黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

『村上龍―「危機」に抗する想像力』が出ました。

2009-06-27 09:19:15 | 文学
 この欄でも度々経過報告的にお知らせしてきた『村上龍論(正式には『村上龍―「危機」に抗する想像力』)が、いよいよ刊行されました(勉誠出版 285ページ 上製カバー装 税込み2310円)。
 この本は、前著『村上春樹―「喪失」の物語から「転換」の物語へ』(2007年10月刊)を上梓する過程で、僕にしてみれば「必然的」な形で書くことになった作家論である。前著「村上春樹」は、新著と言っても、1989年に出した『村上春樹―ザ・ロスト・ワールド』(六興出版刊、増補版92年 第三書館刊)の大部分を生かし(訂正する必要をほとんど感じなかったので)、それに新稿160枚ほどを加えて成ったもので、新稿を書くにあたって、様々に思いめぐらしていたとき、僕の中では「双生児」のように思っていた村上龍のことが急浮上し、その結果が今回の拙著になったのである。
 新著の「あとがき」にも書いたことだが、僕はこれまで22冊の本を出してきたが、最初の「北村透谷論」から現在まで2つの「テーマ=問い」だけを書いてきたような気がする。1つは、「近代(社会)とは何か」であり、2つめは「1970年前後の<政治の季節>体験は、現代文化に何をもたらしたか」である。僕がこれらのテーマから離れられないのは、世代として強いられたことだから、と考えている。もちろん、「そんなの関係ねー」という人も多いだろう。しかし、昨今の「政治」や「社会」の在り方などを見ていると、明らかに「近代)社会)とは何か」を真摯に問うてこなかったからだと思うし、どの世界においても顕著な「モラル・ハザード」は、あの<政治の季節>を個々がきちんと総括してこなかったせいなのではないか、と僕は思っている。
 そんな「思い=問い」について、僕なりの1つの答えが今度の本だと思っている。1年以上かけて書いてきた新著、出来映えについての判断は読者諸氏に任せるしかないが、多くの人に読んで欲しいと思う。
 次の「目次」を掲げておく。

*『村上龍―「危機」に抗する想像力』
<目次>
 はじめに
 第1章「喪失」から始まる―「限りなく透明に近いブルー」
 第2章「戦争」へのこだわり―「5分後の世界」他
 第3章「捨て子」の物語―「コインロッカー・ベイビーズ」
 第4章 日本の「危機」を描く―「愛と幻想のファシズム」
 第5章「日本」を撃つ―「ラブ&ポップス」他
 第6章 寂しい「国」の殺人―「イン ザ・ミソスープ」他
 第7章 反「日本」―「共生虫」他
 第8章 時代の「狂気」に抗して―「ピアッシング」他
 第9章「侵略」に抗する―「半島を出よ」
 第10章「脱出」は可能か―「希望の国のエクソダス」
 終章 「希望」あるいは「キューバ」―「喪失」では終わらない
 あとがき
 以上、400字詰めで460枚ほど。
 どうぞ、お読み下さい。
 

