黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「夢想家」の暴走始まる!――右派の本性現る

2013-07-28 04:13:15 | 近況
 「美しい国」、あるいは「日本を取り戻す」という、いかにも「抽象的」としか言いようがない言葉に拠って、この国の「変革」や「未来」を語る安倍晋三という人間とその追随者たち、もしかしたら「本気」で「憂国者=夢想家」を気取っているのかも知れないが、参院選での勝利を手にした途端、その「本性」を露わにしてきたようで、何とも不気味な感じがしてならない。
 先に、参院選の結果については、「希望も絶望も語れない」と書いたが、安倍氏は参院選勝利を背景に、あたかも「憲法改正」を前倒ししたかのように「集団的自衛権」の可能性を検討させると言い、また「防衛大綱」の中で「専守防衛」の枠を破る「敵基地攻撃能力」の整備や自衛隊の一部をアメリカ軍の「海兵隊」と同じような機能を持った部隊にする、さらにはこれは参院選のさなかであったが「軍事オタク」の石破幹事長が自衛隊を「国防軍」にした後には「軍法会議」を設定する、などと発言したことを考えると、何でこの国の国民は安倍氏に「全権委任」をしてしまったのか、と思わざるを得ない。
 言い方を換えれば、いかにも新保守主義者(アメリカではすでに破産した「ネオコン」と呼ばれる人たち)が考え出しそうな「アベノミクス」なる一部の人たちしか「恩恵」にあずかれない経済(金融)政策が、あたかもこの国全体を「再生」させる万能薬であるかのような幻想を振りまいている間に、安倍氏たち右派の政治家たちの「本性」=憲法改正(「戦争のできる国」への改造)の実質化が露わになってきた、ということである。前にも書いたが、「目先の利益」を追求する余り「百年の大計」を見失った、ということなのだろうが、しかし安倍氏やそのブレーンたちのやっていることは、全く「未来」志向を欠いた「ニヒリズム」としか思われないところに、本当に「危うさ」を感じる。
 どうも、安倍氏の唱える「アベノミクス」や一連の憲法改正を前倒ししたような発言を見ていると、僕には明治初期の日本や新興国(開発途上国)が国是とした「富国強兵」策が思い出されてならないのである。明治国家が国際社会の中で一定の地位を得ようとして「不平等条約」の撤廃を悲願としたように、安倍氏はどう考えても「富国強兵」に象徴される戦前的価値に重きを置いているように思えてならないのである。つまり、安倍氏の価値観は「新保守主義」という衣を被った戦前志向にある、ということである。何よりも「美しい日本」を取り戻すという、何処にも存在しない「幻想の日本」を追い求めるところに、安倍氏の何とも「甘い」ロマンチシズムとその裏返しのニヒリズムを感じるのだが、最も「リアリズム」が求められる政治を、こんなロマンチストに任せてしまっていいのだろうか、と思わざるを得ない。
 そして思うのは、もうすぐ68年目の「8月15日・敗戦記念日」が来るが、参院選で安倍氏に「全権を委任」してしまった国民の多くは、あのアジア諸国(中国を中心)に2000万人にという犠牲者を出し、300万人を超える犠牲者と焦土と化した国土を残した「アジア太平洋戦争」のことを思い出さなかったのか、ということである。別な言い方をすれば、自公政権にこの国の舵取りを任せた人たちは、今は「臍を噛んでいる」のではないか、ということである
 先日、ある同年配の人と話をしていて、自分たちの世代は「戦争から帰還した兵士たちの息子・娘世代だ」(つまり団塊の世代・第一次ベビーブーム世代)ということになったのだが、そこで考えたのは、安倍氏や石破氏が「3代目」「2代目」の世襲政治家であることから推測するに、彼らの親やお祖父さん・お祖母さんは「政治家」(この国に対して指導的立場にあった人たち)であったことによって、アジア太平洋戦争の「辛酸」を経験してこなかった、つまり戦争の本当の怖さを知らない人たちであり、そのような人たちにこの国の「現在」と「近い将来」を任せてしまっていいのか、ということである。
 何とも">「不気味な社会」font>がやってきそうである。

「絶望」も「希望」も語れない!(2)  

