黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

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この国は何処へ行く――いつか来た道か?

2013-01-31 05:07:00 | 近況
 このところ、ずっと井伏鱒二と「戦争」との関係についてあちこちに書いた論考を1つにまとめ上げるべく加筆したり削除したりしてきているのだが、そのような作業は必然的に先のアジア太平洋戦争(15年戦争)とは何であったのか、そして井伏鱒二がヒロシマをテーマとした原爆文学の不朽の名作『黒い雨』(66年)を書いたということもあって、ヒロシマ・ナガサキ、あるいはビキニ事件、フクシマとは何であったのか、を考えることが多くなった。そして、その結果名のだろうと思うが、PCから離れた時間に頭をよぎるのは、「戦争」とは何か、「平和」とは何か、「核・フクシマ」の行く末はどうなるのか、ということばかりである。
 それ故なのか、1昨日の安倍首相の「所信表明」及び昨日から始まった通常国会における国会質疑(安倍首相の答弁)などを聞いていて、いよいよ「反戦」をその中核に据えた戦後民主主義思想が覆されるような状況になってきたのではないか、と思い、同時にこの国は何処へ行こうとしているのか、と思わざるを得なかった。
 まず第一に、フクシマが全く解決(収束)していないにもかかわらず、わずか2年で「脱原発(依存)」が風前の灯火になってしまっていること、これには絶望的にならざるを得ないと同時に、怒りさえ覚える。たぶん、安倍首相の「所信表明」演説や昨日の代表質問に対すると安倍首相の答弁を聞いた者(特に先の総選挙で自民党に投票した人たち)の多くが、「原発再稼働・新増設容認」をを目指す答弁に対して、「そこまで首相に委託・信託したわけではない」と思ったのではないだろうか。目先の「経済=見せかけの豊かさ」を求める余り、原発(もちろん、核兵器も)の存在が「未来」を閉ざしてしまうことに対して「頬被り」して済ませてしまう政治家たち、「日本を取り戻す」と威勢のいいことを言っていたが、その「取り戻す」べき日本に、このまま原発を存続させたら、絶対「未来」がなくなるかも知れないことに、何故気が付かないのか、保守政治家(その代表が安倍首相)はそれほどに「鈍感」なのか。来年度予算案などを見ると、内容は「いつか来た道」で、「改革」の「か」の字さえ感じられないというのは、これもまた「異常」なのではないか、と思わざるを得ない。
 この原発容認・推進論は、防衛費を大幅に増額し(500億円ほど)、(紛争中のリマへの)緊急支援金をアメリカやイギリスなどより遙かに多く支払う(110億円ほど)一方で、マスコミ・ジャーナリズムが大声で批判している「生活保護費の削減」(750億円ほど)が象徴するように、「自立支援」という名の「弱者切り捨て」政策を平気で行う、まさに「坊ちゃん宰相」と揶揄されるに相応しい政治のや煎り方、果たしてこれで「デフレ脱却」が可能なのか、はなはだ疑わしい。
 民主党政権が目指していたように見えた「共生」へと繋がる「共助・他助」から、「自立・自助」という美名の下での「弱者切り捨て」、このような「無慈悲」な施策も、自民津に1票を投じたこ組は願っていたことなのか。
 それと、「憲法改正」問題、「憲法改正には国会議員の3分の2の賛成が必要」(日本国憲法第96条)という条項をまず「過半数の賛成で改正できる」とする、という何とも姑息な方法で、日本を「戦争のできる国」(軍隊=自衛隊を外国に出す)にしたいという、まさにネオ・ナショナリスト(ネオ・ファシスト)らしいやり方には、本当に腹が立つ。お祖父さん(岸信介)も、また父親(安倍晋太郎)もずっと権力の中枢にいて、先のアジア太平戦争や戦後の朝鮮戦争・ベトナム戦争に関して、「加害者」であっても、決して「被害者」であったあったことのない人たちに囲まれて育つと、このような国家意識が育つのかも知れないが、戦争の「犠牲」になるのはいつだって「庶民」であって、決して指導者(政治家や財界人)ではないことを、僕らはもう一度よく考えなければならないのではないか。
