・反核運動」の言説(『「反核」異論』82年刊という駄本に集約されている。この本の中で、名指しで吉本に批判された何人かの文学者や思想家の中に僕の名前も繰り返し出てきていた)に接したことがきっかけであった。その後、「文学者の反核運動」の余波とも言うべき「吉本―埴谷雄高論争」、いわゆる「日本資本主義」をどのように捉えるかという論争を目にして、ああこれはもうダメだ、と痛感した。なお、吉本の現在の資本主義礼賛本である『超資本主義』95年刊で、「経済音痴の黒古一夫」などという非難を吉本から受けたこともあるが、そのころには僕の中で吉本は「もうどうでもいい人」の部類に入っていた――。
 とは言え、これまでもすでに「無縁」と思ってきた吉本の本も「敵の動向を知るため」という理由を付けて、何かと購入してきたこと(読まずに積んできたこと)を反省しつつ、前にもこの欄で書いたように「フクシマ」が起こって久し振りに吉本の変わらぬ「科学神話」に基づいた「原発」信者としか思えない言説に接し、その「老醜・老残」ぶりに驚き、「どうしようもないな」と思い、いつまでもこの老批評家を「知の巨人」などと持ち上げるマスコミ人がいることを嘆かわしいと思っていたのだが、佐高信の『原発文化人50人斬り』(11年6月20日刊)と土井淑平の『原子力マフィア』(同12月7日刊)を読み、改めて吉本が「確信犯」的な原発容認派の「エセ知識人」であることを確認させられた。佐高の本は週刊誌(「週刊金曜日」――この雑誌に関しては、井伏鱒二の『黒い雨』をあたかも「盗作」作品であるかのように捏造し、誹謗中傷した広島の歌人・豊田清史の「デタラメ」文を検証せずに掲載し、それに「異議申し立て」をした僕の「投稿文」を、「(定期購読者の)投稿歓迎」と謳っていながら、理由を明示せず不掲載にしたこと、及び豊田の捏造が明確になってからも、豊田の「デタラメ文」を掲載したことの反省を「公表」しなかったことで、僕は基本的な部分で信用していない)に掲載したものに「手を入れたもの」ということで、その意味では「批判」は痛快に展開しているが、「実証」という意味ではイマイチの感じだったが、土井のは筋金入りの「反核」論者(エコロジスト―元共同通信記者、僕は彼の1986年に出た『反核・反原発・エコロジー――吉本隆明の政治思想批判』批評社刊を発刊された直後に購入し読み、大変教えられること多く感心したことを覚えている)らしく、吉本批判の根拠も明確で、なおかつ吉本が『「反核」異論』以降、電力業界からもてはやされ、例えばこれは佐高も言っていることだが、原子力業界が多額の資金を提供している月刊「原子力文化」の1994年10月の「原子力の日」特別号において、その巻頭インタビューで「原発」のPRを精力的に行っていたこと、またすでに廃刊したが自分の雑誌「試行」で繰り返し原発容認(「科学神話」信奉)の言説を振りまいてきたこと、等々、吉本が原発推進の旗振り役を買って出ていたことを「実証」的に批判している。
 僕など、先にも書いたようにずっと以前に吉本とは「縁を切っている」ので、「なるほど、やはりどうしようもなかったんだな」と感心しながら土井や佐高の本を読んだのだが、しかし、多くの若いジャーナリストやマスコミ人の「吉本離れ」は進んでいても、フクシマなどが起こると、またぞろ「亡霊が蘇るように」吉本(の「原発容認論=科学神話」信奉)が呼び出されるという現実から、僕らはもう「おさらば」するべきなのではないか、と痛切に思う。
 吉本は、もうだいぶ前になるが『わが「転向」』(95年)の中で、「わたしはもちろんわたしの思考変換(転向)の方向性に世界史的な確信をもって揺るがない」などと嘯いていたが(豪語していたが)、かつて「左翼」的な学生に多大な影響を与えてきた吉本が、「転向」について「頬に刻印された傷」として一生その悔恨の上に文学の金字塔を築いた中野重治などとは真逆の「わが転向」を誇る吉本のパラドックス、僕らはもう一度吉本の言説が果たしてこの時代や状況について「異化」をもたらすものであったか検証し、吉本を「無視」するのではなく、正面から批判すべきなのではないか、と思う。近いうちに、僕もその作業を開始するつもりである。

「脱原発」を!――1人1人の「倫理」が問われる

2012-01-18 08:59:01 | 近況
