黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

普天間基地移転問題に思う

2009-10-31 09:08:13 | 近況
 政権交代が実現してようやく2ヶ月近くが過ぎようとしている昨今、先の臨時国会における「野党」自民党の谷垣総裁の代表質問に対して、鳩山首相が「あなた方にそんなことを言われたくない」と言ったのには笑っちゃったが、民主党が選挙向けのマニフェストで「公約」したとされる沖縄・普天間基地の「県外移転」問題に関して、「閣内不一致」とか「首相と防衛大臣との間に認識違いがある」などと野党を始めマスコミ・ジャーナリズムが騒いでいるが、そもそも沖縄におけるアメリカ軍を「県外移転」するということの本当の意味は何なのか。
 たぶん、鳩山首相も岡田外相も認識していないのではないかと思われて仕方ないのだが、アメリカ軍基地の「県外移転」というのは、おそらく沖縄県以外の46都道府県のどこも普天間基地に匹敵するような基地を提供する意思を持たないであろうから、民主党のマニフェストに書かれた「普天間基地の県外移転」というのは、普天間基地の日本への「返還」か、あるいは海外移転(例えば、グアムのアンダーソン基地への併合」、さもなければ今岡田外相がしきりに模索している「嘉手納基地」との併合、しか選択肢がないということで、キャンプ・シュアブに隣接する辺野古沖の移転など端から考えていないということだったのである。
 ところが、アメリカに「(自公政権下で結んだ)日米合意事項を変更する気持は毛頭ない。もし、この合意が守られなければ、米軍再編=沖縄海兵隊のグアム移転も白紙に戻す」などと少し脅かされると、たちまち動揺して、マスコミ・ジャーナリズムや宮台真司などに言わせると、落としどころは決まっていて、普天間基地の移転は「辺野古沖」なのだそうだ。
 だが、考えて欲しいと思うのは、沖縄を旅行した人はすぐに理解できるのではないかと思うが、あの小さな島に嘉手納基地を始めキャンプ・シュアブ、普天間基地、等々、広大な敷地を有するアメリカ軍基地が我が物顔に沖縄の一等地に鎮座している光景、これは誰が見ても「異常な光景」である。そんな「異常な状態・光景」を放置したまま、普天間基地をキャンプ・シュアブ内と言っていい辺野古沖に移転するという「日米合意」、それを推進した自公の政治家たちはもちろん、混迷している民主党の政治家たち、および沖縄県知事をはじめとする沖縄の政治家たちは、何を考えているのか、と思わざるを得ない。
 確かに、沖縄の経済は現在「アメリカ軍基地」に依存しているかもしれない(日本政府が出す「思いやり予算」も含む)。しかし、それもこれも、日本とアメリカが沖縄を「犠牲」にしてきたことの証拠ではないか。ある種の沖縄におけるアンケートによれば「琉球(沖縄)独立」を望む人が70パーセントを超えている、という。この現実をどう考えるか。この現実は、「ヤマト」に生きる私たちにも重い問いを投げかけているのではないか、と思えて仕方がない。果たして「友愛」によって、この重い現実的な問いの答えを出すことができるのか。
 あまり期待せず、見守っていきたいと思う。

若者は「自己表現」が苦手?

2009-10-28 06:09:01 | 文学
 このところ、ずっと「若者」(20代の男女)が書いた「論文」やら「論文もどきの文章」を読んでいるが、そこで気付いた(感じた)ことがある。それは、彼ら・彼女らは「おのれ」を語ることがどうも不得意なのではないか、自分の「内面=考え方や感じ方」を隠すことにきゅうきゅうになっているのではないか、ということである。
 例えば、「論文」あるいは「論文もどきの文章」であるが、「論文」に必要なのは、もちろん第一には「論理的整合性」であるが、その論理的整合性を下支えする「批評」及びその前提となる対象の「分析」ができない、あるいは微妙に「批評」や「分析」を避けているという印象(感じ)を彼ら・彼女らの「論文=文章」から受けるのである。――ここで断っておきたいのは、僕自身もそのような若者の文章に対して「印象を受ける」とか「感じがする」というような書き方をしていて、具体例を挙げた論理的な言い方をしていないが、それは具体例を挙げると、その文章を書いた人が特定される恐れがあると思うからである――。
 何故なのか。おそらく、今の若者たちは、日頃の言動を見ていてもそのように思うのだが、極端に「自己を晒す」ことを恐れる、あるいはそのような「自己を晒す」ことによって築く人間関係を小さいときから忌避することに慣れ親しんできたが故に、必然的に「自己を語る」ことになる「批評」やその対象の「分析」を避けることになってしまったのではないか。だから、マニュアルに従った、あるいは「自己を晒す」必要のないレポートや試験(覚えたことを書けばいい)などでは好成績を収めるのに、究極的には「おのれのこと」を書くことになる「批評」、つまり「論文」が書けなくなってしまうのだろう、と思う。
 このことは、翻って、何年か前からブームになっている「ケータイ小説」などにも言えることである。一般的に「ケータイ小説」は、「真実」を装うのに最適な「告白体」で叙述されている。なので、読者もそれをあたかも作者が「正直」に「おのれを語った」物語だと信じた振りをして読み、その「虚構=うそ」の物語を愉しむ。どうも「ケータイ小説」には、そのような「ルール」が作者(発信者及びサイト管理者やそれを書籍化した場合の版元)と読者の間に暗黙の了解事項として存在するように思える。もちろん、確かめてみないと分からないが、「ケータイ小説」の作者のほとんど(全てと言ってもいいように思う)が、「ペンネーム」つまり「匿名」であるということも、この「自己を語らない」ということに通底しているのではないか、と思えてならない。
 何故それほどまでに「おのれ」を隠そうとするのか。「近代(現代)社会」の未来(なれの果て)は、もしかしたら孤立した「個」が「他者」のことを何も知らず寂しく生きていく社会なのではないか。というようなことを思ったのは、「個人情報」の過度の保護によって教師が教え子の年齢や民族、家族関係(結婚しているかどうか、等)について何も知らない、という何とも希薄な人間関係が現実として存在した10年前のアメリカ生活でのことであったが、どうも今の日本もそのような頑なに「おのれ」を防御する人(若者)が増えているのではないか、と思えて仕方がない。
 そんな「おのれを語らない」状態を保持したままでは「論文」など書けようながない。そこには「他者」に対する関心(好奇心)など欠片もないからである。「批評」は、強烈な「他者」への関心によって支えられること、そのことを自戒を込めて確認しておきたいと思う。
 それにしても、「ケータイ小説」を「文学」などといって持ち上げる「いい大人」がいるが、本当にあのような「嘘」(虚構ではない)で固められたような「小説もどき」を「文学」と認めるとは、僕には考えられない。(と書くと、またまた「反撃」されるかな?)