 1945(昭和20)年生まれの僕は、(戦死したために)父親の顔を知らない同級生が何人もいたことを記憶しているし、お祭りや寺社の行事に出掛けていくと、そこには必ず「傷痍軍人」(先頃亡くなった大島渚は何かの映画で、傷痍軍人の多くは戦前日本が植民地にしていた朝鮮半島や台湾の出身者だと言っていた)が、アコーデオンや笛を吹いて「(生活費確保のための)募金」していたのを記憶している。
 戦争が終わってしばらくしても、自宅近くにあった軍需工場に進駐してきた占領軍(アメリカ軍)が、「パンパン(売春婦)」にならざるを得なかった近所のお姉さんをジープに乗せて走り回っていたのも記憶に残っている(後日、母に聞いた話では、そのお姉さんは米兵にうつされた梅毒で、27歳の若さで亡くなったとのことであった)。
 日本国憲法(主に、その前文と第9条)は、そのような庶民=国民に犠牲を強いる戦争を「永遠に行わない」という決意の下に、誰もが納得して認め、そのために今日まで日本は「戦争をしない国」として「平和」を維持し続けてきたのである。なのに、現在の憲法はアメリカに押しつけられたものだという理由で(「押しつけられたもの」であろうが、自主的に作成したものであろうが、「戦争をしない」という世界に誇る条文を持つ日本国憲法は、自負こそしても卑下する必要は全くない)、何故また若者たちが犠牲になる「戦争ができる国」に変えようとするのか。
 ということを前提にするならば、安倍首相(自民党)が言う「取り戻せ、日本」の「日本」が、「戦争のできる国」であった「戦前の日本」を意味するものであることは、僕らは何度で声高に言い続け、「目先の利害」に目をくらませることなく、「いつか来た道」を歩き始めることを阻止しなければいけないのではないか、と思う。
 一人一人が声を上げよう、としか今は言えないのが、実に残念である。
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アルジェリア「人質」事件に思う

2013-01-25 09:44:42 | 近況
 今朝のテレビは、9人の遺体と7人の生存者を乗せた政府専用機が羽田空港に到着した時の映像を、何十分も延々と流し続けていたが、その映像の合間に流されるコメンテーターの言葉を聞いていて、考えさせられたことがいくつかある。
 まず1番に思ったのは、高度経済成長期にこの国の産業界と世界との関わり合いに関して「エコノミック・アニマル」と言われたように、世界各地、どんな辺境に行っても日本のビジネスマンが商売をしていたという現実が存在したが、それは吉本隆明と埴谷雄高の、いわゆる「現代資本主義論争」が象徴していたように、経済的にある国のある部分を支配する「新植民地主義」と言われるものが、今まさにでグローバル的(全世界的)に広がっている(進展している)のだな、ということであった。近年この「新植民地主義」という言葉は余り聞かれなくなったが、要は「経済的大国=強国」の「経済」を中核とした「侵略」が世界的規模で展開しているということで、今度のアルジェリアでの「事件」は、まざまざとその現実を僕らに見せたということだったのだろう。
 因みに、80年代の中頃に展開された埴谷―吉本の「現代資本主義論争」は、埴谷が現代の私たちの「豊かさ」は、第三世界=開発途上国からの「搾取」によって確保されているもので、第三世界の人々から見れば、日本全体が「資本家=搾取者」であって、そこで生活する民衆が日本を「敵視」するのは当然だ、と言ったことに対して、吉本が第三世界=開発途上国の「貧困」などの問題は、その国の問題であって、日本(の経済)がそのことに関係していると考えるのは間違いだ、と言い募ったことで何度か応酬があった論争であった。僕自身は、この吉本―埴谷論争がきっかけで、当時機会を見つけてアジアやインドを旅して見聞していたこと体験を基に、吉本は第三世界の現実を見ていないのではないかと思い、高校時代から影響を受けてきた吉本「自立思想」から離れることになったので、この論争に関しては殊の外印象深いのだが、それはそれとして、アルジェリアの事件は、未だ日本の「新植民地主義」は健在なんだ、と思わざるを得なかった。
