黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「朗報」2つ

2008-05-31 14:20:23 | 近況
 各種の報道が伝えるように、会議の最終局面において日本も「クラスター爆弾即時全面禁止条約」に参加することが決まった。この条約については、当初、常にアメリカの顔色を窺ってからでなければ何事も結論が出せない外務省や防衛省が「即時全面」という言葉に拘って、「条件付き(不発弾が少ないものは認める、というような条件)」ならば、と世界の趨勢に逆らって反対していたようだが、はじめは日本と共同歩調を取るように見えていた英独仏が「全面禁止」に踏み切ったので、孤立無援を恐れた日本も「しぶしぶ」賛成した、というのが実情らしい。
 マスコミは「福田首相の決断で」などと言っているが、元々「非人道」の極致を行くクラスター爆弾に反対するのは当たり前のことで、(アメリカに買わされたとは言え)日本の自衛隊が90何基も、この「悪魔の爆弾」発射装置を持っていて、そのために多くの税金を使っていること自体がおかしかったのである。さすが、世界第6位(第7位?)の兵力を保持している自衛隊だけあって、「核兵器」以外は何でも持っているんだな、と感心してしまうが、このクラスター爆弾の廃棄に約2000億円もの税金が必要と聞くと、以下にこれまでの日本が「日本国憲法第9条」に背いてきたかがわかるというもので、このような事態を放置してきた僕ら国民にも大きな責任がある、と思わざるを得ない。
 また、今朝の朝日新聞「Be」面に、日本の技術屋さんが地雷除去の機械を製作し、カンボジアやアフガニスタンなど5カ国ほどで使用し、地雷の被害に怯えるそれらの国々の人々に大変喜ばれている、ということが写真入りで報じられていた。
 戦争に勝つためには、それが非人道的なものでも(戦争自体が非人間的な仕業なのだから、「非人道的武器」という言い方は語彙矛盾を起こしているのだが、僕が何を言いたいか、ニュアンスを汲み取って欲しい)、平気でどんな武器でも使用する。そのことの極致が「核兵器」だと思うが、「ヒロシマ・ナガサキ」を経験した日本も、政府(国家)として積極的に核軍縮を主張するということがない(ないどころか、石原慎太郎東京都知事のように「核武装論」を唱える輩を放置する政治風土さえある)。僕としては全く不可解なのだが、彼ら(核保有国の指導者も含めて)は、核兵器が使用されても自分たちだけは「安全」だと思っているのだろうか。敵国も、自国も「焦土」と化し、この地上が放射能に汚染されて人間の住む場所でなくなることは、「渚にて」という60年代に話題となった映画で、先刻承知だと思うのだが……。
 ともあれ、クラスター爆弾の全面禁止条約に日本が参加したこと、これは「朗報」である。

快感・弁解2つ

2008-05-30 14:32:38 | 近況
 さぞかし「快感」・「爽快」なんだろうな、と思う。元を質せば、当方(黒古)の「ミス・間違い」が原因なのだが、日頃「大学教師」だとか「批評家」だとか言って「偉そう」にしている人間を「糾弾・批判」することが、いかに小気味いいことであるか、若き日の経験に照らしてみても、また昨今の僕の小泉純一郎や石原慎太郎を批判するときの胸奥(深層心理)を思い起こしてみれば、納得がいく。
 その意味では、今回の「蟹工船」ブームに関する私見に端を発する様々な「コメント(批判・お叱り)」は、そっくりそのまま素直に受け止めなければいけないと思っている。
 ただ、「弁解」じみた言い方になって余り気分はよくないのだが、2つの点で僕にも言わせて貰いたいことがある。それは、先ず1つ目として、これは前にも「中国観」や「差別」の問題について「批判」されたときにも言ったことなのであるが、相手を批判する場合、自分の年齢(世代)や立場(職業とか身分、もちろん大雑把でもいい)を明らかにしないというのは、匿名性によって生じる被害が問題になっているネット時代にあっては、「片手落ち」になるのではないか、ということである。当方は、このブログを開設するときに、「身分」は明かして発言を始め、それは今も変わっていない。なのに、多くの(僕の意見を批判する)コメンテーターの場合、批判者が何ものであるかわからない、ということがある。そのため、「反批判・反論」を書こうとするとき、どのように展開すればいいのか、戸惑うことが多々あるのである。「同業者なのか」「学生なのか」「サラリーマンなのか」、あるいは「ある宗派の人間なのか」「政治家(特定政党の支持者)なのか」等々。
 2つ目は、何故「批判者=コメンテーター」たちは、僕が問題にしていることに対して、「自説・自分の考え」を展開しないのか、ということである。当方の「ミス・間違い」については、あたかも嘲弄するかの如く指摘しても、何故か僕が問題にしている「テーマ」に関して「反論」したり、何故僕の考えが間違っているのか、などと「意見」を展開したり「自説」を述べたりすることがない。例えば、今回の「蟹工船」ブームについて書いた文章でも、(プロレタリア文学に長い間関心を持ち、いくつかの文章を書いてきた)僕にしてもこのブームを素直に喜べない、もし「ワーキング・プア」と言われる若者たちが自己憐憫に重ねて読んでいるのであれば問題だし、「蟹工船」を読んで感じたこの資本主義社会の矛盾(自分たちの置かれた立場)に対する「怒り」を、なぜ体制批判に向けないのか、それは「ジコチュウ」が蔓延しているこの社会の在り方を反映しているのではないか、そのような点について僕は言及した(疑問を呈した)のだが、そのようなことに対する批判者=コメンテーターの論理的反駁はほとんどなく、「吟遊詩人」と称する人など「詩もどき」の言葉の羅列によって、「ジコチュウ」が蔓延しているこの社会を認めているのか否定的に見ているのかわからない立場から、僕を批判したつもりになっているように思える。
 以上であるが、再度言っておきたい。「ためにする批判は、建設的でない。故に、論争は前向きにしよう!」
 なお、弁解になるが、このブログのほとんどの文章は何の資料も参考文献もないところで書いている(インターネットの通じないところ、故にウイキペディアも使えない)ので、記憶違いや表記間違いなどを起こす可能性がある(書いた文章を、ネットの使えるところで、急いで転記するという場合が多いのです。心覚えのために、このブログをつあっている面もあるので)。
 そんなわけで、恥ずかしながら再度訂正:小林多喜二「1929年3月15日」→「一九二八年三月一五日」