八ツ場ダム問題に思う

2009-10-20 10:32:43 | 近況
 民主党政権の「政治主導」、あるいは「マニフェスト(公約)実行」の最大問題となっているように思える「八ツ場ダム」の建設中止問題に関して、地元群馬で暮らす人間として、また僕が学生だった頃(40数年前)に群馬大学や高崎経済大学を拠点としていた新左翼(過激派)が、「第二の成田」を目指して反対運動に介入した経緯をいくらか知っている者としては、放っておけないと思い、このところずっと考えていたのだが、この問題の根本は、誰かが言っていたことだが、戦後の日本を牽引してきた保守党による「土建国家」「土建行政」がいよいよ行き詰まり、そのような戦後の歴史が「転換点」を迎えていることの象徴としてある、ということだろうと思う。
 昨日も、首都圏の関係する知事たちが現地を訪れて建設中止の反対を声高に叫んでいたが、その中での石原東京都知事の発言にあった「このような気候変動の時代にあって、(ダムを造らず)洪水になったらどうするのだ」についてだが、この八ッ場ダム建設の最初の根拠であった「治水」は、僕も微かに覚えているカスリーン台風による大被害(一九四七年)を根拠としたものであるが、僕が今住んでいる赤城山麓の地域もこの台風やその後の「ジェーン台風」などでも死者を何人も出す被害を受けた所だが、地区の長老に聞くと、そんな被害が出たのは、あの当時赤城山は戦時中の材木切り出しや「松根油」用の松の木伐採などで「丸坊主」状態になっていたからであって、その後植林して木が大きくなっているので、心配はいらない、現にあの当時の台風から後に「台風被害=洪水」は一度も起こっていない、と赤城山系の「治水」はうまくいっている、とのことだった。
 もし本当に八ッ場ダムが「治水」上必要不可欠なものであれば、なぜ四〇年間、五〇年間放置して「完成」させなかったのか。今になって「治水」云々は、為にする発言に過ぎない。
 また、「利水」という問題に関しても、ダム建設反対派が集めたデータでは、首都圏の水はずいぶんと余っていて、工業用水も含めて今のところ「全く必要ない」とのことである。利根川水系にはたくさんのダムなどがあり、また中小の町工場が首都圏から環境のよい場所に移転したということもあって、今は「水余り」の状態になっているのだろう。それと、これは全くマスコミ・ジャーナリズムが触れていないことだが、八ッ場ダムが建設される予定になっていた「吾妻川」は、かつては上流に硫黄採掘鉱山や精錬所があり、また温泉場がたくさんあるために、その処理水が流れ込んだため魚やその他の生物が全く住めない「死の川」だったこと(今は、中和剤の混入や鉱山閉鎖、温泉施設の汚水処理の向上によって、叙情に魚も住むようになっているが、上流地区はいざ知らず、未だに下流域で「魚釣り」をする人はいないのではないか、と思う。もう数十年前になるが、吾妻川と利根川が合流する地点(渋川市)で、明らかに水の色が違っているのを目撃したものである。
 今はテレビで見る限り「清流」に見える吾妻川だが、(たぶん今でも)地元の子供たちは水遊びしないのではないか、と思う。地元から通って板大学の友人が「毒の川」と言っていたのを、今でも鮮明に覚えている。
 「治水」も「利水」もダメ、ならば「観光」ということになるが、油量豊富な「ひなびた温泉宿」で結構人気のあった川原湯温泉をあそこまで寂れさせたのは誰か?群馬以外の人は余り知らないかも知れないが、群馬県内各地の特色や偉人を読み込んだカルタで有名な「上毛カルタ」の「や」は、あのダムが完成すれば水没してしまう渓谷を歌った「耶馬溪しのぐ吾妻峡」である。僕は何十回となくその「吾妻峡」を車や電車で通ったが、紅葉に染まった秋の吾妻峡は、本当に美しいところである。それがなくなってしまうことに、心痛めていた人もたくさんいたのではないか。
 土建屋(ゼネコン)とそれに癒着した官僚たち(と、それに踊らされた地元の小政治家たち)が計画した「無駄な公共建築物」である八ッ場ダム、本体工事が全く進んでいない現段階で「中止」になったのは、歓迎すべきことである。先に書いた赤城山でも他の山でも良いのだが、これまでのでたらめな林業政策によって山は「疲弊」している。そのために「林道」の整備や「砂防ダム」の建設といった「公共事業」の緊急の必要性に迫られているように思う。山菜採りに行っても、木イチゴ採りに行っても痛感するのは「山の荒れ具合」である。そちらの「整備」にお金を投入することの方が、巨大ダムを造るよりどれほど経済効果があるか、そんなことも考えるべきである。
 もちろん、「ダム建設中止」でこれまでの何十年間痛み付けられ続けてきたた地元の人たちに対するケアは、十分に行われなければならない。十分な「補償」と「生活再建」の手助け、それが実現したとき、本当の意味で「政権交代」を選択した国民の意を汲んだ政治、ということになるのではないだろうか。