 今朝の新聞を見て、まず驚かされたのは、1面に「原発稼働、60年に」といった内容の記事が掲載されていたことである。何日か前に「原発は、原則40年で廃炉」と細野原発担当相が言明した時に、各種のマスコミが「原則」という言い方に不信を表明し「抜け道」が用意されるのではないか危惧していたが、僕もいつもながらの政治(家)の言い方だなと思いつつ、それでも「フクシマ」が未だ収束していない段階では、高村薫が「東京新聞」の時評で「40年で原発は廃炉」に微かな希望を感じると言っていたのと同じように、何とか僕の中から消えない政治の「脱原発」政策への不信と危惧をなだめようとしていたのに、案の定というか、お決まりのように「原発の稼働は、60年まで可能」ということが、原子力安全庁(仮称)の方から出されてきた。
 経済界の後押しがあってということだろうが、どんなことをしても原発を維持したいと考える経産省が後ろに控えての「60年稼働」案なのだろう。経産省もその下部組織といってもいい「原子力安全庁」も、世界を震撼させた「フクシマ」が起こったことをどのように考えているのだろうか。経産省や原子力安全庁も、また「原子力ムラ」にたむろして甘い汁を吸ってきた電力業界、原子力行政に関わる官僚たち、そして「エセ」としか思えない原子力の研究に携わってきたという「御用学者たち」、それら全ての関係者に欠如しているのは、大江健三郎が言うところの「倫理」(今朝の朝日新聞掲載の「定義集」)なのではないか。
 大江健三郎は、ドイツの学者たちがメルケル首相に提出したという原発に関わる「倫理」提言こそ自分たちが学ぶべきことで、電気が足らなくなって仮に「耐乏生活」を強いられるようなことがあっても、「人間(人類)」の未来を考えたとき、もう「脱原発」を選択するしかないはじだ、といった内容を持つドイツの学者たちの「提言」を、僕ら日本人も深く噛みしめるべきだと主張しているのだが、全くその通りである。
 僕らは、どうしても原発から供給される電気(約3分の1、ということが公表されていたが、それは原発依存を高めるために、既設の火力発電所や水力発電所を休眠させることによって弾き出された数字であることが、今では判明している)によって支えられてきた「快適な生活」に慣らされて、ちょっと数十年前まで「先人の知恵」などから学んで、何とか寒さ暑さを凌ぎ、それなりに「豊かな」生活をしてきたのに、例えば形態を片時も放せないような生活こそ「豊かさ」の象徴であるかのように、錯覚した(逆立ちした)論理と倫理を身に付けるようになってしまって、今が良ければ「未来」のことなど関係ない、といった刹那的(倫理の欠如した)生活に対して何の疑いも抱かなくなってしまっている。
 「モラルハザード」とはよくぞ言ったもので、根源から僕らは自分の生活の在り方を考え直す必要があるのではないか、と思わざるを得ない。「財政再建」と東日本大震災の復興のためという大義名分を振りかざして、自分たちの既得権を守ることにキュウキュウの政治家と官僚が主導する「消費税増税」に躍起になっている野田民主党政権、これなども本当は何のための「増税」なのかが全く理解できないことを考えれば、やはり「倫理=確たる人間観・世界観」が欠如しているからとしか思えない。知人が電話してきて、「世の中のことを考えると<鬱状態>になる」と言っていたが、まさにその通りで、「フクシマ」の先行きが全く見えない現在、多くの人が「鬱」的な信条になっているのではないか、と思う。
 何とかしなければならないと思うのだが、もしかしたら僕のような心情の持ち主が橋下徹(大阪維新の会)や石原慎太郎のようなファシスト的な政治家を支持するのかも知れないと思うと、よけい憂鬱になる。
 と思いつつ、昨日発表の芥川賞・直木賞の作品を思い返し(直木賞は読んでいないが)、「3・11」や「フクシマ」などの社会・時代状況とは全く関係ない(と僕には思える)「技巧」ばかりが目に付く作品が受賞したことに、これまた現代文学が陥っている陥穽、つまり「時代」と「人間」の関係をスポイル(捨象)した現代文学の在り方、について考えざるを得なかった。自分は決してそのような文学傾向とは違う道を行くのだ、と思いつつ、こんなことではますます文学離れが進むのではないか、と危惧を抱いた。
 八方ふさがり、なのだろうか?

