黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

民主主義の危機(3)――権力の私物化、これぞファシズム

2017-05-31 11:03:44 | 仕事
 加計学園問題に関して、権力に阿る=なびくばかりの幹部官僚が大井中で、腹をくくったような今年の1月まで文科省の次官を務めていた前川氏による加計学園の獣医学部設置に関して「首相の意向があった」、「官邸の最高レベルが言っている」、「総理は言えないから私が言う」などという証言に対する、「傲り」の頂点にあるとしか思えない安倍政権の対応を見ていると、「怒り」というより、「呆れてものが言えない」としか言いようがない。
 いくら野党が「前川氏を証人喚問に」といっても、政権総ぐるみで「その必要がない」というばかりで、前川氏が示した文科省内部で流れていたという「8通の文章」についても、「幹部に聞いたが確認できなかった」というばかりで、前川氏が「普通に調べればすぐに見つかる文章だ」と言っているのに再調査をする気配さえ見せないその態度(やり方)。
 これは、国連の特別法国間が、自公と維新の絵画強引に成立させようとしている「共謀罪」に対して、「表現の自由を冒すものだ」「人権に配慮していない」と言っているのに、これは国連の意思ではなく、個人の意見に過ぎないとして、謙虚に他者の意見を聞く態度を持たないのと同じ政治のやりかたで、さらに言えば、先ほど終わったG7の会合で国連の事務総長と会談した安倍首相が、国連事務総長は慰安婦問題に関する日韓合意について日本側の主張を認めた、と報告したが、韓国のメディアや国連の報道官に拠れば、事務総長は合意したのではなく「二国間で協議して解決してくれ」と言ったのだという。もし国連事務総長の対応の法が正しいとするならば、安倍首相は「嘘を言った」ことになる。安倍首相は、何でも自分の都合のよい方に解釈する(嘘をつく)ことを繰り返してきたが、国際社会においても自分の都合のよいように解釈し、それを国民に報告する。僕らは、とんでもない政治指導者を持ったものだと思うが、もうこれは「独裁(ファシズム)政治」としか言いようがない
 自民党には、こんな横暴な総理・総裁に対して、「異議申し立て」をする硬骨漢はいないのか。更には、「平和と福祉の党」を看板に掲げる公明党の国会議員たち、どんなに甘い汁を飲まされているのか、安倍ファシスト首相に反対する議員はいないのか。
 そしてまた、繰り返して言うが、そんな自公政権に「支持率50パーセント」を与える国民もまた「愚か」としか言いようがないが、日本の民主主義がますますおかしくなっていること、加計学園問題は一挙にそのことを白日の下に晒すことになった。
 それにしても、そんな自公政権を後押ししているのが「北朝鮮」であること、このこともここではっきり指摘しておきたい。「戦争がしたくて仕方がない」安倍ファシスト首相に、ミサイル発射実験を繰り返して「戦争への口実」を与えているとしか思えない北朝鮮(金正恩)の態度、安倍首相が彼らの動きを理由に安保法制(集団的自衛権行使容認)や共謀罪など一連の日本国憲法や基本的人権を無視した政策を推し進めていることを、北朝鮮(金正恩)は知らないのか。 
 これも本当に困ったことだ。strong>