三浦綾子・核(高濃度放射能)廃棄物

2009-10-19 09:35:15 | 文学
 先週の月曜日(12日)でちょうど「没後10年」を迎えた三浦綾子さんの文学と思想について、思いがけないところから執筆依頼があったのは、先々週の初めであった。思いがけないメディアというのは、日本共産党の機関紙「赤旗」であり、執筆依頼をしてきたのは、その文化部であった。これまで「赤旗」(文化欄)には『林京子全集』(全8巻 2005年)が刊行されたときに、その紹介を依頼されて書いたことがあったが、まさか三浦さんの文学と思想について書け、というのは意外であり、吃驚したので、思わず「思いがけない」という言葉が出てしまったのである――その他にも、実は僕の大学院時代の恩師小田切秀雄が日本共産党が最も批判の対象としていた「反党修正主義者」(共産党は、中野重治や野間宏、佐多稲子、井上光晴ら元共産党員の文学者たちにそのような言い方をしていた)だったために、また僕が学生時代にの本共産党の組織と敵対していたノンポリ学生だった、ということもあり、『林京子全集』について書くまでは、全く執筆依頼など無かったのである――。
 しかも、その執筆依頼の内容は、三浦さんと僕との交流史を交えたものにして欲しい、というものであった。詳細は、後で僕の文章を「転載」するのでそれを読んでもらえば分かって貰えると思うが、その依頼で僕が思い出したのは、三浦さんと初めてお会いした時のことである。僕は、あるメディアに連載が決まっていた「地域・人・文化」の第1回目に三浦さんに登場していただいたのだが、それは三浦さんがお住まいになっていた旭川から北の「幌延」という田園地帯に、高濃度に汚染された放射能廃棄物(要するに「核のゴミ」)の最終処分場が計画されていて、それに三浦さんが反対されていることを知り、是非とも『氷点』の作家にその真意を知りたい、と思ったからに他ならなかった。僕の意識の中で、クリスチャンと反核運動がストレートに結びつかなかったからでもあった。
 その時(89年6月、無くなる10年前)から、亡くなるまで(そして今日まで)三浦さんとは親しくさせてもらったが、本当に「真面目」な「前向き」な生き方を生涯貫いた文学者で、僕は彼女(及び、三浦光世氏)からは多くのものを教わった、と思っている。その成果の一つが『三浦綾子論―「愛」と「生きること」の意味』(94年 小学館)であり、今年の4月に刊行した『増補版』(柏艪社刊)である。
 「三浦綾子・没後10年」、是非もう一度彼女の文学と生き方(思想)を考えて欲しいと思う。
―― ―― ―― ――
三浦綾子没後一〇年
                              黒古一夫