立松和平の「すごさ」

2012-01-15 15:06:28 | 文学
 今日(15日)で2012年1月も半分が過ぎた。前回この欄に記事を書いたのが5日だから、10日間ブログから離れていたことになるが、この間何もしていなかったわけではなく、実は『立松和平前小説』(全30巻)の第2期の最後となる第20巻の「解説・解題」を書いていたのである。現在『全小説』は第15巻の「越境者たち」までが出ているから、5巻分前倒しで「解説・解題」を書いたことになるが、それは前にも書いたように4月、5月とアメリカ・シアトルのワシントン大学に行かなければならないし、9月からはいつになるか詳細は分からないが中国(武漢・華中師範大学)に何ヶ月か行かなければならないから、『全小説』の刊行をスムーズに行うために他ならない。
 昨年暮れに版元に渡した第19巻の「解説・解題」は、執筆に4日しかかからなかったことを考えると、第20巻に10日間もかかったというのは、正月で客が来たりということはあっても、立松の作品を繰り返し読んできた僕には少し異例のことに属する。理由は、第20巻に収録する予定の『沈黙都市』(93年刊)――立松の作品としては珍しく「SF]仕立ての長編で、1991年の12月から256回にわたって神戸新聞、信濃毎日新聞、高知新聞、など7紙に同時に連載された作品――を読み直し、この長編が立松の作品史から見ても、また戦後文学史から見ても、非常に重要な位置にある問題作であることに気付き、件の『沈黙都市』を精読しただけでなく、執筆に必要と思われる関連資料・書籍を漁り、読み直したりしていたために、時間だけがいたずらに過ぎていったのである。
 『沈黙都市』の重要性・問題性についての詳細は、『全小説』第20巻の「解説・解題」を読んでもらうしかないのだが、「事実」として何度か「盗作・盗用問題」で世間を騒がせた立松和平の文学が、実はそのような作家が「意図しないまま」犯してしまった「過失・瑕疵」が存在するとしても、戦後文学史にとって、また現代文学の世界にあって、決して疎かにしてはならない内実を持つものであったことを、『沈黙都市』1編は証明するものに他ならず、そのことの説明に時間を食ってしまったのである。
 では、『沈黙都市』はどのような点で「すごい」小説なのか。理由はいくつかあるのだが、まず指摘しておきたいのは、立松がこの長編で描き出した「逆ユートピア(ディストピア)」が、コンピュータの存在に依存しグローバル化した現代のようなインターネット世界の「未来」は決して「バラ色」ではなく、昨年の「3・11」及び「フクシマ」が如実に物語るように、もしかしたら人類の「未来」は「死」に向かって大行進を始めているのではないか、と警告を発しているということである。『沈黙都市』のラストは、砂漠化してあらゆる生物が死滅した「トーキョー」ととその周辺(日本全体)の風景を眺めながら、主人公とその恋人が砂漠の中を歩き去る、というものである。
 このようなSF作品は、従来(及び、その後)の立松作品には決してみられない物であり、何故そのような作品が「突然変異」のように生まれたのか、その僕なりの探求に時間がかかったのだが、『沈黙都市』がはらんでいた作者立松和平の「絶望」が、立松の作家生活において最大の危機であった「『光の雨』盗作事件」の遠因になっていたのではないか、そしてまたそれは立松が「宗教(仏教)」に傾倒していく理由になったのではないか、というのが僕の仮説であり、『全小説』第20巻の「解説・解題」のポイントでもあった。
 また、その「逆ユートピア」世界の描き方から、井上ひさしの『吉里吉里人』(81年)や大江健三郎の『同時代ゲーム』(79年)などから『宙返り』(99年)に至る「根拠地」建設の可能性を追求した「ユートピア」小説の歴史に連なる作品と言うこともでき、その意味でもこの長編は大変重要な内容を持つものだったのである。
