黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

国威発揚?

2008-08-20 06:20:09 | 近況
 北京オリンピックも開幕から10日以上経って、もう終盤に入ったのではないかというような気持になっているが(それは、もう早く終わって欲しいという気持ちの表れと言っていいかも知れない)、何故そのような気持ちになるかと言えば、オリンピック報道に狂奔しているマスメディアの過剰と思える「国威発揚」意識に、もううんざりしているからに他ならない。
「国民すべての期待を背負って」とか「日の丸のために戦っています」とか、「国民のすべてが応援している」というようなアナウンサーやコメンテーターの言葉を連日聞かされ、かつその反面「他国」(特に開催国の中国)を貶めるような発言を平気で行う彼らの姿を見ていると、だんだん「おぞましい気分」になってきてしまい、最終的にはチャンネルを換えることも、この頃はしばしばである。「オリンピックはまさに国債<政治>そのものである」と言ったのは、確かスポーツライターの玉木正之だったと思うが、その言葉を地でいくような「国威発揚」発言、その返す刀で「平和の祭典・オリンピック」などと平気で叫ぶ彼ら、日本のマスメディアはそんなに「ナショナリスト」が多かったのか、と思わずチャリ(ツッコミ)を入れたくなってしまうが、そのような「熱狂的」なオリンピック報道の蔭で、相変わらず「サピオ」などの右派ジャーナリズムは、「ナショナリズム」意識が高揚しているこの際にとばかりに「反中国キャンペーン」を大々的に繰り広げている。
 それらのことと深く関係しているのだと思うが、もう一つ気になって仕方がないのは、選手個々の能力を過大に評価した揚げ句に「大きな期待」を強制することである。例えば、女子マラソンの土佐礼子選手が10キロ過ぎから顔をゆがめながら走り続ける姿に対して、素人だってもう彼女はダメだ、リタイアした方がいいと思っているのに、マスメディアの側は誰一人「もうやめた方がいい」と言わなかったのも、彼女の足の外反母趾が悪化しているということを知りながら、彼女に「過剰な期待」を寄せていたからではないか。そこで思い出すのが、近代オリンピックの開催に貢献したとされるクーベルタン男爵の、「オリンピックは、参加することに意義があるのだ」という言葉である。いささかカビの生えた言葉だとは思うが、「政治」=ナショナリズムと「商売」がこれほどまでに全面に躍り出たスポーツの祭典に対して、原点に返るべきではないか、という「田作の歯ぎしり」ならぬ「田作のつぶやき」を漏らし、天の邪鬼の存在を知らしめるのも一興かな、と思ったのである。
 まだまだ、競技は最終の男子マラソンまで続く。終わるまで、ニュース番組までジャックしたオリンピック報道に対応しなければならないのかと思うと、やはり「うんざり」してしまう。「国」を背負わされた選手たちに同情しながら……。