 この一〇月一二日で没後一〇年になる三浦綾子さんに最初にお会いしたのは、お亡くなりになるちょうど一〇年前(一九八九年)、ある新聞に月一回の約束で連載を始めた「地域・人・文化」の第一回に登場していただいた時であった。その時の取材は、『氷点』(六五年)以来『ひつじが丘』(六六年)や『塩狩峠』(六八年)など、次々とベストセラーを生み出してきた流行作家の三浦さんが、なぜ宗谷岬に近い幌延町に計画されていた「高レベル放射能廃棄物」の貯蔵庫建設に反対するのか、を目的にしたものであった。それより前、一九八二年に始まった「文学者の反核運動」(正式には「核戦争の危機を訴える文学者の声明」署名運動)を手伝っていた私は、三浦さんが署名と共に多額の活動資金を寄せてくれていたのを知っていて、その取材において是非とも三浦さんの「反核」意識(思想)がどこから生じたものであるかをお聞きしたいと思っていたのである。
 私の質問に対する三浦さんのお答えは、実に明解であった。「核反対は、自然発生的なもので、そんな恐ろしいもの嫌よ、という素直な気持ちから出たもの。人間は神から自然の管理を任されているのに、利益優先のためなら何でもする、というのは子孫に対して残酷なことよ」というものであった。また、その時「平和」についても、「戦争がなければ平和というわけではないと思うわ。心の平和ということが大切なのよ」と言っており、ちょうど中国で「天安門事件」が起こったということもあって、「歴史的に見て、中国や朝鮮・韓国というのはお祖父さん、お祖母さんという感じね。尊敬と親しみを感じていたのに、何とも言えず悲しいわ。(民衆)は抑えられても抑えられても起き上がってくるものよ。権力の道具である軍隊が銃をどちらに向けるか、考えるだけで恐ろしいわ」とも言っていた。
 この取材から数年して、三浦さんは最後の長編であり私が三浦文学の最高傑作と思っている『銃口』(九四年)の執筆を始める。この作品は、戦時中の北海道で起こった「綴り方教育」弾圧事件を軸に、「正義=良心」と「生命」の尊さを守ろうとして権力から手酷い仕打ちを受ける主人公像を描くことで、「昭和」という時代は何であったのかを問おうとしたものである。まさに「軍隊が銃をどこに向けるか」によって恐ろしい社会を生み出してしまう現実に、最後の気力を振り絞って警告を発したのが、この長編であった。舞台も、北海道(旭川)から満州(中国東北部)、朝鮮半島と広い範囲にわたっており、登場人物も日本人だけでなく強制連行された朝鮮人から満州の中国人まで多岐にわたっていて、読み応えのある作品になっていた。『氷点』は、人間の「原罪とは何か」を問う作品であったが、『銃口』は社会や歴史の「闇=原罪」を明らかにする小説であった。
 三浦さんの文学は、処女作の『氷点』から最晩年の『銃口』まで、火山の爆発によって発生した土石流と闘う兄弟の姿を描いた『泥流地帯』(七七年)や、官憲に虐殺された小林多喜二の母親をモデル(主人公)にした『母』(九二年)がその典型と言っていいが、その特徴は作者の信仰(キリスト教)を超えて、「真面目」に「普通」の生活を送る人々が、襲いかかる「不幸」に負けず果敢に闘い、健気に生き抜いていく様を描くところにある。読者は、そんな三浦さんが紡ぎ出した物語を読んで「生きる勇気」を得、「愛」の存在を知るのだが、真摯に生きる人間と社会や歴史との緊張した関係を描く小説が少なくなっている昨今の文学界にあって、没後一〇年、三浦さんの文学はますます光彩を放ってきている、と言ったら過言だろうか。(「赤旗」10月9日号)


広島・長崎でオリンピック!?

2009-10-17 08:10:18 | 近況
 思い起こせば、45年前の「東京オリンピック」の時から、オリンピックが「平和の祭典」であるという言い方に違和感を抱いていた。当時僕は1年勤めた会社を辞め大学へ入ったばかりであったが、中学の時から淡い恋心を抱いていた同級生で陸上の選手でだった女の子とよくオリンピックについて議論したことを思い出す。県の記録などを持っている「スポーツ少女」だった彼女はもちろんオリンピック賛成派であったが、僕はマスコミ始め世論が声高に言い募っていた「国威掲揚」という言葉と考え方に戦前の「軍国主義」が重なり、オリンピックに対してどうしても「平和の祭典」などと思えなかったのである――1964年と言えば、敗戦から19年目で、まだまだ世の中には「戦争の傷跡」が残る、そんな時代であった。
 だから、というわけではなかったのだが、あのネオ・ファシストの石原慎太郎が提唱した「2016年・東京オリンピック」にも「違和感」というより「胡散臭さ」を感じていて、招致に失敗したという報を聞いたとき、心底よかった、これで狂想曲の渦に巻き込まれないで済む、と思ったものである。前にも書いたことがあるが、僕は決してスポーツ嫌いではない。昔少しかじっていたからというわけではないが、柔道やラグビー、マラソン(駅伝)の中継などがあれば、仕事をやりくりしてよく見る。家人など、よく「忙しい、忙しいと言っている割によくそんなに長時間テレビを見ていられるね」などと皮肉交じりに言うが、そんなことはどこ吹く風、結構熱心なファンなのではないかと自分では思っている。
 それでも「2016年・東京折りピック」に反対だったのは、石原東京都知事の考え方やパフォーマンスが好きでないという以上に、北京オリンピックでもそうであったのだが、「たかが」スポーツに多くの人々が巻き込まれ、国家間の争いであるかのような様相を呈することに耐えられないからである。もっと言えば、北京オリンピックでは例えば水泳競技でたくさんの世界記録(金メダル)が出たが、それらのほとんどは「スピード社」製の水着を着た選手が獲得したもので、日本その他の先進国では世界記録に一喜一憂していたが、そのような先進的な水着を着ることができなかった発展途上国の選手たちのことを思うと、オリンピックに対して決して「平和の祭典」「参加することに意義がある」などと綺麗事を言っていられないのではないか、と思ったのである。
 また、オリンピックの開催に関して、よくその「経済効果」のことが言われるが、本当にそうだろうか。今度の招致合戦で「金持ち」の東京都は150億円使ったという。全くの無駄金になってしまったわけだが、その150億円を例えば隅田川や多摩川の河川敷、あるいは代々木公園他の公園に張られた青テントの住民たち(ホームレス)のために使ったら、と思ったのは僕だけではなかったはずである。失業率が5.5%、完全失業者360万人余り、年間自殺者数30000人超、このような上京を如何に打破するか、「金持ち」(多くの本社が集中している東京には、莫大な「法人税」収入がある)の東京(石原慎太郎)には、そのような現在のこの国の上京や「弱者」に対する配慮など欠片もないのではないか。
 だから、その意味で東京オリンピックの招致に「失敗した」という報には安堵したのだが、そんな思いも「広島・長崎でオリンピックを」の声でまたたく間に失望に変わってしまった。秋葉広島市長の広島・長崎は「平和の祭典・オリンピック」に相応しい都市だから、という言葉にがっかりした下人は多かったのではないか。確かにオリンピックが広島・長崎で開催されれば、原爆ドームや原爆資料館を訪れる人も多くなるだろうし、「ヒロシマ・ナガサキ」の出来事を世界中の人々に知らしめるには良い機会である。しかし、先にも書いたように現代のオリンピックが必須条件としてしまっている「国威掲揚」との関係を考えれば、自国の「国威」を高めるために、あるいは「仮想敵国」の核武装と同じぐらいの核装備を行うために、核開発を行い、核の保有を誇示することとオリンピックの「国威掲揚」とどこか似ていないか。
 アメリカ大統領オバマが「ノーベル平和賞」をもらった理由の一つに、「核軍縮」の提唱があるようだが、オバマは「核の完全廃絶」を言っているわけではなく、削減を言っているだけである。「世界の警察」を自認して「テロリスト殲滅」などを掲げて他国へすぐ攻め入るアメリカが、僕などそう簡単に「核」を手放すとは思っていない。
 というような状況を鑑みれば、広島・長崎両市はオリンピックの開催など考えずに、本気で「核廃絶」を考えるならば、オバマに広島か長崎で「世界核軍縮会議」を考えるよう強く訴えた方がいいのではないか、と思う。どうも、秋葉広島市長はパフォーマンスがお好きなようで、長年広島の文学者や市民が願ってきた被爆建物の一つである旧日銀広島支店を使った「広島(原爆)文学館」建設には首を縦に振らないにもかかわらず、オリンピックの開催を提唱する、困ったものだ、と思わざるを得ない。「広島(原爆)文学館」の建設は、資料がどんどん散逸している現状を考えると、オリンピックなどよりも喫緊の問題だ、と僕などは思うのだが、どうだろうか。