 と思いながら、これは大いに反省せざるを得なかったのだが、そのように重要な位置を占めるこの『沈黙都市』について、立松について2冊の本(『立松和平論』と『立松和平伝説』)を書いている僕も含めて、誰もがその重要性について指摘してこなかったという事実に愕然としたということがある。もちろん、この長編が刊行された直後に「『光の雨』盗作事件」が起こり、その喧噪の中で『地目都市』は流し路にされるという「不運」に見舞われたということもあるのだが、僕としては、(たぶん、内心では「自信たっぷり」であったはずの)立松和平に、この長編の受容性・問題性について伝えられなかったこと、これについては慚愧に堪えない。「『光の雨』盗作事件』」は「多忙」が招いた自業自得的な事件であったが、もし仮にこの「『光の雨』盗作事件」が起こらなかったら、立松の進むべき方向は今僕らが目にするのと違ったものになっていたのではないかと思うと、返す返すも残念でならないのだが、立松の文学に興味・関心のある人は、どこかで『沈黙都市』及び僕の「解説・解題」を読んでもらいたいと思う。立松の文学にこれまでとは違う印象を持つはずである。

 以上が10日間このブログから離れていた理由を書いたのだが、世界の情勢も同じだが、日本の野田政権の体たらく(および、野党のどうしようも無さ)、どうにかならないかな、と毎日テレビのニュースに接し、新聞を読むたびに思ってきた。その国の政治は国民の成長度に見合った物しか実現しないといった内容のことを言ったのは誰だったか忘れたが、政府とマスコミが一体となって「フクシマ」を忘れようとしている(「収束した」などと戯言を言って)現実を見ると、本当にやりきれなくなる。その証拠に、大江さんや辻井喬さん、蒲田慧さんたちが一生懸命になっている「脱原発 1000万人署名活動」も東京地区では、「脱原発」を国民投票に掛けるために必要な数にまだ不十分だという。僕自身は以前にインターネットで署名済みなのだが、先頃は署名用紙をダウンロードして知り合いに署名をお願いしている。
 もし、「脱原発」に賛同する人がいたら、もしかしたら脱原発の「民意」を示すここが正念場かも知れない。ネット署名は簡単だし、署名用紙はすぐにダウンロードできるから、2月28日の最終締め切りまで、「庶民」の底力を見せてやるのもいいかもしれない。
 ということです。

新しい歳も5日間が過ぎ……

2012-01-05 15:49:45 | 仕事
 除夜の鐘の音を聞きながら近くの「御霊神社」へ、僕が数年前地域の「役員」を仰せつかり、また家人が昨年から別な役員となったということもあり、「初詣」は村の鎮守様(御霊神社)にすることに決めたのだが、夜が明け、今年は吃驚するほど早い時間(午前7時半)に届いた年賀状を読みながら、誰も彼も今年の成り行きに決して「希望=明るいもの」を持っていないことが分かり、「そうだよな。俺もそうだから」と納得することしきりであった。
 それにしても、昨年暮れから今年の正月に掛けては、12月になって編著『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核』時代を考える』(勉誠出版刊)と、26冊目の自著『辻井喬論―修羅を生きる』(論創社刊)が出たということもあり、併せて「週刊読書人」から1月6日締め切りの書評を頼まれ、また昨年4月に博士号を授与された留学生(王海藍さん)の論文『村上春樹と中国』(原題『中国における村上春樹の受容』)が書き直して本になることが決まり、その初校ゲラが年末に出て、これまた1月6日までに戻して欲しいということで、大変な年末から正月を過ごさざるを得なかった。
