黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「村上龍論」の校正終わる。

2009-04-29 14:20:52 | 文学
 年頭にも記したように、昨年に刊行が予定されていた本も、(サボっていたわけではないのだが)今年に刊行がずれ込むというようなこともあって、4月に『増補版 三浦綾子論』が刊行されたばかりなのに、6月には僕もその企画に関わってきた「新鋭作家論叢書」の第一弾として、『村上龍論―日本を相対化する』(仮題)が6月に出ることになり、先週からその「著者校」に取り組み、ようやく今日の午前中に終わった――版元(編集者)との約束で、今月中に著者校が終われば、予定通り6月15日までには刊行されることになっていた――。
 「新鋭作家論叢書」の第一弾は、拙著の「村上龍論」の他に、僕より前に原稿ができていた河合修氏の「柳美里論」が同時発売になるとのこと、引き続いて綾目広治氏の「小川洋子論」が続き、そのあとも川上弘美論や吉田修一論、等が続々と続くことになっている。拙著の「村上龍論」は、村上龍が「若手」でも「新鋭」でもないので、「新鋭作家論叢書」の1冊として刊行されることにいささかのためらいもあるのだが、僕の関心と版元の意向との兼ね合いで、刊行第一弾となったのである。出来映えについては、僕自身何も言えないが、私見の範囲では、まとまった「村上龍論」としては野崎六助氏のものがあるだけで、他には「国文学」やその他の特集や論集があるだけの現状を鑑みて、拙著は「村上龍」の著作を真ん中に置き、それに僕自身が日頃考えてきた世代論と現代文学論を重ねて論じたもので、オーソドックスな方法ではあるが、一人の作家の「全体」を書くことができたのではないか、と思っている。
 この「村上龍論」は、書き始めてからほぼ1年かかってしまったせいか、「著者校」でかなりの「手直し」があり、時間もかかってしまったのであるが、それだけにまとまったものになったのではないか、と思っている。内容については、刊行された暁に是非手にとって読んで欲しいのだが、一つだけ拙著の特徴(新しさ)を言っておくならば、ノーベル賞候補の村上春樹だけでなく村上龍もまた「喪失」をその文学的原点にしていたこと、そのことを踏まえて拙著「村上龍論」は構想されているということである。
 どのような本に仕上がってくるか、今から楽しみである。

 なお、先般「増補版 三浦綾子論」の版元である柏艪社から連絡があって、版元の方に「黒古のブログを見た」と言ってくれれば、郵送料は版元負担で送ってくれるとのことでした。この「増補版 三浦綾子論」に関しては、お送りした林京子さんからのお便りで「読みやすい・分かりやすい」本だと褒めていただきました。
 多くの人が手に取ってくれればいいな、と切に思っています。