「菜摘子展―逃げないで!光の粒たち」のご紹介

2009-10-11 10:19:33 | 近況
 東京都狛江市にすむ方から、標題のような展覧会の御案内を頂いた。第1回目の展覧会の折にも御案内を頂いたのだが、生活の場が群馬の田舎で、勤め先もつくばという茨城の田舎なので(最近はTXが走るようになったので、東京から近くなったが、それでも都心に出るには1時間以上かかるので、なかなか「上京」できない)、見に行くことができなく、残念に思っていた。
 今回も日程を見ると、期間中の土日は全部ふさがっており、週日は大学があって残念ながら見に行けないことが判明し、せめて、と思い、ご紹介する次第です。
 画家の岩崎奈摘子さんは、32歳、ダウン症者で、ファーストフード店に清掃係としてパートで1日4時間勤めているという。4時間立ちっぱなしの仕事の疲れを癒すために書いてきた「点描画」、そのうちの15点ほどが今回の展覧会に出品されているという。近くなら、ぜひ見に行きたいのだが。

<展覧会>の御案内
1.期日:10月24日(土)~11月6日(金)。午前11時~午後6時30分、ただし、10月26・27日、11月2・3日休み
2.場所:カフェ・コパン(東京都台東区谷中2-3-4 電話:03-3823-6985)地下鉄千代田線・根津駅(根津神社口)下車5分

です。お時間のある方、またご近所の方、興味のある方、どうぞお出かけ下さい。
岩崎菜摘子さんの絵、写真で1点でもご紹介できればいいのですが、あいにくデジカメが故障中で修理に出しているので、残念です。

えっ、オバマが!?