どこかおかしい。

2008-05-28 13:26:43 | 近況
 昨日、非常勤講師として出講している大学院の授業が終わった後、何ヶ月かぶりに僕の関与してきた出版物の進捗状況を聞くために、長い付き合いのある出版社に寄った。誰もが知っている大出版社を退社した後、自分の好きな本を出したくてたった一人(他に週3日出勤のアルバイトの女性が一人)で始めた出版社との付き合いは、もう4,5年になるが、その社長は営業畑が長かったということもあって、出版界の「裏事情(特に流通に関して)」に通じている人なので、雑談の中で教えられることが多く、今回もここにはまだ書けない「ビッグ・ニュース」があった。近いうちに公になるとのことだが、もし公になれば出版流通の世界に大きな波紋を広げるのではないか、と思った。
 3時間ほどの雑談の後(僕が関係する出版物は、様々な問題が生じたため、残念ながら刊行が8月にずれ込むとのことであった)、食事をしようということで近くにある「行列のできる」中華料理の店(ラーメン屋)に行った。これまでにも何度か行ったことのある店だが、昨夜も40人ぐらいは入れる店はほぼ満席で、二人分の席を空けて貰って、僕は手羽先2本と高菜ラーメンを食べた。久し振りにおいしいラーメンを食べたという気持ちになったが、それとは別にサラリーマンやOL,学生たちで埋まった席では、ビール瓶や紹興酒の瓶が林立し、テーブルの上には青菜炒めやその他諸々の料理が所狭しと並べられている様子を見て、確かに値段表を見ると一品一品の値段は高くないのだが、ある種の「豊かさ」を感じざるを得なかった。
 しかし、その日の朝のニュースでは、燃料が異常に値上がり(3倍ほど)したために、まぐろ・かつお漁船(遠洋漁業漁船)の20パーセントを削減せざるを得ない、そのため日本人が好きなマグロの値段が上がるだろう、と伝えていた。パンやカップ麺など週の半分以上単身生活をしている僕にとっての必需品が次々と値上がりしている昨今、投機筋(ファンド)によって作られた「原油高」によってマグロも値上がりする状況、何とかならないのか。帰宅して夜のニュースを見ていたら、ガソリンが160円台を突破して170円台になるという。あの「道路特定財源=暫定税率」が廃止されていたときの1リットル120円台だった時から比べれば、50円ほどの値上がり、この現実に対して誰も何も言わないというのは、どうなっているのか。
それと同じ事だが、支持率が20パーセント(80パーセント以上の国民が「もうあなたは辞めなさい」と言っているのを意味するのだが)を切ったというのに、数を頼りにのらりくらりと居座っている首相は、国民の多くが望んでいる「解散・総選挙」は行われる気配すらない。目先のことしか考えない刹那主義及びニヒリズムの蔓延と、このこととは関係しているのかも知れないが、何とも世知辛い世の中になったな、という実感を持つ。
なお、このことに関連して、自分のミスを弁解するようで、少々自己嫌悪に陥るのであるが、小林多喜二の「蟹工船」が流行していることについて触れた僕の文章の「間違い」について、「内藤亜朗」氏からコメント欄で指摘されたが、その指摘の仕方について今の時代を反映しているな、と思ったことを記しておきたい。「内藤」氏は、まず僕が小林多喜二は「32歳の若さで虐殺された」と書いたことに関して、「32歳まで生きていたのですかね」というような言い方で僕の間違い(明らかに僕の計算間違いで、当時に倣い「数え年」で数えようとして数え間違った)を指摘し、次に「小樽高専を卒業した後」と書いた間違い(傍点部に関して正しくは「高商」-「高等商業学校」の略)を指摘し、そのことについては完全に僕の間違いだったと伝えたところ、次のコメントでは、これも僕の入力ミスである「1927年3月15日」(正しくは「1929年」という小林多喜二の作品について、「そんな作品、ありましたっけ」と揶揄してきた。
「内藤」氏のご指摘はもっともなことで(何故僕がこのような間違いを続けたのか、今もってわからない)、それはそれでいいのだが、何故人の文章の間違いを指摘するのに「ねちねち」と小姑が嫁をいびるような仕方をするのか。僕はこのような「内藤」氏の批判が象徴するような、「視野狭窄」しか思えない人々の批判姿勢こそ「ジコチュウ」の現れではないのか、そのような現在の状況における「蟹工船」ブームとは何であるのか、と疑問を呈したつもりだったのだが、そのことにつては「じこちゅう、けっこう」というだけで、その理由も言わず、他者の間違いに対して厳しく「断罪する」、これも「2ちゃんねる」や「学校裏サイト」などに代表されるネット社会の「暗部=マイナス面」なのか、とも思うが、悲しいね。だからというわけではないが(自己弁護にもなるので本当は言いたくないのだが)、もっと人に「優しく」なろうよ、「ミス」も認め合おうよ、と僕は言いたい(また、甘えるじゃねー、と言われそうだが)。

殺伐としていませんか?

