黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

もう一度、立松和平について

2010-02-22 09:23:05 | 近況
 ようやく下野新聞の「立松和平追悼特集」(3回にわたるとのこと、僕の「立松和平の文学」は、第1回「故郷―創作の原点」、第2回「時代とともに」、第3回「『道』を求めて」というタイトルで、本日22日にその第1回分が掲載されるとのこと)用の原稿が終わり、後は、「大法輪」に頼まれている15枚の原稿と、『情況』に頼まれた制限なしの原稿を残すのみとなったが、多くの連載を中断せざるを得ず彼岸へ旅立っていった立松のことを思うと、未だに胸中に空洞ができたままであることに気付き、たまらない気持になる。
 そんな状況にあった昨日(21日)、林京子さんから「立松さんの偲ぶ会用の原稿を書こうと思っているのだが、少し話をしていいか」という主旨の電話があり、20分ほど話をしたのだが、彼女と世間話的に中上健次と立松との関係、林さんと中上との関係などを話している間に、気鬱な気分はいくらか晴れてきたのだが、その時、立松の父親(母親)が一旗揚げようと故郷の宇都宮から山東省・済南へ、そして満州(中国東北部)へと行き、現地召集され関東軍の一員となったのだが、敗戦時にソ連軍の捕虜となり、シベリア送りになる途中で「脱走」し、辛くも宇都宮に帰ってきたというような話のついでに、立松がもっとも心残りに思っていたのは「父親の物語」を書けなかったことではないか、と僕は思っている、と言ったら、自らも14歳まで生活していた「上海」の物語を書いてきた林さんは、即座に立松の心情を理解してくれた。
 立松は、1993年に起こった『光の雨』事件―この作品は、「すばる」誌で連載が始まってすぐ3回で、連合赤軍事件で死刑判決が確定していた連合赤軍の指導者坂口弘から自著である『あさま山荘―1972』(73年刊)からの「盗用・盗作」であると訴えられ、立松もそれを認め、連載を中断し謝罪した、という事件―によって、それまで親しいと思っていた作家仲間や編集者、出版社のほとんどが「逃げ腰」姿勢で、自分の周りから蜘蛛の子を散らすようにいなくなったが、しかしそのような辛い思いをしたお蔭で、また「地湧の菩薩」が存在することも知った、と繰り返しいくつの彼の本で書いたいたが、立松が亡くなってマスコミ・ジャーナリズムの反応を見たり、先の林さんからの電話などを考えると、僕にも「地湧の菩薩」の存在は信じられるのではないか、と思った。
 それに、地元紙(上毛新聞)に掲載された立松の訃報に伴う僕のコメントや「時事通信」配信の追悼文を読んだ近所の人からも「大変でしたね」と労いの声を掛けていただくというようなこともあり、今更ながら「文壇」や「出版界」だけではなく、巷における立松の存在の大きさやその死を悼む声の存在を知って、変な言い方になるが、志半ばに倒れた立松も本望なのではないか、と思った。
 立松は、志半ばに倒れたが、『立松和平全小説』(全30巻)に収められた小説を中心に彼は『著作物』という形で、この世に多くのものを残していった(『全小説』とは別に、地域ごとにまとめられた『立松和平 日本を歩く』(全7巻 勉誠出版刊)という紀行文も、立松の自然観や人間観がストレートに出ていて、もっと読まれるべきアンソロジーではないか、と思っている)。僕らは、これから彼に会おうと思えば、生身の立松和平とは会えないが、「著作」の中に生きている彼には繰り返し会うことができる。「虚」の部分を取り去った「作家・立松和平」の「実」の部分は、これからいろいろな人に吟味され、評価されるのではないか、と思う。
 改めて、立松の冥福を祈りたい。

