黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

定期購読、ありがとう。更にお願いします。

2009-09-29 09:26:04 | 文学
 昨日、版元から連絡があって、このブログでお願いした「月光」の定期購読申し込み者数が判明しました。
 お申し込み下さった方々、どうもありがとうございました。そして、図々しいと思われるかも知れませんが、未だお申し込みいただいてない方、あるいは申し込みするかしないか迷っておられる方、絶対それなりの内容(価値)があると思いますので、お申し込みいただければ幸いです。
 それで、お読みいただいた後、批判でもご意見でも構いませんので、読後感をお寄せいただければ(この場合、差し障りのある方もいると思いますので、ご都合主義だと言われるかも知れませんが、「匿名」でも構いません。もちろん、「本名」の方がいいのは決まっていますが)、それらのご意見・ご批判は僕が責任を持って編集会議に持って行って、他の編集委員(福島泰樹、立松和平、太田代志朗、竹下洋一、担当編集者)に伝えてます。これは僕がこれまでずっと考えてきた「文学共同体(文学上の梁山泊)」の実際になるのではないか、と思っています。
 読者も書き手(作家や批評家)も「文学=作品」を媒介とすれば、対等・平等の関係にあるはずです。その対等・平等の関係を基底に、書き手と読者の間によりよい「文学共同体」が形成されればいいのだが、という思いをこの間ずっと持ってきました。もちろん、これは文芸誌「月光」だけに限定されたものではありません。拙著に対しても全く同じです。僕と読者との間に、「感想」「意見」「批判」の交換が行われれば、それが不振を極める文学状況をいくらかでも改善することに寄与するのではないか、またそれによって僕自身の批評行為も鍛えられるのではないか、と思っています。
 どうぞ、ご遠慮なくご意見・ご批判をお寄せ下さい。愉しみに待っています。

 ついでに言っておきますが、いま僕が必死に「解説」を書いている『立松和平全小説』(全30巻)ですが、いよいよ近日中にパンフレットもでき、10月下旬に第1巻の刊行が決まりました(当初は、9月下旬の第1巻刊行を目指して企画を進めてきたのですが、結局このようになりました)。いま僕は30年以上前の立松の「初期作品」を読み解説を書いているのだが(第2巻まで終了、現在第3巻分を執筆中)、立松の「初期作品」を読み直して、「若書き」という印象を免れない作品もあるが、全体としてなかなか勢いもあり、また初々し感性と堅固な思想によって書かれた作品が、新たな感動を覚えつつ執筆できて、なかなか楽しい時間を過ごしている、と言えます。
 『立松和平全小説』を書棚に飾って、時間ができたときに少しずつ読んでいく、結構『優雅』な時間の過ごし方なのではないか、責任編集者としては「決して損をさせない」という思いで刊行を楽しみにしているのだが、刊行間近になったら、このブログの読者には「特典」が与えられるよう、版元にお願いしたいと思っていますので、その節はよろしくお願いします。