 二つめは、安倍内閣の防衛大臣だったか、官房長官だったか、忘れてしまったが、今度の事件に関して「いかなる暴力も許されない」と繰り返し言っていたが、苦笑せざるを得なかった。確かに、イスラム原理主義者たちの「暴力」は有無を言わせないものがあり、その主張には分かりづらい面もあるが、かつて小泉自公政権の時代、アメリカが仕掛けた「イラク戦争」に関して、すぐさま「支持」を表明したことのは小泉首相はじめ自民党の政治家(安倍晋三氏も確かその代表だったように記憶している)であったことを思い出すと、何とも現代政治の世界は「便宜主義的」なものだ、と思わざるを得なかった。イラク戦争の時も、今回も最大の犠牲者は「民衆」(彼の天然ガスプラントで働いていた日本人社員を含む)であること、その原因を作ったのは誰かということをよく考えないと(「権力者」だと思うが、その実際に関しては軽々に言えない)、単純に現在の日本の風潮のように「悪いのはテロリストだ(本当にテロリストと言っていいのかどうかだって、軽々に判断できない)」と果たして言えるか。
 伝えるところによれば、プラントを襲ったイスラム原理主義者が「人質」としてターゲットにしていたのは、「外国人」(日本人を含む)だったという。あるじゃリア人に対しては、「お前達は兄弟だ」と言って釈放したというが、このことの意味するところを、僕らは真剣に考えなければ行けないのではないか、と思う。
 三番目は、今更言うのも、「いやーな気持」になるのだが、この事件の間、マスコミも政治家も、はたまた巷の人たちも言っていたことは、日本政府、あるいは自衛隊で何とか「救出」できないのか、その揚げ句に「自衛隊法」を改正して、自衛隊=日本軍が「邦人保護・救出」ということで海外(他国)に自由に出て行けるようにすべきではないのか、という議論にエスカレートし、安倍ネオ・ナショナリスト政権の「思うつぼにはまる」ような議論に展開しつつあることである。テレビの前で「沈痛」な面持ちを見せながら、内心では「しめた、これで憲法改正=第9条改正に賛成する人間が増えるだろう。念願の日本を<戦争のできる国>にする目論見が実現する」と、安倍さんはほくそ笑んだのではないか、と思うと、何ともやりきれない。
 犠牲者はお気の毒だが、願わくば、この「悲劇」がこの国を変な方向に導くことにならないことを、切に願う。
 「邦人保護・救出」という名目で、軍隊が外国に出掛けていく、僕らはこのようなことが「戦争への道」に繋がることを、アジア太平洋戦争の体験から学んではないのか、とつくづく思う。「嫌な時代」が来なければいいな、と本気で思っている。
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「国賊」だって、――ネオ・ナショナリストの「危険」な言動

2013-01-18 09:18:32 | 近況
 マスコミはあまり大きく取り上げないが、鳩山由紀夫元首相が中国を訪問して「尖閣諸島問題は(日中において)係争中」という発言に対して、安倍内閣の防衛大臣が「国賊」と言ったということについて、いかにも「想像力」や「歴史」認識の欠如した発想だという思いを禁じ得ず、と同時にこの国は今確実に「危険」な方向に進んでいるのではないか、と思わざるを得なかった。
 そもそも「国賊」あるいは「非国民」なる言葉は、戦前の絶対主義天皇制の下、つまりあの「天下の悪法」と言われた「治安維持法」に象徴される「言論や表現の自由」が大幅に制限されていた時代において、「反体制派」に投げつけられたものであって、「言論・思想・表現の自由」が保障されている戦後の民主主義体制下では、馴染まない(アナクロニズムとしか言いようがない)言葉である。
