ここ何日かのマスコミ報道「オスプレイ、厚木基地へ」とか「オスプレイ、本土で訓練」、あるいは「自衛隊にオスプレイの購入計画があり、佐賀県にその基地を置く」などを見ていると、集団的自衛権行使容認論の「もう一つの顔」が見えてきたような気がする。
つまり、安倍「極右」内閣は、集団的自衛権行使容認について「積極的平和主義」の一つの表れであり、(「世界の警察」米国の要請を受けて共同行動を取るということだから)格段に「抑止力」が高まり、「世界の平和」に貢献する、途説明してきたが、自民党・公明党による「出来レース」の結果集団的自衛権行使容認が「閣議決定」されるやいなや、アメリカ本土で「危険きわまりない飛行機(ヘリコプター)だから、都市の近くでは訓練しない」と言われてきたオスプレイの訓練を日本各地で行う、という何とも日本国民を馬鹿にした日米共同作戦を実施した。
僕が住む群馬県でも、自衛隊第12師団が駐屯する榛名山麓の「相馬が原」(昔の人は、「ジラード事件」という砲弾の破片を射撃訓練場に拾いに行った農婦が、若い米軍兵士に射殺されるという事件を覚えているかも知れない)を抱える榛東村が、自衛隊からの交付金を目当てに早々と「オスプレイの訓練受け入れ」を決めた。たぶん、オスプレイが相馬が原で訓練を始めれば、当然我が家の頭上にも飛来し、いつ落ちてくるか、という「恐怖」を日常的に感じなければならないということになる。そうでなくとも、最近は第12師団所属かどうかは不明だが、明らかに輸送用と思われる大型のヘリが我が頭上を飛ぶことが多く、家人と「何だか沖縄みたいで、嫌だね」と話したこともあり、こんなことからも「戦争が露出してきている」と実感するのだが、それやこれやを総合して考えると、特定秘密保護法の制定や集団的自衛権行使容認など一連の「極右」的政策は、どうやら>「ナショナリズム」の皮を被った「対米従属=アメリカの属国化」政策>なのではないか、と思えてきた。
そう言えば、安倍「極右」首相のお祖父さん岸信介も、戦後史の結節点であったといわれてきた「60年安保」において、アメリカへの従属を強化する日米安保条約の締結に「反対」する多くの「国民の声」を無視して、国会で「強行採決」したが、お祖父さんのDNAを誇る(?)安倍「極右」首相も、岸信介(日米安保条約)が敷いたアメリカへの従属路線をさらに進めて、「属国化」を謀っているようにしか見えない昨今の動向、僕は何度も自分はナショナリストではないと言ってきたが、その僕があきれるような「アメリカ属国化政策」、何ともやり切れない。
しかも、それが「沖縄の米軍基地負担軽減策」の一環だ、などと言われると、思わず「嘘つけ!」と言いたくなる。つまり、オスプレイの訓練を本土各地で行うのは、「沖縄の負担」を軽減するため、というのがいかに「まやかし」であるか、それは普天間基地の移転させる代わりに名護市辺野古沖に普天間基地よりも大きなアメリカ軍基地を(日本が喜んで)建設する、というところに主張されている。安倍「極右」内閣は、事ある毎に、「北朝鮮の脅威」「中国の軍拡は東アジアの平和を脅かす」、などと喧伝し、集団的自衛権行使容認を強引に推し進めたりしてきたが、中国や北朝鮮(あるいは韓国)などから見たら、歴代保守政権が唱えてきた「日米同盟の強化」宣言だって、「日本(アメリカ)の脅威」であって、日本が東アジア諸国を「挑発」することになるのではないか、と思う。特に、「日本(アメリカ)脅威」論は、中国で2年間生活してきて切実に感じたことで、アメリカ(日本)の軍需産業に後押しされた自衛隊の装備強化(世界で第7位)は、まさに「日本軍国主義の復活」と中国人民の目には映っているようで、日本に友好的な中国人も日本の軍拡(自衛隊の装備強化)については心配していた(憂えていた)。
いずれにしろ、安倍「極右」政権が進めている「対米従属化」路線が、オスプレイの日本本土での訓練が具体化しているように、「日本全土の沖縄化」であるということ、このことについて本土の人間はもっと自覚しなければならないのではないか、とおもう。
こんなことを書くと、またナショナリストたちから「売国奴」扱いされるが、沖縄の人たちが長い間「反旗地闘争」を行ってきている現実をどのように僕らが考えるか、また「真のナショナリズム」とは何か、を本気で考えた場合、現在の安倍「極右」首相こそアメリカへの「属国化」を進める「売国奴」なのではないか、と思えてならない。
このところ、前回紹介した拙著『井伏鱒二と戦争――『花の街』から『黒い雨』まで』のこともあって、ずっとアジア太平洋戦争と文学者及び国民(庶民)との関係を考え続けてきたが、権力というのは、「国民」の名において諸政策を行うような「振り」はするが、最終的には「国民」に多くの犠牲を強いるものであること、このことは洋の東西を超えるものであることを、腹の底から理解することができた。
「戦争」のことを考える「暑い夏」(8月6日・9日のヒロシマ・ナガサキ、8月15日の敗戦記念日)が、まもなくやってくる。僕らは、もう一度「平和とは何か」を深く考える必要があるのではないか、と思えてならない。誰もが「戦争」に関わらざるを得ない「徴兵制の復活」が間近に迫ってきているのだから……。