2008-05-26 09:51:43 | 近況
 最初「そんなの関係ねー」と言って登場した小島よしお(?)という芸人を見たとき、よくぞこのような時代を反映した言葉を「お笑い」にしたな、と感心したのだが、二人の孫が何かというと「そんなの関係ねー」と言うに及んで、彼らは無邪気に「流行語」を使っているだけなのだろうが、この「そんなの関係ねー」が蔓延する社会は、やはりどこか「異常」なのではないか、と思い始めた。
 何故なら、私たちの存在は自分以外の全ての存在との「関係」によって成り立っているはずなのに、「そんなの関係ねー」の一言はそれらとの「関係」を全て断ち切ってしまう意志を示しているからである。そんな大げさな、と言うなかれ。先週半ばに森鴎外の故郷「津和野」で起こった「祖父母惨殺事件」は、まさに「そんなの関係ねー」の言葉が含意するこの時代を象徴する事件だったのではないか。両親が中2のときに離婚し、以後祖父母に育てられ、近隣では「優等生」として見なされ、大学に進学しながら4年で「中退」せざるを得なかった事実を故郷ではひた隠しにせざるを得なかった殺人者の孫、彼の行為は紛れもなく自己の存在を「否定」するものと言っていいが、それ以上に自分を育ててくれた最も大切な人間を「殺す」という行為によって、「全ての関係」を断ち切りたいという衝動に突き動かされてのことであった、と思われる。
 というのも、その後の報道に拠れば、その孫(殺人者)は津和野から相当離れた出雲市の警察署にスーツ姿で出頭するのだが、その前に温泉で「身を清める」というようなこともしている。彼は自分が祖父母を殺害したという「事実」も、しかもそれが大罪であることも全て承知しながら、祖父母を殺害したものと思われる。一部の報道では、彼の一連の行為は「不可解」と報じていたが、全くそんなことはなく、日々この事件の容疑者(孫)と同じくらいの年齢である学生(院生)たちと接していると、「不可解」どころか、全く「さもありなん」と思わず納得してしまうような事件であった。
 他者との「煩わしい関係」(僕自身は決して煩わしいと思ったことはないのだが)は、とりあえず避ける。友達(その中に「彼氏」「彼女」も含まれるように思えてならない)とは表層的にしか付き合わず、「関係」は何かと利害が生じる大学時代に限定し、それ以上の「関係」は結ばない。これは教師との「関係」でも変わらない(前に書いたことがあるかも知れないが、最近の結婚披露宴に出て驚くのは、その席上に新郎新婦の教師が皆無だということである。何年か前までは「恩師の挨拶」に象徴されるように、必ず何人か教師が出席していたものである)。卒業すれば「ハイ、それまでよ」とばかりに「関係」を断ち切る。面倒臭くなくて結構だ、という思いもあるが、やはりそれでは「淋しすぎる」のではないか。
 余りに「関係」が殺伐としすぎている、と僕には思えてならないのである。だからその結果として、津和野で起こった祖父母殺害事件のような「関係」を根底から切断するような事件が起こるのだろう。「内部」で何かが「壊れ」始めているのだろう。早急に手当てしないと、この社会はとんでもないものに変身してしまうのではないかと思うが、どうだろうか。
 それにしても、「だまし絵」で有名な安野光雅の美術館があり、町中を流れる疎水(清流)には、僕が子供の頃日本中の河に生息していた(今は絶滅種の)僕らが「そうげんぼう」と呼んでいた魚が何匹も泳ぐ、静かな津和野で、何故あのような惨劇が起こったのか。これはもう、日本中の全ての地域で「そんなの関係ねー」という関係の切断が起こっている、ということを意味する何ものでもないということなのだろう。本当に「嫌な世の中になったものだ」(確か、時代劇のヒーローが事件を解決した後に漏らす一言だったように思うのだが……)。

「蟹工船」ブームに

2008-05-24 10:44:32 | 文学
 この格差社会(ワーキング・プアの増大する社会)を反映してか、小林多喜二の「蟹工船」が若者の間でブームになっているという。この「超資本主義社会」(吉本隆明)でのブーム、作者の小林多喜二もさぞかし草葉の陰で驚いているのではないだろうか。
 もう6,7年前になるが、虐殺された直後にとったと言われる小林多喜二のデスマスク(本物)が故郷の小樽文学館が手に入れたのを知って、見せてもらいに行ったことがある。小林多喜二のデスマスクのレプリカ(青銅製)は前から同館が展示していたので知っていたのだが、「本物」(石膏)が所蔵されるようになったというので旧知の学芸員に頼んで見せてもらったのである。写真などで知られるように端正な顔のまつげや鼻毛の1本1本がはっきりしているデスマスクを見たとき思ったのは、30歳の若さで官憲による拷問によって死ななければならなかった小林多喜二の「無念」についてであった。
 小樽高商を出て北海道拓殖銀行に勤めるようになった「エリート」の小林多喜二が、生きている証としてプロレタリア文学運動に身を投じ(日本共産党にも入党し革命運動にも加わる)、ついには天皇制国家にとって最も「憎き敵」となったために虐殺されなければならなかった昭和戦前期(1930年代初め)、小林多喜二の「蟹工船」がブームだということだが、それはそれで大変結構なことと思いながら、年を取って疑い深くなっている僕としては、果たして小林多喜二が生きた時代に対して、現代の若者たちはどれだけ想像力を働かせているのか、そんなことをつい言いたくなってしまう。
 「蟹工船」ブームが格差社会を反映したものであるということを僕なりに解釈してみれば、もしかしたら過酷な船上での労働を強いられ、人間以下の扱いしか受けない蟹工船で働く労働者たちに、ワーキング・プアたちは自分たちの姿を投影して、その上でさらに「自己慰撫(憐憫)」を行っているのではないか、とも思う。もちろん、そうではなく純粋に小林多喜二や彼の「蟹工船」に文学としての魅力を感じて愛読者になっている人もいることだろう。しかし、「蟹工船」がどのような労働運動や革命運動を背景に生み出されたのか、「反権力」を標榜する文学運動や市民運動が「蟹工船」の時代ではどのようなものであったのか、そのようなことに思いを巡らせない「蟹工船」ブームは所詮「徒花」なのではないか、とも思うのである。
 何故なら、もし本気で「蟹工船」を理解しようとし、その作品に惚れたならば、「道路特定財源=暫定税率」維持を衆院の「三分の二条項」を使って再議決したり、後期高齢者医療を平気で実施するような現政権に対してどうして「叛旗=異議申し立ての旗」を飜さないのか、その辺のことを考えると、どうも昨今の「蟹工船」ブームは、やはり「ジコチュウ」の変種と思えて仕方がないのだが、いかがなものだろうか。僕としたら、もし「蟹工船」ブームが本物であれば、当然、日本共産党や労働運動に対して官憲が大弾圧を行った「3・15事件」を扱った「1929年3月15日」もブームとなってしかるべきだと思うのだが、残念ながらそのことについてはまだ僕の耳に届いてこない。
 もう少し、「蟹工船」ブームについては、推移を見ていようと思う。
 *訂正しました。
    (1)小林多喜二の年齢:32歳→30歳
    (2)小樽高専→小樽高商
    (3)「1027年3月15日」→「1929年3月15日」

「セカンド・オピニョン」の必要性?!

