「消費税増税法案」に反対した民主党員は、小沢一郎や鳩山由紀夫を筆頭に「57名」に達し、建前としての「マニフェストを守れ、消費税増税は公約違反」や小沢一郎らの思惑とは関係なく、自民・公明からは一人の脱落者もなく「見事に」大連立が成立してしまったことの「不気味さ」「恐怖」が勝ったのか、57人の造反がある種の「爽快感」をもたらしたことに、自身驚いている。
それにしても、この大連立=大政翼賛会的な野合、自・民・公、それぞれの思惑があっての結果なのだろうが、これで国民生活が圧迫されるのは火を見るより明らかなこと、野田政権はどこへ行こうとしているのだろうか。
中でも一番心配なのが、管政権が言明した「脱原発依存」の政策がどうなるのか、この「ウナギ」になりたい「ドジョウ」(野田首相)の意向は、大飯原発の「再稼働」にGOサインを出したときから分かっていたことだが、元々「原発推進派」の政治家の集まりである自民党とそれに同調してきた「平和と福祉の党」(皮肉です)公明党が大連立を成し遂げてしまったことを考えると、悲しいことだが、もう「脱原発」をこの政権に望むのは無理、としか思えない。
こんなはずではなかった、という思いを誰もが抱いているのではないかと思うが、こうも「人に優しくない政治」を見せつけられると、「怒り」を通り越して、悲しく(情けなく)なってしまう。「リアリズム」に徹しなければ生きていけない現実生活を見つめながら、それでも「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なると相同じい」(魯迅)といった別なリアリズム(観念)を傍らに置かなければ、と思うのだが、自・公・民による「大連立」は、何とも口惜しい。完全に「国民不在」のこの大連立のツケを払うのは誰か。「フクシマ」のことを思うと、そのツケは確実に僕らの後の世代が払うことになるとしか思えないが、そんな「無責任」な態度でいいのか。
しかし、僕らは「フクシマ」の避難民(被害者)――それは、沖縄・ヒロシマ・ナガサキを終結点とするアジア太平洋戦争の犠牲者に対するものと言い換えてもいい――への想像力を完全に欠いた現在の「政治」の在り方に対して、「悲観=絶望」ばかりしていていい訳ではない。それぞれが、自分の持ち場(立場)で、牙を磨き、「反撃の時」を待つという姿勢を、随所で見せる、権力を持たない僕らにできることはそれぐらいしかないのかも知れないが、いつか彼ら(具体的には大連立を実現してしまった自・公・民)の頭上に鉄槌を食らわせたい、とする気概だけは持ち続けたいものである。
それにしても、この大連立=大政翼賛会的な野合、自・民・公、それぞれの思惑があっての結果なのだろうが、これで国民生活が圧迫されるのは火を見るより明らかなこと、野田政権はどこへ行こうとしているのだろうか。
中でも一番心配なのが、管政権が言明した「脱原発依存」の政策がどうなるのか、この「ウナギ」になりたい「ドジョウ」(野田首相)の意向は、大飯原発の「再稼働」にGOサインを出したときから分かっていたことだが、元々「原発推進派」の政治家の集まりである自民党とそれに同調してきた「平和と福祉の党」(皮肉です)公明党が大連立を成し遂げてしまったことを考えると、悲しいことだが、もう「脱原発」をこの政権に望むのは無理、としか思えない。
こんなはずではなかった、という思いを誰もが抱いているのではないかと思うが、こうも「人に優しくない政治」を見せつけられると、「怒り」を通り越して、悲しく(情けなく)なってしまう。「リアリズム」に徹しなければ生きていけない現実生活を見つめながら、それでも「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なると相同じい」(魯迅)といった別なリアリズム(観念)を傍らに置かなければ、と思うのだが、自・公・民による「大連立」は、何とも口惜しい。完全に「国民不在」のこの大連立のツケを払うのは誰か。「フクシマ」のことを思うと、そのツケは確実に僕らの後の世代が払うことになるとしか思えないが、そんな「無責任」な態度でいいのか。
しかし、僕らは「フクシマ」の避難民(被害者)――それは、沖縄・ヒロシマ・ナガサキを終結点とするアジア太平洋戦争の犠牲者に対するものと言い換えてもいい――への想像力を完全に欠いた現在の「政治」の在り方に対して、「悲観=絶望」ばかりしていていい訳ではない。それぞれが、自分の持ち場(立場)で、牙を磨き、「反撃の時」を待つという姿勢を、随所で見せる、権力を持たない僕らにできることはそれぐらいしかないのかも知れないが、いつか彼ら(具体的には大連立を実現してしまった自・公・民)の頭上に鉄槌を食らわせたい、とする気概だけは持ち続けたいものである。