立松和平のこと、その後

2010-02-17 06:19:31 | 近況
 立松和平の死去は、まだ僕の中でうまく処理できず、昨夜など何気なくみた番組表で「立松和平さんを偲ぶ」(NHKラジオ「ラジオ深夜便」)を発見し、立松の声を聞いたりすると、余計彼がまだ生きている、という思いを強くしたりして、その後、胸中にぽっかりと穴が空いたような気持に気付き、その後に何とも嫌な気持になることが続いている。
 それに加えて、「追悼文」の執筆依頼も続いていて、すでに発表された「北海道新聞」「時事通信」「産経新聞」の他、「下野新聞」(上中下の3回分のうち2回分はすでに発送済み)があり、続いて「大法輪」(15枚)、「情況」(制限なし)がまだ残っている。
 合間に、昨日書いたのだが、緊急出版ということで勉誠出版から近日中に出る『遊行日記』の解説(10枚)があり、また3月27日午後2時から青山葬儀場で行われる「立松和平を偲ぶ会」の準備も行うという、僕にとっては信じられないような時間の使い方をせざるを得ないような状態に、現在はある。
 コメントを見れば分かるように、教え子や友人が僕のことを心配してくれているが、本当にありがたいと思う。他にも電話や手紙で励ましてくれる友人やかつて一緒に仕事をした編集者などがおり、これにも大変感謝し、励まされてもいる。とりあえず、僕は大丈夫です。
 
 ここまで書いて時間がきました。
 あと一つ、先に知らせたNHK/FMラジオの大江健三郎さんとの対談「トーキング・ウイズ松尾堂」の録音、15日に無事終わりました。楽しくできました。詳しくはまた後で書きますが、放送日は『3月14日(日)12:15~1400」です。時間のある人は聞いてください。

立松和平のこと、その後

2010-02-17 06:19:31 | 近況
 立松和平の死去は、まだ僕の中でうまく処理できず、昨夜など何気なくみた番組表で「立松和平さんを偲ぶ」(NHKラジオ「ラジオ深夜便」)を発見し、立松の声を聞いたりすると、余計彼がまだ生きている、という思いを強くしたりして、その後、胸中にぽっかりと穴が空いたような気持に気付き、その後に何とも嫌な気持になることが続いている。
 それに加えて、「追悼文」の執筆依頼も続いていて、すでに発表された「北海道新聞」「時事通信」「産経新聞」の他、「下野新聞」(上中下の3回分のうち2回分はすでに発送済み)があり、続いて「大法輪」(15枚)、「情況」(制限なし)がまだ残っている。
 合間に、昨日書いたのだが、緊急出版ということで勉誠出版から近日中に出る『遊行日記』の解説(10枚)があり、また3月27日午後2時から青山葬儀場で行われる「立松和平を偲ぶ会」の準備も行うという、僕にとっては信じられないような時間の使い方をせざるを得ないような状態に、現在はある。
 コメントを見れば分かるように、教え子や友人が僕のことを心配してくれているが、本当にありがたいと思う。他にも電話や手紙で励ましてくれる友人やかつて一緒に仕事をした編集者などがおり、これにも大変感謝し、励まされてもいる。とりあえず、僕は大丈夫です。
 
 ここまで書いて時間がきました。
 あと一つ、先に知らせたNHK/FMラジオの大江健三郎さんとの対談「トーキング・ウイズ松尾堂」の録音、15日に無事終わりました。楽しくできました。詳しくはまた後で書きますが、放送日は『3月14日(日)12:15~1400」です。時間のある人は聞いてください。

ご報告(立松和平のこと、など)