「三浦綾子論」から井上ひさしの発言へ

2009-04-25 08:26:17 | 文学
 昨夜(今朝の深夜)は、大学から帰宅すると届いていた新刊『増補 三浦綾子論―「愛」と「生きること」の意味』について紹介するのに時間がかかって、本来書きたいと思っていたことが書けなかった。
 どういうことか。それは、今週の水曜日(22日)の午前中、大学へ向かう車の中で何気なくTBSラジオを聞いていて、あれ、このゲスト、聞いたことのある声だな、と思ったら、それが井上ひさしさんで、井上さんはパーソナリティーとつい先だって上演していた新作の劇「ムサシ」のことや、今度再演する「きらめく星座」のことなどを話していたのだが、その中で戦時中のレコード店を舞台にした「きらめく星座」との関連で、「権力が仮想敵国を作り、しきりにその敵国から自国を守ると言いだしたときは、その仮想敵国のことよりも自国の権力者の意図がどこにあるのか、その危険性について国民は考えるべきだ」というようなことを言っていた。以前この欄で自衛隊(国家権力・保守党)が、ソ連、中国、北朝鮮と次々と仮想敵国を設定し、そこからの攻撃に備えるという名目で軍備を増強し、今では世界で6位とか7位とかの軍事力を備える強大な軍隊になったことを問題にしたことがあったと思うが、井上さんの発言は、まさに僕自身の考えを代弁してくれたようなもので、非常に心強かった。様々な欠陥を持ちながら、それでも今日まで日本が戦争に巻き込まれなかった(あるいは戦争を仕掛けることがなかった)のは、何よりも「平和と民主主義」を象徴する「日本国憲法」(就中「前文」と「第9条」)が存在したからだ、と僕らは今一度かみしめるべきなのではないか、と思わざるを得なかった。
 以前、小谷野敦さんから「井上ひさしは文化功労賞を受賞している<天皇からもらっている>。それなのに黒古は井上ひさしを高く評価する、それは反天皇制を主張する黒古の思想と矛盾するのではないか」(主旨)といったコメントをちょうだいしたことがあるが、僕自身はどんなことがあっても(そんなこと絶対有り得ないが)文化功労賞などもらわないが、一応「文化庁」(文部科学省)主幹の文化功労賞とは関係なく(無定見だと言われるかも知れないが)、「仮想敵国」問題に対する井上ひさしの発言は貴重なものであると思わないわけにはいかない。
 というのも、これも同じTBSラジオで昨日首都東京大学教授の宮台真司が「やられたら、やり返せ。自衛隊は軍備を増強すべきだ」という提案を行い、その賛否を視聴者に募ったら「83%」の人が宮台の主張に賛成で、反対は「17%」しかいないということが分かり、愕然とした、ということがあったからに他ならない。実は、宮台の主張は例によって彼独特なイロニーを含んだもので、単純に「やられたら、やり返せ」というものではなかったのだが、この宮台の主張に賛成した視聴者の多くは、自民党の先に「酔いどれ会見」をして財務大臣を辞任した中川昭一や我が郷土群馬出身の二世議員山本太一らが主張するような「抑止力」神話を信じているように思え、この人たちには今一度、「核」に関しても同じだが「軍事」に関する「抑止論」が決して戦争を抑止する力にならず――核兵器を大量に持ったアメリカが朝鮮半島でもベトナムでも、はたまたアフガニスタンでもイラクでも「戦争」を抑止することができず、泥沼化したこと、僕らはそのことを忘れるわけにはいかない――、最終的には先のアジア・太平洋戦争のように「悲劇」しか生み出さないことを、思いだして欲しいと痛切に思わざるを得なかった。それにしても、「自衛隊の軍備増強に賛成」83%は、驚きを超えて哀しくなるような現実である。日本人はどうなってしまったのか?
 武力によって解決する「国際紛争」は一つも存在しないこと、そのことを僕らは肝に銘じるべきである。変な形での「ナショナリズム」に悪乗りすべきではない、と思う。折しも帰宅してニュースを見ていたら、麻生首相が憲法で禁じられている(と自民党さえ言明している)「集団的自衛権」行使の可能性について、憲法解釈が可能かどうか検討を命じた、というようなことを報じていた。衆議院議員の3分の2を確保している内に「戦争のできる国」に変えようとするつもりなのか? そう言えば、麻生首相のお祖父さんの吉田茂は、アメリカの意向を受けて「日本国憲法」の精神に背いてまで自衛隊(の前身「警察予備隊」)を創設した政治家であった。孫の麻生首相は、その祖父の意を継いでこの国=日本を「戦争のできる国」にしてから退陣しようというのか。とんだ迷惑である。
 そこで思い出すのが、三浦綾子が最後の長編『銃口』を完成した後の僕との対談で、「銃口が国民の方を向くようにならないことを祈る」といったようは発言をしていたことを思い出す。今年の秋で『三浦綾子没後10年」である。平和主義者であった三浦さんのことを今一度みなおす必要があるのではないか、とも思う。