2013-07-23 09:17:29 | 仕事
(昨日の続き)
 今朝の「朝日新聞」に内田樹が書いていた参院選の総括「百年の計よりも目先の利益を追求した」は、この間ずっと僕が書いてきたことと同じ内容であり、我が意を得たりとの思いが強いが、しかし今度の参議院選挙(と、先の衆院選挙も)について思うのは、やはり「民主主義が危機的な状況にある」ということであり、それと関連して「将来(未来)」のことなどを考えない「目先の利益追求(ニヒリズムの亜種)」が、人々の間にいかに蔓延しているかをまざまざと見せつけた、ということである。
 それともう一つ、マスコミが話題とした「低投票率」の内実について、これについて余り話題にならないのだが、今回の選挙で「大勝」した自民党に関して、支持率の実数に近いということで「全国比例」を例にとって計算するならば、自民党の支持率は「全体の投票率(52.61%)×自民党の得票率(34.7%)=18.26%」ということになるということを、僕らははっきりと認識した方がいいのではないか。つまり、国民の「20%」も支持しない政党の政策(公約・マニフェスト)によって今後の政治が左右されるという現実を、僕らが今後どのように考えるか、そこにこそ「絶望」や「希望」を超えるリアリズムの確かさがあるのではないか、ということである
 ファシズムや右傾化は、いつも「目先の利益」を最優先させる社会が実現したときに、牙をむいて僕ら国民に襲いかかってくるものである。「あっ」と思ったときは、「もう遅い」ということはよくあることである。少なくとも1930年代(軍国主義が本格化した時代、「15年戦争下」という言い方もある)の轍を踏まないこと、安倍首相(自民党)が声高に叫んでいた「日本を取り戻す」の「日本」とはどのようなものなのか、そのことを見極め、そしてそれに「対抗する日本」像をいかに創出できるか、そのことに「今後」がかかっているのではないか、と痛切に思う。
 しかし、選挙が終わってから、東電が「放射能汚染水を海に流した」と公表したり、福島選挙区で当選した自民党の候補が「福島第一原発は廃炉にするが、政府の方針である原発の再稼働は認める」と、ダブル・スタンダード(沖縄の自民党が普天間基地の移設にかんして使っていたのと同じ「二枚舌」)を平気で公言する、何とも緩んだ参院選後の「政治」、何が起こるか分からないのが、「政治」の世界、どんな政治状況になっても、それを「楽しむ」ような余裕を持って、今後を考えていきたいと思う

「絶望」も「希望」も語れない!

2013-07-22 11:34:23 | 仕事
 大方の予想通り、昨日投開票のあった参院選は自民党の圧勝、自公の与党で参院の過半数を確保、という形で終わった。
 昨夜午後8時に始まった各局の「選挙特番」の出口調査に基づく当落予想を見て、もしかしたら予想を裏切る大逆転があるのではないかという「儚い期待」も裏切られ、早々にチャンネルを換え、BSのドラマを見たり、アジア杯カップのサッカーを見たりしていたのだが、その間考えていたことは、現代日本における民主主義思想(感)の「劣化」についてであった。
 というのも、これも又マスコミの予想通りだったのだが、「投票率の低さ」をまざまざと見せられたからに他ならない。結果的には「52.61%」、前回より「5.3%」下がり、戦後3番目の低さであったという。しかし、この「低投票率」に関して、選挙戦が始まってからの世論調査で、どの調査も「投票へ必ず行く」「行くつもりである」を合わせると、大体が「92%」前後であったことを考えると、単純に引き算して、「約40%」の人が投票しなかったことになる。となると、この「投票不参加」の数の多さは何を意味しているのか、このような「低投票率」で、果たして「民意」が反映されたと言えるのか、「民意」と言えば、この投票へ行かなかった「約40%」の人たちの存在にこそ、真の意味での「民意」はあるのではないか、というようなことをいろいろ考えなければならない、と痛感させられた。
 もちろん、「低投票率」が組織力――「利益」誘導組織――のある自民党、公明党、そして共産党の「勝利」をもたらし、それはまた反面、「民主主義」が危機的な状況にあることの明らかな反映だと思うが、しかい「民意」を反映した(と思われる)「約40%の人々」の存在は、考えようによっては最も先鋭に現在の政治状況に対して反応した人たちであって、この多様な「政治課題」と真剣に取り組む受け皿(政党)が存在しないと判断し、早々に政治の舞台から下りてしまった人たちであるとするならば、これからの「政治」は彼らの存在を視野に入れない限り、「失敗」に終わるのではないか、と思われてならない。
 その意味では、今後の政治上に対して「冷静」かつ「真剣」に見守ることが重要だと思う
 また、沖縄で「反米軍基地」を掲げ、普天間基地の「県外(国外)撤去」を主張し続けた糸数氏が当選したこと、また東京地方区で俳優の山本太郎が「反原発・反ヒバク」という一つのテーマ(もちろん、彼は「反TPP」なども掲げていたが)で当選したこと、など、「民意」が正当(正統)に反映されるということもあった。これで「希望」を語れ、ということもできないが、そうかと言って「絶望」を語る必要もないのではないか。
 たぶん、今求められているのは、「明日」に向かっての、地道な「批判(批評)精神」を研ぎ澄ますことなのではないか</fo</font>nt>、ということである。

絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるに相同じい(魯迅)

2013-07-21 09:58:08 | 仕事
 今日は、参院選の投票日、その結果はたぶん夜もそう遅くない時間に判明するだろうが、その結果がマスコミの予想通りだったとしても、とりあえず、表題として掲げた魯迅の言葉を肝に銘じ、明日からも「リアリズム」に徹して生きていこうと思う。
 ">「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるに相同じい」font>

「ねじれ」は、僕らの意識に!(11)――解消すべきは、僕らの意識!  

2013-07-20 09:08:58 | 仕事
 いよいよ、明日は投票日、気になるのは、各種マスコミが伝えていることだが、「投票率」のことである。昨日もあるテレビが伝えていたが、各世代の中で最も投票率が低いのは、20代だという。彼らの投票率は、30%を少し上まわる程度であり、このことは70%近い若者が先人が折角長い時間を掛けて獲得した「参政権」(基本的人権の一つでもある)を、自ら放棄するということで、例えば、このままで行けば、近い将来「失ったことの大切さに気付く」だろうとは思うが、それでは遅い、というのことは、歴史が教えるとおりである
 しかし、この「民主主義」、あるいは洋の東西を問わず「近代社会」が苦闘の末に獲得してきた「基本的人権」の最重要項目の一つである「参政権」を投げ捨てて(放棄して)顧みない現代の若者たち、これは「戦後民主主義」運動を象徴する「日教組」(及び、革新的教師集団、など)の存在を目の敵にして、いかにして日教組を潰すかに奔走してきた保守主義(自民党)やウルトラ・ナショナリストたちの「勝利」と言えるかも知れない。
 つまり、「民主主義教育」の実現を目指してきた日教組及び革新的教師たちの実践を、漫画家の小林よしのりのように保守派と一緒になって「偏向的」であると批判し、文科省(文部省)の主導による「成績第一主義」(考え方や健康、生活態度、仲間との共生、等々を蔑ろにして、「効率」を最優先に考える教育観)を「よかれ」と思ってきた戦後の親と子供、そして教師たち、彼らこそが「参政権」を放棄しても何の痛痒も感じない、まさに民主主義社会の「モンスター」を生み出した、とも言えるということである。
 なお、翻って考えてみると、例えば、大方のマスコミが伝えるように安倍政権(自公政権)が「勝利」したとしたら、自民党がもっぱら前面に押し出している選挙スローガン「強い経済(日本)を取り戻しつつある」が、40%になろうとしている「非正規労働者」によって支えられたものであることが明白になり、本当は「弱い日本・経済」なのに「強い」と言い張る姿その姿勢こそ、まさに「ねじれ」を象徴しているのではないか、と思わざるを得ない。街頭インタビューなどを見ていると、「選挙に行かない」と答えている若者の大半は、アルバイトなどの「非正規労働者」か学生であって、大企業(輸出産業)最優先のアベノミクスから取り残された人間であるのに、彼らは自らの意思を「投票行動」によって示そうとしない。
 理由を聞くと、「面倒くさい」「分からない」「似たり寄ったりでどの政党に投票したらいいか分からない」「どの政党が勝利しても、世の中変わらない」「考えたことない」などを上げていたが、僕などは自分の20代を思い出して、学生時代が「政治の季節」(全共闘運動時代)であったということもあり、「感受性が鈍くなっているのではないか」、「危機感が希薄なのではないか」、あるいは「感受性が鋭すぎるから、投票行動(社会参加)を拒絶するのかも知れない」などとあれこれ考えるのだが、総体として「腹立たしい」思いもないわけではないのだが、同時に「怠惰」をも正直感じるのだが、そのように漢字仮名ゲルのは、僕だけだろうか。
 いずれにしろ、マスコミの予想通りに自民党が参院選で「勝利」するようなことになったら、「憲法改正」「TPP参加による、農業の壊滅」「基本的人権の制限」「原発再稼働・輸出」等々が進むだろうから、息苦しくなるのは必定、何ともイヤな時代が来そうである。「日本を取り戻す」を連呼している安倍首相の「日本」が「戦前的価値」に染められた「日本」であることは、彼の言動から明々白々である。そんな「日本」を僕らは認めることはできない。 その意味では、">まず僕らの「ねじれ」意識を解消して、衆参の「ねじれ」はそのままfont>、ということを本気で考える必要があるのではないか、と痛切に思う。