不思議なこと

2009-09-22 04:23:41 | 近況
 今は具体化していないので詳しいことは書けないが、あるところから依頼され、「ネット社会における文学の在り様」のようなこと書くことになり、少しずつであるが「ケータイ小説」ブームやそれに関する言説を調べているが、調べれば調べるほど「ネット社会」の「闇」のようなものを感じてならない、という状態に今はある。物心ついたときからPC(例えば、ファミコン)があり、当たり前のようにPCを使ってきた世代と、基本的には生活の全てに渡って「アナログ」的でありながら、仕事上の都合で何とか「デジタル=PC」を使わなければならない世代の違いから生じる感想なのかなとも思うが、「人間関係」という観点から考えると、どうもそれだけではないような気もしている。
 例えば、今ここで記述している「ブログ」に関して、古い読者は覚えているかも知らないが、一度「炎上」してから再開するときにも、その前にも、僕はこのブログが「梁山泊」のようになればいいな、というようなことを書いた。現代における「文学」の在り様や時代の在り方(政治や経済、人々の生活など)について、参加者が「平等・対等」の立場から「自由」に議論(意見交換)し、烏滸がましいが、そのことによって「共生」について皆が真剣に考え、幾らかでも僕らの現在が前に進めばいいな、と思ったからである。
 しかし、今のところ僕の「梁山泊」構想は、結果としてほとんど機能せず、その代わりに思い知らされたのは、この「ネット社会」では現実の生活レベルで横行している「無責任」が、より鮮明な形で浮き彫りにされているのではないか、ということであった。それは、もしこのブログを「梁山泊」とするならば、参加する人々はそれぞれ自分の責任において「発言」し、そのような議論を積み重ねることによってしか「共生」を実現するための「砦=梁山泊」は実現しないと思っていたからであり、そのためには余程のことがない限り「匿名」は避けたいと考えていたにもかかわらず、寄せられた「コメント」の多くは「匿名」であったことによっても明らかである。それにしても、何度も何度も繰り返して「匿名のコメントには応じない」と言明してきたのに、「お前は投稿(コメント)を歓迎すると言っているではないか」と開き直られ、「匿名」による投稿を辞めなかった人たち、未だにあの人達の気持(心理)がわからない。
 特に、「ネット小僧」さんと「烏丸御池」さん。中でも「ネット小僧」さんの場合、「村上春樹」に関する藤井省三(東大教授)の言説を批判したら、あれほど息巻いて藤井省三擁護の駄文や僕に対する根拠無き批判を長々と書き、挙げ句の果てに「筑波大学の修論や博論にはいい加減なものが多いから、精査して徹底的に批判する」と豪語していたのに、どうしたことか、その「いい加減さ」が目に余ったので、「ネット小僧」さんの言説が如何に「妄想」に充ち満ちたものであるかを明らかにし、反論したら、それ以後全く「沈黙」してしまったのはどうしてなのか、と思わざるを得なかった。読者の皆さんも「ネット小僧」さんの僕への反論(ができれば、の話であるが)を期待していたと思うのに、彼は「無責任」というのは、こういうことを言うのだなという典型を演じてくれた。「烏丸御池」さんも同じである。「匿名」だから相手をしなかったら、好き放題のことを言っていたが、余りに執拗なので、仕方なく彼の論理矛盾を指摘したら、それきり「ネット小僧」さんと同じように「沈黙」してしまった。
 情報通の学生(院生)に聞くと、「匿名」でこれぞと思うブログを攻撃(批判)する連中は「ネット・サーファー」と呼ばれる人たちで、「無責任」に他人のブログ(あるいはホームページ)に入り込み、「好き勝手」なことを書き散らし、たぶんそのことで「憂さ晴らし」やら「ストレス解消」をしているのだろうが、一つのブログに飽きるとまた他のブログ(ホームページ)に移動することに「快感」を得ているのだという。実際のところ、僕にはこの「ネット・サーファー」たちがどのようなことを考えているのか理解できない。しかし、その心理を推測すれば、1980年代から顕著になったあらゆる場(特に学校教育の場)における「いじめ」と同じ構造をしているのではないか、と思う。もちろん、もしそうだとするとこの頃特にネット社会で顕著な「学校裏サイト」と同じで、いじめられた側は「自死」したり、逆にそのいじめられた事実を胸に抱きながら「孤立」し、その揚げ句に土浦や秋葉原の「無差別殺人」に結びつくような、この社会への根源的な叛意を抱いて生き続けることを余儀なくされることになる。
 もし「ネット・サーファー」たちが本気でそのようなことを考えているとしたら、「このブログを梁山泊へ」どころの話ではなくなってしまう。当方も本気でそのような「ネット社会の闇」に対抗する思想と方法を考えなければならないのではないか、と思う。座頭市ではないが、本当に「嫌な世の中になったなあ」とばかりに仕込み杖でバッタバッタと「敵」を切りまくれればいいのだが、言説以外に何も持たない僕としては、どうしたらいいのか。嘆いても何も始まらないのだが……。

いつもいつも「正念場」?

