毎度「言い訳」じみたことから始めることを心苦しく思うが、この1ヶ月余り、博士論文の外部審査員として公開審査会のために、500枚余りの博論を精読したり、いよいよ空きに刊行が決まった次著『立松和平論――書くことは生きること』(仮題)のために、1200枚を800枚に縮小したものの見直し(時間が経つと、訂正しなければならない箇所が案外出てきて、それに思いの外時間を取られることになった)を行っていたので、舛添東京都知事の辞任問題や参議院選挙のことについて、僕なりの考えを提示したいと思っていながら、その時間がなかなか取れなかった。
それに、6月というのは、家庭菜園のタマネギとジャガイモの収穫時期にもなっていて、それにも多くの時間を割かなければならなかった。「無農薬・有機農法」を心がけている手前、梅雨に入ってからの雑草の伸びは半端ではなく、2週間に1回は草刈り気を遣って1時間ほど刈り取るということもしなくてはならない。
自分が選んだ農法であり、ぼやきたくはないのだが、若いときは何でもなかった草刈りも、1時間ほど思い草刈り気を遣っていると、手がしびれ、腰も痛くなり、作業が終わったらとりあえず2,3時間横になって休まないと、次の講堂に移れないという、何とも情けない情況である。
と、ここまで書いてきて、「言い訳」というのは、考えればいくらでも出てくるものだ、ということに気付いた。
まるで、アベノミクスの失敗を伊勢志摩サミットにおける「世界的な経済危機=リーマンショック級のリスク」という自分に都合のいい理由で糊塗し、消費背増税再延期を「新しい判断」に基づいて宣言する、という「三百代言」としか思えない安倍首相の態度のようだが、それにしても、参院選に向き合うこの国の人々の意識はどうなっているのか、僕には全く理解できない。
というのも、朝日新聞や毎日新聞など新聞各紙の参院選序盤における世論調査の結果が、軒並み「改憲勢力(自公を中心に大阪維新の会など)で3分の2をうかがう情勢」となっていたからである。
僕は、このブログを書くに当たって、二つのことを自分に禁じてきた。1つは、公人(政治家など)を批判するとき、プライベートなことを材料にしない。2つめは、自分と同じ庶民(国民)の有り様については、「協同・共生」を望む上からも「侮蔑」的な批判はしない、というものである。
しかし、1つめの「禁」はすでにフクシマを忘れたかのような安倍自公政権の「原発再稼働」や「原発輸出」に関して、それを主導する安倍首相に子供がいないからで、もし子や孫がいれば、この人類や地球の未来を閉ざす可能性が大の原発の再稼働など考えられない――核武装など、もちろん論外である――、と書いて、安倍首相のプライベートな問題にも踏み込んだ。一度は国民の信を得るために「原発ゼロを目指す」と言いながら、その言葉とは真逆な原発再稼働や原発輸出の推進、この政治指導者の「言葉の軽さ」に怒りが治まらなかったからである。
そして今日、二つめの「禁」もどうやら破ることになった。それは、現在の日本人がバブル期に盛んに言われた「玩物喪志」(精神<こころ>よりもカネ・モノが優先される様)と同じような風潮の中に埋没しているのではないか、そしてそれは、自分たちの在り方に対して自ら「侮蔑」することなのではないのか、と思うということである。
具体的には、どんなに待っても自分たちに「蜜」はしたたり落ちてこないのに(ということは、アベノミクスは大失敗したということなのだが)、「有効求人倍率が軒並み改善された」――少子化のあおりと数年前からの団塊の世代の大量退職によって「労働人口」が減少の一途を辿っている現在、有効求人倍率が高くなるのは当たり前で、決してアベノミクスの効果ではない――、「民主党時代より税収が20兆円のびた」――円安・株高の影響で大企業からの税収が増え、また消費税を5%から8%に上げたのだから、税収が増えるのは当たり前。しかし、同時に国債の発行高も大きくなっているので、国民の借金は増え続けている――などとアベノミクスの成果を強調する安倍首相に、僕ら国民の多くが「騙され続けている」のに、相変わらずアベノミクスに期待する。
敢えて言う。どうしてカネやモノ以外にも「幸せ」を感受する方法があるということに気付かないのだろうか。待機児童問題が改善されないのも、介護退職が減少しないのも、また有効求人倍率が増加しながら非正規労働者の数が全労働者の40%になっているのも、「子供の貧困」が問題になっているのも、みな安倍自公政権が「安保法制=戦争法案」の制定や憲法改正に熱中し、僕らの生活の現実を見ようとしないからではないか。
何度でも言うが、僕らはもう「目覚める」べきである。特に、若者たちよ。このまま安倍自公政権的な政治が続けば、君たちの「未来」に待っているのは、「闇」である。奮起して欲しい、と思う。
それにしても、参院選にかんする党首討論や街頭宛然における山口公明党代表の「アベノミクス評価」や「野党統一候補批判」は、自民党右派も顔負けなのではないかと思えるほど「えげつない」が、公明党はもう「平和と福祉の党」の看板を下ろし、「第二自民党」を正式に名乗ったらどうだろうか。