 情報によれば、この防衛大臣は「1960年生まれ」の53歳だという。こんな「若い」人間が、何処で学んだのか「国賊」なる言葉を使って、対立する政党の人間の発した、僕に言わせれば、至極「まっとうな」発言に対して(もちろん、だからといって、僕が鳩山由紀夫という政治家の在り方を全体で認めているというわけではない。彼の「沖縄」問題、すなわち普天間基地の辺野古沖移転に関する、何ともお粗末な発言については、全く認めることができない)、その発言は「国益に反する」という意味のことを言う。しかし、考えてみれば、「国益に反する」などという、いかにも大衆受けする言葉も、立場によって堂にでもなるもので、僕など「原発の再稼働」や「原発の新増設」、「六ヶ所村の核燃料再処理工場の存続」を認める防衛大臣が所属する安倍自民党政権とそれを後押しする財界の方が、人間(日本国民)の命を粗末にし、「未来」について何も考えていないように見える点で、余程「国賊」ものである。
 また、「日米同盟の強化」という名の下に、沖縄の米軍基地の固定化し、危険なオスプレイの配備を容認する安倍内閣も、鳩山発言に比べれば、数段罪の重い「国賊」的考え、ということもできるのではないか。
 さらに言えば、「国賊」などという言葉が横行することの「危険」性を、かの防衛大臣は全く意識していない。つまり、「反体制派」を「国賊」あるいは「非国民」を非難し排斥した先に現れるのは、明治時代の日清・日露戦争に始まってアジア太平洋戦争が如実に語るように、「侵略」(戦争)=覇権主義である。安倍政権の「右傾化=危険性」に対して、何故アジア諸国だけでなく、アメリカやヨーロッパのメディアが「懸念」を表明しているか、僕らはその理由についてよくよく考えてみるべきなのではないか。
 安倍内閣の防衛大臣は、おそらく自分のことを「愛国者」だと思い、もしかしたら「悦に入っている」かも知れないが、「国賊」発言のうちに無意識であるかも知れないが、「国益」優先=「戦争(侵略)」公認=覇権主義の考えがあるとすれば(そのような思想の持ち主だから、ネオ・ナショナリストの安倍首相が防衛大臣に選んだのかも知れない)、立場を変えればそれもまた「国賊」になるのではないか、と思う。
 ことほど左様に、「国賊」などという前世紀の遺物みたいな言葉は使うべきではないのだが、この議論の前提にある「尖閣諸島」問題に対する僕の考えを念のために言っておけば、この欄でも何度も言及してきたことだが、僕は「竹島」に関しても同じだが、歴史的に「奪い・奪われ」の関係にあった問題の「離島」は、全て「共有地(共同管理地)にして、そこに何らかの「利権」があるのであれば、原則的には「半々」にすればいい、と考えている。
 家人が好きで一緒に見ている「韓流歴史ドラマ」では、よく「占領地・被占領地」が出てくるが、歴史的には領土(国境)などあっちへ行ったりこっちへ来たりしていて、そのようなことは「当たり前だった」ことが分かる。そのことを考えれば、戦後パレスチナの地に建国されたイスラエル似たいsてどう考えるか、ということがあり、また北方領土、尖閣諸島、竹島の問題も「戦後」の冷戦構造から生み出されたものとして考え、文字通り解決していない「係争地」と該当するする国が考え、その考えに基づいて「許侑」すればいいのではないか、と思う。もちろん、今の安倍内閣や日本維新の会の石原慎太郎などは「中国敵視」を基に尖閣諸島問題を考えているとしても、そのような「偏頗」な「戦争」へとこの国を導くような「政治」ををどんなことがあっても排することこそ、「愛国」なのではないか、と特にそう思う。
 僕らは、「国賊」なる言葉を怖れず、声を上げ続けるべきだと思う。何しろ、先の総選挙の結果、国民の40パーセントぐらいしか自民党を支持していないこと、このことを肝に銘じて、自分を信じて前に進むしかないのだから。
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新著について、その他

2013-01-16 06:28:24 | 仕事
 昨年の連休明けから書き始め、昨年の秋、一応「下書き」を書き終えた『文学者の「核・フクシマ」論―吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』(仮題)の、昨年暮れから始まった書き直し=修正作業がようやくこの3連休で終わり、無事出版社に原稿を渡すことができた。