2009-09-19 04:39:53 | 文学
 世の中は今日(19日)からの5連休を4月末から5月始めのゴールデン・ウイークに準えて「シルバー・ウイーク」などと言って、国内外旅行や行楽地への旅行を煽っているように見えるが、残念ながら、僕自身はそのような世の中の風潮とは無縁な5日間を過ごさなければならないのを覚悟せざるを得ない状況にある。
 仕事が詰まっているからである。まず、『立松和平全小説』第2巻の「解説」執筆があり、昨夜帰宅して分かったのだが、「月光」第2号の原稿の校正もしなければならない。それと、再三再四版元の編集者から督促されている「ネット社会と文学」(仮題)の構想も練らなければならない。それに、この5連休は「秋の彼岸」でもあるから、僕の家と家人の家の墓参りもしなければならない。その合間に、家庭菜園の草むしりをして水菜やほうれん草など秋蒔き野菜の種を蒔いて欲しいと家人からは要請されている。何処かへ出掛ける余裕など全くなく、出掛けられる人を「羨ましい」と思うばかりである(というのは建前で、本音は「人混み」が嫌いな僕としては、連休に遠出するなど全く考えていないので、羨ましいと思ったことなど一度もない)。
 さて、総選挙で大勝した民主党の鳩山政権が発足して3日、本当に「政治」が変わり、それに伴って僕達の生活が変わるのか、そのことについては正直言って「半信半疑」だが、人々が民主党に期待したのは何であったのかを考えると、もちろん雇用問題や医療問題などと直結する「格差社会」の解消とか、「無駄遣い」の廃止とか、という当面の諸「改革」もあるが、たぶん人々が望んだことの本質は、「失われた10年」などという言葉に象徴される社会全体を覆う「閉塞感」を打破して欲しいということだったのではないか。具体的には、簡単ではないが、土浦や秋葉原で起こった理不尽としか思えない「無差別殺傷事件」のような事件が何故起こったのかを究明し、その原因を取り除いて欲しい、という欲求が民主党の勝利をもたらしたのではないか、ということである。
 それに加えて、小泉政権以降顕著になった保守派の「ネオ・ナショナリズム」に対する警戒心も、また民主党を押し上げる原因の一つだったのではないか。形式的に「護憲派」とか「改憲派」とかに分けることの不毛さを承知で言えば、アフガニスタン戦争・イラク戦争への加担(自衛隊派遣)及びソマリア沖への海上自衛隊の出動は、誰が見ても明らかな「憲法違反」である。それを、三分の二の数によってずっと押し切り通してきた自公政権への反撥・批判が根っこにあって、今度の政権交代が実現したのではなかったか。その証拠に、「平和と福祉の党」を掲げながら自民党タカ派の「ネオ・ナショナリズム」政策に賛同・協力してきた公明党も、小選挙区で惨敗した。
 国民=庶民は、その意味で「したたか」であり、危険に対して敏感である。漫画家の小林よしのりなどは、そのような国民=庶民の在り方に対して「平和ボケ」と言って批判するが、僕などは「平和ボケ」、結構ではないか、と思ってしまう。「戦争」に関われば、「敵」「味方」を問わず、必ず「死者」が生じる。300万人余りの日本人の死者と、2000万人にも及ぶアジア人の死者が生じたアジア太平洋戦争(15年戦争)の反省から生まれた「日本国憲法」の精神は、まさにそのような「死者」が生まれる事態を否定したものであったはずなのに、それがいつのまにか「時代=状況の変化」を理由に、「自衛隊=軍隊の海外派兵」にまで変質させられてしまった。そのようなことへの「否=ノン」が今度の選挙結果でもあった、と僕は考えている。
 そんな「民意」を果たして鳩山新政権はきちんと反映した政治を行うことができるだろうか。鳩山首相のキーワード「友愛」、こんな古臭い言葉(思想)を今日的政治の根幹に置こうとする鳩山氏には、何か危ういものを感じてしまうが、それは僕だけだろうか。
 それにしても、既得権益を守らんが為に新政権に対する「揶揄」や「批判」、例えば「CO2、25%削減」宣言に対して企業経営者から直ぐさま上がった「実現不可能」の声、世を挙げて「エコ」を叫び、「地球温暖化」を憂えているというのに、あの木で鼻を括ったような近視眼的な「反対」表明は、彼らが人類(地球)の未来を考えていない証拠を見せつけられたようで、何とも鼻白んでしまった。
 まあ、鳩山民主党新政権については、もう少し時間をかけて見守るしかないな、と思う。

再度、「月光」定期購読のお奨め

2009-09-14 13:57:00 | 文学
 僕が編集委員の一人になっている総合文芸誌「月光」(季刊)の発刊から約1ヶ月が過ぎようとしている。遅きに失した感が無きにもあらずだが、ようやく「定期購読」(年4回刊行分)をしてくれる読者への「特典=割引」が決まったので、お知らせしたいと思う。
  ――――――
・月光:    各号1785円(1700円+税)
・年間定期購読:1785円×4号=7140円のところ
        4号で「6000円」(送料無料・版元負担)
・刊行計画
 第1号「特集 中原中也」
 第2号「特集 宮沢賢治」
 第3号「特集 全共闘と文学」
 第4号「特集 満州」
 以下、「吉本隆明」「村上春樹」、等を計画している。

