黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

これでいいのか?――アメリカ属国化(本土の沖縄化)が進む

2014-07-22 05:03:16 | 近況
 ここ何日かのマスコミ報道「オスプレイ、厚木基地へ」とか「オスプレイ、本土で訓練」、あるいは「自衛隊にオスプレイの購入計画があり、佐賀県にその基地を置く」などを見ていると、集団的自衛権行使容認論の「もう一つの顔」が見えてきたような気がする。
 つまり、安倍「極右」内閣は、集団的自衛権行使容認について「積極的平和主義」の一つの表れであり、(「世界の警察」米国の要請を受けて共同行動を取るということだから)格段に「抑止力」が高まり、「世界の平和」に貢献する、途説明してきたが、自民党・公明党による「出来レース」の結果集団的自衛権行使容認が「閣議決定」されるやいなや、アメリカ本土で「危険きわまりない飛行機(ヘリコプター)だから、都市の近くでは訓練しない」と言われてきたオスプレイの訓練を日本各地で行う、という何とも日本国民を馬鹿にした日米共同作戦を実施した。

 僕が住む群馬県でも、自衛隊第12師団が駐屯する榛名山麓の「相馬が原」(昔の人は、「ジラード事件」という砲弾の破片を射撃訓練場に拾いに行った農婦が、若い米軍兵士に射殺されるという事件を覚えているかも知れない)を抱える榛東村が、自衛隊からの交付金を目当てに早々と「オスプレイの訓練受け入れ」を決めた。たぶん、オスプレイが相馬が原で訓練を始めれば、当然我が家の頭上にも飛来し、いつ落ちてくるか、という「恐怖」を日常的に感じなければならないということになる。そうでなくとも、最近は第12師団所属かどうかは不明だが、明らかに輸送用と思われる大型のヘリが我が頭上を飛ぶことが多く、家人と「何だか沖縄みたいで、嫌だね」と話したこともあり、こんなことからも「戦争が露出してきている」と実感するのだが、それやこれやを総合して考えると、特定秘密保護法の制定や集団的自衛権行使容認など一連の「極右」的政策は、どうやら>「ナショナリズム」の皮を被った「対米従属=アメリカの属国化」政策>なのではないか、と思えてきた。
 そう言えば、安倍「極右」首相のお祖父さん岸信介も、戦後史の結節点であったといわれてきた「60年安保」において、アメリカへの従属を強化する日米安保条約の締結に「反対」する多くの「国民の声」を無視して、国会で「強行採決」したが、お祖父さんのDNAを誇る(?)安倍「極右」首相も、岸信介(日米安保条約)が敷いたアメリカへの従属路線をさらに進めて、「属国化」を謀っているようにしか見えない昨今の動向、僕は何度も自分はナショナリストではないと言ってきたが、その僕があきれるような「アメリカ属国化政策」、何ともやり切れない。
 しかも、それが「沖縄の米軍基地負担軽減策」の一環だ、などと言われると、思わず「嘘つけ!」と言いたくなる。つまり、オスプレイの訓練を本土各地で行うのは、「沖縄の負担」を軽減するため、というのがいかに「まやかし」であるか、それは普天間基地の移転させる代わりに名護市辺野古沖に普天間基地よりも大きなアメリカ軍基地を(日本が喜んで)建設する、というところに主張されている。安倍「極右」内閣は、事ある毎に、「北朝鮮の脅威」「中国の軍拡は東アジアの平和を脅かす」、などと喧伝し、集団的自衛権行使容認を強引に推し進めたりしてきたが、中国や北朝鮮(あるいは韓国)などから見たら、歴代保守政権が唱えてきた「日米同盟の強化」宣言だって、「日本(アメリカ)の脅威」であって、日本が東アジア諸国を「挑発」することになるのではないか、と思う。特に、「日本(アメリカ)脅威」論は、中国で2年間生活してきて切実に感じたことで、アメリカ(日本)の軍需産業に後押しされた自衛隊の装備強化(世界で第7位)は、まさに「日本軍国主義の復活」と中国人民の目には映っているようで、日本に友好的な中国人も日本の軍拡(自衛隊の装備強化)については心配していた(憂えていた)。
いずれにしろ、安倍「極右」政権が進めている「対米従属化」路線が、オスプレイの日本本土での訓練が具体化しているように、「日本全土の沖縄化」であるということ、このことについて本土の人間はもっと自覚しなければならないのではないか、とおもう。
 こんなことを書くと、またナショナリストたちから「売国奴」扱いされるが、沖縄の人たちが長い間「反旗地闘争」を行ってきている現実をどのように僕らが考えるか、また「真のナショナリズム」とは何か、を本気で考えた場合、現在の安倍「極右」首相こそアメリカへの「属国化」を進める「売国奴」なのではないか、と思えてならない。
 このところ、前回紹介した拙著『井伏鱒二と戦争――『花の街』から『黒い雨』まで』のこともあって、ずっとアジア太平洋戦争と文学者及び国民(庶民)との関係を考え続けてきたが、権力というのは、「国民」の名において諸政策を行うような「振り」はするが、最終的には「国民」に多くの犠牲を強いるものであること、このことは洋の東西を超えるものであることを、腹の底から理解することができた。
 「戦争」のことを考える「暑い夏」(8月6日・9日のヒロシマ・ナガサキ、8月15日の敗戦記念日)が、まもなくやってくる。僕らは、もう一度「平和とは何か」を深く考える必要があるのではないか、と思えてならない。誰もが「戦争」に関わらざるを得ない「徴兵制の復活」が間近に迫ってきているのだから……。

