黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「部落解放文学賞」の選考

2007-03-30 17:10:41 | 仕事
 昨日から、「解放文学賞」(小説部門)の選考をしている。最終選考に残った100枚前後の作品を3作読むだけだから、実際の時間はそんなに長くはかからないのだが、文学賞に応募した人の気持を考えると、当然のことだが粗末に扱うわけにはいかない。
 今年で33回を数える「解放文学賞」だが、小説部門の選考は立松和平氏と二人でやっている。二人、と言っても、実は僕が選考委員になったのは昨年の32回からで、立松氏に頼まれて引き受けたものである。小説の新人賞については、大学院のころから「すばる文学賞」の下読みを15年ほど続け、その間に「小説現代新人賞」や文京区文学賞の下読みなどをやった経験と、昨年秋の「前橋文学館賞(現代詩)の選考委員をしたりしていたので、おおよそのことは理解しているつもだったのだが、「解放文学賞」の場合、作品の中に問題・人権問題が絡んでくるので、そのことと表現の水位との関係で、いろいろ考えさせられてしまう。明日(3月31日)東京で選考会があるので、その準備を今しているということです。
 今回の受賞作はまだ決まっていないので選考の詳細については書くわけにはいかにが、今回の3作とも結構よく書けているという印象を受けた。もちろん、紋切り型の発想に縛られているようにみえる部分もないわけではないが、新しい才能に出会うのは楽しいものである。
 結果については決定してから発表しましょう。秋には入選作の載った「解放」の臨時増刊号が出るので、それを見てほしいのだが、それと共に小説を書くことに興味のある人は、ぜひ「解放文学賞」に応募してみてはどうだろうか。待っています。

荒れた光景

2007-03-29 09:07:44 | 近況
 春休みになって、終日自分の時間が持てるようになったので、約束していた「村上春樹」の新稿を1日10~15枚ぐらい書き継いでいるが(昨日は、一昨日書いた1日分の原稿が保存しておいたはずなのに、どこかへ消えてしまい「書き直し」を強いられ、大変だった)、その合間に近くを散歩し、ようやく膨らんできた桜のつぼみがいつ開くのか楽しみにしている。河畔に植えられた数十本の桜が満開になると、えも言われぬ華麗さで、毎年楽しみにしているのである。
 とは言え、それとは別に、散歩していて気付かされるのは、年々、純農村地区と言っていい我が家のまわりの景色が「荒れて」きているということである。減反政策による休耕田に雑草が繁茂している(現在は枯れ草になっているが)のは相変わらずだが、住宅のまわりに家庭菜園風に作られている野菜畑も、大根やら白菜やらが収穫されぬまま放置されている様は、「食」に対する意識が減衰している結果なのではないかと思われ、「荒れた」印象を強めている。
 昨年の今頃はスロベニアで過ごしていたのだが、宿舎のまわりを散歩していて気付いた家庭菜園の手入れのこまやかさを思い出し、「豊か」とか「貧乏」だとかのレベルを超えて「食」に対する考え方が根本的に違うのではないか、と思わざるを得なかった。スロベニアの畑は石ころだらけだったが、決して「荒れた」印象はなかった。作物が収穫されぬまま放置されているなどという光景は、どこにもなかったからかもしれない。
 そこで思い出すのが、若かりし頃の立松和平の閉山後しばらく経った足尾銅山の街の様子を描いた「荒れた光景」という中編のことである。鉱山労働者が新しい職場を求めて去って行ったあとの坑夫長屋、店じまいした店、小説は死んでいく町に抗して何とか頑張ろうとする若者の様を描いたものであるが、我が家のまわりを見ていると、この地域だけでなく、日本という国そのものが「荒れた」ものになっているのではないか、と思わざるを得ない。「地方の時代」とか、「これからの地方行政はハードよりソフトを」といった言葉が空しくなるような、地方の疲弊=荒れた光景、本当に今こそ「オルタナティヴ=もう一つの生き方」を考えなければならないのかもしれない。
 6月に刊行が予定されていた『林京子論―「ナガサキ」・上海・アメリカ』の骨格がようやく決まった。
 ・版元:日本図書センター(「林京子全集」の版元)
 ・価格:2600円
 ・版型:A5版240ページ
 ・装丁:司 修      *詳細について、また次の機会に。
 今は、「書くこと」を通して、オルタナティヴの可能性を追求していきたいと考えている。このささやかなブログの読者の皆さま、今度の「林京子論」は様々な僕の思いが詰まった本になっているはずです。ぜひ、お読みになってほしいと思います。
 よろしくお願いたします。