・申し込み方法
 ①電話:03-5215-9021
 ②FAX:03-5215-9025
 ③メール:bensey@bensey.co.jp
 *いずれの場合も、勉誠出版編集部(岡田林太郎・清井悠佑)宛にお申し込み下されば、第1号の本誌と郵便振替用紙をお送りいたします。ただし、1号のみのお申し込みの場合、「特典」はなく定価通りになります。また、お申し込みの際、「黒古のブログで見た」あるいは「黒古の紹介」と添え書きしていただければ、事はよりスムーズに運ぶと思います。
 当然のことですが、僕は毎号「文芸時評」と「特集」に関わる評論の2本は最低書く予定でいます。
 どうか、この出版不況の時勢に船出したささやかな文芸誌です。年間6000円は少ない金額ではありませんが、是非ともご協力いただければ、と思っています。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 編集代表の福島泰樹氏が書いた「創刊の辞」の中に、以下のような言葉があります。志を持つ人たちに「月光」は門戸を開いています。投稿作品は、複数の編集委員の推薦があれば、掲載されます(稿料:1枚1000円、これは僕らと同じです)。
 <言葉は滅びていない。言葉は文学を生む。産み続ける。携帯電話の荒野の闇へ、機関銃よりも迅く言葉を撃ち続ける若者たちよ、全共闘世代の闘った男や女達よ、引き籠もらずに出てこい。発言せよ、言葉を発せよ! 「月光」は投稿を待つ。小説、詩、短歌、俳句、評論、エッセイ、ジャンルは問わない。>

 因みに、僕は第2号に「特集 宮沢賢治」に関して、「『雨ニモマケズ』論争・私見」という30枚ほどの文章と、『文芸時評』としては異例の45枚ほどになる「『1Q84』の問題」という文章を寄せている。「『1Q84』問題」は、村上春樹の新作に群がり「オマージュ」の大合唱を行った批評家や物書きたちの言説を分析検討(批評)したもので、両方とも結構力を入れて書いたもので、読み応えがあるのではないか、と思っている。

 もう一度、諸々よろしくお願いします。



 