新著『井伏鱒二と戦争』が刊行されました。

2014-07-19 05:18:07 | 仕事


 予定よりすくし遅れましたが、新著『井伏鱒二と戦争――『花の街』から『黒い雨』まで』(彩流社刊 2400円+税が出ました。
 昨今の厳しい出版事情の下での刊行、版元の英断に感謝するしかないのですが、これまで戦争(アジア太平洋戦争)に「黙って処した」と言われてきた井伏鱒二だが、実は相当に「したたか」であり「しなやか」な精神の持ち主であり、「黙って処した」ように見えながら内実は「戦争」に対する「一つの抵抗」の在り方を示していたのではないか、というモチーフで書かれたものである。 本書は、10年ほど前に「国文学 解釈と鑑賞」に頼まれて16枚ほどの『黒い雨』論を書いたのをきっかけに、井伏鱒二文学研究会の機関誌「尊魚」や広島から出ていた梶山季之――今は忘れられているが、『黒の試走車』などの社会は推理作家として一世を風靡したことのある作家。初期は、広島での被爆体験を基にした作品を書いていた――を記念する期間限定の雑誌「梶葉」などに頼まれて書いた論考に、書き下ろしの論考を2つ加えて成ったものであるが、単行本にするに当たって大幅に改稿し、一つの「作家論」として筋の通ったものにした。
 資料を日本に置いたまま中国(武漢)で改稿していたので、帰国してから資料的な部分で再度改稿しなければならなくなり、それに時間を取られ、当初は6月中に刊行するということで編集者と話していたのだが、2週間ほど遅れてしまった。
 「戦争」に特化して書いた「井伏鱒二論」、どんな内容かと言えば、以下の「目次」でその大筋は分かっていただけるのではないか、と思う。
 <目次>
 序   今なぜ井伏鱒二と戦争なのか?
 第1章 瞋恚(いかり)を胸に、「書くこと」に徹す――「戦争」への処し方(1)
   (1)小林秀雄と「生活者」 (2)「徴用中」の文章 (3)「記録」すること―『徴用中のこ    と』など
 第2章 『花の街』から『遙拝隊長』へ――「戦争」への処し方(2)
   (1)「ペン部隊」、そして「徴用作家」 (2)『花の街』の特異性 (3)『遙拝隊長』
 第3章『徴用中のこと』が孕むもの――「戦争」への処し方(3)
   (1)文学者の「戦争加担」 (2)「徴用」 (39「記録者」井伏鱒二 (4)そして、浮上    してくるもの
 第4章「戦時下の「日常」――「戦争」への処し方(4)
   (1)「従軍」から「疎開」へ (2)疎開生活 (3)したたかに、しなやかに
 第5章 「庶民=常民」の目線――戦中から戦後へ、その「揺るがぬもの」
   (1)「記録者」の眼 (2)持続する「志操」 (39静かなる「瞋恚」
 第6章 原爆文学としての『黒い雨』
   (1)「原爆文学」か「記録文学」か (2)『黒い雨』の「反戦・反核」思想 (3)『黒い     雨』と「被爆者差別」 (5)「風化」に抗する
 第6章補論 『黒い雨』盗作説を駁す――捏造される文学史
   (1)『黒い雨』盗作説を自作自演―豊田清史という歌人 (2)『黒い雨』を巡る豊田清史の言    説批判 (3)谷沢永一・猪瀬直樹の『黒い雨』批判を駁す
 第7章 井伏鱒二と原発――戦後文学史の中で
   (1)プロメテウスの「新しい火」 (2)「安全神話」の崩壊 (3)井伏鱒二と原発
 あとがき
 このうち、第7章については、前著『文学者の「核・フクシマ」論――吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』(彩流社 13年3月刊)を書いている途中で派生したもので、余り知られていない井伏鱒二の「原発』への発言について書いたものである――最初に公にした批評家は、よく知る批評家の川村湊氏であったが、本書を読めば分かることだが、何故か川村氏は井伏鱒二の「原発」発言について、思い違いをしている――。
 また、本書は、第二次安倍政権成立以来の「危うい」右傾化路線が判明するの中で改稿・書き下ろしされたということもあり、「現在」を大いに反映している部分がある。
 僕としては、多くの人に読んでもらいたい本だと思っているのだが、どうぞまずは本屋さんで手に取ってみていただきたいな、と思っています。
 よろしくお願い致します

恐るべし、日本の官僚(機構)