2008-05-23 10:43:59 | 近況
 昨日、「四川大地震」を直接体験した知人(元筑摩書房社長)から、「綿陽から最終報告」なるメールが届いた。すでに書いたように彼は綿陽大学の日本語科で日本語と日本文学を教えていたのだが、何故「最終報告」かというと、大学の授業がいつ再開されるのか目処が立たないので、とりあえず帰国するというのである。大学自体、そこで学ぶ学生たちに大きな被害はなかったとは言え(建物のいくつかは傷んだとのことだが)、震源地を含む四川省各地を出身地とする学生や教職員の多くが身内や親戚、友人たちが甚大な被害を受けているため、帰郷せざるを得ない者が多数いて、大学の再会はおぼつかない、ということらしい。故に、老年に入っている彼に被災地での暮らしは大変らしく、彼はは帰国して様子を見てみたい、というのである。
 日本のテレビや新聞の報道では、そのような細かいことのレポートはないので、彼の報告は貴重なものだと思うが、前から僕が言っているように、日本のマスコミによる「四川大地震」の報道は、救援隊や医療チームが派遣されたということもあって、日本の「価値観」に依拠する、僕に言わせれば偏ったものになっているように思えてならない。例えば、日本の緊急医療チームは、被害地の近くでの医療を望んでいたのに、中国側がそれを拒んだため、せっかく緊急用にと用意した医療器具が「宝の持ち腐れ」になっている、というような報道。複数の報道から透けて見えるのは、せっかく日本からきた医療チームを危険な目に遭わせることができないので、安全な場所で十分にその医療技術を発揮して貰いたいという中国側の配慮によって、崖崩れや洪水のおそれのある危険な被災地近くでの医療行為を避けて貰ったというのが実情らしいのに、そのことを十分に報道せず、中国側の姿勢が「かたくなである」というような報道、もとより「客観的・中立的」「正統・正当」な報道などというのは「絵に描いた餅」だと承知しながら、釈然としない思いをずっと抱いている。
 というのも、ここ何回かのメールによると、前にもお知らせしたように拙著「作家はこのようにして生まれ、大きくなった――大江健三郎伝説」と「村上春樹論」の中国語訳に関わった、編集者、翻訳者たちが本当に「四川大地震」について心を痛め、中には翻訳料を含んだお金を「義捐金」として寄付し(結構大金である)、かつ日本から派遣された救援隊や医療チームに対してとても感謝しているとのことで、そのようなことを知ると、日本の報道とちょっと違うのではないか、と思わざるを得ないのである。また、同じメールによると、中国全土から若者(学生)を中心に多くのボランティアが四川各地に入り救護・救援の手助けをしているとのこと、このことも日本のマスコミはあまり伝えていない。
 僕らは、もちろん、「情報」の全てを把握することはできないし、またその「情報」の真実が何であるかを確定することもできない。歴史でしかそれを証すことができないということが、多々あるのである。ならば、せめて、僕らが手に入れた「情報」はほんの一部分で、必ずや「バイアス(偏向)」がかかったものであり、そのまま信用することはできない、というような「疑い」を抱く姿勢だけは持ち続ける必要があるのではないか。どうも最近の僕らは、個細胞(セル)の中の蛹(さなぎ)みたいに他者との関係を十分に持つことができず、ネット上の(バーチャルな)世界があたかも真実(リアルな世界)であるかのように思い、一方的な「情報」によって踊らされるということが、あまりにも多くありすぎるのではないか。学生(院生)たちのレポートを見ても、どうも「セカンド・オピニョン」(もう一つの考え・立場)を求めるということができない(知らない)ようで、それでは真の知識(能力)にならないと思うのだが、そのことの意味もまたわかっていないようで、前途多難な思いをすることがしばしばである。
 どうしてこんな社会になってしまったのか? ネット社会の「落とし穴」がこんなところにあるとしたら、未来はどうなるのか? 心許ないばかりである。

「盗作・盗用」問題と現代社会

2008-05-21 12:26:08 | 文学
 昨日、ある新聞社の文化部記者と久し振りに会って、僕にしては珍しく夕食をかねて一杯やったのだが、そこで話題の中心になったのは、最近新聞やテレビでも報道された直木賞作家熊谷達也の「盗作」問題についてであった(ここで注釈:僕もその新聞記者も熊谷達也が近来まれに見る才能の持ち主だと評価する点で一致している)。その記者が熊谷氏にインタビューした直後に「盗作」問題が発覚したということもあって、過去の盗作・盗用問題にまで話題は広がっていったのだが、「盗作・盗用」と「引用」とはどう違うのか? また、原作品(小説の場合もあれば、日記、エッセイ、記録の類もある)からヒントを得たり、無意識のうちに部分的に表現が似てしまう場合について、どう考えればいいのか? はたまた、インターネット時代の現代にあって、「資料」として利用したものが実は「二次資料」「三次資料」で、「原資料」を提供した者から見れば、その「二次資料」「三次資料」を利用した者は、果たして「盗作・盗用」したことになるのか。
 例えば、今もなお広島のエキセントリックな歌人から「盗作だ」と言われている井伏鱒二の「黒い雨」、これなど井伏本人も「ある人の日記を下敷きにした」と公言しているにもかかわらず、多くの場面が「資料」として使用した「重松日記」(すでに筑摩書房から公刊されている)の記述と似ているということで、「重松日記」と「黒い雨」を照合せず、件の歌人の「デタラメ」な言葉に惑わされて、あの猪瀬直樹や谷沢栄一までが「黒い雨」は盗作だ、決めつけているということがある。
 また、90年代のはじめに立松和平が連合赤軍事件を描いた「光の雨」で、資料として使った「あさま山荘1972」(上下 彩流社刊)の著者である連合赤軍事件の死刑囚坂口弘から訴えられる、ということがあり、彩流社から僕も3冊本を出していたということもあり、また立松とも親しいということもあって、この「盗作」問題には深くコミットメントすることになったのだが、結論的に言うと、誰しも作家は「意図的」に盗作・盗用などせず、ついうっかり、それが「盗作・盗用」行為とは知らずに、やってしまうというケースが一番多い、ということである。
 もちろん、確信犯的に「盗作・盗用」を行う作家がいないでもない。名前は伏せるが、戦後文学をリードしたある作家は、「盗作・盗用」しても(ある長編などの場合、一字一句までその作家の元に送られてきた原作品と同じということもあった)、「(有名な)俺が世に出してやったのだ」と嘯いていて、全く悪びれることがなかった(さすがに「盗作・盗用」が指摘されたその時は、「印税」をその無名な素人作家にやったということだが)。その作家については、評論の一部をそっくり「盗用」された別の作家から直接聞いたことがあるのだが、その時も全く悪びれることなく「同じ事を考えていたから、君の文章を使わせて貰った」と豪語し、それで終わりだったという。
 というように、「本歌取り」の文化が発達している日本における「盗作・盗用」問題は、微妙な問題を孕んでいて、そう簡単には解決できないのではないか、と思う。特に、ネット上に公開されている「資料」を組み合わせて「論文」(まがいのもの)を作り上げるのに巧みな昨今の学生(院生)たちを見ていると、表現=創造することの難しさを痛切に感じる。いつ何時、僕がオリジナルと思っている論文(エッセイ・書評、など)が「盗作・盗用」と槍玉に挙がるかわからない昨今、「学問=知」の在り様自体が変わってくるのかも知れない。変な世の中である。

「壊体」しつつあるものは?