民主主義の危機(2)――究極の腰巾着・菅義偉官房長官

2017-05-26 10:30:50 | 仕事
 森友学園問題に引き続いて、安倍首相(夫妻)の「傲り」と「不誠実さ」を象徴する加計学園問題が起こり、「共謀罪」の衆院での強行採決と相まって、多くの国民が「政治不信」を募らせ、また国民の多くがそのような政治状況に「怒り」を隠さなくなっているにもかかわらず、維新の会を味方につけた自公政権の「内部」は全く波風が立っていないように見えるのは、どうしたことなのか? 僕には、全く理解できない 
 特に、「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っていること」があって初めて実現した加計学園の愛媛県今治市における獣医学部の新設問題は、誰がどう見ても政権の屋台骨を揺るがすような、首相の横暴(権力乱用)が明らかになった事件なのに、自公政権内では「良識」(正論)が通じないのか、大学の新学部設置などを主管する文科省の内部で、安倍首相(とそれを取り巻く権力亡者たち)の「意向」が直接的に反映したことを示す文章が何通(8通)も出てきたというのに、安倍首相の見事なまでの「腰巾着」ぶりを示してきた氏が官房長官が、何も確認しないまま最初に「それは怪文書の類だ」と言ったものだから、以下の松野文科大臣も、また国会議員になった当初は「弱者」の味方だと思っていた「ヤンキー先生」こと義家文科副大臣も、「そのような文章は確認できなかった」と、しらを切り通す始末。
 それほどに自分が獲得した(おこぼれに預かった)地位を守りたいのか、それとも心から「極右政治家」を代表する安倍晋三首相を信奉しているのかわからないが、首相(自公政権)を「守りたい」という気持しか伝わってこない、呆れた答弁しかしない安倍自公内閣の面々。彼らに「自浄作用」を求めるのは「蛙の面に小便」に等しい願望だとは思いつつ、何とも「虚しい」気持を禁じることができない。
 このような安倍首相(夫妻)に関わる加計学園問題についての対応は、文科省内で作成されたとされる「総理の意向」等の文面がある8通の文章は「本物だ」と断言した前川前文科省事務次官に対する政府(官邸・内閣)の否定・批判(安倍首相や菅官房長官)にも共通するもので、自分たちを批判する者は絶対許さない、認めないという「頑なさ」によって、実はそのような文章の存在を認めている、と僕たちに知らせるようなものになっている。
 また、国会議員に「良識」を求めるのは、いまさらとも思うが、それにしても「文科省内に出回っていた8通の文章」を「怪文書」と断じ、また前川前文科省事務次官の証言に対して「人格批判」としか思えない出会い系バー通いを持ち出して存在自体を否定するような菅官房長官の記者会見におけるあの「冷たい」、何が何でも安倍首相(夫妻)を守ろうとする態度は、何なのか。彼は何が望みで、あのような国民を「愚弄」する発言などを平気で繰り返すのか。
 菅官房長官のプロフィールを見れば、1948年12月生まれだから、今年の暮れで68歳になる朱運選挙7回当選のベテラン議員(政治家)である。しかも学歴を見ると、苦学して法政大学の法学部を1973年に卒業したとある。1973年卒業ということであれば、早稲田大学と並んで学生運動の中心であった法政大学で彼は何を学んだのか、と思わざるを得ない。また、苦学生の彼は、毎日のようにキャンパスで開かれていた学生集会をどのように見ていたのか。今や日本を代表する保守(右翼)団体「日本会議」のメンバーが菅官房長官と同世代の、当時「生長の家」の信者だった学生たちによって担われていたことを考えると、菅官房長官も法政大学の学生時代はその類の学生だったのか、と思いたくもなるが、安倍首相の「戦後レジュームからの脱却」「憲法改正」などといった威勢のいい空語を本気で信じて、彼の忠実な「ポチ公」になっている真意は何なのか、本当によく分からない。 まさか「影の総理」を気取っているわけではないと思うが、「スガスガしさ」が全く感じられず、いつも「何か魂胆がある」と感じさせるような彼の会見を見ていると、正直言って「胸糞が悪くなる」。そんな「感じの悪い」菅「腰巾着」官房長官が内閣の要となっている安倍政権には、もう退場してもらうしかないのではないか。切実にそう思う。

民主主義の危機(1)――「共謀罪」衆院通過、この国はどこに向かっているのか?

2017-05-24 09:45:58 | 仕事
 私事になるが、この10日余り、風呂場をリフォームするために知り合いの大工さんはじめ何人もの職人さんたちが出入りしていたので、集中して仕事をすることができず、したがってこのブログも書くことができなかった。
 多くの国民が「NO」と言い、「審議不十分」と言っていたにもかかわらず、「平成の治安維持法」と言われる「共謀罪」が委員会で強行採決され、また衆院でも自民党、公明党、維新の会の賛成多数で可決されるという事態になってしまった。
 国連の人権理事会の特別報告官さえ、「共謀罪」は「個人のプライバシーを著しく侵害する」と安倍首相宛に書簡を送ったというのに、すべての「反対」意思を無視して、数を頼みに、強行採決を行った安倍自公政権。前にも書いたが、「天皇制の転覆=革命」を志向する共産主義者の取り締まりを主目的として制定された戦前の治安維持法が、15年戦争体制下に置いて、自由主義者、宗教者をも取り締まりの対象とし、自由主義者の三木清や大本教の出口王仁三郎、創価学会の戸田城聖など新興宗教の指導者たちを逮捕投獄した歴史的事実を、私たちはもう一度思い起こすべきである。特に、公明党の政治家たちに望むのは、今はいいとして、状況が変われば自分たち公明党(創価学会)も取り締まりの対象になるということを、本当に分かっているのか、ということである
 