2014-07-11 09:58:04 | 仕事
 仕事の合間を縫って、購入したまま机の横に積み上げておいた「原爆(核)小説」を2冊、池澤夏樹の『アトミック・ボックス』(14年2月 毎日新聞社刊)と差遣の9月に刊行され話題となった若杉冽の『原発ホワイトアウト』(講談社刊)を読み、「3・11」後の政治・社会状況と照らし合わせ、いろいろ考えさせられた。
 池澤のものは、「3・11」(東日本大震災およびフクシマ)の事態に対して一貫して真摯に向き合ってきた作家の作品らしく、物語は、かつて「国是」であるはずの「非核三原則」(核を作らない、持たない、持ち込ませない)を破って、「国家の意思」の下で日本において密かに核開発が進めらたことがあるという設定で、その核開発に従事した技術者の一人が自分の身を守るために、その計画の実態を記した記録を密かに持ち出し、その「秘密」を抱いたまま死に、その技術者の死後、娘(大学講師・生物学者)が「公安警察」を含む巨大な権力(組織)から追われるという「ミステリー」仕立てで、ヒロシマ・ナガサキを経験した日本(国家)の「核」に対するこれまでの対応(扱い)を批判するものになっており、「原爆(核)文学」の歴史に新たな一つを加えた、と言える。
 この小説を読みながら僕が感じたものは、「国家」という存在の恐ろしさであり、「権力」を握った者(指導者)の「欲望」はとどまることがない、ということであった
 若杉のものは、帯や奥付にも書いてあるが東大法学部卒の「現役官僚(キャリア)」が書いたもので、「小説」と名打っているが、小説を書いたことのない人の作品によく見られるように、物語の展開が「ぎこちなく」また「事実」を重んじ「想像力」を軽視した結果なのか、文章に「ふくらみ」が無く、原発に関わる政治家(権力)やそれに連なる「原子力ムラ」の「実態」が暴露されていなければ(帯文にあるように「リアル告発のベル」でなければ)、果たして僕らが普通に眼にすることができたか否か、甚だ疑問に思うような「でき」である。
 ただ、この「リアルな告発のベル」を読んでいて感じたのは、資本主義国家だから仕方がないとは言え、いかにこの国(日本)が「政治(家)」を従属させる形で「金儲け=経済」を最優先させているか、そしてそれらを陰に陽に支えているのは、明治以来の政治機構が育んできた「官僚(組織)」に他ならず、それは「不気味」としか言いようがないものだ、だということである
 日本の「経済界」、「(保守)政治家」、「官僚」というトライアングルは、まず何よりも「体制」の維持を最優先させ、人々(国民)の生活や精神(文化)など何の意味もないとばかりに蹴散らして進んでいくものだ、ということを、この『原発ホワイトアウト」は明らかにしている。
 この『原発ホワイトアウト』を読んで、今更ながら">「背筋が寒くなる」思いをせざるを得なかったのだが、そのことと併せて、安倍「極右」「嘘つき」内閣に関して、多くのマスコミが「安倍晋三首相の個人的信条」を貫き通すために、「特定秘密保護法」を制定し、今度の「集団的自衛権行使容認」の閣議決定を推し進めたのだ、という論調であるが、実はそのような安倍首相の「資質」を利用して、この国の「対米従属」を一層推し進めようとしたのは外務官僚であり、そのような対外政策を下支えするために「アベノミクス」なる「魔術」を生み出したのは経産省などの官僚や経済学者である、という考えも成り立つのではないか、と思わざるを得なかった。
 「国家を自分たちの思い通りにする」と考えている官僚たち、その「野望」がどこから生じるのか、できるだけ「権力」や「組織」から遠ざかりたいと考えてきた僕には、とうてい理解できないことだが、周辺の「力(権力)」という「蜜の味」を一度味わった者が取る態度の「いやらしさ」については、これまでに何度も辟易するという経験をしてきている。
 せいぜい、安倍「極右」「嘘つき」内閣のこれからの動向を監視し、「異議申し立て」をできるところから行い、「小さな声」でも挙げ続けることが必要なのではないか、とあらためて思った
 とは言え、何とも「息苦しい」。

「意外」だったのですね!?――「読売新聞」の世論調査結果

2014-07-04 09:55:26 | 近況
(今日は短く)

 今朝のヤフーニュースを見ていて、思わず笑ってしまったのが、「読売新聞」の世論調査結果に対する、コメント(評価)である。
 世論調査の結果は、新聞各社の世論調査の結果と煮たようなもので、「安倍内閣の支持率 50パーセントを割る」というもので、具体的には「支持率48%・不支持率40%」というものであったが、新聞社を挙げて集団的自衛権行使容認を「支持」したにもかかわらず、結果的に国民の半数以上が安倍内閣を支持せず、当然国民の半数以上が集団的自衛権行使容認も認めていないということである。
 おそらく、この世論調査結果に「社説」を書いた解説委員などは「驚愕」したのだろう、世論調査結果に関する「読売新聞」の解説では、安倍首相の首相特別補佐官の言葉として、「ネガティブな報道が影響したのだろう」を掲げていた。font>
 自分たちの「説明不足」や「強引な論理展開=憲法解釈」を棚に上げて、集団的自衛権行使容認という安全保障体制(国の根幹)を変更するという「暴挙」に対する国民の「否認=批判」をマスコミ報道のせいにする。世界最大の発行部数を誇る「読売新聞」が支持し、また経済人(サラリーマンたち)の多くを読者に持つ「日本経済新聞」が支持したにもかかわらず、国民は安倍内閣が決めた集団的自衛権行使容認に「ノー」を突きつけたのである。

