ようやく下野新聞の「立松和平追悼特集」(3回にわたるとのこと、僕の「立松和平の文学」は、第1回「故郷―創作の原点」、第2回「時代とともに」、第3回「『道』を求めて」というタイトルで、本日22日にその第1回分が掲載されるとのこと)用の原稿が終わり、後は、「大法輪」に頼まれている15枚の原稿と、『情況』に頼まれた制限なしの原稿を残すのみとなったが、多くの連載を中断せざるを得ず彼岸へ旅立っていった立松のことを思うと、未だに胸中に空洞ができたままであることに気付き、たまらない気持になる。
そんな状況にあった昨日(21日)、林京子さんから「立松さんの偲ぶ会用の原稿を書こうと思っているのだが、少し話をしていいか」という主旨の電話があり、20分ほど話をしたのだが、彼女と世間話的に中上健次と立松との関係、林さんと中上との関係などを話している間に、気鬱な気分はいくらか晴れてきたのだが、その時、立松の父親(母親)が一旗揚げようと故郷の宇都宮から山東省・済南へ、そして満州(中国東北部)へと行き、現地召集され関東軍の一員となったのだが、敗戦時にソ連軍の捕虜となり、シベリア送りになる途中で「脱走」し、辛くも宇都宮に帰ってきたというような話のついでに、立松がもっとも心残りに思っていたのは「父親の物語」を書けなかったことではないか、と僕は思っている、と言ったら、自らも14歳まで生活していた「上海」の物語を書いてきた林さんは、即座に立松の心情を理解してくれた。
立松は、1993年に起こった『光の雨』事件―この作品は、「すばる」誌で連載が始まってすぐ3回で、連合赤軍事件で死刑判決が確定していた連合赤軍の指導者坂口弘から自著である『あさま山荘―1972』(73年刊)からの「盗用・盗作」であると訴えられ、立松もそれを認め、連載を中断し謝罪した、という事件―によって、それまで親しいと思っていた作家仲間や編集者、出版社のほとんどが「逃げ腰」姿勢で、自分の周りから蜘蛛の子を散らすようにいなくなったが、しかしそのような辛い思いをしたお蔭で、また「地湧の菩薩」が存在することも知った、と繰り返しいくつの彼の本で書いたいたが、立松が亡くなってマスコミ・ジャーナリズムの反応を見たり、先の林さんからの電話などを考えると、僕にも「地湧の菩薩」の存在は信じられるのではないか、と思った。
それに、地元紙(上毛新聞)に掲載された立松の訃報に伴う僕のコメントや「時事通信」配信の追悼文を読んだ近所の人からも「大変でしたね」と労いの声を掛けていただくというようなこともあり、今更ながら「文壇」や「出版界」だけではなく、巷における立松の存在の大きさやその死を悼む声の存在を知って、変な言い方になるが、志半ばに倒れた立松も本望なのではないか、と思った。
立松は、志半ばに倒れたが、『立松和平全小説』(全30巻)に収められた小説を中心に彼は『著作物』という形で、この世に多くのものを残していった(『全小説』とは別に、地域ごとにまとめられた『立松和平 日本を歩く』(全7巻 勉誠出版刊)という紀行文も、立松の自然観や人間観がストレートに出ていて、もっと読まれるべきアンソロジーではないか、と思っている)。僕らは、これから彼に会おうと思えば、生身の立松和平とは会えないが、「著作」の中に生きている彼には繰り返し会うことができる。「虚」の部分を取り去った「作家・立松和平」の「実」の部分は、これからいろいろな人に吟味され、評価されるのではないか、と思う。
改めて、立松の冥福を祈りたい。
そんな状況にあった昨日(21日)、林京子さんから「立松さんの偲ぶ会用の原稿を書こうと思っているのだが、少し話をしていいか」という主旨の電話があり、20分ほど話をしたのだが、彼女と世間話的に中上健次と立松との関係、林さんと中上との関係などを話している間に、気鬱な気分はいくらか晴れてきたのだが、その時、立松の父親(母親)が一旗揚げようと故郷の宇都宮から山東省・済南へ、そして満州(中国東北部)へと行き、現地召集され関東軍の一員となったのだが、敗戦時にソ連軍の捕虜となり、シベリア送りになる途中で「脱走」し、辛くも宇都宮に帰ってきたというような話のついでに、立松がもっとも心残りに思っていたのは「父親の物語」を書けなかったことではないか、と僕は思っている、と言ったら、自らも14歳まで生活していた「上海」の物語を書いてきた林さんは、即座に立松の心情を理解してくれた。
立松は、1993年に起こった『光の雨』事件―この作品は、「すばる」誌で連載が始まってすぐ3回で、連合赤軍事件で死刑判決が確定していた連合赤軍の指導者坂口弘から自著である『あさま山荘―1972』(73年刊)からの「盗用・盗作」であると訴えられ、立松もそれを認め、連載を中断し謝罪した、という事件―によって、それまで親しいと思っていた作家仲間や編集者、出版社のほとんどが「逃げ腰」姿勢で、自分の周りから蜘蛛の子を散らすようにいなくなったが、しかしそのような辛い思いをしたお蔭で、また「地湧の菩薩」が存在することも知った、と繰り返しいくつの彼の本で書いたいたが、立松が亡くなってマスコミ・ジャーナリズムの反応を見たり、先の林さんからの電話などを考えると、僕にも「地湧の菩薩」の存在は信じられるのではないか、と思った。
それに、地元紙(上毛新聞)に掲載された立松の訃報に伴う僕のコメントや「時事通信」配信の追悼文を読んだ近所の人からも「大変でしたね」と労いの声を掛けていただくというようなこともあり、今更ながら「文壇」や「出版界」だけではなく、巷における立松の存在の大きさやその死を悼む声の存在を知って、変な言い方になるが、志半ばに倒れた立松も本望なのではないか、と思った。
立松は、志半ばに倒れたが、『立松和平全小説』(全30巻)に収められた小説を中心に彼は『著作物』という形で、この世に多くのものを残していった(『全小説』とは別に、地域ごとにまとめられた『立松和平 日本を歩く』(全7巻 勉誠出版刊)という紀行文も、立松の自然観や人間観がストレートに出ていて、もっと読まれるべきアンソロジーではないか、と思っている)。僕らは、これから彼に会おうと思えば、生身の立松和平とは会えないが、「著作」の中に生きている彼には繰り返し会うことができる。「虚」の部分を取り去った「作家・立松和平」の「実」の部分は、これからいろいろな人に吟味され、評価されるのではないか、と思う。
改めて、立松の冥福を祈りたい。