批評(批判的精神)の衰退

2007-03-25 11:27:10 | 近況
 統一地方選挙の報道が過熱するようになってから、ずっと気になって仕方がなかったのは、なぜ人は政治家を目指すのかということであり、「無党派層」とか「政党支持なし層」とかいうものの存在についてである。前者についていえば、「戦後レジームからの脱却」などという歴史から何も学ばない空疎なスローガンを掲げている総理大臣の存在が象徴するように、あるいは「オリンピックを招致して、国民を元気づけたい」という大きなお世話的な言葉を吐く都知事が体現しているように、どうも「政治」の世界から現状(現実)を批判して人々をより「豊か」(経済的にも精神的にも)にする「理想」が消滅しているように思えてならない。
 現実追随主義という名の「ニヒリズム」が蔓延している世相を反映しているのかもしれないが、批評・批判が衰退した世界は、早晩頽廃と堕落が横行するようになる(今もそうなのかもしれない)。なぜ、「ワーキングプアー」と呼ばれる人々や、低賃金で働かされている「フリーター」(派遣・契約社員)と呼ばれる人たちは、この現実を批判しないのか。あるいは、それらの予備群でもある学生たちは声を上げないのか。
 たぶん、このような現実と連動しているのだろうが、「無党派層」と呼ばれる人たちの「無責任さ」もまた、問題にしなければならない。既成政党に魅力がないというのは理解できるが、だからと言って、「権力」に阿るような(無批判な)態度は、彼らもまた「理想」を失った結果としか思われない。例えば、先日ある新聞に出ていた都知事選の傾向で、あの「ババー発言」を行った石原慎太郎を女性(特に中年女性)が支持しているというのである。思わず、あなたたちはマゾか、と言いたくなってしまった。「作家」だというのに、都立図書館を縮小したり、都立病院を「統合」の名で縮小したりする、「強者」が大好きな石原慎太郎、オリンピックよりも墨田川河畔や多摩川の河川敷に増える青テントの住人に対する対策(強権的なものではない)のほうが大切だと思うのは、「弱者」の僻みか?
 ともあれ、統一地方選はいい機会である。今一度、冷静になって「想像力」を働かせ、自らの持つ「批評力」を発揮する必要なあるのではないか、と思う。

今日は卒業式でした。

2007-03-23 15:14:01 | 近況
 今日(3月23日)は大学の卒業式(大学院は修了式)でした。昨年はこの時期スロベニアのリュブリャーナ大学で授業をしていたので、2年ぶり尾の卒業式ということになるが、毎年この時期になると、自分が大学のときは卒業式も入学式も経験しなかったので、なんとも言いようのない不思議な気持ちになる。「儀式」というものが本質的に好きではないからかもしれないが、どのような顔をして「式典」に参加したらいいのかわからなくなるからである。卒業生(修了生)のために、という名分を自分に言い聞かせて出席しても、決して居心地が良い訳ではない。年々学生との「濃密」な関係が築けなくなったせいなのか、それとも卒業したら「はい、さようなら」という学生たちが増えたせいなのか、その点は定かではないが、どうも汲々とした社会のあり方と関係しているようである。昔、僕らのころは「包丁一本さらしに巻いて」という歌の歌詞にかこつけて、「(卒業)証書一本さらしに巻いて、どこへ行くのも風任せ」などと嘯く学生がたくさんいたが、いまは卒業までに就職しなければと焦っている学生の姿を見たり、いい成績をとっていい会社に入って、というような風潮が蔓延している現実に接していると、悲しいかな、卒業式という「儀式」に虚しい風が吹いているように思えてならない。
 これもみな文学と「儀式」が相容れないものだからかもしれない。
 卒業式が終わると、入学式までの短い春休み。のんびりできるかと思うと、さにあらん、たまった原稿を書くのと、新著の刊行に関する作業が待っている。暇な時間がほしいのに…。

現代文学は衰退しているか?(1)