 なお、一言だけさらに付け加えておけば、1日に行われた「日朝協議」にかんして、「生存者名簿」なるものが北朝鮮から提示された、と日本健在新聞が伝えたと言うが、「政府寄り」と言われる「読売新聞」や「日本経済新聞」、あるいは「産経新聞」などのマスコミ報道(記事)をどう読めばいいのか、ますます厳しく私たちは自分の頭と心で「情報」を読み解く訓練をしていかなければならない、という思いを強くした。

集団的自衛権行使容認――「出来レース」を歓迎する二つの勢力

2014-07-03 05:08:42 | 近況
 7月1日に「閣議決定」された集団的自衛権行使容認が、自公両党による「出来レース」strong>であったことについては、与党協議の「議事録」なるものをマスコミが手に入れ、内容が明らかにされたことから確定されたが、「平和の党」を標榜してきた公明党が今年の1月に「連立離脱」を否定したときから集団的自衛権行使容認派は「既定事実」と化しており、与党協議など端から「茶番=出来レース」しかなかった、というのだから、何とも腹立たしいし、この国の民度(民主主義)がいかに劣化しているかを目の当たりにして絶望的にさえなる。
 そんな「権力」(自公政権)による集団的自衛権行使容認という「出来レース」にこの何ヶ月間踊らされた僕らではあったが、昨日何とも「嫌な気分」で考えていたところ、いつも貴重な情報をメールで寄せてくれている友人の元北海道新聞記者から、「解釈改憲」ではなく「解釈変更」だなどという「言葉遊び」に堕した感のある今回の自公政権による集団的自衛権行使容認「劇」を、ある一部の大手マスコミ(読売新聞、日本経済新聞など)が「後押し」していた事実を教えられた。
 僕は、あることがあって以来、世界最大の発行部数を誇る「読売新聞」の購読は止めていて必要なときだけ読んでいたので知らなかったのだが、件の友人からの情報で「読売新聞」が昨日の社説で次のようなことを言っていたを知り、「満州事変」以後15年間にわたって権力とマスコミが一体になって中国(アジア)侵略を目的とした「戦争」(アジア太平洋戦争・十五年戦争)を続けてきたことを想起し、「ああ、このようにして国というのは戦争に突き進むのだ」、と改めて実感した。「読売新聞」の「社説」(引用は冒頭の一部)は、以下のようなものである。

 <【集団的自衛権 抑止力向上へ意義深い「容認」
           ―――――日米防衛指針に適切に反映せよ】
                     =読売新聞 2014年7月2日
 米国など国際社会との連携を強化し、日本の平和と安全をより確かなものにするうえで、歴史的な意義があろう。
 政府が、集団的自衛権の行使を限定的に容認する新たな政府見解を閣議決定した。
 安倍首相は記者会見で、「平和国家としての歩みを、さらに力強いものにする。国民の命と暮らしを守るため、切れ目のない安全保障法制を整備する」と語っ た。行使容認に前向きな自民党と、慎重な公明党の立場は当初、隔たっていたが、両党が歩み寄り、合意に達したことを歓迎したい。(以下略)