 ファシズムの恐ろしさをよくよく知っているのは、公明党よ、あなたたち宗教者なのではないか、と僕は思っているのだが、あなたたちは「権力」側にいることの心地よさに酔いしれているのだろうか。
 それにしても、安倍一強体制がいかに「反国民」てきな体制であるか、それは「政治を私物化=やりたい放題の政治」を如実に示す森友学園問題に引き続いて加計学園問題が起こったことで、いよいよ明らかになったと思うのだが、何度も何度も同じことを言うようだけど、そんな安倍自公政権に「支持率五〇%」を与えてきている我が国民もまた、そのような「ファシズム政治」を招いた責任ということでは「同罪」であるということ、このことも忘れてはならない。

 そのような「民主主義の危機」的情況に対して、わが「文学」の世界ではどうなっているのか、日本ペンクラブは共謀罪に対して「反対」の声明を出したが、大方はひたすら「我関せず」とばかりに「内」に閉じこもっているように思えてならない。
 それは、少し古い情報になるが、村上春樹の二〇〇枚に及ぶ新作長編『騎士団帳殺し』(上下)に対する「歓迎=評価」ぶりに象徴されているのではないか、と僕は思っている。『騎士団帳殺し』について、僕は「大法輪」(来月6日発売)に「出版不況」との関係で書いたのだが、その一部を以下に紹介する。

