19日と20日の2日間にわたって実施されたセンター試験、「運悪く」その監督官に任命され、朝の8時半から夜の7時半過ぎまで、11時間を超す「労働」、本当に心身とも疲れました!
監督官の仕事はもちろん「試験の監督」であるが、センター試験の場合全国で50万人近い受験生が一世に受験するので、ちょっとしたミスも許されないという姿勢で実施される。特に3年前から導入された英語のリスニングテストは、どんな物音でも足音さえも立ててはいけない、もちろん居眠り等による「いびき」などもってのほか、という「厳戒態勢」の元で実施しなければならないので、本当に参ってしまう。ましてや僕はその教室の責任者だったので、余計に神経を使ってしまった。自分でも「真面目に勤めたな」と思うぐらい真面目であった。
受験生のことを思うと、そんなことは当たり前なのかも知れないが、60分(80分)ほとんど動かず、時計(電波時計で全国統一して実施)を睨み、途中で気分が悪くなったりトイレに行きたくなった受験生はいないか気を配った2日間、昨日が終わった途端、心身共にヘロヘロになっていることが分かった。久し振りに不快な疲労感を味わった。
しかし、考えてみると、全国の大学をひたすらピラミッド型に構造化し、偏差値で輪切りにして、合格する大学をあらかじめ選定し、決して「番狂わせ」を起こさせないようなシステムとしてのセンター試験、現在はまだまだ不参加の私大がたくさんあるので全国ピラミッドは完成していないが、こんな状態で社会の活性化を妨げる「学歴社会」を解消することができるのか? 文科省は教育の全国支配を貫徹するためにセンター試験の永久的継続を望んでいるのだろうが、センター試験をアメリカや中国のような「(大学入学の)資格試験」化に転換しないと、少子化の現在、そのうち機能不全を起こすのではないか、と思われる。
それに、2日間とも朝が早いということもあり、本当に寒かった。試験場にはエアコンが入っていたのだが、午前中は室温が上がらず、小便が近くなった(コーヒーの飲み過ぎ、という節もある)僕としては我慢が大変で、本も読めずずっと1時間受験生を監視し続けていたのは、「苦行」であった。
休日(土・日)に11時間強働いて弁当代も出ず自腹で昼を食べ、受験生からは「当然だ」という態度をされる悲しき「センター試験監督官」、たぶん今年で最後になると思うが、二度とやりたくないな、と思う。
そんな2日間を終えて帰宅したら立松和平氏から電話があって、大連外国語大学で日本の近現代文学における「自然と文学」との関係を研究したいと言ってきているが、協力して欲しい、と頼まれてしまった。立松氏とはお互いに依頼を断らないという「暗黙の了解」があるので、引き受けたが、それにしても面白いことを発想するな、と思わざるを得なかった。8年前、アメリカで半年ほど大学院生たちを教えたとき、彼ら・彼女らが日本の学生たちと違って、「昭和10年代の小林秀雄」とか「沖縄文学における占領問題」、「明治文学における<毒婦>ものの位置」などと言うスケールの大きい研究テーマに驚いたことがあったが、中国における日本文学研究もかつてのアメリカにおける日本文学研究と同じような問題意識になってきているのではないかと思った。面白いことが展開できるといいのだが。
監督官の仕事はもちろん「試験の監督」であるが、センター試験の場合全国で50万人近い受験生が一世に受験するので、ちょっとしたミスも許されないという姿勢で実施される。特に3年前から導入された英語のリスニングテストは、どんな物音でも足音さえも立ててはいけない、もちろん居眠り等による「いびき」などもってのほか、という「厳戒態勢」の元で実施しなければならないので、本当に参ってしまう。ましてや僕はその教室の責任者だったので、余計に神経を使ってしまった。自分でも「真面目に勤めたな」と思うぐらい真面目であった。