 しかし、考えてみると、大学教師を辞めてから今日までの自分の生活を鑑みると、ほとんど「文学」三昧の毎日で、これが望んでいたことであることに思い至り、今を如何に充実させるか、そのことをおろそかにしてはいけないのではないか、とこの正月の5日間は痛感させられた日々であった。そんなことを考えたのも、今年は「近代文学」の教師として、4月・5月の2ヶ月間、12年前に半年ほど滞在したシアトルのワシントン大学で大学院生相手に講義を行い、また(詳細は未定だが)9月からは1,2ヶ月ほど中国(武漢)の華中師範大学日本語・日本研究科でこれまた大学院生相手に教鞭を執ることが決まっているからかも知れない。また、早稲田大学にもわずか3コマだが6月の半ばから出講する。のんびりしていられない、という気持だが、人間関係などから生じるストレスがないだけ、気楽に取り組めるのではにかと思っている。
 というのが、僕の今年の大まかなスケジュールで、その他にも新しく本を1冊書かなければならない、という大仕事がある。

 しかし、それにしてもたまたま家人が施設にいる母親のために買ってきた「週刊新潮」を見て、吃驚した。吉本隆明が根っからの「原発推進派」であることは、前記した『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ』に収録した拙文でも明らかにしておいたが、「良識」や「正論」に対してそれを揶揄したり批判することに喜びを見いだしているような、イエロー・マガジンまがいの「週刊新潮」に「知の巨人」などという恥ずかしい肩書きで登場し、70年代・80年代から変化しない「科学神話=原発安全神話」を振りかざして、原発を廃止すれば「猿の時代」に逆戻りする、などと怪気炎を上げていたのである。僕もそのいる愚痴に入っているかも知れないので、あまり「老い」のことは言いたくないのだが、「老醜」としか思えない吉本の姿(考え)は、「知の巨人」どころではなく、「知の老残」をさらけ出すものであった。
 「生命」あっての「思想」であり「文学」である。原発は、明らかにその「生命」を蔑ろにするものであり、現代の「思想」や「文学」はそのような原発を否定するところにしか存在し得ないのではないか、と僕は思っている。どんな「高尚」な文学理論や思想を提起したとしても、それが人間の「生命」を否定する契機をはらんでいるものであるならば、そのような思想や文学(理論)は否定されなければならない。
 おそらく、2011年3月11日に起こった「フクシマ」は、僕らにそのようなことを教えてくれるものだったのである。その意味で「フクシマ」以後は、「フクシマ」の事態をどう捉えるかを(思考の)試金石として進展していくのではないか。
 民主党や自民党・公明党といった既成政党に絶望しながら、それでも橋下徹大阪市長が率いる「大阪維新の会」などのファシズムの浸透を警戒しつつ、どうしたら「共生」を基底とした世界の実現が可能かを模索していくかといった「少数派」の道しか残されていないのかも知れないが、それでも可能性だけは追求したい、というのが今年の目標でもある。
 お互い、頑張りましょう。

「謹賀新年」と言いたいところですが……

2012-01-01 11:48:49 | 近況
 昨年は、押し詰まってから編著『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」時代を考える』(勉誠出版刊)と26冊目の自著『辻井喬論―修羅を生きる』(論創社刊)の2冊を刊行し、自分で言うのもおかしいのだが、評判は結構良く、今はこれで増刷になってくれればいいのだがと思いつつ大晦日を迎えるということになった。