2009-10-10 03:50:57 | 近況
 昨日の「ノーベル平和賞」の受賞者名を聞いて吃驚したのは、僕だけだろうか。確かに、オバマ・アメリカ大統領は下馬評には挙がっていた。しかし、まさか、受賞するとは誰も思っていなかったのではないか。
 何故なら、「平和賞」受賞理由になった「国際的な外交努力に大きな役割を果たした」ということの具体的現れであるイラク戦争からの撤退、及びプラハでの「核軍縮」の呼びかけにしても、この間の経緯を見れば、オバマ個人の資質や思想とは関係なく、オバマは客観的・結果的に「マッチポンプ」的な役割を果たしているだけ、と思えてならないからである。つまり、イラク戦争からアメリカ軍を撤退させるというのは、もちろん世界の「平和」に貢献することではあるが、そもそもイラク戦争はアメリカ(ブッシュ)が始めた戦争であり、「撤兵」だってイラク国民の持続する反撃によって「ベトナム化=泥沼化」しつつある現実を受け入れなければならなかった結果に他ならなかった、ということである。そして、オバマはイラク戦争からは「撤退」することになったが、返す刀でもう一つの「ベトナム化=泥沼化」しつつあるアフガニスタン戦争へは「増派」を決め、何が「平和主義者か?」と思わせるものがあったが、このことだけを取り上げても本当に「ノーベル平和賞」に値する「外交努力」の賜物だったのか、と思わざるを得ない。
 「核軍縮」の呼びかけにしたって、世界で最も精密で強力な核兵器を持っているアメリカの大統領が初めて「核軍縮」の声を上げたことは評価に値するかも知れないが、まず「隗よりはじめよ」で、最強核保有国のアメリカが率先して現在保有している「核兵器」を半減でも三分の一減でもし、「臨界前核実験」などというごまかしを辞めたら、「核軍縮」の呼びかけもそれなりに説得力があるが、そのことはひとまず措いて、他の核保有国及び「核」を持たない国(あるいは「核開発」を行おうとしている国)に「核軍縮」を呼びかけるというのも、イラク戦争からの「撤兵」と同じように、僕には「マッチ・ポンプ」的な振る舞い=パフォーマンスとしか思えない。昨年のリーマン・ショックをきっかけに始まった世界同時不況の波をまともに浴びたアメリカが「戦争」の継続・「核開発」といった軍需産業(関係も含む)から民需へと転換する過程(共和党から民主党への政権交代は、その象徴)で生まれたのがオバマのイラク戦争からの撤退であり、「核軍縮」の呼びかけである、というような僕の見方は、偏ったものだろうか。
 ただ、このような見方をするのには、ある理由がある。僕がまだ若かった頃、ベトナム戦争が終わりに近づいてきた1973年、世界を飛び回って「ベトナム和平会議」を実現させたとしてアメリカの国務大臣キッシンジャーがノーベル平和賞を受賞し、翌74年には同じような理由でベトナム戦争に加担していた(ベトナム特需と言われた好景気の恩恵を受けた)日本の首相・佐藤栄作が同賞を受賞するということがあった。ベトナム戦争を激化させた張本人の一人(佐藤栄作を含めれば二人)が、国内外のベトナム反戦運動の進展にも後押しされて、戦況が悪化したからといって「和平会議」を画策したらノーベル平和賞を受賞した、何と今回のオバマのケースと似ていることか。あの70年代半ば、キッシンジャーがノーベル平和賞をもらうのであれば、もう一方の当事者でベトナム戦争に勝利してベトナムに「平和」をもたらしたホーチミンも受賞の資格があるのではないか、また佐藤首相が沖縄返還・ベトナム和平との関係で「平和」に貢献したという理由で受賞するなら、沖縄返還に最も貢献した屋良朝苗かべ平連の小田実だってよかったのではないか、というような思いを強く持っていた。
 どうも「ノーベル平和賞」というのは、「マッチ・ポンプ」的な人物が受賞することからも分かるように、時の政治に左右される傾向があるように思われる。もっとも、そんなことはスエーデン・アカデミーの「自由」だ、と言われればそれまでであるが、佐藤栄作やキッシンジャーが今や色褪せてしまっているように、「核軍縮」が進まなかった、あるいはアフガン戦争が更に泥沼化した、というようなことが原因で、オバマの「ノーベル平和賞」受賞も何年かしたら忘れられてしまわないことを祈るばかりである。
 とここまで書いてきて、配達された新聞の第1面を飾っている「オバマ大統領、ノーベル平和賞受賞」の記事を読んでいたら、イラク戦争からの撤退は受賞理由になっておらず、その代わりに「地球温暖化対策に貢献」(ブッシュ時代、「京都議定書」に最後まで調印しなかった国はアメリカなのに)とか「イスラームとの会話」とかが理由として上げられ、何よりも「核軍縮」の呼びかけが最大のものとして上げられていた。それと、オバマは「実績」としては何もないに等しいが、未来への期待から賞を与えたのだ、とも書いた記事があり、なるほどそのようにしてオバマを縛るのか、それも一つの方法だな、と思った。
 ただ、「核軍縮」に関して、どうも記事はみな「楽観的」過ぎるのではないか、と僕は思った。過去に何度も「核軍縮」への動きがあったが、いつも最終的には核超大国の「反対」にあって挫折してきた。過度に「悲観的」になる必要もないが、オバマをそんなに信用していいのか、という思いは僕の中から相変わらず消えない。

 

