黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

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今年は、どんな年になるのだろうか?

2015-01-04 10:43:04 | 仕事
 元旦、2日、3日、と五月雨的に届けられた根賀状を読んでいて、頭をよぎり続けていたのは、「今年はどんな年になるのだろう?」ということであった。
 この問いは、毎年毎年決まって訪れてきていたものでもあるが、今年は12月に行われた総選挙の結果が自公「極右」政権の「圧勝」に終わったということもあってのことか、ある種の「恐怖心」も伴って、元日から今日までずっと続いている
 それは僕がそれだけ年を取ったということなのかも知れないが、年末から1日にかけて里帰りしていた次女の家族(とりわけ、1歳半の孫娘)の笑顔を見、また近所に住む長女の息子(小5)と娘(中1)がお年玉をもらいに年始に来たということなどもあり、このまま安倍「極右」内閣の思うままにさせていたら、この孫たちが成人になったときには、本人、あるいは恋人や伴侶が「戦場」に狩り出される可能性が大だと思うと、このような社会を許してしまった僕ら「大人」の責任は重大なのではないか、と思わざるを得ず、そのためにここ数日ずっと考え続けざるを得なかった。
 何故なら、「殺すな!(殺されたくない!)」という感情と思想(倫理と論理)を基底とする戦後民主主義が今ほど「危機」に瀕している時代はない、と思うからである。かつて、僕らは1960年末から70年代初めにおける「政治の季節」において、「ベトナム戦争反対」という世界政治に対する反意と共に、「戦後民主主義」を象徴する「大学の自治」に対する根源的な疑義から、その欺瞞性や脆弱性を暴き、1969年には東大の歴史始まって以来の「入試中止」という事態を引き出したが、あれから30年以上が経って思い起こすのは、この体制への根源的「疑義」の提出は間違っていなかったが、「民主主義」の価値に対して過小評価していたのではないか、ということである
 つまり、僕ら「大学闘争=政治の季節」を戦った全共闘世代が誤ったのは、長い歴史を経て勝ち取った「民主主義」思想の価値と意義を正しく理解せず、表面的にしか捉えなかったが故に、今日の状況を招来してしまった、ということである。
 2日に近代文学研究者(批評家)の後輩と久し振りにあってお茶をしたのだが、その時彼女が「何で、現代文学の世界で作家も批評家も、また研究者も、フクシマや現在の社会状況に対して正面からものを言わないのですか? 後から来た人間にすると、先輩たちの文学や社会に対する言動が余りにもいい加減に思えて仕方がない」と言ったこと、我が来し方を振り返って、彼女の言ったことの「正しさ」を半ば以上認めざるを得なかった。
 そう言えば、同世代から来た年賀状の文面を読んでいて、この時代の状況や僕ら世代の在り方について「憂い」を吐露していたのは、全体の2割ほどで、その多くが決まり切った挨拶以上のことは記さないか、現状に満足したような(あきらめきったような)文面であった。
 今更何を言っても仕方がない、という風潮がここ何年かすでに「定年」を迎えた僕ら世代に蔓延しているのではないか。
 だが、そんなどうしようもない状況に甘んじてはいけない、という思いも、僕の近現代文学研究や現代文学批評における「発語の原点」が、あの「政治の季節」=全共闘体験にある以上、強く持たざるを得なかったのも、確かなことである。
 今年がどんな年になるか。それを左右するのも、みんな僕ら一人一人の「思い=責任」にかかっているのだ、というのが、とりあえずの結論ということになる
 困難にめげず、生き抜いていきましょう
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明けましておめでとうございます

2015-01-02 08:56:25 | 仕事
 いよいよ2015年が幕開けとなりました。この国も、また私自身も「前途多難」(精神的)な年になるのではないかと予感していますが、とりあえず、年頭の挨拶を送ります。

 あけましておめでとうございます
 今年もよろしくお願いします


 今年も、思うまま、感じたままをこの欄に綴っていきたいと考えています。
 多くの方の参加を望みます。
 では。
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