 マスコミ・ジャーナリズムの本質は、権力の在り方を監視し「暴走」を未然に防ぐところにあると思っていたが、「読売新聞」は日本国憲法(「前文」や第9条)のことをどう思っているのだろうか。昨日の社説に見られるような「権力べったり」の姿勢では、「対外戦争を歓迎する」と言っているようなもので、先の大戦(アジア太平洋戦争)への「反省」など、みじんも見られない。たぶん、社説には政財界と密接な関係にある社主(渡辺恒雄)の意向が反映されているのだろうが、渡辺恒雄が戦後間もなくの頃(東大生から読売新聞の若き記者であった時代)「共産党員」であったこと、現在の「政権べったり」の姿勢はその頃のことがトラウマになっていて、その半藤だと言うことなのかも知れないが、いずれにしろ「発行部数1000万部」の読売新聞の購読者が昨日の社説をどのように読んだか、マスコミは「真実」を伝えるという幻想が蔓延っている現在、何とも背筋が凍るような気持になった
 もう一つ、昨日の報道は安倍「極右」政権による集団的自衛権行使容認が閣議決定されたことを受けてのアメリカオバマ政権の反応について、オバマ政権は「大歓迎」というのが大方の報道であったが、それはそうだろう。慢性的な財政難をかかえたアメリカにとって、「世界の警察」として力を弱めている昨今、自分たちが始めた「戦争」に関わる経済的・軍事的負担の一部を日本が肩代わりしてくれるというのだから、「歓迎」するのは当たり前である。これで、東アジア(中国・北朝鮮・韓国)が「有事」となれば、あるいは「中東」や「アフリカ」でアメリカ(軍)がピンチになれば、日本の自衛隊を自国の軍隊と同じように使える(同盟軍として)ことになり、大助かりである。 その意味では、「日米同盟強化」を唱えてきた安倍自公政権による今回の「暴挙」は、もしかしたら(と言うか、かなりの確立で)アメリカの「右派勢力(ネオコンなど)」による「後押し」あるいは、「画策」があって実現したのではないか、と僕など憶測せざるを得ないのである。
 それにしても、何とも不気味な時代に入ってしまったものである。
 なお、もう一度言っておきたいのは、安倍「極右」首相は記者会見で再三再四「国民の命と暮らしを守る」と言っていたが、「戦争のできる国」になって、実際「戦争」になれば、「戦争」:というものが本質的に「人間の命と暮らしを破壊するもの」である以上、安倍首相の言葉は「詭弁」かつ「はぐらかし」でしかないこと、僕らはしっかり肝に銘じる必要がある、ということである。

安倍総理、貴方の言は「詭弁」「はぐらかし」ばかりです!