2007-03-21 06:39:58 | 文学
 先日、長く文芸誌の編集者をしていた某氏と現代文学の在り様について話す機会があった。その折、主に話題になったのは、現代文学に「社会批評」「文明批評」的な要素が希薄になってきているのではないか、ということであった。北村透谷を嚆矢として夏目漱石や島崎藤村らの文学が、通奏低音としてその作品や言説に響かせていた「権力=国家」やその時代の風潮(道徳・モラル)に対する「批判」が現代文学にみられない、というのである。某氏は、だから「読んでもつまらない」「何のために書いているのか分からない」と言うのである。その意見に僕も同感したのだが、批評家の端くれとして、では自分の書くものは、と自問せざるを得なかったのだが、何の変哲もない「ニート」の世界を扱った青山七恵の『ひとり日和』が芥川賞を受賞しベストセラーになる状況の中で、「戦争」や「原爆」(『戦争は文学にどう描かれてきたか』『原爆は文学にどう描かれてきたか』2005年 八朔社刊)や「魂の救済」(『魂の救済を求めて―文学と宗教との共振』06年 佼成出版社刊)を書いたのは間違いではなかった、と思ったが、果たしてその内実はどうなのか。
 そこで思い出すのが、村上春樹の作品が次々とベストセラーになっていた80年代後半、大江健三郎が「彼の作品は歴史や時代に対して消極的にしか対応していない」旨の発言をしたことである。あれから20年、現代文学はみな村上春樹調になってしまっているのかもしれない。それを肯定する読者と批評家。どこかおかしいのではないか。
 だからこそ、強権的にふるまう石原慎太郎のような「ファシスト・ナショナリスト」的な人物が、東京都の知事として好き放題のことを行い、それが人々から支持されるという珍妙な現象が起こっているのだろう。在日外国人に対して、女性に対して、あるいはフランス語に対して、まったく「無知」から来る発言をしても、あるいは海外出張と称して豪遊しても、都民は威勢の良い発言に惑わされて支持を与えている現実は、傍から見ていて不思議でしょうがない。この前テレビで「日の丸・君が代の強制」について、「国が決めたのだから、学習指導要領に書いてあるのだから」と言っていたが、「国が決めた」ことはなんでも唯々諾々と従わなければいけないのか、批判する自由はないのか、それに不服従を示せば罰せられるのか、石原慎太郎は作家だというが(懐かしいな、『太陽の季節』で芥川賞を受賞した頃が)、そういえば彼の小説は、初期こそ体制に対する反抗はあったが、それ以降は「デカダンス」か「自己肯定」しか見ることができなくなったことと、「右翼政治家・石原慎太郎」は関係しているのだろう。
 現代文学から「社会批評」「文明批評」が消えたことと石原慎太郎人気とは、どこかで連動しているのかもしれない。そこのところを見据えて、僕も批評を続けていかなければ、……。

現在進行中

2007-03-20 08:55:11 | 文学
 いま、請われて「再刊」することになった『村上春樹―ザ・ロスト・ワールド』(89年)のために書き下ろす「新稿」(100枚ほど)に必要な90年代以降に書かれた村上春樹の作品を必死に読みなおしている。93年に「増補改訂版」(第三書館)を出した時に明言しておいたことだが、90年代以降の村上春樹は明らかに「転換」(変身)した。今度の「新稿」は、それがどのようなものだったのかを具体的な作品に即して明らかにするものになる予定である。
 版元からは「まったく新しい村上春樹論を」と言われたのであるが、読み返してみて『風の歌を聴け』から『ノルウエイの森』『ダンスダンスダンス』までを論じた前著『ザ・ロスト・ワールド』の読みに変更を認めることができなかったので、「新稿」をプラスして、僕なりの村上春樹文学における「定本」を作ろうと思ったのである。「新稿」では、たぶん村上春樹「評価」と「批判」が相半ばするような文章になると思っているが、「批判」に関して言えば、『海辺のカフカ』を中心とした小森陽一の『村上春樹論』(平凡社新書 06年5月)があるが、それとは別な角度(それは本ができた時の楽しみにしてください)からの「批判」になると思う。
 今や日本を代表する(と言われている)村上春樹の文学に関して、「オマージュ」を捧げるのではなく、「正当」に批判し、その欠点を指摘することは同時代を生きる批評家としての責務なのではないか、と前著を上梓してから15年あまりずっと考えてきました。その結果は、今度の「新稿」で明らかにしますが、どんな批評が展開できるか、自分でもワクワクしています。
 乞うご期待! です。