なお、公明党に関して、公明党が野党だった時代(僕の若い頃)、優秀な編集者に請われ、「公明新聞」など公明党関係のメディアにエッセイや書評を書いたこと、今では大変後悔していることを、ここで付記しておきたい。
それに、6月というのは、家庭菜園のタマネギとジャガイモの収穫時期にもなっていて、それにも多くの時間を割かなければならなかった。「無農薬・有機農法」を心がけている手前、梅雨に入ってからの雑草の伸びは半端ではなく、2週間に1回は草刈り気を遣って1時間ほど刈り取るということもしなくてはならない。
自分が選んだ農法であり、ぼやきたくはないのだが、若いときは何でもなかった草刈りも、1時間ほど思い草刈り気を遣っていると、手がしびれ、腰も痛くなり、作業が終わったらとりあえず2,3時間横になって休まないと、次の講堂に移れないという、何とも情けない情況である。
と、ここまで書いてきて、「言い訳」というのは、考えればいくらでも出てくるものだ、ということに気付いた。
まるで、アベノミクスの失敗を伊勢志摩サミットにおける「世界的な経済危機=リーマンショック級のリスク」という自分に都合のいい理由で糊塗し、消費背増税再延期を「新しい判断」に基づいて宣言する、という「三百代言」としか思えない安倍首相の態度のようだが、それにしても、参院選に向き合うこの国の人々の意識はどうなっているのか、僕には全く理解できない。
というのも、朝日新聞や毎日新聞など新聞各紙の参院選序盤における世論調査の結果が、軒並み「改憲勢力(自公を中心に大阪維新の会など)で3分の2をうかがう情勢」となっていたからである。
僕は、このブログを書くに当たって、二つのことを自分に禁じてきた。1つは、公人(政治家など)を批判するとき、プライベートなことを材料にしない。2つめは、自分と同じ庶民(国民)の有り様については、「協同・共生」を望む上からも「侮蔑」的な批判はしない、というものである。
しかし、1つめの「禁」はすでにフクシマを忘れたかのような安倍自公政権の「原発再稼働」や「原発輸出」に関して、それを主導する安倍首相に子供がいないからで、もし子や孫がいれば、この人類や地球の未来を閉ざす可能性が大の原発の再稼働など考えられない――核武装など、もちろん論外である――、と書いて、安倍首相のプライベートな問題にも踏み込んだ。一度は国民の信を得るために「原発ゼロを目指す」と言いながら、その言葉とは真逆な原発再稼働や原発輸出の推進、この政治指導者の「言葉の軽さ」に怒りが治まらなかったからである。
そして今日、二つめの「禁」もどうやら破ることになった。それは、現在の日本人がバブル期に盛んに言われた「玩物喪志」(精神<こころ>よりもカネ・モノが優先される様)と同じような風潮の中に埋没しているのではないか、そしてそれは、自分たちの在り方に対して自ら「侮蔑」することなのではないのか、と思うということである。
具体的には、どんなに待っても自分たちに「蜜」はしたたり落ちてこないのに(ということは、アベノミクスは大失敗したということなのだが)、「有効求人倍率が軒並み改善された」――少子化のあおりと数年前からの団塊の世代の大量退職によって「労働人口」が減少の一途を辿っている現在、有効求人倍率が高くなるのは当たり前で、決してアベノミクスの効果ではない――、「民主党時代より税収が20兆円のびた」――円安・株高の影響で大企業からの税収が増え、また消費税を5%から8%に上げたのだから、税収が増えるのは当たり前。しかし、同時に国債の発行高も大きくなっているので、国民の借金は増え続けている――などとアベノミクスの成果を強調する安倍首相に、僕ら国民の多くが「騙され続けている」のに、相変わらずアベノミクスに期待する。
敢えて言う。どうしてカネやモノ以外にも「幸せ」を感受する方法があるということに気付かないのだろうか。待機児童問題が改善されないのも、介護退職が減少しないのも、また有効求人倍率が増加しながら非正規労働者の数が全労働者の40%になっているのも、「子供の貧困」が問題になっているのも、みな安倍自公政権が「安保法制=戦争法案」の制定や憲法改正に熱中し、僕らの生活の現実を見ようとしないからではないか。
何度でも言うが、僕らはもう「目覚める」べきである。特に、若者たちよ。このまま安倍自公政権的な政治が続けば、君たちの「未来」に待っているのは、「闇」である。奮起して欲しい、と思う。
それにしても、参院選にかんする党首討論や街頭宛然における山口公明党代表の「アベノミクス評価」や「野党統一候補批判」は、自民党右派も顔負けなのではないかと思えるほど「えげつない」が、公明党はもう「平和と福祉の党」の看板を下ろし、「第二自民党」を正式に名乗ったらどうだろうか。
なお、公明党に関して、公明党が野党だった時代(僕の若い頃)、優秀な編集者に請われ、「公明新聞」など公明党関係のメディアにエッセイや書評を書いたこと、今では大変後悔していることを、ここで付記しておきたい。