2008-05-20 09:06:30 | 文学
 遅ればせながら、吉田修一の「悪人」を読み終わった。余りに評判がよかったので、天の邪鬼(へそ曲がり)の僕としては、購入したものの読まずに積んでおいたのであるが、読み終わって何故この朝日新聞連載の長編が高い評価を受けたのかがわかった。結論を先に言えば、現代社会に顕著な「理由なき=理不尽な殺人」について、何故そのようなことが起こるのか、著者なりに現代人たちの心理にまで分け入って、分析(説明)しているが故に、読者から歓迎されたのだと思う。殺人者を「捨て子」という形で特殊化し、被害者を「出会い系サイトにはまったモテない女」に設定し、「通俗=風俗」に秋波を送っている点など、少々気になる部分もないわけではないが、現代を象徴する「理由なき殺人」に現れた「関係の崩壊(壊体)」を見事に描き出している点で、ずいぶんと感心させられた。その意味では、まさに「悪人」は現代小説の王道を行くものだと思う。
 だからというわけではないが、僕らの身のまわりを見回すと、余りにも「悪人」の予備軍が多いことに気付く。一般的には「切れやすい人が増えた」という言い方をするのかも知れないが、何故「切れやすい人」が増えたのかを考えると、この世の中が「格差社会」になり、自分を「負け組」だと思う人たちが抱える「不安」や「不満」が相当深刻な状態になっており、現在は一触即発状態になっている、と思われるからに他ならない。もちろん、昔も今と変わらず「貧乏人」(僕の家などその典型)は、たくさんいた。しかし、今と昔が決定的に違うのは、何らかの形で社会に「互助精神=助け合い精神」が充溢していて、人々の関係(家族の絆ももちろん)が今よりはずっと「密」であったから、人々はそう簡単に「理由なき殺人」など犯すことができなかった、ということがある。
 特に「共同体」(隣近所・友人・先輩後輩・師弟関係も含まれる)がそれなりに機能していた時代と、その共同体が跡形もなく消滅してしまった現代、「悪人」が罪を犯すハードルが大変低くなってしまった。言い換えれば、「悪人」は誰の抵抗も受けず、簡単に「悪」を犯すことができるようになってしまった、ということである。何と悲しい社会ではないか。これは、この欄で繰り返し言っている「ジコチュウ」社会の、正に最大の弊害である。
 そんなこととも僕は関係すると思っているのだが、「あなたは自分に生起した重大な出来事について、先輩や師と仰ぐ人に相談したことがありますか(相談しますか)」という問いを発した場合、「YES]と応える人が異常に低いという社会こそ、問題なのではないか。人と人との関係がまさに「壊れている」から、いとも簡単に人の「いのち」を奪う(破壊する)ことができるのだろう。このままの状態が続いたら、この社会はどうなるのだろうか。「絆」、あるいは自分たちが新たに作り出した「共同体(コミュニティ)」を早く取り戻し、整備し直さないと、とんでもないことになるのではないか、と思う。
 

飽くなき欲望の果てに

2008-05-19 09:52:27 | 近況
 連日報道される「四川大地震」の陰に隠れて気が付かない人が多かったのではないかと思うが、この何日かの報道の中で僕には見過ごすことのできないものが二つあった。
 一つは、1960年代の後半にベトナム戦争に参戦していたオーストラリアで、北部の熱帯雨林において「枯れ葉剤=ダイオキシン」の散布実験を行った記録が出てきて、以前からその実験地の近くの都市における癌の罹病率が異常に高いことの原因が判明した、というニュースである。「枯れ葉剤=ダイオキシン」(一般的には「除草剤」として使用されている)の恐ろしさについては、前にもこの欄で書いたことがあるが、改めて言うならば、ベトナムのハノイ市やホーチミン市にある戦跡博物館、あるいは国立病院でホルマリン漬けになっている「双生児」や「三つ目」「無脳症」といった奇形児の実物標本を見たり、ベトナム各地に存在する「平和村」で暮らす知的・身体的障害児の存在を見れば、すぐわかることだが、戦争に勝利するためには「何でもあり」という論理と倫理がいかに将来を閉ざすものであるか、僕らはもう一度考えなければ行けないのではないか。
 「枯れ葉剤=ダイオキシン」は、人間の未来が「有限」であることを知らしめた第二次世界大戦の最後に使われた核兵器(「ヒロシマ・ナガサキ」を作り出した))と同じである。目に見えない「毒」が何代にもわたって発症するという点では、もしかしたら核兵器以上の「悪魔の兵器」かも知れない。僕は、その被害のすさまじさをベトナムの「平和村」(各国からの寄金で建てられた授産施設)でまざまざと見せられたのだが、その時の戦慄は、人間は己の欲望を満足させるためにはどんなことでもする、ということを感じたからである。
 二つめは、いま国連では「クラスター(収束)爆弾」を禁止するかどうかを協議しているが、「全面禁止」を主張しているアフリカ・アジア諸国に対して、不発弾の少ないものであるならば使ってもいいと「部分禁止」を主張する日本やドイツ・フランスなどとの間の溝は深く、「使用禁止」が決議されるかどうか分からないというニュースである。周知のように、一つの親爆弾から数十個の子爆弾が飛び出し広範囲にわたってそこにいる人間を殺傷する「クラスター爆弾」、日本やドイツが何故「部分禁止」なのかは、相変わらずそんな「悪魔の兵器」を多量に保持しているアメリカ(日本の自衛隊も持っている)の顔色をうかがっての立場なのだと思うが、この「クラスター爆弾」に関する議論を見ていて分かるのは、アジア・太平洋戦争であれほどの被害を出した日本に「軍縮」という考えが全くないということに他ならない――もっとも、世界第6位を誇る「軍事力」を持っている日本には「拡大」の欲望しかないのかも知れない――。
 クラスター爆弾が最初に使われたのがベトナム戦争であって、その後各地の紛争(戦争)、特にアフガン・イラク戦争でアメリカによって大量に使われたことを思うと、人類は本当にどうしようもない生物だ、と思えてならない。この「クラスター爆弾」と「枯れ葉剤=ダイオキシン」の問題は、現代において実戦に使われている「もう一つの悪魔の兵器=劣化ウラン弾」のことと共に、僕らがこの「緑の地球」を子孫に無傷で手渡そうとするならば、避けて通れない問題なのではないか、と思う。
 そんなことを考えると、「お先真っ暗」としか言えなくなってしまうが、地道にこの場から、「枯れ葉剤=ダイオキシン」や「クラスター爆弾」、あるいは「劣化ウラン弾」を使うようなこの世界の仕組みに対して「異議あり」と言い続けるしか方法がないとしても、だからこそ僕は言い続けたいと思う。