つまり、安倍「極右」内閣は、集団的自衛権行使容認について「積極的平和主義」の一つの表れであり、(「世界の警察」米国の要請を受けて共同行動を取るということだから)格段に「抑止力」が高まり、「世界の平和」に貢献する、途説明してきたが、自民党・公明党による「出来レース」の結果集団的自衛権行使容認が「閣議決定」されるやいなや、アメリカ本土で「危険きわまりない飛行機(ヘリコプター)だから、都市の近くでは訓練しない」と言われてきたオスプレイの訓練を日本各地で行う、という何とも日本国民を馬鹿にした日米共同作戦を実施した。
僕が住む群馬県でも、自衛隊第12師団が駐屯する榛名山麓の「相馬が原」(昔の人は、「ジラード事件」という砲弾の破片を射撃訓練場に拾いに行った農婦が、若い米軍兵士に射殺されるという事件を覚えているかも知れない)を抱える榛東村が、自衛隊からの交付金を目当てに早々と「オスプレイの訓練受け入れ」を決めた。たぶん、オスプレイが相馬が原で訓練を始めれば、当然我が家の頭上にも飛来し、いつ落ちてくるか、という「恐怖」を日常的に感じなければならないということになる。そうでなくとも、最近は第12師団所属かどうかは不明だが、明らかに輸送用と思われる大型のヘリが我が頭上を飛ぶことが多く、家人と「何だか沖縄みたいで、嫌だね」と話したこともあり、こんなことからも「戦争が露出してきている」と実感するのだが、それやこれやを総合して考えると、特定秘密保護法の制定や集団的自衛権行使容認など一連の「極右」的政策は、どうやら>「ナショナリズム」の皮を被った「対米従属=アメリカの属国化」政策>なのではないか、と思えてきた。
そう言えば、安倍「極右」首相のお祖父さん岸信介も、戦後史の結節点であったといわれてきた「60年安保」において、アメリカへの従属を強化する日米安保条約の締結に「反対」する多くの「国民の声」を無視して、国会で「強行採決」したが、お祖父さんのDNAを誇る(?)安倍「極右」首相も、岸信介(日米安保条約)が敷いたアメリカへの従属路線をさらに進めて、「属国化」を謀っているようにしか見えない昨今の動向、僕は何度も自分はナショナリストではないと言ってきたが、その僕があきれるような「アメリカ属国化政策」、何ともやり切れない。
しかも、それが「沖縄の米軍基地負担軽減策」の一環だ、などと言われると、思わず「嘘つけ!」と言いたくなる。つまり、オスプレイの訓練を本土各地で行うのは、「沖縄の負担」を軽減するため、というのがいかに「まやかし」であるか、それは普天間基地の移転させる代わりに名護市辺野古沖に普天間基地よりも大きなアメリカ軍基地を(日本が喜んで)建設する、というところに主張されている。安倍「極右」内閣は、事ある毎に、「北朝鮮の脅威」「中国の軍拡は東アジアの平和を脅かす」、などと喧伝し、集団的自衛権行使容認を強引に推し進めたりしてきたが、中国や北朝鮮(あるいは韓国)などから見たら、歴代保守政権が唱えてきた「日米同盟の強化」宣言だって、「日本(アメリカ)の脅威」であって、日本が東アジア諸国を「挑発」することになるのではないか、と思う。特に、「日本(アメリカ)脅威」論は、中国で2年間生活してきて切実に感じたことで、アメリカ(日本)の軍需産業に後押しされた自衛隊の装備強化(世界で第7位)は、まさに「日本軍国主義の復活」と中国人民の目には映っているようで、日本に友好的な中国人も日本の軍拡(自衛隊の装備強化)については心配していた(憂えていた)。
いずれにしろ、安倍「極右」政権が進めている「対米従属化」路線が、オスプレイの日本本土での訓練が具体化しているように、「日本全土の沖縄化」であるということ、このことについて本土の人間はもっと自覚しなければならないのではないか、とおもう。
こんなことを書くと、またナショナリストたちから「売国奴」扱いされるが、沖縄の人たちが長い間「反旗地闘争」を行ってきている現実をどのように僕らが考えるか、また「真のナショナリズム」とは何か、を本気で考えた場合、現在の安倍「極右」首相こそアメリカへの「属国化」を進める「売国奴」なのではないか、と思えてならない。
このところ、前回紹介した拙著『井伏鱒二と戦争――『花の街』から『黒い雨』まで』のこともあって、ずっとアジア太平洋戦争と文学者及び国民(庶民)との関係を考え続けてきたが、権力というのは、「国民」の名において諸政策を行うような「振り」はするが、最終的には「国民」に多くの犠牲を強いるものであること、このことは洋の東西を超えるものであることを、腹の底から理解することができた。
「戦争」のことを考える「暑い夏」(8月6日・9日のヒロシマ・ナガサキ、8月15日の敗戦記念日)が、まもなくやってくる。僕らは、もう一度「平和とは何か」を深く考える必要があるのではないか、と思えてならない。誰もが「戦争」に関わらざるを得ない「徴兵制の復活」が間近に迫ってきているのだから……。