「ねじれ」は、僕らの意識に!(10)――安倍政権に何を期待しているのだろうか?  

2013-07-18 11:05:15 | 仕事
 テレビを点けても、新聞を読んでも、今度の参院選は、与党(自公政権)が「大勝利」(過半数獲得)し、「民主党は惨敗」するという選挙予報しか目に入らなくなったが、民主党が「惨敗」するのは、その政治姿勢が一貫せず、例えば「脱原発」についても政党としてはっきり言明できないというようなこともあって、「自業自得」と言っていいかも知れないとして、残念でならないのは、「野党」が林立(分裂)し対立することによって――少なくとも「脱原発」「反TPP参加」「改憲阻止」「社会保障の拡充」などで一致できる共産党や社民党、生活の党、みどりの風は「統一戦線」を組んで、自公政権の「暴走」(ねじれ解消・過半数獲得)だけは何としても阻止して欲しかったと思うが、そのことは適わず――組織力のある自民党と公明党が「漁夫の利を占める」ことになるのだろうと思うと、何ともやりきれない気持でいっぱいになる。
 そして思うのは、安倍政権に何を期待しているのだろう、という素朴な疑問である。つまり、全国区でも地方区でも自民党に1票を投じようと思っている人は、本当にアベノミクスによって自分たちの生活が「豊か」になり、原発再稼働や原発輸出はその推進力になると思っているのだろうか、ということである。「TPP参加」についても、同じである。農家を潰して(食糧自給率を下げて)、この国の「未来」はあるのか、ということである。あるいは、「憲法改正」についても、本質的には安倍晋三氏も石原慎太郎日本維新の会共同代表も、同じ憲法観の持ち主だと思うが、戦略上なのか「憲法隠し」を行っている自民党(安倍政権)の代わりに言いたいことを言っている石原慎太郎の憲法論を見ていると、明らかに「武力」によって近隣諸国を脅かし、圧することによって「日本」という国を「アジアの盟主」(何と現実離れした、空疎な言葉か)として君臨させようとしているようで、何のためのそんなことをしようとしているのか(言い続けているのか)、全く理解できない。
 要するに、石原慎太郎も安倍晋三も「平和」と「民主主義」に象徴される「戦後的価値(思想)」が目障りで、自民党の「日本を取り戻す」が象徴しているように、戦前の価値観こそが尊いものだ、という何とも馬鹿げた「復古主義」に過ぎないのではないか、と思うが、そのような「言葉の詐術」に現在の日本人は易々と引っかかってしまう脆弱さを持っているのかも知れない。
 とは言え、もう一度言うが、自公政権を「承認」しようとしている(自公に投票しようとしている)人たちは、つまりあの手この手を使って原発再稼働を策動する自民党に尊い1票を捧げることは、少なくとも「核との共存」を望んでいることになるということを、よく考えて欲しい、と思う。現在の科学及び思想の水準を考えれば、とうてい「核との共存」は不可能だということになっている。だとすれば、そんな「未来」を閉ざす自民党・公明党に何を期待して1票を投じようとしているのだろうか、と思わざるを得ない
 さらに、これは昨日書いたことに繋がるのだが、全労働者の内「非正規労働者」が40%近くなっている現実を考えたとき、そのような「格差社会」をもたらしたのは、歴代の自民党政権(自公政権)、とりわけアメリカの言いなりになって「規制緩和」(その代表が郵政民営化)に熱心だった小泉内閣であったこと、そしてそのような「規制緩和」をさらに進めようとしている安倍政権に、何故「40%の非正規労働者」は異議申し立て(反対)しないのか。これでは従順な「ポチ」ではないか。
 メディアの予想通りに与党(自公政権)が「過半数獲得」したとするならば、それは「1億、総ポチ化」ということであり、余りにも悲しい。
 投票まであと3日、ここでもう一度立ち止まり、よく考えて欲しい、と思う。