 この新著は、大江健三郎の「反核」(小説やエッセイ、講演、集会での発言、等)を歴史的に辿りつつ(鏡にして)、ヒロシマ・ナガサキを体験したこの国の文学者の「反核」運動への関わりやその「反核」意識(思想)の歴史を探り、そのことを基に吉本隆明や村上春樹の「核・フクシマ」論批判を中心に展開したものだが、書き直し=修正作業を通じて改めて思ったのは、この国の文学者たちは、大江のように持続的にヒロシマ・ナガサキや「核」問題にこだわり続けた人がいる一方で、吉本や村上春樹といった「大物=著名な思想家・詩人や作家」が、時流に流されいい加減な発言を繰り返す人もいた、ということである。
 つまり、吉本のように、80年代初めの「文学者の反核運動」を批判した『「反核」異論』(82年)以来、亡くなるまで(1昨年の3月16日まで)「毎日新聞」や「日本経済新聞」「週刊新潮」などのインタビューに応じて、すり切れたレコードのように「科学は進歩する」「原発問題(事故)は科学技術によって乗り越えることができる」核廃棄物など(ロケットに乗せて)宇宙廃棄すればいいのだ」というようなことを繰り返し、これは余り知られていないことだが、原発を作り続けてきた電気事業連合会(傘下の組織)が発行している「原子力文化」に登場して、原発容認・推進の「旗振り役」を買って出たこと、及び村上春樹が、これはこの欄で何回か言及してきたことだが、彼の「反核スピーチ=核・フクシマ論」のいい加減さ、「あざとさ」「ためにする発言」などについて疑義を挟んだのが、新著というわけである。
 この新著の底意には、フクシマが起こった直後は、日本ペンクラブやその他の文学者団体、個人が「反原発・脱原発」の声を上げたが、フクシマから2年近くが経つ今日において、文学者によるその種の発言は影を潜めるようになり、文芸各誌を見ると、フクシマ以前と同じような、新編雑記に近い作品や、SF的な作品によって誌面が選挙されている印象しか持てない状況がある、と自分では思っている。
 これは、おそらく先の総選挙では「牙=原発再稼働・原発の新増設容認」を隠し、原発問題の争点をぼかしながら、選挙で大勝したら、「景気回復=経済対策・アベノミクス」の陰に隠れて、たちまち「原発再稼働」「原発新増設」「原発輸出」(この原発を開発途上国にうるという方針は、前の民主党政権でも言っていたことで、民主党の脱原発政策の矛盾を象徴するものであった)、「六ヶ所村の再処理工場の存続」「増殖炉もんじゅの継続」等々を公言し始めた安倍政権の「核」政策に、気分として同調するものが文学者の中に存在するからだろう。
 つまり、フクシマは今や「風化」状態に追いやられているのではないか、という危機感が新著を書かせたということだが、それにしても十数万人が未だに避難生活をしているフクシマが「経済優先」の国民感情の下で「風化」の危機にあるというのは、日本という国に対して心の底から「絶望」せざるを得ない。もちろん、その「絶望」はフクシマの「風化」から生じただけではない。中国に対する「敵愾心」を前面に押し出したような「日本を取り戻す」という訳の分からないスローガンで選挙に大勝した自民党と、そのような自民党に「カネ=経済」の問題を最優先させて1票を投じた国民の在り方もまた、「絶望感」の因である。
 僕としたら、自民党に1票を投じた人が皆「憲法改正=戦争是認」思想を持っているから自民党に投票したのだとは思いたくはない。しかし、選挙という民主主義を支える制度の下では、「選挙に勝利したのだから、故に国民からの信託を得た」ということになり、憲法改正でも国防軍の設置でも、何でも自在にできるということになり、そこにこの国の「危うさ」を感じるのだが、何ともやりきれない気持である。
 この僕のやりきれなさは、新著の中で吉本隆明批判、村上春樹批判を通じて寄り具体的に「批評」行為を通じて表明しているので、本の刊行が間近になったら内容を紹介するので、是が非でも新著に目を通してもらいたい、と思っている。
 よろしくお願いします。
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「近代」は終焉したのではなかったのか?