喧しいことで。

2009-06-21 09:12:55 | 文学
 PCの具合が悪く(無線ランの調子が悪かったのだと思うが、よく分からない)、2,3日自身のブログを読むことができなかったのだが、その間に僕の村上春樹の「1Q84]評(北海道新聞6月14日付)をめぐって、「豊崎由美」まで登場して、果ては相変わらずの「人格批判」まで飛び出し、まあ喧しいことしきり、びっくりしてしまった。
 僕のブログを読んできた人は、「相変わらずだな」と思ったのではないかと思うが、「匿名氏」には反論しないという原則にしたがって、豊崎さんには一言言わせていただこうと思った以外は、「よく言うよ!」ということで済まそうと思っていた。ところが、反論するのも馬鹿らしく(併せて「匿名」であることを最大限に利用するという「卑怯さ」と「ずるさ」に居直っている態度が腹立たしく)、もう相手をしないと決めていた「ネット小僧」が、こちらが「無視」しているのを良いことに、好き勝手に拙著の付録として併載した「中国における村上春樹の受容」(現在は博士課程に在籍する留学生の「修士論文」の抄録)に関して、「(東大教授藤井省三の「中国のなかの村上春樹」の)パクリだ、パクリだ」とデマゴギーを振りまいていることに対して、まさに「名誉毀損」に価する誹謗中傷であることをだけは明らかにしたいと思い、最後になるが「ネット小僧」に「事実」だけを示して、彼の論理が如何にデタラメかを明らかにしたい(彼に対する「反論」は、もうこれだけでお終いにする)。
*「中国における村上春樹の受容」に関する時系列的事実。
(1)藤井省三の「中国のなかの村上春樹」(朝日新聞社)刊行:2007年8月(刊行されて分かったのだが、この著書の文章は朝日新聞出版局の出している「1冊の本」に連載されたもの)。
(2)「中国における村上春樹の受容」(修士論文の抄録):修士論文の締め切りは、2007年1月中旬。「ネット小僧」が「調査もパクリ」と言っている中国山東省・北京の大学生約300人を対象とした調査は、前年(2005年)の10月に実施したものである。
(3)拙著の刊行は2007年10月(原稿を渡したのは4月)、拙著における藤井省三の著書に対する批判が「あとがき」で簡単にしかできなかったのは、藤井氏の著書が刊行されたことを受けて既に出版社に渡してあった「あとがき」を書き換えるだけの時間しかなかったからであり、もちろん「併載した留学生論文」の著者は、論文を書く以前に藤井氏の著書の存在は知らず、時間的に「パクル」ことなどできなかった(逆に、彼女の論文の内容について興味を持った朝日新聞が彼女の「調査」に興味を示し、その「調査」の終わった年にその概要が判明した時点でその調査のことを記事にしたので、中国語圏における村上春樹の受容に興味を持っていた藤井氏がその「情報」を著書刊行前に手に入れたことも考えられる。もちろんこれはあくまでも僕の「推測」に過ぎない)。
 以上が「事実経過」である。もし「パクリ」などと書き手の名誉を傷つけるようなことを言うのであれば、以上のような「時系列的事実」は調べようとすれば調べられるので、そのことをきちんと調べた上で「中傷」(批判とは言えないので)して欲しいと思う。
 ま多、今度の「コメント」では、論調がエスカレートして、留学生への「恨み辛み」が縷々書き込まれていたが、この人はどうも留学生(ことに中国人留学生)に偏見を持っているようで、中国人留学生の全てが「奨学金」を得て、気楽な留学生活を送っているように言っているが、確かにそのように「恵まれた」留学生も存在するが、多くは「私費留学生」で、勉学(研究)と苦しい生活費獲得のために厳しい留学生活を強いられているのである(もし「ネット小僧」さんが藤井省三氏と関係が深い東大関係者なら、「特権的」な東大留学生は、あなたの言う通りかも知れませんが、筑波大学をはじめ僕の知る限り「国費留学生」より「私費留学生」の方が圧倒的に多いという事実があります)。「ナショナリスト」を気取っているのかも知れませんが、中国人留学生に「八つ当たり」するのはお止めになったら。見苦しいですよ。
 なお、ついでなので「ネット小僧」の言説に対する僕の「疑問」も提示しておこうと思う(だからといって、「ネット小僧」が何を言ってきても、もう相手にするつもりはないので、悪しからず)。
・疑問1:「ネット小僧」はなぜこれほどまでに藤井省三を擁護するのだろうか。それほどまでに彼の著作が立派なものだと思っているのか。著作(あるいは「論文」でも「エッセイ」でもいい)を公刊(公表)した経験があればすぐに理解できると思うが、この世界(文壇でもマスコミでも学会でも―誰かが黒古はこの世界で無視されてきたというようなことを言っていたが、「無視」されてきた人間の著書’単著―自費出版は1冊もない)が22冊も刊行されるとでも思っているのか、こういう輩にはヤフーでもグーグルでもいいから「検索」をかけてみて欲しい、としか言いようがない)では、「敵1000人、見方1000人」と言われ、「批判」されたり「くさ」されたり「皮肉」られるのは当たり前なのだが、「ネット小僧」にとって、藤井氏の著作は「カノン」なのか。
・疑問2:1と関係するのだが、あなたは藤井氏の言説(僕が批判したことに限定して)で、例えば村上春樹の訳は台湾の頼氏の方が大陸の林少華より「優れている」といった主旨のことを書いていることに対して、「翻訳」が良いか悪いかなど「好み」の問題で、研究者が「ご託宣」を垂れるようなことであるかどうか、あなたはどう思っているのか。
・疑問3:また、藤井氏は村上春樹の作品に「希望」という言葉が出てくると、ここには魯迅の影響があるのではないか、などと言っているが、あなたもそのように思っているのか(ついでに言っておけば、中国のネットで話題になった藤井氏の「1Q84」は魯迅の「阿Q正伝」と深い関係がある、と言った主旨の発言について、あなたはどう思っているのか。僕はこの藤井氏の「予測・推測」は見事に外れたと思っているのだが、「1Q84]を読んだあなたのご感想は?)。
 蒙これ以上は良いでしょう。