残念!? 当然! 村上春樹のノーベル文学賞落選

2009-10-09 08:30:29 | 文学
 昨日は、台風一過の秋晴れにもかかわらず、仕事部屋に閉じ籠もって「図書新聞」から頼まれたエッセイ(「立松和平全小説」について)を書いていたのだが、合間合間にテレビのニュースを見ていて、ノーベル賞各賞が発表される数日前まではあれほどまでに騒いでいた「村上春樹、今年こそノーベル賞か」といった類の喧噪がなりを潜めているのを不思議に思いすごしていたところ、いつまでたっても「臨時ニュース」は入ってこないわ、BSニュースでも報じないわで、ああ今年もダメだったんだなと思っていたら、案の定、NHKの夜9時のニュースで、台風被害について大々的に報道した後、ひっそりと今年のノーベル文学賞受賞者がドイツの女性作家ヘルタ・ミュラー(56歳)に決まったことを伝えていた。
 あることがきっかけで原題の外国文学(翻訳されたもの)を読まなくなった(村上春樹が翻訳しているアメリカ文学については例外)僕は、彼女については全く知らず、名前だけはイギリスのブック・メーカーが今年のノーベル文学賞候補として村上春樹と同じ「6位」に挙げていたので知っていたが、今朝の新聞を読んで彼女が、あの「恐怖政治」を行ったチャウシェスク政権下のルーマニアから亡命した作家で、その時の経験を基に創作(小説・詩)を行ってきた作家だと知って、「なるほど妥当だったのかも知れない。村上春樹もブック・メーカーのオッズは彼女と同じ6位だったが、負けたのは当然かも」と思った。
 前にもこの欄で村上春樹の『1Q84』が刊行された際に書いたことなので、重複は避けるが、その時あれほど「鳴り物入り」(ノーベル賞受賞も影で目論んで、あるいは5年ほど新作を出していなかったハンデを解消すべく意図的に、と言ってもいいが)で新刊の紹介が行われ、2ヶ月足らずでBook1・2合わせて200万部以上を売り上げたとされる「お化け」小説(当然のことながらその後は売り上げは停滞したようで、10月に入っても8月頃の発表「223万部発行」は変わっていなかった)を発表したにもかかわらず、僕が危惧していたように「受賞成らず」で、今回の「狂想曲」は終了した。
 「残念至極」と言えばいいのか、はたまた「当然」と言えばいいのか、僕個人としては正直言って複雑な心境であるが、マスコミなどにコメントを求められたとき僕がいつも答えていた、「村上春樹の作品には<社会性・歴史意識が乏しいので、その点がマイナスに評価されるのではないか>」が今回も当て嵌まってしまったようで、その意味では「残念」だが「当然」と思う気持ちが強い。特に、紹介によれば(繰り返すが、僕は実作を読んでいないので)ルーマニアのチャウシェスク政権下の現実を基にした作品と、詳しい僕の考えは是非「月光」第2号に載せる「『1Q84』をめぐって」という50枚余りの評論を読んでいただければご理解いただけると思うが、「コミューン主義」(モデル:ヤマギシ会)やカルト教団(オウム真理教)の犯罪、等「社会性・歴史性」を踏まえ、「善」と「悪」を相対化する思想を披瀝したように見えた『1Q84』であるが、ノーベル文学賞選考委員がこの村上の新作を読んだ上での評価であったかどうかは定かでないが(あれほど鳴り物入りであったのだから、それなりに読んだのではないか、と思われる。特に日本人推薦人の一人である大江健三郎は絶対読んだはずであるから、彼がどのようにこの新作を評価したかが、もしかしたら鍵だったのではないか、と下司の勘繰りを承知で書き添えておく)、ヒロインの「青豆」が最後にピストル自殺する設定は、村上春樹の思想の「曖昧さ」「中途半端さ」を象徴しており、そのような「曖昧さ・中途半端さ」が選考委員に敬遠された理由だったのではないか、と思う。
 なお、この村上春樹の考え方(思想)の「曖昧さ」はエルサレム賞授賞式のスピーチにも現れていた(このことについても、先の「月光」の原稿は指摘している)と僕は思っているのだが、そのような村上春樹の考え方の「ふらつき=曖昧さ」については、拙著『村上春樹―「喪失」の物語から「転換」の物語へ」(07年 勉誠出版)で、僕は「村上春樹の<迷走>」として僕の考えを述べているが、今回のノーベル文学賞の「落選」によって、自画自賛になるが、僕の考えに間違いはなかったのではないか、と確信を持った。
 それにしても、村上春樹のノーベル賞受賞を目論んで、もしかしたら「捕らぬ狸の皮算用」をしていた人たち(さしずめ、『1Q84』をどう読むか、などといった「オマージュ本」に加担した人たち)は、今回の結果をどう考えるのか、是非とも感想を聞きたいものだが、たぶん僕の所には届かないだろう。

地域共同体の再生は可能か?

2009-10-05 10:17:11 | 近況
 昨日は薄曇り(時々晴れ)の中、自宅のすぐ近くにある中学校のグランドを借りて「地区運動会」が行われた。何せ巾10メートルほどの川を挟んで反対側に中学があるので、在宅しているときは終日「知らんぷり」をしているわけにもいかず、例年は散歩がてら子供達や孫たちが出場する種目だけを見物してきたのだが、今年は30年に一度という地区役員を仰せつかってしまったので(順番なので、僕が住んでいる「田舎」では余程の事情がない限り断ることはできない)、朝7時のテント張りから最後の後始末まで終日グランドにいる羽目になってしまった。
 地区(平成の大合併までは「村」であった)の仕事は、仕事が他にもあったということもあって、これまでできるだけ避け、どうしてもという場合は家人とシェアしてきたのだが、「役員」になってしまうと様々な行事への参加(手伝い)を断ることができず、今年は夜の会議、土日の行事(村祭り、花いっぱい運動、神楽、地区清掃、リサイクル物処理、等々)のほとんどに参加してきた。これらの行事に取られる時間は、行政の末端に位置する自治会長(かつては区長)の年間150日余りに比べればそんなに多くはないが、結構な時間になる。もちろん、すべて「昔からのしきたり」に従ってのことだから、無料奉仕(ボランティア)である。因みに昨日の地区運動会の場合は、家に帰れない人が多いので、競技への出場者も含めて「握り飯2個・牛乳小1箱」(ただし、地区によってはもっと豪華なものもある)であった。
 この「地区運動会」は戦後すぐに始められて、これまでに60回以上になるのだが、今回「役員」として始めから終わりまで参加して気がついたのは、参加者に「若者」(20代・30代)が少なく、多くは50代以上の年配者だということである。「道具係」に動員された僕より1歳上の友人がぼやいていた「年寄りばっかりだよ」の言葉が至る所であてはまる場面に遭遇した。種目にしても、「還暦以上の玉入れ」「グランドゴルフ競技(これは老人用スポーツであるグランドゴルフに競走を持ち込んだもの)」「玉引き(ラケット状のお皿にサッカーボール大の玉を乗せ、30メートルほど走るもの、対象還暦以上)といった「老人用」が目立ち、嘗て存在し大歓声の応援を得た「スエーデン・リレー」とか「俵担ぎ競走」「騎馬戦」といったものはプログラムから消えていた。
 それともう一つ、多かったのが、「スポーツ少年団」絡みの種目で、小学生がそろいのユニホームを着てグランドを走り回っていた。「スポーツ少年団」の実態についてはよく知らないと言っていいが、揃いのユニホームを着てこれ見よがしに(優越感と見るのは、そのような経験を全くしてこなかった僕の僻みか?)グランドの片隅で「練習」をしていて、大人たちの競技には全く無関心な様は、「スポーツ少年団」が「官製」であることを考えると、複雑な思いを禁じ得なかった。彼ら・彼女らが青年になったとき、果たして「地区運動会」に参加するだろうか。実に心許ないばかりである。
 そこで思ったのが、「地域共同体」の在り様のことである。たまたま昨日の地区運動会に来合わせていた娘の担任としばらく話をした時、この地区で教師を16年間してきたという彼が、ぽつりと「年々、中身が薄くなってきていますよね」と漏らしたのだが、この言葉にこそ、現在「地域共同体」が解体し(疲弊し)もう後戻りのきかない状態になっている現実があるのではないか、と思った。昔は、地区毎に集まった場で持ち寄った弁当や総菜を分け合ったものであるが、今は役員が用意したパック入りの握り飯と牛乳でそそくさと昼飯を済ませ、次の競技に参加する(応援する)。
 政権を取った民主党の「地域の活性化」とか「地域共同体の再生」とか言っており、前の自公政権も同じようなことを言いながら、ついに何もしなかったために政権を奪われたと思うが、果たして昨日のような「地区運動会」の実際を見て「地域共同体の再生」は可能なのか、と思わざるを得なかった。もっとも、このような現象は今に始まったことではなく、既に立松和平が「遠雷」(80年)で指摘したことであったのだが、あれから30年近く、「平成の大合併」という魔物にも加勢されて(後押しされて)、もしかしたら「地域共同体」は取り返しのつかない解体(崩壊)状態になっているのかも知れない。
 