<そんな出版不況などどこ吹く風とばかりに、この二月二五日、新聞各紙やテレビなどのマスメディアを動員して、「七年ぶりの長編」である村上春樹の『騎士団長殺し』(新潮社刊)が、「第1部「顕れるイデア編」初版七〇万部、「第2部「遷ろうメタファー編」同六〇万部で発売された。第1部、第2部併せて一三〇万部の発行部数は、一〇万部売れれば大ベストセラーと言われる現在の出版界にあって、異例中の異例である。『ノルウェイの森』(八七年)の発行が今日まで累計で一〇〇〇万部を超え、七年前の『1Q84』(book1 book2 book3 〇九年~一〇年)が合わせて三〇〇万部を超える売り上げとなったことや、村上春樹が毎年のようにノーベル文学賞の候補になってきたことなどを勘案(かんあん)して、版元は初版一三〇万部から初めて更なる売り上げを狙ったのだろうが、では肝心のこの長編小説の中身は、発行部数に見合うだけのものを読者に与えるものだったのだろうか。
 『騎士団長殺し』評価
 第1部、第2部合わせて二〇〇〇枚を超える大作となった『騎士団長殺し』は、発売されると同時に新聞各紙が挙ってその書評欄や文化欄で識者の「批評」や「読後感」を掲載し、「朝日新聞」や「読売新聞」、「毎日新聞」、「東京新聞」(共同通信配信)などでは、村上春樹のこの新作に関するインタビューを掲載した。いくら毎年のようにノーベル文学賞候補として取り沙汰される村上春樹の新作だからといって、メディアが総体で持ち上げるこの光景、ちょっと「おかしい」「異常な現象」と思ったのは、私だけではないだろう。
 というのも、これまでに『村上春樹――ザ・ロスト・ワールド』(八九年 六興出版刊)、『村上春樹――「喪失」の物語から「転換」の物語へ』(〇八年 勉誠出版刊)、『村上春樹批判』(一五年 アーツアンドクラフツ刊)という三冊の村上春樹論を刊行し、村上春樹のほぼ全作品を読んできた者として、目にした新聞各紙の書評や読後感の大半に私は違和感を持たざるを得なかったからである。また、各紙のインタビューで村上春樹が「物語の力を信じる」とか「日本という国の傷 僕なりに何かをしたかった」と語っていたことも、実際の内容から受ける印象と違っていて、同じく違和感を感じた。
 物語は、突然妻から「別れて欲しい」と言われた主人公(肖像画家)が、一人でオンボロ車を駆って北海道・東北地方へ傷心旅行を行い、その後美大時代からの友人が所有する小田原市郊外の小高い山に建つアトリエ付きの山荘に落ち着き、そこで友人の父親で有名な日本画家が書いたと思われる「騎士団長殺し」という画を発見し、そこから金持ちの「免(めん)色(しき)渉(わたる)」や中学生の美少女「まりえ」との交流が始まり、奇妙な「冥(めい)府巡(ふめぐ)り」を経て別れたはずの妻の元に戻る、というものである。「喪われたもの」を探して「再生」への旅に出るという物語の基本構造は、デビュー作『風の歌を聴け』(七九年 群像新人文学賞作)以来、一貫して変わらない村上春樹文学のテーマであり、その意味で「既視感」満載のこの新作長編は「安心」して読むことができる仕上がりになっている。
 作中に「穴」や「壁」が登場し、その穴や壁を通過して「向こう側の世界=闇・異界・彼岸」に行き、その体験を経て「再生」へと至るという筋書きも、また物語の中に「騎士団長」なる主人公と「まりえ」にしか見えない「向こう側」の住人――物語を前に進める役割を持った狂言回し。このような存在もまた、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(八五年)の「やみくろ」や、『ねじまき鳥クロニクル』(第1~第3部 九四~九五年)の「綿谷ノボル」、『1Q84』の「リトル・ピープル」などお馴染(なじ)みである――が重要な役割を持っていることも、いつもの長編と同じである。さらには、どのような意味があるのか分からないほどポルノ小説紛(まが)いの「セックス」描写が頻出するのも、従来の作品と変わらない。『騎士団長殺し』を紹介する「東京新聞」の文化欄が、「春樹さん新作 おなじみの設定満載」と見出しを付け、「朝日新聞」の書評(評者斉藤美奈子)が「『穴』にどっぷり 春樹入門編」としたのも、この新作長編が「自作解説」的な側面を濃厚に持ち、また主人公の肖像画家の考え方や在り方が「作家村上春樹」の生き方や作風を彷彿とさせるものだったから、と思われる。
 しかし問題は、過去の作品と同じように「喪失(絶望)からの再生」を描いたこの長編には、例えば国の行く末を左右するような「共謀罪(テロ等準備罪)の制定を巡って混乱・混迷の様相を呈しているこの国の「現実=外部」が描かれていないところにある。つまり、作家の「内部(内面世界)」や「生の危機」は描かれていても、この長編からは作家や私たちが生きているこの社会の「現実」が見えてこないということである。具体的には、物語の時間は「3・11(東日本大震災・フクシマ)」の前後に設定されているにもかかわらず、登場人物たちは未曾有の災害であった「3・11」に対してどんな考えも披瀝せず、また「騎士団長殺し」という画に関わって、ナチスドイツのオーストリア侵攻(侵略)や日中戦争時における日本軍が行った「南京大虐殺事件」も出てくるが、それらの「歴史」が登場人物たちの「内面」や生き方に関わることはなく、単なる「点景」で終わっているということである。
 要するに、『騎士団長殺し』は、ナチスドイツによるオーストリア併合や日本軍による南京大虐殺という歴史的事実も主人公や登場人物の内面と関わらないが故に、作者自身が言う「日本という国の傷」をえぐりだすことにも、またそのような「傷」を持つこの国の現実にも「異議申し立て」することもない小説になってしまった、ということである。そもそも、手慣れた手法とは言え、この長編を主人公等が「騎士団長殺し」という奇妙な日本画に導かれ、「こちら側の世界=現実」と「向こう側=異界」とを行き来する「定番」のミステリー仕立てにしたところに、大きな問題があったのである。
 これでは、社会の現実と鋭く切り結ぶ文学に与えられるノーベル文学賞を村上春樹に期待するのは、今年も無理なのではないか、と思わざるを得なかった。>


冷静に! なお冷静に!(2)――このおっさん(安倍首相)、何を考えているのか?