 さて豊崎由美さんの僕の「1Q84」評に対する批評ですが、「ヘタ」「上手」という価値基準で、人の文章を批判するのは如何なものか、ととりあえず言っておきたい。豊崎さんの本(文章)は、残念ながら大森望氏との共著(対談)「文学賞メッタ切り」(2004年3月刊 PARCO出版)しか読んでおらず、この本については「野次馬的な関心」からは面白いと思ったが、あいにく僕は豊崎さんのように「文壇」で生きることは端から考えておらず、全く無縁と思い、ただ求められるままに文学に関わる仕事をしてきた人間なので、「ヘタ」「上手」が書評の判断基準になることについては、正直言えば「むっ」ときたが、どうでもいいや、というしかないな、というのが偽らざる感想です。今後気がついたら、「上手」に書評を書く豊崎さんの文章を読むつもりではいるけれども……。
 だけど、文章(「書評」も含む)って、本当に「ヘタ・ウマ」という「技術」の問題なのだろか。もちろん、説得力を増すためには「技術」(豊崎さんなどはそのれに加えて「(文壇)情報」など)も大切だろうが、僕はそれよりも著者の思想性(つまり、メッセージ性)の方が大切だと思っているが、所詮それは「好み」の問題に過ぎないだろう。「匿名」がなぜ問題なのかというのも、この「思想性」に関わっている。自らの存在を「匿名」によって秘匿しながら「正義・正しさ」を振りかざして他者を攻撃する、その「暴力性」が精神の頽廃から生じていること、「匿名」氏は気付いていないが故に、問題なのである。「匿名」で他人の家に土足で上がり込むことの非礼を、「匿名」氏はもうそろそろ考えても良いのではないか、と思う。

この10日間

2009-06-17 05:10:56 | 近況
 10日間この欄に新たな記事を書けなかったのは、以下の事柄が集中して起こり、そのために時間が取れなかったからです。
 まず、書評の仕事が「1Q84」(村上春樹)の後2つ続いたことです(現在一つは書き終わり送稿しましたが、もう一つはいま読んでいる途中です)。「1Q84」については、北海道新聞に載った拙文を最後に掲載しますが、果たして拙文は「道新読者」を名乗る人が言う「あらすじだけじゃないか」に該当するかどうか、読者諸氏に判断していただきたいと思います。言い訳ではないのですが、「書評」というのは(北海道新聞の場合)「750字」という制約の中で如何にその作品の内容を紹介し(ある程度内容=「あらすじ」めいたものを紹介しなければ、その作品の概要が理解されない)、なおかつどのような点が問題なのかを(評者なりに)明らかにすることが如何に難しいか、「1Q84」の場合、2100枚を超える長編作品である、どのような形でこの村上春樹の最新作について「書評」すればいいのか、もし良い方法があったら是非「道新読者」氏にはご教示願いたい、と思っています。「1Q84」の後、週刊読書人から「安達征一郎 南島小説集 憎しみの海・怨の儀式」(川村湊編・解説)というA5版357ページの本の書評を依頼され、ようやく昨日送稿でき、一段落ついたという状態にあります。
 二つめの理由は、私事(というより、本当は「公」的なことに関わる事柄なのだが、とりあえず「私事」としておく)に関して「嫌なこと」があって、気分転換のために庭の片隅に信じられないほど実を付けた「ユスラウメ」(ユスラゴとも言う)のジャム造りに挑戦し、二度にわたってジャムを作り、勢い余って近所の畑に放置された桑の木にたわわに実っていた「桑の実」を採集し、そのジャムも作ってしまった、ということがあります。両方とも大量にできたので、友人や娘たちにもお裾分けをして喜ばれました。
 もう一つの理由は、前記した「書評」のことに関係するのだが、何年か前に商標を頼まれた本と似ている本が著者から送られてきたので、それを眺めていたら「増補改訂版」ではないのに内容が前著と酷似しているのを発見し、こんな本作りもあるんだと「嫌な気分」になり、かなり長い時間考えさせられた、ということがあったからです。この本については、「参考文献」の使い方にも問題があるのではないかと思いました。よく知っている著者なので、どう対応したらいいのか、今も苦慮しています。
 更にもう一つ、いよいよ拙著「村上龍論」が今月末に出ることになりましたが、そのことに関して対応を考えていて、「余裕」を無くしてしまいました。昨年は翻訳以外の本が出なかったので(今年の4月に出た「三浦綾子論」は増補版なので)、「村上龍論」は久しぶりの「書き下ろし」ということになり、少々興奮しているのかも知れません。
 以上です(が、「元図書館情報大学教授」を名乗る御仁、「先輩」風を吹かせるのであれば、堂々と本名を名乗って欲しいと思う。お為ごかしの「匿名」は卑怯です)。
「1Q84」の書評を以下に転載します。