運動会の風景

2009-09-13 16:34:52 | 近況
 先週は、授業やゼミ(学部と大学院)の合間に「書評集」の再校を終了させ、編集者から要求されていた「はじめに」と「あとがき」をそれぞれ5枚ほど書き、併せて立松和平全小説」第1巻の「解説」の再校も終わらせるという、1年に何回あるか分からないほどに忙しい1週間を過ごしたのだが、それらの仕事を今日の宅配便で送るために朝早く起きて点検し、一息ついたので、昨日の雨で順延となっていた孫が通う小学校(自宅の近所、歩いて3分ほどしかかからない)の運動会を見学しに行った。
 自分の子供が小学校に通っていたのは20年以上も前だが、運動会の風景としては、その当時と今日見たものとそんなに違いはなかった。正面にテントが5張りほど張られ、その中には校長を初めとする学校関係者の席の他、来賓席、老人会席、救護班、準備係の場所が設けられ、これも変わらない風景であった。面白かったのは、開会式で「国旗掲揚」というプログラムがあり、その時司会者が「帽子を被っている人は脱いでください」と、内村鑑三の「不敬事件」(キリスト者の内村鑑三は、当時教鞭を執っていた第1高等学校<現:東大駒場>の「教育勅語奉読式」で天皇の署名に対して最敬礼しなかったことから、不敬行為として当局から指弾された)を思わせるようなことをアナウンスしたのだが、帽子を脱いだのは教育関係者と市会議員や区長などの来賓ぐらいで、見物席の保護者たちの多くは、司会者の要請などどこ吹く風といった感じで対応していたのが、面白かった。明治維新によって実現した絶対主義天皇制が設定した「君が代=国歌」と「日の丸=君が代」は、制定時にも多くの物議を読んだように、「思想・信条の自由」を侵す要素を多分に持っている。「平和と民主主義」の戦後教育を受けた僕には、「君が代」も「日の丸」も馴染めないもので、国歌も国旗も戦後に生まれ変わったはずの日本は「新しく」制定すればよかったのだ、と今でも思っている。
 若い人には知らない人が多いのだが、戦前の歴史を繙けば、血塗られたとしか言いようがない「日の丸」を国旗とし、天皇を賛美する「君が代」を国歌とする、所謂「国歌・国旗法」が国会を通過し施行されたのは、今から10年前の1999年8月である。オリンピックなどの応援で「日の丸」が振られ、金メダリストの栄誉をたたえるために「君が代」が流される光景を僕らはずっと前から見聞きしているから、多くの人が「日の丸・君が代」が「国旗・国歌」と思い込んでいるように見えるが、法制化されたのはたかだか10年前、ということを僕らは改めて考えた方がいいのではないか、と思う。
 今日の運動会で「脱帽」要請に対して帽子を被ったまま国旗掲揚塔の方を振り向きもしない父兄たちの存在は、国民=市民の「したたかさ」を証するようで、このような姿に現れた感覚(と考え方)は、それはそれで「健全」なものなのではないか、と思わざるを得なかった。それは、髪を脱色し、体の線がはっきりするような運動着で運動場を走り回っている準備係のお母さんの姿と二重写しになるもので、先の衆議院選挙で示した国民=市民の「したたかさ」と相通じるものがあると思った。硬直した感性と思想を未だに持ち続けているのは、教育関係者と何某かの役職にある来賓たちだけ、というのは昨今明らかになりつつある「官僚」と民主党政治家との対立と似ていると思い、知らずに笑みがこぼれてしまった。
 久しぶりのカンカン照りで、子供達の演技や走りを見ているだけで疲れてしまい、僕一人だけ昼を待たずに帰宅したのだが、今日の運動会で味わった「スカッ」とした気分、いつもこのようであればいいな、と思いつつ、「なんでも鑑定団」の再放送を見ながら昼寝タイムに入った。
 以上。

再校ゲラに目を通しながら

2009-09-08 05:26:58 | 文学
 多分10月中の刊行になると思うのだが、240本ほどの「書評」を集めた『書評集』(この本も勉誠出版にお世話になることになった)の再校をここ何日か集中して見ている。今から30年前の1979年に最初の単行本(『北村透谷論―天空への渇望』)を刊行すると同時に、「週刊読書人」から依頼があって「書評」も書くようになったのだが、以来今日まで各種の新聞・雑誌に執筆した「書評」約350本のうち、重複していたり(同じ本の書評を複数のメディアから依頼されて書くことがある)、自分でも筆足らずだなと思ったものを除外して残った約240本、書評の専門家や週刊誌などによく書いている批評家などに比べると数としてはそんなに多くないが、改めて約240本をまとめてみると、長いもの(10枚書評など)も短いもの(新聞の場合、現在はほとんど750字になっている)も集めてみると、我ながら「壮観」という印象を持つ。
 今回『書評集』という形でこれまで書いてきた書評をまとめるにあたって、一つだけ自分に律したことは、例え若書き(稚拙)であろうとその「書評」は時代時代の雰囲気や当時の僕の感覚・思想を反映したものであるから、明らかな間違いや年号についての訂正はするとしても、一切ないようには手を付けない、ということであった。
 『書評集』の構成(全5章)については編集者が整理してくれたのだが、「第1章 現代文学の旗手たち」(大江健三郎や村上春樹、立松和平など5本以上の書評を書いたもの)、「第2章<小説>という方法を読む」、「第3章 作家論・文学論を読む」、「第4章 戦争・核の時代」、「第5章 もう一つの文学世界」となっていて、この構成を見ると、僕の文学嗜好(志向)がある程度理解できるのではないか、と思う。「批評とは、対象を借りておのれを語ること」という至言を残したのは彼の小林秀雄であるが、この『書評集』を俯瞰すると、ある意味で僕自身が「裸」でたっているような気がしないでもない。気に入った作家の作品にはオマージュを捧げ、出来が悪い(と僕が判断した)作品には、結構厳しい評価を下し、その時々の自分がそれらの書評には現れている、と思うからである。
 また、「文学にも党派性が必要」といった主旨の発言をしたのは埴谷雄高であるが、この『書評集』を読むと、明らかに僕がどのような考えで文学作品を読み、考えているのかが白日の下に晒されるのではないか(党派性が自ずと出ている)、と思う。僕としては単純に「こんな本の読み方もあるんだよ」ということを示せればいいのではないか(このことについて別な言い方をすれば、それなりの「整合性」があればどのような読み方も許される、読書とはそういうものだ、ということになる。アプリオリに読書に「正しい・間違っている」はない、ということである)と思い、『書評集』を編んだのだが、書評を始めて30年、「変節」はなかっただろうか? それだけが気掛かりである。
 と書いたのも、上記の部分を4時半に起きて書き、新聞が配達されたので「東京新聞」を開いてびっくりするということがあったからに他ならない。あの「小泉(郵政)改革」の旗振り役であった慶応大学教授の竹中平蔵が、大手派遣業者「パソナ」の会長に就任したというのである。「どういうこっちゃ」と誰もが思ったのではないか。「改革」すれば何もかも「良くなる」と公言し、結果的には「格差」を増大させ、今日の混乱を招いた張本人が「格差社会」の到来によってボロ儲けをした企業=派遣業から莫大な給料を貰う会長職に就く、こんな事をしているから自民党は先の総選挙でボロ負けしたのだろうが、音頭を取った小泉純一郎も政治の表舞台から引っ込み、竹中平蔵もこの体たらく、僕が「変節」を気にすると言ったのは、そんな新聞記事を目にしたからである。「政治」の世界は「変節」が当たり前(普通)だとしても、「文学」の世界では違うのではないか、という思いがある。『書評集』を編んで、僕としてはこの30年間「変節」はなかったと思っているのだが、判断は読者が下すこと、出来上がって読者の元に届くまで心配でもある。
 なお、言うまでもないことだが「変節」と「変化」は異なること、いらぬ批判をちょうだいする前に、このことだけ言っておきたいと思う。