2017-05-04 10:45:03 | 仕事
 「冷静に!」とタイトルを付けたが、昨日の安倍首相の戦前回帰を目指す「日本会議」系の改憲集会に送ったビデオ・メッセージの内容を見て、「冷静に!」などと言っていられないのではないか、と思った。
 そのメッセージの中で触れられている「日本維新の会」にしっぽを振るような俗耳に入りやすい「高等教育(高校・大学)の無償化」については、授業料や入学金で財政を賄っている「私立」の高校や大学のことを考えれば、そうでなくとも毎年「赤字国債」を発行して何とか当面の財政難を取り繕っている現状を考えれば、「高等教育の無償化」を保障する財源をどのように確保するのか、という大きな問題を考えれば、リップサービス以外の何者でもない。
 問題は、昨日のメッセージで、「北朝鮮や中国の脅威」を暗黙の前提として、従来の憲法第9条第1項・第2項はそのまま据え置き、それに加えて、「自衛隊=国防軍」の設置を明文化した「第3項」を憲法改正の目玉として、東京オリンピックが開かれる2020年には施行したいと明言したことである。
 もう一度、おさらいをする。日本国憲法第9条「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」の
 「第1項」は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
 「第2項」は、「前項の目的を達するために、陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
 となっている。
 たぶん、このおっさん(安倍首相)は、きちんと「国語」を勉強してこなかったから日本語文を正しく読めないのだろう。これは、集団的自衛権行使を容認する安保法制の国会通過の時にも指摘したことだが、今回の北朝鮮問題に関して、集団的自衛権を行使する(例えば、アメリカ軍の艦船を自衛隊が警護する)のは、もうすでに「第1項」の「武力による威嚇」を行ったのと同じで、多くの憲法学者が集団的自衛権行使は「違憲」だというのは、間違っていないのである。 アメリカ軍が、原子力空母カール・ビンソンを日本海に展開し(それと自衛仮名は強度訓練を行い)、かつICBM(ミニットマン3)の実験をお粉たことを許容する安倍内閣は、安保法制上は当然と思っているかも知れないが、そもそも安保法制そのものが「違憲」なのだから、なにをかいわんやである。
 (1)でも書いたことだが、北朝鮮にしてみれば、「米韓合同軍事演習」も世界第7位を誇る武器(戦闘機や軍艦、ミサイル、等々)を備えた自衛隊の存在も「脅威」である。
 安倍首相の今回のメッセージによって伝えられた「第9条の改正=自衛隊(国防軍)の設置を銘記した第3項の追加」もまた、北朝鮮や中国から見れば「脅威の増大」なのではないだろうか。
 そこで、言うのだが戦争=敵対関係に抗する思想は、「共生」しかない。アメリカの尻馬に乗って、外交努力など一切せず「敵対」し続け、国民に「恐怖」を煽る。北朝鮮のミサイルが飛んでくるかも知れないからと言って、地下鉄を止めたり新幹線を止めたり、政府の公報で「気をつけろ」と言ったり、「このおっさん、何馬鹿なことをやらせているのだ」、としか思えない。もし、本気で北朝鮮のミサイルが飛んでくると思ったのであれば、まず当然北朝鮮(だけでなく、中国やロシアのものも)のミサイルが標的にしている原発を即時停止すべきであるのに、そのことには一切触れない。