 著者が一九九五年に起こった阪神・淡路大震災とオウム真理教事件から、この世の中には理性や常識では解決できない「魔」としか呼びようのない何ものかが潜んでいると覚知し、以後追求すべき文学的主題を転換させてきたことは夙に知られているが、五年ぶりの新作である本作品は、ジョージ・オーウェルの「逆ユートピア」を描いた近未来小説『一九八四年』からヒントを得て、「1Q84年」という「もう一つの年」に顕在化したカルト教団をめぐる様々な出来事を描き、本質的な存在である「魔=悪」から目をそらしている私たちの「現在」を照らし出そうとしたものである。
 両親がキリスト教系の教団「証人会」信者であり、自分もその布教活動に連れ回されていた「青豆」と、父親でない男に乳を吸われている母親の姿を記憶の原点とする「天吾」は、一〇歳の時にお互いを必要な存在と意識するようになる。しかし、その後二〇年間二人は会うこともなく、青豆は今ではスポーツジムのインストラクターをしながら「女の敵」を抹殺する裏の仕事もやり、天吾は予備校の講師をしながら小説を書いている。本長編は、この二人のついに邂逅することのない物語が交互に展開する形で進行する。物語を彩るのは、例えば学生運動であり、体制に背を向けた「コミューン」や「カルト教団」の分裂、現代版「駆け込み寺」の姿であり、「父子(家族)」の物語である。
読者は、この小説の大切な要素でありながら意味不明な(SF的な)「空気さなぎ」や「リトル・ピープル」とは何かなど、について思いを巡らしつつ、いつしか必死におのれの「思い」に忠実な青豆と天吾の「恋愛」成就を願うことになる。しかし、「魔=悪」はそんなに甘くなく、青豆は天吾と邂逅するまえに自死を選択せざるを得ず、物語は終わる。(「北海道新聞」2009年6月14日号)