「増補 三浦綾子論」刊行

2009-04-25 01:35:39 | 文学
 昨年来、作業が続いていた『増補 三浦綾子論―「愛」と「生きること」の意味』(柏艪社 281ページ 2400円)がようやくできあがりました。23冊目の自著ということになりますが、いつものことながら新著が刊行されると、新たな感慨を覚えます。
 特に今度の本は、1994年に小学館から刊行され、長らく絶版になっていたものの『増補版』なので、全くの新刊と違って刊行に関しては様々な思いがあります。前著は、キリスト者でない批評家(研究者)の初めてのまとまった作家論として、全体としては好評を持って迎えられたのであるが、今回の本は、その旧著の刊行後に『国文学』や『北海道新聞』などに求められて折々に書いた計100枚余りの「新稿」を加えて成ったもので、ページ数も大幅に増えて280ページを超える本になった。
 三浦綾子文学に対する僕の考えは旧著(小学館版)で書いたときから基本的には変わっていない。熱心なキリスト者である作家が書いた作品が、なぜキリスト者の枠を超えて多くの読者を獲得したのか、それはキリスト教の教義と関係しながら人間存在の「普遍」に関わる問題を三浦綾子が描き出したからではないのか、というモチベーションを堅持しつつ、あくまでも「書かれた物=作品」を一人の批評家として鑑賞し批評したものが旧著であり、今回の「増補版」における新稿にも同じ姿勢が貫かれている、と僕は思っている。
 大袈裟にも「100年に一度の大不況」といわれる今日であるが、本書は全く「素朴」に人間存在に対して「信頼」し続け、そのような人間観で作品を書き続けた三浦綾子文学の意味をもう一度考える一助になる本である、と著者の僕は思っている。どうぞ手にとって読んで欲しい、と思う。装幀は旧著と同じ司修さんにお願いしたのだが、旧著とは全く違ったイメージの本になり、なるほどと納得させられる装幀で、大変嬉しく思っている。司修さんに感謝である。
 版元が札幌の出版社なので、なかなか手に入りにくい(宣伝が行き渡らない)かも知れないが、もし購入したい人がいたら、僕のメール<kuroko@slis.tsukuba.ac.jp>(大学のメールアドレス)か、あるいは柏艪社に直接注文していただけると助かる。朴、あるいは版元への直接注文には、便宜を図る予定です。
 柏艪社の住所:札幌市中央区北1条西3丁目2番
     電話:011-219-1211
     担当:山本哲平
 以上、よろしくお願いいたします。

辻井喬の文学

2009-04-22 09:06:12 | 文学