大根の種まき

2009-09-06 05:10:55 | 仕事
 昨日(5日)、毎年のルーティン・ワークとなっている「大根の種まき」を行った。例年だと8月の終わりか9月の始めにするのだが、今年は学部のゼミ合宿と2学期最初の授業等が重なって少し遅れることになり、気になっていたのだが昨日無事終了してよかった、と思っている。「種まき=農業」というのは不思議なもので、昔から言われている「種まき時期」を逃すと、ほんのわずかなズレなのに収穫に大きな影響が出ることがある。大袈裟な言い方をすれば、2,3日遅れただけで出来が違うのである。そういう意味では、前に書いたこともあるが、各地方に伝わる「農事暦」というのは、経験則に基づいて作成されたのだろうが、いつも「すごい」と思ってしまう。秋まき種の場合、台風やら害虫やら日照時間やらで決めたのであろうが、最近の「天候不順」は長年積み重ねてきた経験則=農事暦を狂わせることもあるのではないか。
 と思いつつ、今年の「種まき」であるが、我が畑は除草剤を使っていないので、30センチほどに伸びた雑草を抜くことから始まった(前に2度ほど抜いたのだが、それでも雑草はいつの間にか伸びてくる)。それが終わったあと、夏にスギナが生えているのを確認したので(つまり、土壌が酸性化してきている証拠)、久土石灰をまず蒔き、次に近くのホームセンタ-で購入してきた「堆肥類」(鶏糞、豚糞、牛糞、それぞれ15キロ~20キロ入り2袋)を全面に蒔き、1ヶ月ほど前に入れておいた「腐葉土(落ち葉)とかき混ぜる、という作業を行い、ここまででへとへとになり、昼休み。農家の人たちがスペインなどで行われている「シェスタ」のように、午前中の作業が終わって昼飯を食べたあと「昼寝」をする意味が、今回ほど理解できたことはない。50坪ほどの広さしかないのだが、雑草の処理から堆肥蒔きまで全て手作業でやると、普段ほとんど「肉体作業」をしていない者には相当応え、肉体的な衰えもあるのだろうが、「昼寝」でもしなかったら体が持たない、と痛感した。
 午後4時、太陽が傾いてきたので作業再開。もう一度耕耘機で土をかき混ぜ、さくを切り、1さくに20~25個所ほど3~4個の種を蒔き土を被せて終了。今回は「漬物用大根」を予定では250本ほど(5軒分の沢庵漬けとはりはり漬け用)、煮物用に50本ほど蒔いたのだが、これから11月下旬の収穫まで、「間引き」「雑草処理」「土寄せ」とそれぞれの時期に作業は行われるのであるが、ともかく種まきが終わった今は、果たして無事「発芽」してくれるか、それだけが心配事になる。