2010-02-13 05:59:45 | 文学
 新聞やテレビなどでも伝えられましたの御存知の方も多いと思いますが、盟友(畏友)の立松和平が2月8日急逝し、そのことに関わる出来事の処理に9日から今日まで忙殺されてきました。
 10日の午後5時から「通夜」、11日午後1時からの告別式(夕方からの初七日)、この間新聞社やテレビ局からの問い合わせやコメントの要求、更には追悼文の執筆依頼、と片手に固定電話、もう一方の手で携帯で応接するという、今までに経験したことのない時間を過ごしてきた。告別式では弔辞」まで読んだ(原稿なしで)。遺族の「静かな形で送りたい」という意向に沿って、相談を受けた僧侶であり古くからの友人である福島泰樹が生前の立松が望んでいた福島の寺(入谷の法昌寺)での「密葬」、ということになった結果なのだが、終わってみれば非常に実のある通夜・告別式であった。
 そして通夜・告別式の合間に僕ら友人が集まって後日執り行うことが決まっていた「偲ぶ会」の詳細を決めた(3月27日午後、青山葬儀場 実行委員会方式で)。
 そして僕が引き受けることになった追悼文であるが、現在のところ(1)北海道新聞(掲載済み)、(2)時事通信社(全国に送信済み)、(3)産経新聞社(14日掲載予定)、(4)下野新聞(特集で、20日から上・中・下の3回)、(5)大法輪(15枚、できるだけ早く)の5個所、部分的には同じことを書いたが基本的には担当記者との会話から、少しずつ違ったニュアンスの文章を書かなければならず、作品の刊行年を間違うなど少々混乱することもあった。まだ全部書ききっていないので、もうしばらく立松の「追悼」に付き合うことになる。
 なお、心配している人もいるのではないかと思うが、「立松和平全小説」は、立松の「振り返れば私がいる」は原稿をもらっている6巻分で終わるが、刊行は最後の30巻まで続くことを勉誠出版の方にも確認済みなので、心配いりません。僕ら(僕と担当編集者と社長)は、粛々と予定通り刊行していくことが立松の「供養」になるのではないか、と思っているので、今はより緊張が高まっている状態である。
 なお、立松のことは「偲ぶ会」の詳細が決まった時点で改めて書くつもりなので、待っていて欲しい、と思う。

 そして、この間が異常に忙しかったのは、明後日15日(月曜日)NHKのFM放送で大江健三郎さんとトークすること(録音)に決まっていたからである。ラジオのFM放送を聞く人は知っているかも知れないが、「ト-キング ウイズ松尾堂」(毎日曜午前11時半から2時まで放送)というもので、「店長」であるタレントの松尾貴史を中心に大江さんの最新作「水死」を中心に大江文学について話し合う番組、「生」でなく「録音」なので少しは気が楽なのだが、大江さんとの公式な対話は初めてなので(私的にはいくらでも経験あるのだが)、2時間余りの録音をどう過ごすか、台本が送られてきた昨日から緊張気味な時を過ごしている。
 なお、放送日は「3月14日」の昼時です。もし時間のある人は僕がどれだけ緊張して話をしたか、楽しみに聞いてください(この録音のことについては、また書きます)。


 

「天罰」とは何か?

2010-02-09 11:22:55 | 文学
 近頃は何故か「コメント」が少ないので、ほとんどチェックしないでいたのだが、何日か前「寒波」と名乗る人が、1年以上前に書いた「井上ひさし」に関する文章に対して「天罰くだる」というコメントを寄せていることに気付いた。
 「寒波」氏のコメントは読んでもらえば即座に理解できると思うが、、要するに井上ひさしへの「悪口」で、このような根拠が薄弱な(噂話的なレベルの)「悪口」が横行するネット社会に辟易しているので、前に宣言したとおり「匿名のコメント」には応接しないという原則に反することになるが、ブログの主宰者として一言だけ言っておくことにした。
 「寒波」氏が羅列した井上ひさしの「悪行」の数々は、先にも書いたように、文学者としては『吉里吉里人』を初めとして数々の名作を残し、また戦後民主主義者としては「憲法第9条」を守る立場を貫いている作家への、「実証」抜きの芸能マスコミ的レベルの噂話=誹謗中傷の類で(揚げ足を取られたくないので前もって言っておけば、文化功労者として園遊会に出席したり、天皇から芸術院賞・恩賜賞を受けたことについては、僕も何故あの井上ひさしが、と思っている)、全く創造者(作家・劇作家)に対する「批評」ではないこと、このことだけは強く言っておきたい。
 もし他人を「批判(批評)」するのであれば、きちんと「根拠」を挙げ、しかも論理的に展開しなければ、それは単なる「やっかみ」や「嫉妬」を後ろに隠した「悪口=誹謗中傷」に堕してしまう。そして、「噂」は「噂」を呼び、例えば学校裏サイトが多くの犠牲者を出したように、この世の中を住みづらいものにしてしまう危険性がある。
 このような「批判(批難)」の在り方は、いかにも現在マスコミ・ジャーナリズムで騒がれている「小沢・鳩山バッシング」と相似のように感じられ、何とも「イヤーな」気持にさせられる。もちろん、「寒波」氏は井上ひさしを「敵」と思っており、折あらば「攻撃」するのは自分の使命だというようなことを思っている人であるのなら、殊更僕が何かを言う必要もないのだが……。
 ただ、気持のよいものではないことだけは、確かである。

