黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「小さな共同体」を想う。

2008-08-18 15:30:38 | 文学
 今朝の朝日新聞を見ていたら、あの「公害」の忌まわしさを象徴する「水俣病」の患者さんたちと寄り添い、資本制社会の企業(チッソ)が「利益」を挙げるためにはいかに人間性を無視した行為を行い得るるかを告発した『苦界浄土』の作者・石牟礼道子さんが、「無差別殺人」などに代表される昨今の様々な社会事象について、日本の風土と合致した「小さな共同体」(詳しい説明はなかったが、要するに「隣近所」「隣組」といったニュアンスの共同体を指しているのではないか、と思う)が日本のどこからも「消えてしまった」せいではないか、と言っているのが目についた。
 石牟礼道子さんがインタビューアーに答える記事は久し振りだと思うが、相変わらず鋭い指摘だな、と感心させられた。僕は今のところに住んで35年以上経つが、かつて行政区が「村」であった田舎で長く暮らしていて、痛感するのはまさに石牟礼さんが指摘した「小さな共同体」、つまり「隣近所の付き合い」がだんだん希薄になり、今や「寄付」とか「道普請」とかいった「形式的」なものだけが残るという状態になってしまっている。例えば、僕の家のあるところには、かつての畑にゆとりを持って7軒ほどの家が建っているのだが、かつて僕らが若かった頃は、村のスポーツ行事だとか会合にほとんどの過程から最低1名が参加し、その時に各家庭の事情などを差し障りのない範囲で話し、その結果、どこの家庭に何年生がいるとかお祖父さん(あるいはお祖母さん)は健在であるとかの「情報」が自然に入ってきたものである。が、現在では裏の家の子供がどこの大学へ行っているのかも知らない(知らされない)状態になっている。
 もちろん、他所から転入してきた僕など、いつまで経っても地元の人から見れば「余所者」で、その意味では「小さな共同体」の住み難さを嫌と言うほど味あわされたものだが、しかし何かの行事が終わった後に、会費制でちょっとした飲み会をするような関係がなくなってしまった昨今、これでいいのか、と思わないわけにはいかない。たまにあっても、老人ばかりで、若い人は皆無という状態。そんな状態を受けて、よく家人と話しをするのだが、今大学生になった近所のあの子この子と街中で顔を合わせても、中学生や高校生の時代になると会うことが極端に少なくなって顔が分からなくなっているので、相手が挨拶してくれない限りどこの誰だか分からないのではないか、ということがある。こんな状態だから、都会のアパートにおける一人暮らし老人の「孤独死」と同じことが、早晩「田舎」でも生じるのではないか、と思っている。
 とこんなことを書くと、僕の家庭菜園に苗を持ってきてくれたり、収穫物を届けてくれる近所の農家の人たちとの関係はどうなっているのか、と思われるかも知れないが、そこは「田舎暮らし35年の知恵」というものがあり、散歩がてらの「探索」を繰り返す内に、どちらともなく声を掛け合い、その結果「仲良し」になり、野菜作りや種まきの時期、手入れの方法などを教えてもらうことができる、というわけである。お返しに、僕が仕事で地方や外国に行ったとき、ちょっとしたおみやげ(酒などが多い)を持って行く、ということをする。積極的に「やりもらい」を行っているのである。その意味では、僕ら家族は「小さな共同体」を自分たちの周りに作っていると思っているが(相手がどう思っているかは分からないが)、身近なところから「共生」をささやかにでも実践していかないと、もう日本はだめになるのではないか、と思ってのことである。
 本来は学生と教師の間、あるいは同僚との間にもこの「小さな共同体」は形成されるべきなのだろうが、「利害」が絡んでくるからなのか、どうも絶望的な状況にあるように、僕には思える。淋しいけれど、それが現実なのかも知れない。
 しかし、石牟礼さんが言うように、もう一度「小さな共同体」の持つ意味を考えないと、日本は本当にダメになるかも知れない。今、3年前にベストセラーとなった村上龍の『半島を出よ』(上下巻)について書いているのだが、2010~2011年の日本社会を舞台とするこの近未来小説について、考えれば考えるほどその「リアルさ」に圧倒される。9月末までに『村上龍論』を仕上げる予定になっているのだが、この『半島を出よ』論でも様々な角度から作品の持っている価値を考えているので、なかなか筆が進まない。別な仕事も待っているので、早く仕上げないと「糞詰まり」状態になってしまうのだが……。