「ねじれ」は、僕らの意識に!(9)――アベノミクスと庶民感覚  

2013-07-17 10:29:35 | 仕事
 各種のメディアは、安倍自民党が相変わらず「高支持率」を保ち、参院選で単独過半数を占める勢いだ、と報道しているが、繰り返されるその種の報道に接しても、僕の中からは「本当なの?」という疑問符が消えない。
 理由ははっきりしている。これは安倍首相や政府関係者、あるいは経済団体だけでなく、各種の報道で「アベノミクスによって景気は上昇している」(例の日銀短観が「やや景気回復しつつある」と言明したことと連動しているのだろうが)ということと、僕ら庶民(市民)の生活実感(実態)とがずれていると思うからに他ならない
 具体的には、「円安・株高」で大手企業中心の「輸出産業」はこれまでにない「利益」を上げ、「景気がよくなった」と思っているかも知れないが、僕らの生活は「給料は上がらず」、電気料金を初め各種の公共料金は上がり、原料を輸入に頼らざるを得ない食料品を中心に物価も上昇し続けいる――僕の家は「年金生活」だが、介護保険の負担額の上昇によって実質の収入は減ってきている。ついでに言うならば、1ヶ月ほど前から「隠れ値上げ」が続いているようで、毎朝使うハムは「値段は据え置き」ながら、厚さが減らされ、ウインナーは袋に入っている数が1本少なくなっている――。
 つまり、アベノミクスは、一部の人には「恩恵」をもたらしたかも知れないが、全体としては「物価上昇」(生活を追いつめる)だけは実現したが、「豊かさ」の実現からはほど遠いものとしてあり、結論的には「失敗」(幻想)なのではないか、と思うが、有権者(国民)の多くは、そんな「失敗」した(幻想の)アベノミクスに何を期待しているのか知らないが、相変わらず「政治」には「経済(景気回復)・雇用」を期待し、そして安倍自民党に「高支持率」を与えている。
 このマスコミの調査結果こそ、まさに「ねじれ」の意識そのものの現れと言っていいのだが、何故このような「ねじれ」が生じるのか。自分の現在の生活を「冷静」になって見つめれば、自分の意識が「全体のムード」に流され、「矛盾=ねじれ」していることに気付くと思うのだが、「流れ」に逆らうことをしない昨今の風潮、言い換えれば「長いものには巻かれろ」、あるいは「異端であることを怖れる」風潮の下で生きる、という大勢に従うことの「楽さ」から抜け出すことに、多くの人々が恐怖しているのかも知れない。
 これは、60代よりも20代の方が圧倒的に投票率が悪いということに繋がっていることなのだろうが、かつては若者の特権として「体制=大勢」への「異議申し立て」が行われたが、昨今はそのような「特権」を放棄して、「大勢=体制」に順応すれば「幸せ」(それも何時壊れても不思議でない、「ちっぽけな」)が得られるのではないかとばかりに、「体制」にしっぽを振り続ける若者が多い(ように、僕には思える)。もちろん、そんなことを言う僕だって、この世で生きている以上、(あの吉本隆明が言った「名言」のように)「体制」に荷担しているのは事実であり、「高所」から他人にとやかく言える立場ではないことは、重々承知している。しかし、それと同時に、大事なのはそのような現実(生きることはそれだけで体制に荷担しているのだという現実)を認め、そのような現実をどうしたら「変革」できるかを考え続け、できることから行動することだ、とも思っている
 僕が、この参院選に対して、「体制=大勢」に対して「異議申し立て」をし、なおかつ僕らの現在の「ねじれ=矛盾」こそを解消しなければならないと考える、以上が所以である。特に、「アベノミクスの成功」あるいは「アベノミクスに期待する」ということが、いかに僕たち=庶民の感覚とずれているか、僕らはとことん自分たちの「生活」感覚を動員して考えるべきである。
 ">政権党の「甘い言葉」にも、また自分たちの「幻想」にも「だまされてはいけない」、というのが、率直な意見である


 

「ねじれ」は、僕らの意識に!(8)――思考停止か?  