 新学期の授業準備(資料、等の用意)、そして『月光』2号の原稿(村上春樹の『1Q84』について、その「狂奔的」反応、及び僕自身の『1Q84』論を述べたもの。現在44枚)の推敲、さらには10月に刊行が予定されている「書評集」の再校もしなければならないという忙しい時期に「大根の種まき」、お前は何をしているのだと自らに向かって問いかけつつの作業だったのだが、格好いい言い方をすれば、煩わしいこと全てを忘れ、ひたすら肉体を行使して「自然」に向き合う、体はヘロヘロになったが、結構気持ちは爽やか(半分負け惜しみ)だった。

ご返答します。

2009-09-02 15:55:29 | 文学
 合宿から帰ったら、既にこのブログをお読みの方はご承知のように、立松和平の『日光』を巡って、問題の当事者の一人「福田和美」氏からのコメントと、僕の方で「蛙の面に小便」と言ってやりたいようなコメントが寄せられていたので、それらについて僕なりの「返事」を書いておきたい。

<福田さんへ>
 メール、ありがとうございました。
 先ず、今回の立松和平著『二荒』(新潮社刊)及び『日光』(勉誠出版刊)に関する私の立場を明らかにしておきたいと思います。それは、一介の批評家として、あるいは近現代文学研究者(大学教師)として、同世代作家である立松和平氏の仕事について関心を持ち続け、その結果として『立松和平-失踪する文学精神』(増補版 随想社刊)と『立松和平伝説』(河出書房新社刊)などを持つに至りました。また、そのような経緯があって以前立松氏が「盗用・盗作」問題で騒がれた「『光の雨』問題・事件」にも関しても、私なりの考えを持つに至りました。 その結果として得た私の「盗作・盗用」観は、今回福田さんが「ご参考までに」としてご教示してくださった「(内部的・当事者しか知り得ない)経緯や内容」は、とりあえず脇に置き、「作品」の内容で判断するのが批評家(近現代文学研究者)として最も相応しい態度なのではないか、というものです。「(内部的・当事者しか知り得ない)経緯や内容」は、必ず当事者による「偏向」が生じると思ったからです。客観的・中立的な判断などなかなかできるものではない(存在しないのではないか)、とも思っています。
 そのような考えに基づいて、「主題が屹立してくるとき」(「月光」1号)を書いたのですが、このとき使用したのは、ご承知のように貴方がお書きになった『日光鱒釣紳士物語』と立松氏の御著書に対する「書評」と、『二荒』更にそれを改作した『日光』、及び「盗作・盗用」問題が起こったときの立松氏の「コメント」やそれらの関連する新聞記事(朝日、読売、毎日、東京)やネット上に飛び交っていたいくつかの「(立松氏に対する)批判情報」です。立松氏とは問題が起こったときに「どうしたの?大変だね」というような会話を交わし、改作が成ったとき「改作について書くね」と言っただけで、立松氏も「月光」が発刊されるまで、私がどのような文章を書いたか知らなかったはずです(信じない人もいるかも知れませんが、「月光」が発刊された後、立松氏からは「ありがとう。そういう見方もあるのか、と思った」といった趣旨の電話を貰いました)。
 そのような方法と資料で「作品」中心に今回の『二荒』→『日光』への改作問題(もちろん、「盗作・盗用」問題も視野に入れて)も対応・考察しました。その結果が「主題が屹立してくるとき」なので、詳細は『月光』を見ていただくとして、福田さんの「私にたいして、『二荒』問題の経緯に関して説明や意見をお尋ねいただくことはありませんでした」というご批判に対しては、「必要だとは思わなかった」とお答えするしかありません。
 また、「主題が屹立してくるとき」にも書きましたが、立松氏は貴方のお書きになった『日光鱒釣紳士物語』を「共同通信」配信の「書評」で、過分とも思えるほどに「褒め=高く評価」ていたことを知ると、立松氏が貴方に対して「悪意」を持っているとは思わず、新聞報道などによる「経緯」を知り、かつ「主題が屹立してくるとき」(特に、貴方の御著書の表現と立松氏の『二荒』を比較した部分)をお読みいただければおわかりと思いますが、立松氏は貴方が御著書(はじめに)でお書きになった「この本の内容は『歴史』である」という言葉を考慮して、『二荒』では相当「デフォルム」して表現していると思い、重ねて言いますが私は貴方に「取材」する必要を認めなかった、ということがあります。それに関連して、結論として私は『二荒』は果たして「絶版」に値するような「盗作・盗用」作品であったのか、と思いました。なお、言い添えておきますが、私は貴方の『日光鱒釣紳士物語』は、大変な労作であり、優れた本になっていると思っています。その「調査」によって明らかになった「日光・中禅寺湖」の歴史は、立松氏も書評しているように、貴方の著作を抜きに語れないものになったと思っています。
 以上が、僕の『二荒』→『日光』に至る経緯(「盗作・盗用」問題も含む)ですが、更に言えば、貴方が私へのコメントの最後に付け加えた(批判の意を込めて)こと、つまり「尚、例え如何に無名の人間が書いた文章であろうとも、それを生み出した独創性に経緯を持つ。そのような見識と良識が、物書きには欠かせないものであると、私は考えます」、と書いたことは私も(敢えて推測すれば、貴方の御著書をあれほどに褒め上げた立松氏も)同じように考えている、と付け加えておきます。何冊もの著書を持つ批評家だからとか、大学教師だからと言って、「高見」から物を言わないというのが、信じるかどうかは別にして、私の信条です。もしご不審ならば、学生たち(ゼミ生や院生たち)に聞いてみてください。「知識は僕の方が圧倒的にあるかも知れないが、こと文学研究(批評)において君たちと僕とは<対等・平等>である」が私の口癖だと言うはずです。