冷静に! なお冷静に!(1)――好戦・扇動家の首相の下で

2017-05-02 05:34:52 | 仕事
 このところずっとマスコミや自民党タカ派が煽っている今にもアメリカと北朝鮮が戦争を始めるかのような報道に接し、今更ながら思ったのは、いつから日本人は先のアジア・太平洋戦争に「敗北」した事実を認めたがらなくなったのかということであり、朝鮮半島で「戦争」が起こったら大きな被害を受けるのは、朝鮮半島の民衆であるのはもちろん、巨大なアメリカ軍基地が何カ所も存在する日本であるという事実に、なぜ目をつぶっているのか、ということである。歴史を繙けばすぐ分かることだが、近代の戦争は、「国内」に大きな問題を抱え、それが解決できない場合(内憂)、その問題の解決を「外」に求めようとするときに起こってきたわけだが、その事実を教訓とせず、またぞろ「戦争」を引き起こそうとする勢力が我が物顔で、今の日本には跋扈している。
 今回の「北朝鮮」問題は、多くの識者が言うように、アメリカ大統領選に勝利したものの「公約」のほとんどが頓挫してしまいそうなことに焦った「アメリカン・ファースト」を掲げるトランプが、前前大統領のブッシュがイラク戦争を始めたのと同じように、「東アジアの危機(北朝鮮の脅威)」を演出した結果であり、オバマ前大統領時代には何とか「平和的(対話で)」に解決しようとした北朝鮮のミサイル開発や核実験を「力づくで」押さえ込もうとしたことに起因している。このトランプの「暴力」的な極東戦略に、トランプと同じように「アベノミクスの失敗」や「森友学園問題」という国内問題を抱える安倍首相が「便乗」し、何とか現在の苦境を乗り越えようとしているその結果が、今回の「北朝鮮」問題の本質である
 そんな国内外の情況に悪乗りし「今にも戦争が起こる」かのように煽っているのが、「北朝鮮通」と称するジャーナリストであり、軍事評論家、外交評論家、と称する「怪しげな」人物たちと、それwpろゆしているマスコミ・ジャーナリズムである。
 しかし、安倍首相や彼らが口々に発している「北朝鮮の脅威」は、、北朝鮮側にしてみれば、「脅威」は毎年春に朝鮮半島の南部で行われてきた「米韓合同軍事演習」であり、アメリカがシリアに向けて発射した59発のミサイルであり、先日行われたようなICBM(大陸間弾道だ)の発射実験であり、何よりも朝鮮半島の両側水域に展開している巡航ミサイル(核ミサイル)を搭載している原子力潜水艦、ということになるのではないか。最新鋭のイージス艦や最新装備を誇る自衛隊も、また嘉手納基地や岩国基地、横田基地などに展開するアメリカ軍の存在そのものも、当然北朝鮮からは「脅威」とみなされているはずである。
 アメリカ・日本が「北朝鮮の脅威」を持ち出せば、北朝鮮側も「日本とアメリの脅威」を持ち出す。僕など「お互い様」としか思わないが、マスコミ・ジャーナリズムは「北朝鮮の脅威」だけを連呼し、安倍首相夫妻の関与が明らかな「森友学園」問題を隠蔽し、「国際紛争を解決するための戦力は持たない」という憲法(第9条)違反が明らかな集団的自衛権を行使して、実績作りの好機到来とばかりに、戦争の危機など皆無なのに、太平洋側で海上自衛隊の戦艦が「米鑑保護」を行う。
 それにしても、「北朝鮮の脅威」を理由に、やりたい放題の安倍政権は、大臣や政務官の「失言」や「破廉恥行為」が続発しても、「支持率の高さ」を後ろ盾に、強引に「戦争への道」を歩もうとしているが、「平和と福祉の党」を掲げる公明党はもちろん、自民党の「リベラル派」の沈黙、何とも不可思議である。戦前の「大政翼賛界」が何をもたらしたか、よもや知らないとは言わせない。
 戦争が起これば、必ず多くの民衆が「犠牲」となる。その冷厳な事実について、僕らはもう一度深く考える必要があるのではないか。安倍首相は「戦争」を避けるためにロシアのプーチン大統領が提案した「6カ国協議の再開」を一蹴した。あの人の外交は世間的には一定の評価を受けているようだが、僕に言わせればアメリカへの「追随」一辺倒で、アジア諸国に対する「外交」は経済力と武力を背景にした「強気」に終始している。
 それほどまでに安倍首相は「戦争がしたい」のか? 誰も「殿、ご乱心」と歯止めを掛ける者はいないのだろうか。
 しかし、第二次安倍内閣が成立してから6年余り、未だに僕に理解できないのは、安倍首相はどのような「理念」や「国家像」を持っているのか、ということである。まさか、お祖父さんの岸信介に倣って「アメリカ追随=従属化」を目指しているわけではないだろうし、かと言って、大きい影響を受けている極右団体「日本会議」のように、完全の「戦前回帰=天皇主権国家」を目指しているようにも思えない。「理念」無き国家はいつかは滅びると言うが、僕らは愚昧な安倍首相に率いられて、まだまだ「地獄巡り」を続けなければならないのだろうか