「美しい国」、あるいは「日本を取り戻す」という、いかにも「抽象的」としか言いようがない言葉に拠って、この国の「変革」や「未来」を語る安倍晋三という人間とその追随者たち、もしかしたら「本気」で「憂国者=夢想家」を気取っているのかも知れないが、参院選での勝利を手にした途端、その「本性」を露わにしてきたようで、何とも不気味な感じがしてならない。
先に、参院選の結果については、「希望も絶望も語れない」と書いたが、安倍氏は参院選勝利を背景に、あたかも「憲法改正」を前倒ししたかのように「集団的自衛権」の可能性を検討させると言い、また「防衛大綱」の中で「専守防衛」の枠を破る「敵基地攻撃能力」の整備や自衛隊の一部をアメリカ軍の「海兵隊」と同じような機能を持った部隊にする、さらにはこれは参院選のさなかであったが「軍事オタク」の石破幹事長が自衛隊を「国防軍」にした後には「軍法会議」を設定する、などと発言したことを考えると、何でこの国の国民は安倍氏に「全権委任」をしてしまったのか、と思わざるを得ない。
言い方を換えれば、いかにも新保守主義者(アメリカではすでに破産した「ネオコン」と呼ばれる人たち)が考え出しそうな「アベノミクス」なる一部の人たちしか「恩恵」にあずかれない経済(金融)政策が、あたかもこの国全体を「再生」させる万能薬であるかのような幻想を振りまいている間に、安倍氏たち右派の政治家たちの「本性」=憲法改正(「戦争のできる国」への改造)の実質化が露わになってきた、ということである。前にも書いたが、「目先の利益」を追求する余り「百年の大計」を見失った、ということなのだろうが、しかし安倍氏やそのブレーンたちのやっていることは、全く「未来」志向を欠いた「ニヒリズム」としか思われないところに、本当に「危うさ」を感じる。
どうも、安倍氏の唱える「アベノミクス」や一連の憲法改正を前倒ししたような発言を見ていると、僕には明治初期の日本や新興国(開発途上国)が国是とした「富国強兵」策が思い出されてならないのである。明治国家が国際社会の中で一定の地位を得ようとして「不平等条約」の撤廃を悲願としたように、安倍氏はどう考えても「富国強兵」に象徴される戦前的価値に重きを置いているように思えてならないのである。つまり、安倍氏の価値観は「新保守主義」という衣を被った戦前志向にある、ということである。何よりも「美しい日本」を取り戻すという、何処にも存在しない「幻想の日本」を追い求めるところに、安倍氏の何とも「甘い」ロマンチシズムとその裏返しのニヒリズムを感じるのだが、最も「リアリズム」が求められる政治を、こんなロマンチストに任せてしまっていいのだろうか、と思わざるを得ない。
そして思うのは、もうすぐ68年目の「8月15日・敗戦記念日」が来るが、参院選で安倍氏に「全権を委任」してしまった国民の多くは、あのアジア諸国(中国を中心)に2000万人にという犠牲者を出し、300万人を超える犠牲者と焦土と化した国土を残した「アジア太平洋戦争」のことを思い出さなかったのか、ということである。別な言い方をすれば、自公政権にこの国の舵取りを任せた人たちは、今は「臍を噛んでいる」のではないか、ということである。
先日、ある同年配の人と話をしていて、自分たちの世代は「戦争から帰還した兵士たちの息子・娘世代だ」(つまり団塊の世代・第一次ベビーブーム世代)ということになったのだが、そこで考えたのは、安倍氏や石破氏が「3代目」「2代目」の世襲政治家であることから推測するに、彼らの親やお祖父さん・お祖母さんは「政治家」(この国に対して指導的立場にあった人たち)であったことによって、アジア太平洋戦争の「辛酸」を経験してこなかった、つまり戦争の本当の怖さを知らない人たちであり、そのような人たちにこの国の「現在」と「近い将来」を任せてしまっていいのか、ということである。
何とも">「不気味な社会」font>がやってきそうである。
先に、参院選の結果については、「希望も絶望も語れない」と書いたが、安倍氏は参院選勝利を背景に、あたかも「憲法改正」を前倒ししたかのように「集団的自衛権」の可能性を検討させると言い、また「防衛大綱」の中で「専守防衛」の枠を破る「敵基地攻撃能力」の整備や自衛隊の一部をアメリカ軍の「海兵隊」と同じような機能を持った部隊にする、さらにはこれは参院選のさなかであったが「軍事オタク」の石破幹事長が自衛隊を「国防軍」にした後には「軍法会議」を設定する、などと発言したことを考えると、何でこの国の国民は安倍氏に「全権委任」をしてしまったのか、と思わざるを得ない。
言い方を換えれば、いかにも新保守主義者(アメリカではすでに破産した「ネオコン」と呼ばれる人たち)が考え出しそうな「アベノミクス」なる一部の人たちしか「恩恵」にあずかれない経済(金融)政策が、あたかもこの国全体を「再生」させる万能薬であるかのような幻想を振りまいている間に、安倍氏たち右派の政治家たちの「本性」=憲法改正(「戦争のできる国」への改造)の実質化が露わになってきた、ということである。前にも書いたが、「目先の利益」を追求する余り「百年の大計」を見失った、ということなのだろうが、しかし安倍氏やそのブレーンたちのやっていることは、全く「未来」志向を欠いた「ニヒリズム」としか思われないところに、本当に「危うさ」を感じる。
どうも、安倍氏の唱える「アベノミクス」や一連の憲法改正を前倒ししたような発言を見ていると、僕には明治初期の日本や新興国(開発途上国)が国是とした「富国強兵」策が思い出されてならないのである。明治国家が国際社会の中で一定の地位を得ようとして「不平等条約」の撤廃を悲願としたように、安倍氏はどう考えても「富国強兵」に象徴される戦前的価値に重きを置いているように思えてならないのである。つまり、安倍氏の価値観は「新保守主義」という衣を被った戦前志向にある、ということである。何よりも「美しい日本」を取り戻すという、何処にも存在しない「幻想の日本」を追い求めるところに、安倍氏の何とも「甘い」ロマンチシズムとその裏返しのニヒリズムを感じるのだが、最も「リアリズム」が求められる政治を、こんなロマンチストに任せてしまっていいのだろうか、と思わざるを得ない。
そして思うのは、もうすぐ68年目の「8月15日・敗戦記念日」が来るが、参院選で安倍氏に「全権を委任」してしまった国民の多くは、あのアジア諸国(中国を中心)に2000万人にという犠牲者を出し、300万人を超える犠牲者と焦土と化した国土を残した「アジア太平洋戦争」のことを思い出さなかったのか、ということである。別な言い方をすれば、自公政権にこの国の舵取りを任せた人たちは、今は「臍を噛んでいる」のではないか、ということである。
先日、ある同年配の人と話をしていて、自分たちの世代は「戦争から帰還した兵士たちの息子・娘世代だ」(つまり団塊の世代・第一次ベビーブーム世代)ということになったのだが、そこで考えたのは、安倍氏や石破氏が「3代目」「2代目」の世襲政治家であることから推測するに、彼らの親やお祖父さん・お祖母さんは「政治家」(この国に対して指導的立場にあった人たち)であったことによって、アジア太平洋戦争の「辛酸」を経験してこなかった、つまり戦争の本当の怖さを知らない人たちであり、そのような人たちにこの国の「現在」と「近い将来」を任せてしまっていいのか、ということである。
何とも">「不気味な社会」font>がやってきそうである。