「小杉庄平」さんへ
 まず、貴方にお聞きしたい。貴方は、今回問題となった立松和平の『二荒』(及びその改作である『日光』)と福田和美さんの著書『日光鱒釣紳士物語』をお読みになった上で、私に対して「いちゃもん」をつけているのか、ということです。更に言えば、『月光』掲載の拙文「主題が屹立してくるとき」をきちんと読んだのですか。それらを読んだ上で、私を「批判」しているのでしょうか(文面からすると、「主題が屹立してくるとき」には目を通したようだが、それ以外はどれもこれも読んでいないのではないか、と思われますが、いかがですか)。問題の核心をなす「資料」に全く目を通さず、誰かの(何かの)「尻馬」に乗って好き勝手なことを書く(批判する)、よほど「気持ちがいい=快感」なのでしょうね。労を惜しんで人の「批判」などできないこと、貴方は肝に銘じるべきです。
 私は、福田さんへの「ご返事」にも書いたように、同世代の作家として立松和平にずっと同伴してきました。しかし、貴方が言うように「福田さんが怒るのは無理はない。黒古さんは、結局、自分(と立松和平)に都合のいいことしか言ってない」とか「判断の基準が、立松和平の損得にある」というような形で立松和平について論じたことはありません。お疑いならば、先に挙げた拙著をお読みください。きちんと批判対象の仕事を検証せずに、好き勝手なことを書く、このようなことを私は「モラル・ハザード」だと言っているのです。
 それと「『二荒』から『日光』への改作は、結果として『災い転じて福となす』ものであり」という私の文を取り上げて、「黒古さんにとって、福田さんの存在は『災い』だそうですよ、まったくもって失礼な話ですね」などと分かったようなことを言っているけれど、「誤読」も甚だしい。私は、福田さんのことを「災い」と言っているのではなく、一連の「盗作・盗用」問題があったからこそ、『日光』という佳作が生まれたと言っているのであり、どのような「悪意」があると、貴方のような読み方ができるのか、不思議で仕方ありません。ただ、どのような読み方も読者の「自由」だから、その「誤読」自体を批判するつもりはありません。私が言いたいのは、そのような「誤読」を基に他者を「貶める」ことは卑劣な行為なのではないか、ということです。
 たぶん、貴方はこの私の「反論」を読むと、またあること無いことを援用して「再反論」してくるでしょうが、先に指摘した「資料」を読んだ上での「再反論」なら応じますが、それ以外(「蛙の面に小便」のような反論でなければ、ということです)でしたら応じませんので、ご承知置きください。