2014-07-02 04:44:33 | 近況
 ついに、集団的自衛権行使容認が「閣議決定」されたが、このことに関する安倍「極右」首相の記者会見を聞いていて、腹が立って仕方がなかった。それは、閣議決定に先立って行われた公明党山口代表の「自公で合意に達した」発表会見でも感じたことなのだが、理由は3つある。
 まず第1、安倍首相は、集団的自衛権行使容認に関して「与党協議」を始めると言明したときの会見もそうだったのだが、本音は単に日本を「戦争のできる国」にしたいだけなのに、昨日も「海外派兵は一般医許されないという原則は変わらない」とか「日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなった」とか言っていたが、ならば、何故こんなにも「急いで」解釈改憲して自衛隊の海外での活動(海外派兵)を広げる集団的自衛権行使を容認しようとしたのか、どう考えても安倍首相のの論理は筋が通らない。
 たぶん、集団的自衛権行使容認という「平和主義」という「国是」の大転換を図る政策について、自分は単に「戦前のように、日本がアジアで君臨するようになればいい」というアナクロニックな思い(狭量なナショナリズム)しか無かった/font>のに、誰か(周りにいる国粋主義的政治家か、あるいは官僚たちか、それともアメリカの戦争することによって自分たちが莫大な利益を得ると思っている新保守主義=ネオコンか、はたまたそれらの複合体か)に入れ知恵されての発言だったのだろう。あの「空疎」な「詭弁=嘘」に満ちた会見を聞いていると、何故この人はこんな「愚」を犯すのだろう、頭が悪いのではないか、「操り人形ではないか、裏でにんまりとほくそ笑んでいる連中(先の政治家、官僚、アメリカのネオコン)がいるのではないか、と思えて仕方がない。
 その証拠に、もし集団的自衛権が行使されて自衛隊が紛争地域で同盟国(アメリカ)を助ける活動に入ったとき「自衛隊員が他国人を殺し、また自分たちも殺されることはないのか」という記者の質問にまともに答えられなかった。安倍首相の眼中には、たぶん「過酷な戦場」に動員され、「殺す・殺される」状態になる自衛隊員の姿など見えていないのである。あるいは、もし「戦死者」が出たとしても、彼・彼女は自分が好きな靖国神社に祀られるからいいではないか、自分をはじめ国の指導者(政治家)は君たちを「名誉ある戦死者」として厚遇し、また靖国神社への参拝もするからいいではないか、ぐらいにしか思っていないのではないか、というのが首相の会見後に僕を襲ってきた思いである。
 安倍首相のお祖父さん(岸信介)は、国を二分する日米安全保障条約(そもそも、今回の集団的自衛権行使容認論も、その根っこはこの日米安保条約にある)の改訂に躍起になっていた時、国会を取り巻く20万人、30万人の市民たちの姿を見て、「私はここにいる反対派の国民ではなく、<声なき声>を信じて、安保改訂を進める」という何とも国民を馬鹿にした発言をしたが、今回の安倍首相の強引な「集団的自衛権行使容認」も、お祖父さんののまねをしただけかも知れないとの思いも消えない。