 6日に締め切りの原稿が1本、同じ日までにゲラ校正を終えなければならない原稿2本、個人的には「暮れ」も「正月」もないような生活をしており、書斎(仕事部屋)は相変わらず足の踏み場もないような状態になっているのだが、時折階下の家人から「あれして欲しい。これして欲しい」という要求があり、仕事が中断することがたびたびある年末でした。
 しかし、「3・11」が起こったために公私の一切が「3・11」に振り回されてしまった1年だったという感じがしないでもないのだが、自分自身のことだけに限って振り返ってみれば、65歳になって大学(筑波大学)を定年退職し、前から予定していたように1年間はほぼ「完全フリー」な身になり、そのおかげで原稿を書く時間が自動的に多くなり、先に挙げた2著を刊行することができた。その意味では、それなりに充実した9ヶ月を過ごすことができたと言っていいのではないかと思っている。
 ところが、「3・11」である。「東日本大震災」と呼ばれるようになった地震・津波による未曾有の「破壊」は、福島第一原子力発電所をも破壊し、原発事故としては最大級である「レベル7」というこれまた最大級の被害をこの国にもたらし、政府・東電・御用学者たち関係者は必死になって「収束」するかのような言説を振りまいているが、例えば高濃度に放射能汚染された地域をどうするのか、あるいは放射能まみれになった原子炉を廃炉にするのに40年掛かるなどと言われ、未だに「収束」の見通しさえ覚束ない状態にある。まさに「フクシマ」は想定外(この言葉は、責任逃れの臭いがして嫌いだが、文字通り)の状態にある。この「フクシマ=原発問題」には「ヒロシマ・ナガサキ」と同じように、これからもずっと付き合っていかなければならないのではないか、と思っている。僕が生きているこの時代にあってもそうだが、子供たち、孫たちの時代まで「フクシマ=原発問題」は続くだろうし、「核」問題は政治(軍事)・経済の問題であると同時に、21世紀を生きる僕らの文学的主題に他ならないと思っているからに他ならない。
 65歳を過ぎて「締めくくりの時期に入った」とは思わないが、「3・11(フクシマ)」が起こるまではこんな面妖な字ぢに晩年を過ごすとは思ってもいなかった。それはまた、大学院へ入り「文学」の世界で何ができるだろうかと考えた結果、あくまでも「文学(人間)」の側に立って「時代(政治)」との関係を今後の批評(研究)活動の軸に据えていこうと決意したことが、40年近く経ってまさに切実な問題として我が身に迫ってくるとは思っていなかった、ということでもあった。これがあの1960年代末から70年代初めの「政治の季節」を経験した者の運命なのかとも思うが、政権交代が実現して僕らと同世代(鳩山由紀夫前々首相、菅直人前首相)やそれ以下の世代(野田首相)が「危なっかしい」手つきで現実政治を動かしている様を見せられてくると、如何ともしがたい思いに駆られる。「黙っている」のは、責任逃れと言われても仕方がないのではないか、という思いに日々背中を押される。
 というようなことを、除夜の金を聞きながら考えたのだが、では今年は何をするのか、ということになると、1冊「井伏鱒二と戦争」というようなテーマで書き下ろす予定があるほか、何故か海外へ出掛けることが多くなりそうで、とりあえず決まっているのは、4月,5月の2ヶ月「シアトル」のワシントン大学、そして9月からは(期間はまだ決まっていないが、1,2ヶ月)中国・武漢の華中師範大学日本研究科で日本近代文学の講義をすることになっている。大学を退職する前に、「理想」的な生活は、年に1回か2回外国で教鞭を執ること、などと言っていたことが本当になってしまって、年頭に当たって少し戸惑いもないわけではないが、自分が考える日本の近代文学史や小説について楽しんで講義してこよう、とも今は思っている。
 ともあれ、やはり「波瀾万丈」の今年も明けました。
 どうぞ今年もよろしくお願い致します。