泡立つ日々

2009-06-06 08:37:30 | 近況
 村上春樹の新作「1Q84]はもう既に読了して、頼まれていた書評を書き始め、既に9割方書き終わっているのだが、例によって村上春樹の作品に特有な意味の取りにくい、例えば主人公の一人「天吾」が書き直すことになった文学新人賞に応募してきた作品名「空気さなぎ」とか、その「空気さなぎ」と深い関係にある「リトル・ピープル」について、その意味するところは何か、僕なりに特定しなければならないと思いずっと考え続けているのだが、時間が取られるばかりで、いつものことなのだが、正直に言って「困ったものだ」と思っている。
 デビュー作の「風の歌を聴け」の時代から、村上春樹の作品には「SF」的要素が存在し、それについてはそれぞれの評者や研究者が「勝手に」解読してきた(と僕は思っている)が、今度の新作がそのような「SF」的な要素に重要な意味を付与している(ように思える)反面、一方では珍しく村上春樹自身の1960年代から1984年(及び、現代)までの体験や経験を元にした「リアル」な世界を綿密に描いていて、その「落差」の意味するところは何か、と考えさせられているのである。ようやく僕なりの「結論=決着」がつきそうに思っているのだが、結果については僕の書評が「北海道新聞」に掲載されたのち、この欄で紹介したいと思っているので、お待ち下さい。
 それとは別に、「泡立つ日々」と書いたのは、学生たちと付き合っていて最近気が付いたのだが、どうも今の若者(学生)たちは、「情報」に飢えていないのではないか、とは言え、その反面自分が興味を持った情報については「とことん」追求する、という言うなれば「偏向」した情報感覚を持っているのではないか、ということである。先週末の授業で60人余りの学生に「1Q84]を読んだ人、と聞いたのだが、「はい」と答えた人はゼロで、僕の授業を受けている学生は村上春樹の新作にほとんど関心を持っていないのではないか、と思われた。誰もが村上春樹の読者にならなければならないなどとは思わないが、せめて60人中1人ぐらいは、と期待していたのだが、見事に空振りであった。
 ただ、別な調査で、僕の学部(学類)の学生たちは、一般的な学生より読書量は多いという結果が出ているので、そのことを考えると、学生たちの関心が多岐にわたり、また同時に「一般的な流行」や「幅広い教養」には余り関心を持たず、ひたすら自分の興味・関心に専心する、この傾向が良いのか悪いのか、僕がこの傾向は決していいことだとは思わないのは、このような「読書傾向」は人間関係にも表れていて、「恋愛」や「友人関係」にも反映していて、そのために「うつ」や「パニック障害」といった精神障害が増え、またそれぞれが「孤立」するようになっていることと無関係でない、と思うからである。
 宮台真司的に言うならば「コミュニケーション不足」が生み出す「悲劇」の芽を今の若者(学生)たちは誰もが持っている、ということになる。僕がいくら「匿名」でのコメントには応接しないと言明しているにもかかわらず、相変わらず「勝手」に匿名でコメントを寄せてくる人が絶えないのも、自分の「セル=個細胞」に立て籠もって、そこから他者攻撃をする「快感」によってかろうじて自己を保っている人が多いからなのではないか、と最近は思うようになった。
 この頃の日々、「泡立つ」感覚から逃れられないのは、異常のようなことがあるからに他ならない。

「1Q84」(村上春樹)について

2009-06-01 17:31:23 | 文学
 先週の金曜、夜遅くつくばから帰宅し、届けられていた村上春樹の新作「1Q84」を読み始める。小説のスタイルとしては、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(85年)や、村上春樹が訳したティム・オブライエンの「ニュークリア・エイジ」(89年)と同じように、二つの物語(「1Q84」の場合、「青豆」の話と「天吾」の話)が交互に展開されるもので、そのように「パラレル・ワールド」を描くことによって、この時代が抱えた問題を明らかにする方法は、村上春樹にとっては「お手のもの」という感じがする。
 内容については、ようやく「BOOK1<4月ー6月>」をもう少しで読み終わるという状態なので(土曜・日曜と前から約束していた用事があって読めなかったことを残念に思っている)、何とも言えないが、今のところ先へ先へと促されているので、その意味では期待できるのではないか、と思える。
 それにしても、新聞は元より、テレビ、ラジオなどあらゆるメディアを動員しての今度の新作に対する「販売戦略」、発売日に上下合わせて10万部の増刷を決め、トータルで48万部を刷るという状態は、いくら村上春樹がノーベル文学賞候補になった「世界的な大作家」だとしても、この出版不況下にあっては、「驚き」を超えて「異常」なのではないか、と思える。
 世の中は、「何か景気のいいこと」を求めているのかも知れないが、当然のこととして、「華やかな村上春樹をめぐる世界」のすぐ傍に、1日100人の自殺者を出す「もう一つの現実」が存在すること、そのことを忘れずに「1Q84」は読まれるべきなのではないか、と自戒を込めて今は思っている。この長編を読み終わったとき、どれほど「もう一つの現実」との関係が僕の思考に入ってくるか、今から読了したときが今から楽しみなのだが、果たしてどのような読後感をもたらしてくれることやら。
 なお、前にこの欄で中国人留学生から、中国のネット社会で、今度の村上春樹の新作について、東大教授の藤井省三氏が「魯迅の影響を受けたものである」と言っているという情報が流れている、と教えられたと書いたが、今のところ全くその気配はなく、どこかの「訳知り」がコメントで「1Q84」は「阿Q正伝」をもじったものなのではないか、と言っていたことも「ハズレ」で、藤井氏がそのようなコメントをしていたかどうかは別にして、いずれも事前予測は「ハズレた」ということになる。
 2,3日で読み終わるので、そのうちきちんとした僕の読後感を書きたいと思う(ただし、急いでいるのは北海道新聞から、とりあえず「書評」を、と言われているので、それが掲載されてから、ということになるが……)。