グローバル化とナショナル・アイデンティティ

2008-05-17 15:47:34 | 文学
 表記のタイトル「グローバル化とナショナル・アイデンティティ」は、神奈川大学から出ている季刊雑誌『神奈川大学評論』第59号(2008年3月31日発行)の特集タイトルである。
 僕はここに頼まれて、「村上龍・井上ひさし・大江健三郎における反ナショナル・アイデンティティ―構想された『もう一つの国=ユートピア』」という文章を書いている。以前にもこの雑誌に寄稿したことがあるのだが、発刊されて15年ぐらい経つ大学の広報部が発行母胎になっているこの総合誌、「硬派」の雑誌が少なくなっている現在、自分が寄稿しているから言うのではないが、現在では重要な役割を果たす雑誌になっているように思う。大学が発行母胎の場合、多くは自校や底に勤める教員の宣伝を意図しているからか、「紀要」とほとんど代わらない雑誌が多いのだが、この雑誌は、全く自校に囚われず、社会全体に開かれている。現に、この第59号の特集でも、巻頭を飾る対談(グローバル化とナショナル・アイデンティティ)は、よく知られた社会学者である東京大学の藤原帰一と京都大学の大澤真幸であって、主な記事を書いている神奈川大学の教員は、「特集」で法学部の後藤仁の他は、かつてTBSテレビの中国特派員やニュース・ショーのキャスターを務めていた田畑光永だけである。
 このような事態は、神奈川大学の見識を示していると思うが、それとは別に、昨日も書いたが、中国四川省の大地震に関する日本のメディアの対応、どうもおかしいのではないかと思い、昨今の中国報道とは異なる姿勢によって編集されているこの雑誌のことを紹介しようと思ったのである。なかなか手に入りにくい雑誌だが、神奈川大学のホーム・ページ(http://www.kanagawa-u.ac.jp)から申し込むことができるので、興味のある人は読んで欲しい。
 なお、僕の「村上龍・井上ひさし・大江健三郎――」を参考までに、長くなるが、以下にコピーする。

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村上龍・井上ひさし・大江健三郎における反ナショナル・アイデンティティ
――構想された「もう一つの国=ユートピア」
                             黒古一夫
<1> 「ナショナル・アイデンティティ」への違和

 激化するベトナム戦争によって「精神」のどこかが破壊され、麻薬(ドラッグ)とセックスに彩られた退廃的な生活を送る若者たちの日常を描いた『限りなく透明に近いブルー』(七六年)で群像新人賞と芥川賞をダブル受賞した村上龍は、それから二十五年ほど経て近未来小説と称する『希望の国のエクソダス』(二〇〇〇年)を刊行する。「2002年秋、80万人の中学生が学校を捨てた!」と帯文に書かれたこの長編の「あとがき」で、村上龍は次のような執筆動機を書いている。
 <「龍声感冒」というわたしの読者が作るインターネットサイトの掲示板で、今 すぐでもできる教育改革の方法は? という質問をした。もう四年近く前のこと だ。正解者には何か景品を出すということにして読者の興味を煽ったのだが、残 念ながら正解はなかった。
  わたしが用意した答えは、今すぐに数十万人を越える集団不登校が起こるこ  と、というものだった。そんな答えはおかしいという議論が掲示板の内部で起こ り、収支がつかなくなった。(中略)
  だが、「数十万人を超える集団不登校」というわたしが用意した答えは、わた しの読者の掲示板で受け入れてもらえなかった。「何だ、そんな答えだったの  か」という人もいた。それでわたしは中学生の集団不登校をモチーフに、小説を 書くことにしたのである。>
「数十万人を越える集団不登校」ということになれば、それは全国の中学生のおよそ一割が「学校=義務教育」、つまりは「日本国家の政策・意思」を断固拒否する行動に出た、ということを意味する。小説の冒頭に、紛争が絶えないパキスタンとアフガニスタンの国境付近で戦闘的な部族(「パシュトゥーン」と称している)と共に地雷除去に従事している十六歳の「日本人」に、CNNの記者がインタビューする部分が出てくる。
 <「いつここに来たのか?」
  「二年前だ」(中略)
  「なぜここに君がいるんだ?」
  「この先の谷には数万発の地雷が埋まっていて、誰かが除去する必要がある、 われわれの部族はそれをやっている」
  「日本が恋しくないか?」
  「日本のことは忘れた」
  「忘れた? どうして?」
  「あの国には何もない。もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」 >(傍点黒古)
 そして、「この土地には何があるんだ?」との問いに、日本人少年は「すべてがここにはある、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊厳と誇り、そういったものがある、われわれには敵はいるが、いじめるものやいじめられるものがいない」と答えて、国境の山岳地域へと歩み去っていく。
 この『希望の国のエクソダス』を貫く「反日本」の思想は、まさにこの冒頭部分に集約されていると言っていいのだが、「数十万人を越える集団不登校」と言い、「あの国(日本)には何もない、もはや死んだ国だ」という言い方にしろ、これらの言葉から窺えるのは、村上龍の二十一世紀に突入した現代社会への「危機」意識であり、日本(国家)への深い「絶望」に他ならない。アフガニスタンとパキスタンの国境地帯で地雷除去に従事している日本人少年が、現代の日本には「生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊厳と誇り」がない、と言った言葉にすべては集約されている。村上龍は、この長編によって「日本」という国家へ絶縁状を突き付けたのである。
 物語は、コンピュータ操作に長けた中学生たちが「学校」という教育制度に叛旗を飜すと同時に、インターネットを通じて資本主義社会(日本国)を支えている「株式市場=金融」に参入して巨万の「富」を手にした「ASUNARO」(中学生たちのネットワーク組織)が、「何でも揃っているが<希望>だけがない」この日本からの「脱出」を計画し、移住先の北海道「野幌」に先住市民を含んだ数十万人規模の、「地域通貨」に象徴される独自な経済圏を基に、決して「理想郷=ユートピア」とは言えない「もう一つの国」を建設するところで終わる。
 なお、この『希望の国のエクソダス』を貫く「反国家」の思想について考える際に、忘れてならないのはこの長編が『文藝春秋』に連載中の一九九九年に、そのすさまじい連続する中学生同士の殺戮場面で話題となり、深作欽二によって映画化もされた高見広春の『BATTLE ROYALE(バトル・ロワイヤル)』(太田出版)が刊行されていることである。この本の裏表紙には、次のような言葉が書き込まれている。
 <西暦1997年、盗用の全体主義国家、大東亜共和国。この国では毎年、全国 の中学三年生を対象に任意の50クラスを選び、国防上必要な戦闘シミュレーシ ョンと称する殺人ゲーム、“プログラム”を行っていた。ゲームはクラス事に実 施、生徒たちは与えられた武器で互いに殺しあい、最後に残った一人だけは家に 帰ることができる。(中略)
  ゲームの中に投げ込まれた性根、少女たちは、さまざまに行動する。殺す者、 殺せない者、自殺をはかる者、狂う者。仲間をつくる者、孤独になる者。信じる ことができない者、なお信じようとする者、愛する気持ちと不信の交錯、そして 流血……。(後略)>
 作品は、この裏表紙の惹句が示すような血を血で洗うような「殺人ゲーム」に終始するのであるが、そのような殺人ゲームを描いた小説がベストセラーになり映画にもなって多くの観客を動員したことの意味はさておき、今の時代において最も鋭敏に時代の空気を読み取る世代の中学生が、この「死んだ国=日本」から「エクソダス(脱出)」したり「消去=消滅」されたりすることのリアリティにこそ、「ナショナル」ものへ惹かれていく昨今の状況――これを「ネオ・ナショナリズム」の出現、あるいはアフガニスタンやイラクへの自衛隊派兵に象徴される「戦争の露出」と考えることもできる――が如実に反映されていると見るべきだろう。その意味で、『希望の国のエクソダス』と『BTTTLE ROYALE』は、二〇世紀末から現代に至る「現代」を象徴する「合わせ鏡」のような作品に他ならなかった。