これが「私の1週間」

2010-02-08 09:58:55 | 仕事
 前にも書いたことだが、大学教師にとっての「師走」は、1月末から2月にかけての、中国文化圏で言えば「春節=正月」である。卒業論文・修士論文の締め切りから発表会、大学入試(センター試験から前期試験・後期試験)、大学院入試、期末試験(3学期制を取っている筑波大学の場合、4年生は1月末から2月始めに、それ以下は3月の初めに)、等々、気ぜわしい日々が続くのがこの時期である。
 そんな「行事」が目白押しの日々に、批評家としての仕事が重なり、通常とは異なった忙しい日々を送ったのが、先週であった。月曜日(2月1日)大学院入試、修士課程の面接官(主査)として、朝の9時半から午後の3時頃まで。火曜日(2日)、明日の「卒論発表会」に備えてレジュメ造り、教師によっては学生の自主性に任せる場合もあるようだが、僕の場合は、一応「点検」してから、ゼミ単位のレジュメを作るのを習わしにしているので、それに付き合う(結果的に翌日の発表会で、ある学生の自主性に任せたゼミは、両面印刷の裏面が印刷されないレジュメを作ってしまい、大慌てをするということがあった)。
 水曜日(3日)、朝10時から卒論発表会、僕のゼミは午後の最後なのだが、副査を頼まれていることなどもあり、10時から発表会にでる。「正規」の発表会は、4時頃に終わったのだが、その日他大学の大学院試験日だった僕の学生のために、彼女が帰ってくるまでゼミ員全員で待機し、発表会が終わった後、いつもは打ち上げをするのだが、明日も試験がある学生のために、「恵方巻き」を買ってきて食し(もちろん、費用は僕持ち)、「来福」を祈る。夜は、論文の「講評」を7人分書く。
 木曜日(4日)、1限から授業、午後には大学院生(博士課程)の論文指導、と修士のゼミ、と並行して学部ゼミの「論文集」(ゼミ員全員の論文を1冊のファイルにまとめる)作成の指導を行う。昨夜書いておいた「講評」もついでに印刷して学生に渡す。それが終わった後、昨日行うはずだった「打ち上げ」を大学内で行う(例年だと、近くの居酒屋などで行うのだが、今年は学生の要望で、ゼミ室で行った)。今年のゼミ生は酒豪が多いので、研究室に溜まっていた(もらい物の)アルコール類を供出し、飲み食いし大いに盛り上がる。後半おなかが空いたというので、ピザーラからL判を二つ配達してもらう(この費用は、僕が出した。コンパのつまみなどは一人800円ほどは学生たちが割り勘にしていた)。大学から宿舎に帰ったのは、10時半、学生たちは終電が亡くなって帰宅できない学生のためにカラオケ屋に行くと言い、誘われたのだが、明日の授業ことも考えて遠慮する。
 金曜日(5日)午前に会議が一つ、午後1番で授業を行い、2時から3月14日(日)午前12時15分から14時まで放送のNHK/FM「トーキング ウイズ松尾堂」のプロデューサーと放送作家との「打ち合わせ」(4時半まで)。この「トーキング……」は、タレントの松尾貴史が各界の人々を招いて「本」と「音楽」について話を聞くというものだそうで、今回は大江健三郎さんの新作「水死」を中心に、大江さんと僕が松尾氏及びアシスタントの佐藤寛子さんを交えて話をするというもので、1時間45分に何を話すか、僕と大江文学との出会いや今までどんな仕事をし、これからどのような仕事をしていくか、等も話してもらう予定とのことで、今から楽しみにしている(詳しいことは、「台本」が届いた時点でまた書きたいと思う。
 土曜日(6日)、忘れていた「立松和平全小説」の解説・解題(4,4,5巻分)の校正を急いで行い、月曜日に版元に届くように郵送する。
 といった「私の1週間」でした(以上のような忙しい日々であったが、「立松和平全小説」第6巻の解説・解題を執筆するために、収録作品の読み直しも行っていました)。