2013-07-16 09:31:49 | 仕事
 参院選も終盤、相変わらず自民党が高い支持率を誇り、各種の世論調査に拠れば、自民党が「単独過半数を占める」勢いだという。昨日も書いたが、東京都選挙区や岩手選挙区が象徴しているように、複数区で野党(民主党)が分裂した結果自民党が「漁夫の利」を得るということもあっての調査結果なのだろうが、そのこと以上に僕が問題だと思うのは、総体として与党(自公政権)が「争点ぼかし」ないしは「争点隠し」をしているのではないか、そしてそれは「将来」を見据えた「国民全体の利益」の追求ということではなく、当面「目先の利益」しか目に入らない「特定の組織」に頼った選挙を行う、ということに繋がっているように思える。
 例えば、僕が1票を投じることになる「群馬選挙区」には「4人」が立候補しているが、前にも書いた「東京新聞」のアンケート(その結果は、今日16日と18日の2回にわたって公表されるという)、それは民主党の新人(女性)、自民党の現職(男性)、共産党の新人(女性)の3人に宛てたものであり(何故か、諸派<幸福実現党>には送られなかったようだ)、今日の回答項目を見ると、以下のようになっている。
 ①憲法(改憲に賛成ですか)
 ②農業政策(群馬の農業政策の最大の課題を地震の農業体験に基づいて)
 ③農地集約(群馬で農地集約は有効策ですか)
 ④消費税(消費税を予定通り来年4月に8%に引き上げるべきですか)
 ⑤アベノミクス(アベノミクス(安倍政権の経済政策)をどう評価しますか)
 ⑥少子化対策(少子化対策で勧めるべき政策は何ですか)
 いずれも、今度の参院選の「争点」だと思うが、自民党現職はいずれの質問項目にも「回答なし」であった。いやしくも「公器」であるメディア(新聞)の「公開質問」に対して、「回答なし」というのは、いかに自民党(候補)が「驕っている」か、あるいは有権者を「馬鹿にしている」かのどちらかであって、「誠実さ」に欠ける行為に他ならない。昔、自民党の「重鎮」が首相であったときに、「有権者はあまり投票に行かず、眠っていてくれた方がいい(低投票率の方がいい)」と言って、選挙に惨敗したことがあったが、自民党という保守政党の体質は変わらないのだろう。「回答なし」というのは、有権者に「考える材料を与えない」ということを意味し、その点ではまさに自民党は「争点隠し」「争点ぼかし」をしていると言われても仕方がないだろう。
 この「争点ぼかし」「争点隠し」ということでは、安倍首相が「原発再稼働」についても、「TPP参加(5品目を関税撤廃の例外とする。―たった5品目を!)」や「(年金・医療・子育てなどの)社会保障」についても、そして「憲法改正」についても、その具体策となると「あいまい」かつ「ぼかした」言い方しかせず、ただ「(アベノミクスの成功)で経済は再生しつつあります」(具体的に、国民の生活が「豊か」になったとは思われないのに)と「日本を取り戻す」などという抽象的な言い方をしていることに代表される
 国民を馬鹿にしている、としか思えないのだが、国民(僕ら)は「低投票率」という形でしか、自民党にの「傲り」に対抗できないとしたら、何とも悲しいことである。しかし、野党が「林立」している現状では、「低投票率」は組織票をフル動員している自民党、公明党、共産党が「利益」を得るだけで、自公で議席の過半数を占めることになれば、仮に低投票率でも(得票数が少なくとも)「これで、自分たちの政策は認められた。これからは、何でもできる」ということになり、憲法改正も、原発再稼働も、弱者切り捨ても、やりたい放題になるのではないか、と思う。
 どのメディアの「調査」でも、参院の「ねじれ解消」に反対が多いにもかかわらず、たぶん、自公政権は「今でしょう!」とばかりに、東アジアを緊張状態に導く「危険」な政策を実行してくるだろう。何とも「不気味」だが、今一番大事なのは、何度でも言うが、「目先の利益」ではなく、「将来の日本」をどのようにみすえているか、である。「目先」の利害損得ではなく、おのれの「心」に深く問いかけ、そしておのれの「良心」に恥じないような投票行動を勧めたい。