受験生のことを思うと、そんなことは当たり前なのかも知れないが、60分(80分)ほとんど動かず、時計(電波時計で全国統一して実施)を睨み、途中で気分が悪くなったりトイレに行きたくなった受験生はいないか気を配った2日間、昨日が終わった途端、心身共にヘロヘロになっていることが分かった。久し振りに不快な疲労感を味わった。
しかし、考えてみると、全国の大学をひたすらピラミッド型に構造化し、偏差値で輪切りにして、合格する大学をあらかじめ選定し、決して「番狂わせ」を起こさせないようなシステムとしてのセンター試験、現在はまだまだ不参加の私大がたくさんあるので全国ピラミッドは完成していないが、こんな状態で社会の活性化を妨げる「学歴社会」を解消することができるのか? 文科省は教育の全国支配を貫徹するためにセンター試験の永久的継続を望んでいるのだろうが、センター試験をアメリカや中国のような「(大学入学の)資格試験」化に転換しないと、少子化の現在、そのうち機能不全を起こすのではないか、と思われる。
それに、2日間とも朝が早いということもあり、本当に寒かった。試験場にはエアコンが入っていたのだが、午前中は室温が上がらず、小便が近くなった(コーヒーの飲み過ぎ、という節もある)僕としては我慢が大変で、本も読めずずっと1時間受験生を監視し続けていたのは、「苦行」であった。
休日(土・日)に11時間強働いて弁当代も出ず自腹で昼を食べ、受験生からは「当然だ」という態度をされる悲しき「センター試験監督官」、たぶん今年で最後になると思うが、二度とやりたくないな、と思う。
そんな2日間を終えて帰宅したら立松和平氏から電話があって、大連外国語大学で日本の近現代文学における「自然と文学」との関係を研究したいと言ってきているが、協力して欲しい、と頼まれてしまった。立松氏とはお互いに依頼を断らないという「暗黙の了解」があるので、引き受けたが、それにしても面白いことを発想するな、と思わざるを得なかった。8年前、アメリカで半年ほど大学院生たちを教えたとき、彼ら・彼女らが日本の学生たちと違って、「昭和10年代の小林秀雄」とか「沖縄文学における占領問題」、「明治文学における<毒婦>ものの位置」などと言うスケールの大きい研究テーマに驚いたことがあったが、中国における日本文学研究もかつてのアメリカにおける日本文学研究と同じような問題意識になってきているのではないかと思った。面白いことが展開できるといいのだが。
でも、センター試験のトラブルがニュースで流れるたびに、神経を使う仕事だなと思います。本当にお疲れ様です。
「運悪く」「不快な疲労感」「苦行」
などの言葉は、受験生の立場を思うと、読んでいて良い気持ちがしません。
こういう類の言葉は、例え本気でそう感じたとしても、軽々しく口にすべきものではないと思うのですが、いかがですか?
しかし、僕としては、受験生も同じように「苦行」を強いられ、「不快な疲労感」を覚えるような現在の大学入試制度に対して苦言や不満を呈する意味で、昨日の文章は書いたつもりです(「運悪く」は、60人近くいるわが学群の教員のうちたった6人しか、あの長時間の監督官に任じられなかったことについて正直に言ったことです)。
それはまた、「個別試験」という名の大学独自な試験を施す現在の大学入試制度の下で、果たして「センター試験」の意味はどこにあるのか、受験生こそその制度の「犠牲者」なのではないか、という意味も込めたつもりでした。大学の負担を軽くするという建前で始まった「共通一次試験」(センター試験の前身)ですが、僕の見るところ当初の意図とはずれたところで昨日し始め、「大学入試センター」は、いまや「改革」を最も必要としている文科省所管の法人になっているのではないか、と思います。
なのに、何故受験生を含めたみんなは沈黙しているのでしょうか?
あなたが批判する大学ピラミッドの割と上の方にいる筑波大学の教員だから,こんな「苦行」もたまにしかやってこないってことを理解してますか.
その想像力のなさに呆れます.
「〇〇という有名人が来た」とtwitterに書き込むバカなアルバイト学生と変わらない。
自身はどうなのか?