 >二つめは
、これまでにも再三再四言ってきた「公明党の裏切り」(もっとも、これは初めから決まっていた「出来レース」という考え方もあるが)について、である。正直に言うと、僕はこれほどの「権力欲」を見せることのなかった10年ぐらい前まで、「平和・福祉の党」を信じて、「公明新聞」や彼らの支持母体である創価学会の資金で運営されている出版社や新聞社の刊行物(「潮」。「政教新聞」)に、依頼されるままに寄稿してきた。しかし、「平和の党」の看板が偽物だったと分かった現在、10年ほど前のこととはいえ、「公明新聞」などに何度も寄稿した自分に、今になってではあるが、腹が立って仕方がない。
 そこで思い出すのが、戦前に「戦争反対」を唱えていた新興宗教(大本教、など)や一部キリスト教が徹底的に「弾圧」された歴史である。もしかしたら、そのような歴史を熟知している創価学会(公明党)は、戦争時の「宗教弾圧」を怖れて、今から権力に「同調」しておこうと思ったのではないか、という考えも頭をよぎったが、「まさか?」、そんなことはあるまい。
 3つめは、安倍首相の会見後に、テレビが街頭インタビューで集団的自衛権行使容認の「是非」を聞いていたが、その時の「賛成」の理由を聞いていて、いかに現在が「愚民政策」を敷いているか、そしてそれはものの見事に「成功」しているかを知らされ、腹が立ったのである。
 賛成派(何故か、若者が多かった)の意見の大半は、「嘘・妄想」で固められた安倍首相や自公政権のアジア情勢観(認識)、つまり「尖閣諸島問題が象徴するように、中国の軍事的圧力が強まり、また相変わらず北朝鮮は核武装を強めている」という認識を、「素直」に信じて、「こんなアジア情勢なのだから、武装強化しなければならない」といった、集団的自衛権行使が「自衛力(軍事力)強化」とは関係なく、単にアメリカに追随して日本が「戦争をする」ということだ、ということが全く分かっていない上での「賛成」であった。一部マスコミを動員しても、「中国・北朝鮮脅威論」がここまで浸透しているとは、驚きであった。
 また「賛成」意見からは、日米(軍事)同盟=日米安全保障条約に集団的自衛権行使容認とは密接な関係があるという考えは全く聞こえず、さらにいえば、アメリカのために日本の若者(自衛隊員)が「死ぬ」ということを全く考えていないと言うことが判明したが、誤解を恐れずにいえば、日本人はそこまで「愚か=馬鹿」になったのか、と思い、腹が立ったのである。
 以上であるが、これから集団的自衛権行使容認にかんする様々な「法整備」が行われる。安倍「極右」政権の暴走を許さないためにも、これからも監視を続け、どんな小さな地方選挙でも、決して自公を許さないという姿勢を貫くことが大切だと思う