「ねじれ」は、僕らの意識に!(7)――「憲法改正」を考える(その3)  

2013-07-15 10:18:37 | 仕事
 一個の人間として、あるいは一人の批評家として、現憲法から自民党の「憲法改正草案」が「草案」ではなく、そのまま最高法規の「日本国憲法」になった場合、(その1)(その2)でも書いたが、「基本的人権」の「自由権(表現の自由・思想信条の自由、等々)」や「抵抗権(権力を批判する権利)」などが制限され、その代わりに「公共」という名の「国家」がせり上がってくることにも危機感があるが、それ以上に現憲法の中心思想の一つである「平和条項」(第9条並びに「前文」の精神)が否定され、「戦争のできる国」へと転換させられることである。
 昨日(14日・日曜日)の政治討論会で、石破自民党幹事長は、「現憲法かでも<集団的自衛権>は認められる」と、とんでもない憲法解釈を行ったが、この頃の「野党の力不足」から生じた自民党支持率の高さ――しかし、先の衆院選及び都議選で自民党の得票数が高くなっただけでなく、低投票率に助けられた、いわば「棚からぼた餅」式の勝利であり、現在に至っても、「頼るべき野党が存在しない」あるいは「野党の林立」という、まさに「敵にから塩を送られ」ての高支持率であること、このことの意味を僕らはよく考えなければならない――に乗じた、いかにも「軍事オタク」らしい言説である。
 「集団的自衛権を認める」というのは、一般論としては「同盟」を結んでいる国が交戦した(戦争になった)場合、共に武器を持って戦うということであるが、現在の世界情勢を考えた場合、「日米安保条約」を結んでいるアメリカがどこかの国と戦争状態になった場合、日本の自衛隊(「国防軍」になっているか?)がアメリカ軍の要請を受けて(あるいは要請がなくとも独自の判断で)「敵国」に武力攻撃ができる、つまり「日本が戦争に巻き込まれる」ということである。逆もまた真で、自衛隊が「仮想敵国」としている(してきた)北朝鮮、ロシア、中国と日本が戦争状態になった場合、アメリカ軍の「支援」(中国と戦争担った場合、支援するかどうか、僕はしないのではないか、と思っている)を受けられる、ということである。
 要するに、これまで日本は世界に向かって「戦争しない国」として受け入れられたが、これからは「(日本は)戦争をいつでもできる国」として世界に認知させるということである。たぶん、「集団的自衛権を認めた」先に想定されるのは、もちろん憲法第9条(平和条項)を「改正」した後になると思うが、「徴兵制」の実施である。「平和憲法」のおかげで(戦争に行かなくてもよい、という前提で)、今でも自衛隊(特に陸上自衛隊)は慢性的な定員不足になっている。戦争状態になったとき一番犠牲となる「歩兵(兵士)」の不足を補うには、韓国などのように「徴兵制」を実施するしかない。
 僕は、こんな分かり切った「憲法改正」論者たちの主張に対して、「徴兵年齢」の適齢期である「若者」たちが何故「反対」の声を上げず、あまつさえ安倍自民党総裁の演説に日の丸の旗を振って歓喜の声を上げる、おかしいのではないか、と思わざるを得ない。よかったか、悪かったか、それは文字通り「歴史」しか証明できないが、日本がこれほど「豊かな国」になったのは、戦後68年間、一度も「対外戦争」を行わず、ずっと「平和」だったからであること、このことの重い意味を僕らはもう一度考える必要がある。愛する夫が、子供が、恋人が、生命をかけて戦場に出掛けていく、これがいかに過酷で悲惨な結果をもたらすか、このようなときこそ僕らは層状力を働かせ、目先の「利益」ではなく「永遠(未来)の平和」に思いを馳せるべきではないか。 そして、「北朝鮮人が靖国神社に放火した」などと待った間違った情報を振りまく(実際は、中国籍を持つ人間が放火した。そのことを韓国で自白した)石原慎太郎日本維新の会共同代表が言うような「屈辱憲法」であるかどうか、もう一度僕らは「戦争をしない国」であることを世界に向かって宣言した「憲法前文」及び「第9条」をもう一度よく読んで、僕らの内部の「ねじれ」を点検すべきなのではないか、と思う。
<憲法前文>(一部)>
「(前略)日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する子とを確認する。(後略)」→このような思想の何処が「屈辱」なのか。また「不満」なのか。僕には分からない
<第9条>(全文)font>
「①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、理解空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」→この条文を素直に読めば、世界第7位の戦力を有する「自衛隊」の存在そのものが「違憲」であることは、明々白々である。