2013-01-08 06:05:58 | 近況
 新しい年を迎えて1週間、例年と違っていたのは、新潟大学に留学している武漢の教え子(修士課程3年生)が8人、3泊4日で「論文指導」を受けに拙宅にやってきたことだが、慌ただしい毎日を過ごしながら、この春の刊行を目指して喫緊の問題になった吉本隆明と村上春樹の「核・フクシマ論」批判を中心とした文学者の「核」への対応をまとめていて気付いたこと、それは「悪しき近代主義」がまたぞろ復活してきているのではないか、ということであった。
 「悪しき近代主義」、それは吉本の原発擁護論に象徴されるような「(近代)科学は永遠に進歩・進展する」といった「科学神話」がフクシマの「復興」や原発の再稼働と共に語られるようになったことと、「アベノミクス」などという財界・経産省主導の「経済再生論=金権主義」が大手をふるって罷り通るようになったこと、及び明治新政府が掲げた「富国強兵」が如実に物語る「覇権主義=帝国主義」の復活を思わせる軍事力増強と外交政策、つまりこの国の「右傾化」が当たり前のように言われるようになったことである。
 これらの3点の「悪しき近代主義」について、足早に「批判」の骨子を述べておけば(たぶん、今年はこの問題にずっとこだわり続けなければならないのではないか、と思っているので)、まず第一の「科学神話」の横行についてだが、これは先の衆院選で国民の混乱・混迷を利用して300議席を獲得した自公政権が、公明党の「反原発」論を押し潰して既存原発の再稼働を目論むだけでなく、新増設も視野に入れるという、まさに15万人以上が未だに避難生活を強いられてるフクシマの現実を蔑ろにする動きが活発になっていることに象徴される。
 このことは、フクシマが「風化」しつつあることの現れでもあるが、原発の再稼働にしろ、あるいは新増設の目論見にしろ、「悪しき近代主義」と思われる第二の問題である「経済再生」という名の「金権主義」と密接な関係にあり、いずれも経済界・経産省主導で行われていることであり、果たしてフクシマを忘れて僕らの「未来」はあるのかと思うと、現在が如何に「刹那主義=ニヒリズム」に陥っているかを象徴しているのではないか、と僕には思える。多くの人が指摘しているように、既存の原発敷地に活断層が走っているのを知りながら、「経済=電力供給」という大儀面分によって原発を作り続けた自公政権(及び、フクシマが起こる前は原発建設を推進しようとしていた民主党)の「復権」は、まさに眼前の利益しか考えないニヒリズムそのものである。
 見せかけとしか思えない「豊かな」生活のために、僕らは果たして「未来」を売り払っていいのかどうか、僕ら一人一人が根本からこの問題を考えなければ行けないのではないか、と今は痛切に思っている。前にも尖閣諸島問題で「怪しくなった」日中関係に関わって書いたことがあると思うが、「内憂」を「外患」を作り出すことで凌ごうとする手法は、例えばあの「9・11」の同時多発テロのあとアメリカがイラク戦争を始めたことを見れば分かるように、各国の外交が取る「古い」手法だが、「景気回復」と裏表の関係にあるように見える「国家主義=覇権主義」の横行も、実は国内危機の表れだとしたら、僕らは安倍第二次政権に期待するような風潮は、厳に戒める必要があるのではないか、と思う。今(目の前のこと)さえよければ、「未来」など関係ないというのは、まさにビジョン無き今日そのものの姿であるが、それもまたニヒリズムの表れだとしたら、何ともやりきれない気持にさせられる。
 いずれにしろ、安倍新政権になって明らかになった「復古調」は、本来の意味における「民主主義」「個人主義」「生命主義(人間尊重主義)」を基底にした「近代」とは別物であることを明らかにするもので、かつて「ポスト・モダン」論議が盛んであった時代に(それはまさに「近代の終焉」を巡って論議されたものであった)否定された「進化し続ける近代」、つまり「悪しき近代」の再現でしかないことを、僕らはもう一度思い出し、その上で「近代後(ポスト・モダン)」にはどのようなビジョンを描くことができるのか、を考える必要があるのではないか、と思う。
 そうでないと、年の初めから様々なメディアを通じて流される安倍新政権の「バラ色の未来」というデマゴギー(嘘)に僕らは対抗できないのではないか。つまり、安倍新政権や今度の選挙で伸張した石原慎太郎・橋下徹「日本維新の会」に対する「イヤーな感じ」、あるいは「不安」はどうしたら解消できるのか、そのような岐路(決断するとき)に僕らが今立っているということを自覚しなければならない、ということである。
 何とも「憂鬱」な日々がこれからも続くのだろうと思うと、「戦後民主主義」の下で「殺すな!=平和主義」を暗黙の前提で育った世代としては、蔓延するニヒリズムに抗して頑張らねばと思う。
 なお、このブログは、ずっと以前に言明したが、理想としては『水滸伝』の「梁山泊」のような場になればいいと考えているので、読者の皆さんには「自由」にこの欄を使ってもらいたいと思っています。ただし、「匿名」(個人情報を明らかにできない事情を持っている人は、どうぞあらかじめその旨伝えた上でなら、「匿名」でも構いません)で、「誹謗中傷」を目的としたものは、これも再三再四言ってきているように消去しますので、ご了承ください。