 ずっとこのところ「辻井喬」を読んでいる(読み直している)。30~40枚の「辻井喬の文学」について書くためである。このことは、僕の批評を読んできた人にとっては、たぶん「異質な行為」と感じられるのではないかと思うが、そもそも「辻井喬の文学」について書くことになったのは、僕の中国版「大江健三郎伝説」と「村上春樹論」が刊行されるきっかけになった中国社会科学院の日本文学研究所の研究員許金龍氏と話をしていて、現代文学の風潮とはその方法・主題が異なる作家として辻井喬を紹介し、来日中の彼が読売新聞文化部の尾崎真理子さん(彼女が大江健三郎に聞き書きした「作家に聞く」は名著である)と一緒に辻井氏に会いに行ったことから、中国(北京)で「辻井喬の文学・シンポジウム」を開くことになり、そこに向けて僕が「辻井喬の文学」を書き・話すということが決まったからであった。
 当初「シンポジウム」は、5月28日に行われるはずであったが、現在進行中の中国語訳「辻井喬選集」の刊行が遅れているので延期が決定し、実施はこの分では秋口になるのではないか、と言われている。そういう意味では急ぐことはないのだが、やり始めた仕事なので今月中にケリを付けて、次の仕事にかかろうと思っている(現に「村上龍論」の著者校が出てきて、今月中に版元に返すという約束になっている。因みに「村上龍論」は6月中旬刊行予定です。)
 ところで、恐らく年齢とは関係ないと思うのだが、最近の若い「純文学」作家たちの「自分一人」への関心に辟易していた僕にしてみれば、日本の現代文学の伝統と化していると言っていい「私小説」的方法から逸脱することなく、82歳になる今日まで愚直に「おのれとは何か」「生きるとは何か」を問い続けてきた辻井喬の文学は、この1年間ずっと関わってきた「村上龍」の文学とはまた別な意味で、「日本」や「現在」を考えさせるもので、あまり批評のされることのない文学者であるが、今や貴重な存在なのではないか、と思っている。
 今は読みながら(読み直しながら)論文の構想を立てているのだが、一つだけはっきりしているのは、辻井喬の文学の原点は、まだ東大の学生だった時代に経験した「転向」だということである。西武グループの創始者堤康次郎の長男(次男)として生まれ、後にセゾングループの総帥になった堤清二が若き日に経験した「革命運動」とそこからの撤退=転向、このこと抜きに「辻井喬の文学」は語れないこと、そのことだけは確実に言えるのではないか、と思う。そして、そのことは僕が彼の文学について論じようとした最大の動機でもある、ということである。
 先般、「辻井喬―創造と純化」(小川和佑著)という本を書評したが(「図書新聞)、この本は見事にその「原点」を外しており、論の展開そのものに違和感を持った、ということがある。僕は小川氏の轍は踏まない、と決意しているのだが……。果たしてどうなるか。