「ねじれ」は、僕らの意識に!(6)――憲法改正を考える(その2)

2013-07-13 06:28:35 | 仕事
 今まさに終盤戦を迎えている参議院選挙を眺めていて、奇妙に思うのは、「憲法改正」に熱心な政党(例えば自民党)が、正々堂々とその「改正」の中身について、選挙の「争点」にしていないことである。訴えているのは、もっぱら「アベノミクス」がいかに成功しているか、である――このアベノミクス成功論で笑ってしまうのは、本来なら政府の金融政策に対する「お目付役」であるべき日銀がその短観で、安倍首相が「ごり押し」的に送り込んだ黒田総裁が率いているのだから仕方がないのかも知れないが、「景気は徐々に回復している」と宣ったことである。確かに輸出産業などは株高・円安の中で「好況」を呈しているかも知れないが、国内的には「デフレからの脱却」は成し遂げられておらず、あまつさえ「給料が上がらない」状態が続いていて、誰もが「景気回復」など実感していないのが実態なのに、それでも日銀総裁をはじめアベノミクスを煽っている一部マスコミも、「景気は回復している」と言う、この「ねじれ」というか、パラドクスにこそ、大きな問題があると言わねばならない――。
 そんな見せかけ(幻想)でしかない「経済(景気回復)」を全面に押し出し、「憲法改正」という本音を隠しての選挙戦、そしてそのような「幻想」を承認して(?)高い支持率(投票先)を与える国民。もちろん、誰だって現在の「苦境」を乗り越えるために「何かにすがりたい」と思うのは自然だし、そんな気持ちになるのも仕方がないと思いつつ、しかし今朝のニュースでも報じていたが、現在の日本における「非正規労働者」の数が全労働者の40パーセント近くなっているという現実を考えるとき、こんな「異常」な労働実態を作り出したのは誰か、それでも「景気回復」などと言えるのか、「成功している」とされる現在の「経済政策=アベノミクス」は本当に自分たちの「味方」なのか、をもう一度考え直す必要があるのではないか。つまり、自分たちの生活を苦しめているのは、まさに現在の経済政策であることを、もっと深く考えるべきなのではないか、ということである
 これは、「勝利」が間違いないとされる現政権(自公政権)が、各種の世論調査で、政治に期待するのは「年金や医療」など社会保障関連であるとしているにもかかわらず、あるいはこのこととの関連で言えば、第一次安倍内閣の時、「年金の記録漏れについては、最後の一人まで明らかにする」と豪語していた安倍首相が、今なお「年金問題」は多くの問題を抱えているにもかかわらず(その点では、民主党政権は改善に「努力」したと思っている)、今度の参院選では、訳の分からない(抽象的な)「日本を取り戻す」などという言葉を連呼しても、「年金」や「医療」、あるいは「介護」、「子育て」(以前、「女性の労働現場を知らない「3年の育児休暇取得」などと夢のようなことを言っていたが)について一言もしゃべらない現政権(安倍首相)とそんな「いい加減」な政党を支持する国民、ここにもやはり「ねじれ」が存在する、と思わざるを得ない。
 故に、この「ねじれ」の先にある「憲法改正」の野望を警戒するのである。つまり、「憲法改正」の中身に触れない「姑息な」やり方の裏にこそ「危険」が潜んでいる、というわけである。