核軍縮は可能か?

2009-10-01 16:58:27 | 近況
 ずっと気になっていたことがある。それは、アメリカ大統領オバマの「核軍縮」提案に関してである。天邪鬼と言われるかもしれないが、どうも世界中がオバマ大統領のプラハ及び国連での「核軍縮」演説を単純に(楽天的に、あるいは期待感を持って)聞きすぎているのではないか、という思いを禁じえないのである。
 つまり、戦中から戦後を経て現在に至るまで「核開発」を強力に推し進め、現在もその精度や破壊力において他を圧倒する核兵器を保有している、ということは「核抑止力」神話が生きている国・アメリカということになるが、そのアメリカがそう簡単に「核抑止理論」に反する「核廃絶」を是認するか、根本的に疑問が絶えないのである。オバマが登場してきたとき、政策として「イラクからのアメリカ軍撤退」が掲げられていた。それを知ったとき、「ああよかった、これで無辜の民が死ななくて済む」と思ったのだが、イラクからは撤退するけれどもアフガニスタンの駐留米軍は「テロリストの巣窟・タリバーン」殲滅のために増強する、という平和主義者でもなんでもない、アメリカ人の「限界」を露呈する思想を披瀝してしまった。ベトナム化=泥沼化しつつあったイラクからは撤退するが、アメリカ軍が優位を保っているアフガンには、敵殲滅のために増派する。こんな便宜主義的な(矛盾した)論理の持ち主が唱える「核軍縮」、にわかには信じられないと思ったのは、僕だけだろうか。
 と同時に、オバマの「核軍縮」の提唱は、絶対的な核保有国であるアメリカの「有利」を保ちつつ、イランや北朝鮮の核保有をけん制する意味しかないのではないか、それは「核廃絶」を真に望む私達の願いを実は踏みにじるものではないのか、とも思わざるを得ないものである。僕は「懐疑派」ではなく、どちらかと言えば「楽観的」に物事を考える性質だが、こと「核・原爆」に関しては、文学的(情緒的)なイッシューではなく、純粋に軍事(政治)の問題だと思いつつ、悲観的に考えざるを得ない習慣になってしまっている。政権交代が成って、民主党が同考えるかは今のところ分からないが、歴代の政権は、「核軍縮」は建前で、「密約問題」が象徴するように「非核三原則」さえ守ってこなかったし、およそ30万人も存在する「被爆者」に対しては、「放置」してきたとしか思えない処遇の歴史であったことを思うと、残念ながら素直にオバマの「核軍縮」提案を信じることができないのである。
 自国の「核」を優位のままにして、他国の「核開発・核保有」については、厳しい態度をとる、どこか不自然である。「隗より始めよ」という言葉があるが、本当に「核軍縮」を望むならば、大統領の権限で自国の「核兵器」を半分でもいいから減らしてから、他国に「核軍縮」を望むべきなのではないか。「核軍縮」という口当たりのいい言葉にだまされてはならないのではないか。「核実験」についてだって、「核実験禁止条約」を結びながら、かつてアメリカは「臨界前」だからという口実で、地下核実験を続けてきた、という歴史がある。
 たしかに、アメリカ初の黒人大統領となったオバマは違うかもしれないが、本当に違ううかどうか、民主党が本当に国民=市民のための政治を行うかどうか、と同じように、もうしばらく時間が経たないと分からないのではないか、と思う。
 石原慎太郎が、オリンピックのために「敵」の鳩山首相をヘルシンキまで引っ張り出したように、「政治」は基本的には便宜主義そのものである。僕らはその「原理」を忘れてはならないだろう。