御霊神社・春の祭典

2009-04-19 18:51:15 | 近況
 田舎暮らしをしていて、時に煩わしいと感じるのは、かつての「ムラ」と言われた時代からずっと続いている「慣習」(掟の類も含まれる)に、自分の意思とは関係なく従わなければならない時がある点である。
 今住んでいる場所に引っ越しをしてから37年、共稼ぎだったということもあって「隣保班長」以外の村役には就いたことがなかったのであるが、今年はついに「自治会役員」(かつての「区会議員」:区長を補佐する村役)を仰せつかってしまった。進んでやる人がいなくなって順番が回ってきたということなのだが、4月からこれまでに3回も会合があり、昨日からはかつての「村社」である御霊神社の春の大祭ということで、幟立て(昨日朝6時から)、そして教は1日中テント貼りに始まって、祭礼への参加、神楽の見学、テントの片付けまで、初めての経験をすることになった。
 非常に疲れた1日だったのだが、祭に参加して、いろいろなことを考えさせられた。まず、最初に思ったのは、もう既に僕の住む地域ではかつての「ムラ=共同体」はほとんど解体しているにもかかわらず、子どもの頃に「祭」やその他の「ムラ」行事を経験した老人たちが、何とかその形だけでも残そうと必死に頑張っている姿が、余りにも侘びしく、哀しかったということである。僕もこれまでこの御霊神社の「春の祭典」があることは知ってはいても参加しなかったのと同じように、村人は役員(係)以外ほとんど参加せず、参加したのはただで配られる綿アメやポップコーン、駄菓子、飲み物目当ての子どもとその親ぐらいで、五穀豊穣を願う祭でありながら、全く熱気の感じられないものであった。
 次に、これは自治会役員としての仕事があったので十分に見学できなかったのだが、昔ながらの「神楽」を楽しむ者がほとんどいなかったのが、いかにも残念であった。「猿田彦の踊り」とか、「種子蒔きの踊り」とか、「追い出しの踊り」といった農作業に関わる「神楽」(田楽に近い無言劇)が何回も舞われているのに、熱心に見ている者はごく少数で、各「神楽=踊り」の意味が分からないから仕方がないとは言え、寂しい気持にならざるを得なかった。聞くところに拠ると、一時後継者不足で途切れていた「神楽」を、曲がりなりにも復活させることができたのは、「ムラ=共同体」の伝統がなくなることに危機感を覚えた中高年たちの思いだったというが、出来はどうも今一、といった感じで、更なる精進が必要と思った。
 もしかしたら、あと何十年かすると、せっかく復活した「神楽」もなくなってしまうのではないかと危ぶまれるが、これもまた歴史の残酷さとして受け入れざるを得ないのかも知れない。「農」や「自然」から離れてしまった現代の生活と、「神楽」を楽しむ生活とは、大きく乖離してしまったのである。
 たぶん、このような現象は全国各地で起こっていることなのだろうが、「伝統」とは何かとか、「日本文化」の在り方とか、いろいろと考えさせられた日々であった。
 と、ここまで書いたところで、トイレに行く途中で家人が見ていたテレビを何気なく眺めたら、ちょうど画面はオリンピック調査委員会が記者会見を行っているところで、内容は「東京」に好印象を持ったということで、石原東京都知事が神妙な顔で「喜び」を表明した、というものであった。これでまた何日か、あの「横柄」で「高見・高所」からものを言う彼の姿を、テレビや新聞でを見なければならないのかと思うと、正直言ってうんざりするが、この際だから一昨日のこの欄における「石原批判」に対する「烏丸御池」なるウオッチャー(ほんと、ご苦労様ですな、としか言いようがない人)の批判(言いがかり)について、匿名には応えないという原則に反することだが、一言だけ言っておきたい。(なお、この段落からは、今朝<20日の>書いている。昨夜は疲れて、前段落まで書くのが精一杯だった。)
 「烏丸御池」氏は、オリンピックと同時に行われるパラリンピックを持ち出して、「それでもオリンピックの東京開催に反対するのか」と、得意満面(のように推測できる)での賜っていたが、記事をよく読んでもらえば分かるように、僕はオリンピック(パラリンピック)一般を全面的に反対しているのではなく、記事は石原氏が調査団の来日に関わって記者から「韓国では石原氏が主導する東京オリンピックに反対という人もいるようだが」という質問に、例の「朝鮮半島の植民地化正当化論」を展開したことについて、石原氏の「南京大虐殺なかった論」や「核武装論」などと併せて、これは問題なのではないか、と言っただけである。
 これは人を非難(批判ではなく)する時の常套手段なのだが、「烏丸御池」氏の論法は、中心課題については一切触れず、つまり石原氏の朝鮮支配に関する見解について私見を全く述べず、「パラリンピックが行われるのだから、東京開催はいいではないか」という全く無茶な見解を披瀝し、それで「鬼の首を取った」ように振る舞うのは、いかにも小児病的すぎないか?
 たぶん、この記事を読めば、早速また「些末」なことを取り上げて「黒古批判」を行うと思うが、それが「烏丸御池」氏の生き甲斐なのだろうから止めはしないが、もう応接しませんので、悪しからず。