あったという間に、3月も終わり。

2007-03-19 17:46:59 | 近況
 年が明けたと思ったら、あっという間に3月も終わりに近づいてきてしまいました。大学の教師にとって、1月、2月は「師走」だという同僚の言葉が身にしみた2ヶ月でした。卒業論文の審査、修士論文の手入れ、そして様々な書類作成。
 そんな業務に輪をかけたのが、博士課程の山川恭子さんが手がけてきた「戦前期サンデー毎日・総目次」(全3巻・75000円・ゆまに書房刊)の仕上げ。監修者としてほっとくわけにもいかず、「序」を書き、全部で20年以上にわたる「サンデー毎日」の目次を点検し、さらには版元からの要請で「索引」まで目を通す羽目になったので、忙しさが倍加した感じがしたのかもしれません。「サンデー毎日」の仕事は、昨年刊行した「戦前期週刊朝日・総目次」と対になる仕事で、これまでだれも手をつけなかった週刊誌メディアの全体がこれでわかるようになるものです。本質的にいい仕事で、しんどかったけれど、完成したことを監修者として喜んでいます。
 それに、2月から群馬県大泉町の図書館が主催する「読書講座」(全4回)を務めたのも、疲労を増した原因かもしれません。1回1時間半という約束ですが、参加者が気持ちのいい人ばかりでしたので、ついつい時間を忘れ、毎回3時間ぐらい話をしてしまいました。取り上げた作家と作品は、第1回「ノルウエイの森」(村上春樹)、第2回「太陽の子」(灰谷健次郎)・「水滴」(目取真俊)、第4回「懐かしい年への手紙」(大江健三郎)。
 読書とは何か、という問いに答える形で昨年秋山本順一先生と共編で「読書と豊かな人間性」(学文社)の原稿を80枚ほど書いたことの実践編として前から頼まれていた大泉図書館で「読書講座」を実施したのです。
 さらに付け加えれば、ようやく自宅にネットを入れました(このブログは家で書いています)。これからはまめにブログが書けるのではないかと思っています。ご期待ください。
 疲れたので、また明日。

あったという間に、3月も終わり。

2007-03-19 17:46:51 | 近況
 年が明けたと思ったら、あっという間に3月も終わりに近づいてきてしまいました。大学の教師にとって、1月、2月は「師走」だという同僚の言葉が身にしみた2ヶ月でした。卒業論文の審査、修士論文の手入れ、そして様々な書類作成。
 そんな業務に輪をかけたのが、博士課程の山川恭子さんが手がけてきた「戦前期サンデー毎日・総目次」(全3巻・75000円・ゆまに書房刊)の仕上げ。監修者としてほっとくわけにもいかず、「序」を書き、全部で20年以上にわたる「サンデー毎日」の目次を点検し、さらには版元からの要請で「索引」まで目を通す羽目になったので、忙しさが倍加した感じがしたのかもしれません。「サンデー毎日」の仕事は、昨年刊行した「戦前期週刊朝日・総目次」と対になる仕事で、これまでだれも手をつけなかった週刊誌メディアの全体がこれでわかるようになるものです。本質的にいい仕事で、しんどかったけれど、完成したことを監修者として喜んでいます。
 それに、2月から群馬県大泉町の図書館が主催する「読書講座」(全4回)を務めたのも、疲労を増した原因かもしれません。1回1時間半という約束ですが、参加者が気持ちのいい人ばかりでしたので、ついつい時間を忘れ、毎回3時間ぐらい話をしてしまいました。取り上げた作家と作品は、第1回「ノルウエイの森」(村上春樹)、第2回「太陽の子」(灰谷健次郎)・「水滴」(目取真俊)、第4回「懐かしい年への手紙」(大江健三郎)。
 読書とは何か、という問いに答える形で昨年秋山本順一先生と共編で「読書と豊かな人間性」(学文社)の原稿を80枚ほど書いたことの実践編として前から頼まれていた大泉図書館で「読書講座」を実施したのです。
 さらに付け加えれば、ようやく自宅にネットを入れました(このブログは家で書いています)。これからはまめにブログが書けるのではないかと思っています。ご期待ください。
 疲れたので、また明日。