黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

大言壮語・過信・その他諸々―北京オリンピック終わる

2008-08-24 11:53:46 | 近況
 ついついオリンピック報道に時間を奪われてしまったこの2週間であったが、先ほど競技の最後を飾る「男子マラソン」が終わって、決して熱心な観客ではなかったが、この2週間をつらつら思い起こして、日本選手団の在り方について、気になることがいくつかあった。
 そのことについて、箇条書きする。
1.余りに「勝敗」に拘りすぎ、である。「勝者」がいれば「敗者」がいるという のがスポーツではないか。にもかかわらず、「勝つ」ことに拘りすぎているので はないか、と思った。もちろん、開催国中国やその他の国も日本に劣らず「勝  利」に拘っているように思えたが、余りに「勝利」に拘ったが故に、「敗者」に 対する想像力(思いやりと言い換えてもいい)が欠如していたのではないか。こ れは、「格差社会」が進行中の日本をまさに反映したものだと思うが、どうだろ うか。
2.過信が目立った。例えば柔道の男子など、1回戦で敗退するアテネ五輪メダリ ストたちの姿をあれほどまでに見せつけられると、「敗因」は選手を始め関係者 自身の内部に生じた「驕り・過信」以外にない、と思えてならなかった。男子柔 道だけではなかった。男子体操や陸上競技の一部、水泳だって北島康介が2つの 金メダルを取ったために見えなくなっていたが、競技以前の水着問題一つとって も、僕には「驕り」が透けて見えて仕方がなかった。また、先ほど終了した男子 マラソンもそうであったが、女子のマラソンは「期待」されていただけに、あの 惨敗ぶりは、選手の責任(驕り・過信)というより協会関係者の「怠慢」(過信 から生まれたもの)が原因であり、それ以外の何ものでもなかった。怪我をした 選手を、何故競技直前まで隠していたのか、なぜ「補欠」の選手を早くから準備 させておかなかったのか、理解できないことばかりであった。
3.もうこれは「怒り」を通り越して「呆れる」しかなかったのだが、野球チーム の惨敗ぶり、これは何であったのか。北京へ出発する前は、いかにも「金メダ  ル」獲得が当然であるかのような言動を繰り返していた星野監督以下スタッフた ち、銅メダルさえ取れなかったことが分かった昨日、星野監督は「国民」に向か って「申し訳なかった」と詫びを入れていたが、僕にしてみれば詫びるのは国民 に対してではなく、まず選手に対して自分の采配ミスを詫びるべきだったのでは ないか。また、敗北の理由として、「ストライクゾーンの違い」などということ を(星野監督の代わりに)マスコミはこぞって書き立てていたが、そんなことは これまでの経験から当たり前のことで、そのことを知らなかったというのであれ ば、それは「過信・驕り」からくる「怠慢」の何ものでもない。あれほど「一番 輝くメダルを取る」と豪語していた星野監督、彼の采配ミスについては専門家が あれこれ言っており、そのすべてが知ろうとの僕にも納得できるものであった  が、彼は自分の責任をどうとるのか。「敗戦の将、兵を語らず」などということ で、口をつぐんでもらっては、大言壮語した手前、人間としても恥ずかしいこと になるだろうから、是非きちんと「敗戦の弁」を語ってもらいたいと思う。
4.聞くに堪えない中国批判。1964年の「東京オリンピック」当時を憶えてい ない人が多いのではないかと思うので言いづらいのだが、あの時の政府、各自治 体及び競技団体を巻き込んだ「狂想曲」は、僕の実感からすると今回の北京オリ ンピックに負けずとも劣らずであって、もしあの時のことに対する反省(謙虚な 態度)があれば、重箱の隅をほじくるような「批判」など必要ないのに、「中国 嫌い」の国民感情に阿る形で中国批判を繰り返していたマスコミ・ジャーナリズ ムの在り方、気になって仕方がなかった。「排外主義」的な態度を繰り返してい った先にあるのは、「奴は敵だ、敵は殺せ」という戦争の論理ではないか。その ことに対して一顧だにしないマスコミ・ジャーナリズム、これも大いに気になる ことであった。過剰な「期待」を寄せ、負ければぼろくそにけなす。そんなこと の繰り返しが、星野監督のような態度を生み出したのかも知れない。
5.その他、男女ともバレーボールの惨敗ぶり。「メダルを取る」と豪語していた 監督や選手たちは、今どう思っているのだろうか。
 と、ここまで書いてきて、ふと思った。こんな「日本批判」を書くと、またぞろ「ネット右翼小僧」たちの標的にされるのではないか、と。でも……、まあ、いいか。