 では、今年もよろしく。
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明けましておめでとうございます

2013-01-01 05:51:23 | 近況
 昨年は、久し振りに外国(中国・武漢)で教師生活をするなど、個人的には起伏に富んだ年でした。
 今年も、3月と9月に中国(武漢)を再訪することが決まっており、忙しい1年になるのではないかと思っているが、昨年末の衆議院選挙で自民党が圧勝したという結果を考えると、果たして日中関係が昨年と同じようなものであるか、不確定要素が多く――7月の参議院選挙までは、安倍首相は「タカ派」色を出さないようにしているようだが、もし仮に参議院選で自民党がまた圧勝したら、中国と日本の関係はどうなるか分からない――、安倍政権の出方によっては、中国にいる10万人以上の在留邦人がどのような扱いを受けるか、全く分からず、従って僕が9月に武漢を再訪することができるかどうか。
 もし9月以降、中国へ行くことがままならないとしたら、個人的には先の総選挙で自民党に1票を投じた人に対して、その「経済再生=金儲け主義の復活」を見抜けなかった浅はかさを「絶望」的な思いで嘆くしかないのだが、民主党政権下で増してきた「閉塞感」を安倍自民党や石原慎太郎・橋下徹の日本維新の会といった「右派」を支持することで突破(解消)できると思った日本人の国民性に対しても、また「絶望」的にならざるを得ない。
 安倍政権(とその支持者)の在り方に対して、年頭から「上から目線」で言わせてもらえば、昨年末に福島(大事故を起こした原発も)を訪れ、フクシマの復興を声高に言い放つ一方で、原発の再稼働や新増設を公言するという、何とも奇妙な(矛盾した)安倍政権の原発=エネルギー政策は、「美しい日本の実現」などときれい事を言っていながら、実は「目先の利益」しか考えていない刹那主義(この社会に蔓延する「ニヒリズム」と言ってもいいが、安倍首相は全くそのことに気付いていない)としか考えられず、これまた「絶望」的にならざるを得ない。活断層が縦横に走る敷地(僻地)に原発を作り続けてきた自民党は、フクシマに対してどう思っているのだろうか。もし仮に、もう一度この国のどこかで「フクシマ」が起こったら、と思うと、「蛙の面に小便」の自民党ではあるが、許せないと思う。
 こうなれば、7月の参議院選挙で自民党に苦汁を飲ませるしかないと思うが、果たしてそれが可能か。僕としては、「民意」を信じるしかないと思っているのだが、どうなることやら……。
 さて年頭から「暗い」話になってしまったが、批評家としての僕の仕事に関して言えば、今年は、刊行は春先になるのではないかと思うが、昨年1年断続的に書き継いできた吉本隆明と村上春樹の言説批判を中心とした、文学者の「核・フクシマ」論について論じた『反核(反原発)と文学者―吉本隆明・村上春樹・大江健三郎』(仮題)をできるだけ早く仕上げることを皮切りに、ここ10年ぐらい求められるままに書いてきた原稿(井伏鱒二と「戦争」との関係を論じたもの)を整理し、刊行したいと思っている(たぶん、7月初め頃には本になるだろう)。
 他には、「1大学教師が見た中国」といった本の執筆を頼まれているということがあり、それは秋頃までには仕上げたいと思っている。予定では1年に3冊も自著を上梓することになるが、果たして実現するかどうか。ただ、これは年頭にあったっていつも考えることなのだが、あの60年代末から70年代初めの「政治の季節」も青春を送った者として、どのような形で「世代としての責務」を果たすか、それは批評家としての僕にとって、「時代との関わり」を見失うことなく文学の在り様を考えていくことだと思っているのだが、「持続する志」ということを忘れず、ニヒリズムに陥ることなくただひたすらに書き続けるしかないのではないか、とも思っている。ただ、出版不況と同時に進行している「電子書籍」の普及で、読書環境は近年著しく変わってきている。僕のような者の本が今後も出続けるためには、購買者が増えることが必須である。どうぞ、僕の本を店頭で見かけたら、手にとって欲しい(図書館にリクエストしてくださってもいいのですが)、と切実に思っています。
 そんな僕の思いを内在化させてこの「ブログ」は書いているつもりだが、読者の存在が「持続」の励ましになってきたことは確かで、その意味では一度でもこのブログを訪れてくれた人に感謝、と思っている。
 今年もどうぞよろしくお願いします。
 窓の外にはきれいな青空が広がっており、「初日の出」も眺められます。
 もう一度、明けましておめでとうございます。
 では、また明日以降、お目に掛かりましょう。
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