<2>「もう一つの国」は「理想郷(ユートピア)」か?

 だが、この「死んだ国=日本」からの「エクソダス(脱出)」を目論む(構想する)という『希望の国のエクソダス』を貫くテーマは、近代文学がいつもロマン主義的な「ユートピア」願望を底流として存在させ続けてきたことを考えれば、決して新しいものではない。ここ何十年かの現代文学史を繙いただけでも、東北の一寒村が日本から独立する物語である井上ひさしの『吉里吉里人』(八一年)をはじめ、蝦夷(北海道)を舞台に「千年王国」を夢見て支配者の松前藩と戦う追放された隠れキリシタンとアイヌの姿を描いた夏堀正元の『蝦夷国まぼろし』(九五年)、時流に逆らってアイヌ民族との共生に「生きる場」の可能性を求めた人々の群像を描いた池澤夏樹の『静かな大地』(〇三年)、等々があり、とりわけ『同時代ゲーム』(七九年)から『燃えあがる緑の木』(三部作 九三~九五年)を経て『宙返り』(二〇〇〇年)に至る大江健三郎の「根拠地」建設の可能性を問う一連の作品群は、「ユートピア」=「もう一つの国」願望の顕著な例と言わねばならない。また、中上健次の『枯木灘』(七七年)をはじめとする「路地の物語」群や、「もう一つの国」を希求しながら儚くも散っていった連合赤軍の在り様を幻想的な手法を用いて描き出した立松和平の『光の雨』(九八年)、あるいは在日作家李恢成の『見果てぬ夢』(全六巻 七七~七九年)も、これら一連の「ユートピア」願望小説に加えていいだろう。
 そして、これらの「ユートピア」=「もう一つの国」願望小説に共通しているのは、私たちが生きる「日本社会」や「国家」への根源的な「叛意」「拒絶」である。例えば、井上ひさしの『吉里吉里人』は、食物はもちろん燃料や電気までも自給自足できる「国」を建設し、日本国からの「独立」を宣言した「吉里吉里国」の壊滅までの顛末を綴った物語であるが、工業立国・農業切り捨て政策を「国際分業論」などという耳障りのよい論理で正当化できると思っている日本=国家を、井上ひさしはこの長編で徹底的に笑いのめしている。もちろん、現実的には人口約四二〇〇人の「一寒村」が日本国から分離独立して「一国家」になるなどということができるはずがない。しかし、井上ひさしの想像力(創造力)はそのようなリアリズムを越えて、この国に瀰漫する第一次産業蔑視とその裏返しである第二次・第三次産業礼賛、つまりは「資本制社会」の全面肯定に対する根源的な疑義を、「夢物語」という形を借りて提出しているのである。井上ひさしは、大江健三郎と筒井康隆との鼎談を収録した『ユートピア探し 物語探し―文学の未来に向けて』(八八年)の中で、次のような発言をしている。
 <自分のいままではどうで、いまはどうで、これからどうなるかということを考 えてみますと、一つの柱にユートピア探しというのがあるのですね、(中略)
  いま持ち時間の三分の一か、五分の二ぐらいを芝居に注ぎ込んでいますが、こ れもユートピア探しの変形だろうと思います。そういう遍歴から言いますと、場 所としてのユートピアというのはどうもこの世で成立しない。が、ヒョッとした ら時間としてのユートピアはあるかもしれない、という気がします。
  五十年近く生きてきて(中略)ユートピアはそれこそ夢物語で、もう場所とし てのそれはあり得ない、時間的には辛うじて成立するかもしれないと悟ったわけ ですが、いまは逆ユートピアが非常に優勢で、ユートピアのことをいっている  と、時代遅れとか、お人好しとか、馬鹿という批判をうけますね。でも、それで もユートピアを探し続けたいという気持ちがあります。>(傍点黒古)
 この井上、大江、筒井の鼎談が行われたのは、高度経済成長からバブル経済期へと移行する直前の一九八四年の秋である。このことを考えると、「見せかけ」でしかない「豊かな国・日本」に対する井上ひさしの根源的な「疑義・違和」が、「反ナショナル・アイデンティティ」=グローバリズム・反中央集権国家の模索に向かっていたことが分かる。平たく言えば、「食」を確保する農業を切り捨てて第二次・第三次産業へと突っ走る日本の在り方とは真逆な国を模索したところに『吉里吉里人』は成立した、ということになる。その意味で『吉里吉里人』は、二十一世紀に敷衍すれば、中国や韓国の「靖国」問題に端を発する日本批判に対して「排外主義」で迎え撃つというネオ・ナショナリズム、つまりは排外主義的ナショナル・アイデンティティ(=国家・民族意識)をいかに無化することができるか、という思想的水位の獲得していたものであった。
井上ひさしが「吉里吉里国」の入国管理官に「日本(ぬほんの)国(くに)の国益(こぐいえぎ)だが言(ゆ)う物(もん)、もう真平(まつぴら)なんだっちゃ」と言わせ、「国益」のためと称して「農業」を切り捨てるようになった高度経済成長下の日本国の在り方を批判したのも、果たして本当に「国益=公」を優先させて私たちの未来はあるのか、を問おうとしたからに他ならなかった。だがここで注意しなければならないのは、『吉里吉里人』が先に触れた村上龍の『希望の国のエクソダス』と違って、新天地を求めて日本国から「脱出」するのではなく、あくまでも今在る場所(日本国内の一地域)において日本国から「分離独立」するという点である。農業政策に集約されるような日本国の在り方に異議を持ち続けてきたが故に、その日本国の内部に「異物=独立国」を作ることができるか、実験した。このような井上ひさしの方法は、明らかにロシア・フォルマリズムの「異化」作用を援用したものだと思われるが、そのことで『吉里吉里人』はまざまざと小説=文学の面白さを見せつけることになった。
 井上ひさしが『吉里吉里人』以降、主に「芝居」の台本(戯曲)の世界で、日本国にあって日本の在り方を批判するという「異化」の方法を意図的に採用するようになったのも、『吉里吉里人』が文学的に成功したからであった。『吾輩は漱石である』(八二年)に始まって、『頭痛肩こり樋口一葉』(八四年)、『泣き虫なまいき石川啄木』(八六年)、『国語元年』(同)、『犬の仇討ち』(八八年)、『父と暮らせば』(九四年)、『紙屋町さくらホテル』(九七年)、『太鼓たたいて笛ふいて』(〇二年)、『箱根強羅ホテル』(〇五年)、等々へと至る井上ひさしの道程は、まさに日本国の内部において日本という国家の相対化(「異化」作用)がいかに可能か、という試みの軌跡であった。
 ところで、日本という国家への「違和」を小説という形式を借りて徹底的に追求した作家と言えば、一九九四年にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎である。生まれ故郷の愛媛県大瀬村を擬した「谷間の村」を舞台に、『万延元年のフットボール』によって大枠が構想され、連合赤軍事件(七二年)にヒントを得た『洪水はわが魂に及び』(七三年)で「反国家」という性格付けが行われ、『同時代ゲーム』に至って本格的にその可能性が追求されるようになった「魂が救済」される場としての「根拠地」建設。大江健三郎はこの「根拠地」=コミューン的組織による一地域の「創成=再生」の可能性を探ることによって、決して人々が承認することのできない日本という国家を相対化し、かつそのような日本との対決を模索し続けてきた。例えば、「根拠地」がどのような性格を帯びたものであるか、未だ「根拠地」という言葉が明示されていない時期に書かれた『同時代ゲーム』に、次のような言葉が書かれている。
 <さてついに完成したところの、神話における大岩塊、あるいは黒く硬い土の塊 りに似た、巨大な楔のような土塁の堰堤壁面には、タールで大書きした次のよう な文字が見られたという。――不順(まつろわぬ)国(くにつ)神(かみ)、そして不 逞(ふてい)日人(にちじん)。(中略)妹よ、僕としてはそれを、村=国家=小宇 宙が、積極的に示した大日本帝国への宣戦布告ととらえたいと思う。(中略)
 しかし大日本帝国との全面戦争の開始にあたって、村=国家=小宇宙の人間とし ては、自分たちはおまえらと根柢から違う者だ、異族なのだということは示して おきたい。そこで老人たちは、天皇国家の制圧以前にさかのぼり、かつは関東大 震災に大日本帝国軍隊が治安出動するにあたって敵とした、不逞鮮人という言葉 を逆手にとって、不順国神、不逞日人と大書きしたのではなかっただろうか?> (「第四の手紙 武運赫々たる五十日戦争」)
 この「村=国家=小宇宙」という四国の山中に存在したとされる共同体の住人が、「不順国神、不逞日人」という言葉に込めた大日本帝国への反(版)意は、『同時代ゲーム』の姉妹編と言われる『懐かしい年への手紙』(八七年)において「根拠地の思想」へと相貌を変える。そして、『キルプの軍団』(八八年)、大江唯一の近未来SFである『治療塔』(九〇年)とその続編である『治療塔惑星』(九一年)を経て、「最後の小説」と喧伝された『燃えあがる緑の木』三部作(第一部「『救い主』が殴られるまで」、第二部「揺れ動く(ヴァシレーション)」、第三部「大いなる日に」)へ、そして『宙返り』(九九年)で一応の締めくくりを見せる。
 <自分のように横のつながりも、縦のつながりもない者が、個として実効性のあ る力をたくわえようとするとね、まず根拠地がいると感じたんだよ。そこで自分 の根拠地を思い描いてみると、それは自分より他の、やはり個としての力をたく わえようとしている者らの根拠地としてしても、役にたちうるはずなんだね。ど うじに、まず自分の根拠地を考えると、森のなかの土地より他にはありえない。 そして根拠地と自分がいうのは、かならずしも土地・場所というのみのものでは ないわけだ。そこに建設してゆく構造体なんだよ。同志が集まるならば、かれら もまた根拠地の一部分だ。つまり、きみたちが根拠地だ、ということになるわけ だね。>(傍点原文 『懐かしい年への手紙』)
 しかし、ここで注意しなければならないのは、『燃えあがる緑の木』から四年半の休筆期間を経て書かれた『宙返り』まで、大江が反国家的コミューンとして構想した「根拠地」は、ことごとくその建設途上で「失敗・壊体」し続けてきたということである。そこに「デモクラット(民主主義者)」大江健三郎の現状認識の厳しさと「絶望」の深さを読み取ることも可能だが、それと同時に現在の社会において「ユートピア」を希求することの難しさ・非現実性、つまりは「ナショナル・アイデンティティ」を超えた「個の共同性」によって立つ社会を模索することの難しさも、そこからは感受できる。
 その意味では、最初に触れた村上龍が、二〇〇五年に九州北部に侵入してきた北朝鮮軍を社会から「追放」された若者たちが撃退する上下巻の物語『半島を出よ』を書いたことは、実に示唆的である。村上龍はこの長編で、「平和と民主主義」の戦後六十四年が、実は「戦争」に象徴される「危険・危機」と隣り合わせであり、そのような意識を持たないまま「国内」でいくら「もう一つの国=ユートピア」を構想しても、それは画餅に堕してしまうのではないか、と言っているからに他ならない。別な言い方をすれば、村上龍は「憲法第九条」を持つ「平和国家・日本」がアフガン戦争やイラク戦争に、「国際貢献」という美名の下で「国益」や「ナショナル・アイデンティティ」を掲げて自衛隊を派遣(派兵)させている欺瞞(まやかし)を、北九州における「戦争」を描くことで明らかにしようとした、ということになる。心ある文学者は、そのようにして現在の「危機」を表現しているのである。