作家の感性?それとも……

2009-04-18 05:18:14 | 文学
 今以て僕によく分からないのは、何故あの石原慎太郎東京都知事が2016年開催予定のオリンピックにご執心なのか、ということである。昨年の北京オリンピックを持ち出すまでもなく、確かにオリンピックというのは「経済の好調振り」をPRしたり(併せて経済効果も期待する)、「国威掲揚」(ナショナリズムの鼓吹)にはうってつけの祭典と言うことができるだろう。その意味では、ネオ・ナショナリストの親玉(タカ派政治家の頭領)のような石原慎太郎がオリンピックの東京開催に夢中になっているのは、わからなくはない。
 また宮台真司首都大学東京教授が言っているように(確か、TBSラジオで聞いたのだが)、初代東京都市長の後藤新平の構想に倣って、オリンピック開催を機に東京を再開発し「理想の都市」建設を目論んでいる、とも考えられる。「作家」としては今一だから、首都改造を行った政治家として何とか「名を残そう」としているのかも知れない。
 しかし、いずれにしろ、北京オリンピックでもそうであったが、オリンピックが「国家的行事」として行われる以上、競技場建設(改装も)や交通アクセス、宿泊施設の整備のために犠牲になるのは、庶民=生活者である――北京オリンピックの前年に北京を訪れたとき、北京市の至るところが「工事中」であり、裏通りの古い街並みが(強制)撤去され、「建設途中」ということで荒れ放題になっている状態を目撃したが、東京は基本的には既存の施設を使用すると言っているとしても、どう考えても東京都民や関係者が「無傷」(全く犠牲を払うことがない)で済むわけがない――。石原都知事の「第三国人」発言などが象徴している「強者の論理」を知る僕らとしては、もし東京でオリンピックが開かれたとしたら、石原氏が「弱者」を置き去り・無視した方法で諸施設や交通手段などを建設・改修するのではないか、と思わざるを得ない。
 というのが、内心では「関係ないな」と思いながら、これまでにぼんやりと考えてきたことであるが、昨日の新聞を読んで、ああやっぱりな、衣の下の鎧が見えてきたな、と思ったのが、オリンピック(IOC)調査委員会の「韓国では、石原都知事が推進している東京オリンピック開催に反対する意見があるが」といった主旨の質問に関連して、戦前の36年間に及ぶ日本帝国主義の朝鮮支配(植民地化)に関して、「西洋のアジアにおける植民地経営に比べて、日本の場合、大変公平だった。そのように(暗殺された)朴大統領から直接聞いたことがある」というような問題発言を行った。死人に口なしだから、朴元大統領が石原氏に何を言ったかは今では不明だが、そのこととは別に、「事実」として日本の植民地となった朝鮮において日本帝国主義が何を行ったのか、そのぐらいは芥川賞作家としても、右派政治家としても知っておくべきなのではないか(あるいは、知っていながら、敢えて「右派」、「ネオ・ナショナリスト」として自己を定立させる必要があって、ということなのかも知れない)。石原氏が好きな「民族」を持ち出すまでもなく、日本語の強制(ハングルの使用禁止)、創氏改名、宮城遙拝、等々に象徴される過酷な「日本人化」政策が、なぜ「公平」なのか? もし、日本(人)がそのようなことを強制されたとしても、石原氏は「公平」だと言うのか? かれはかつてアメリカに向かって「NOと言える日本」という本を書いて、日本人の「矜持」(使いたくない言葉だが)を占めそうとしたが、作家ならば「想像力」を働かせて、かつての植民地宗主国の政治指導者に連なる自分に「あの植民地政策は公平だった」と言われた朝鮮民族がどのようなことを思うのか、考えてみればいいのである。
 しかし、「南京大虐殺はなかった」とか「日本も(共産主義勢力の核に対して)核武装で対抗すべきである」とか、全く先のアジア・太平洋戦争の「責任」を考えようともしない言動を繰り返してきた石原東京都知事、彼が主導する「2016年東京オリンピック誘致」、どう考えても賛成しかねる、というのが偽らざる心境である。オリンピックで、柔道や水泳、マラソンといったかつて自分も競技したことのある種目の勝ち負けに一喜一憂する自分を鑑みると、大金を使う(エコと真逆なことを行っている)オリンピックにいくらかな疑念を感じつつも、大筋では「いいじゃない」と思っている自分を発見するのだが、石原氏に主導されたオリンピックだけは認めたくない、と思ってしまうのである。
 あれほど「想像力」の欠如している石原氏が芥川賞の選者であること、いくら昔から「権力」が好きな文藝春秋の意向を反映したものとはいえ、これも納得いかないし、許せないことだと思うが、どうだろうか。

停滞の中で、何を?

2009-04-14 10:44:17 | 文学
 可もなく不可もなく、「日常」は常に音もなく過ぎ去っていくものだと思いつつ、あの意味もなくのけぞって笑う「権力亡者」としか思えない首相の姿をテレビの画面や新聞の写真で見ると、ついつい心穏やかならざる状況になるのは、何故なのか。
 頻繁に上京するわけではないが、上京する度に車内でアナウンスされるのは、東京に乗り入れているJRや私鉄、あるいは地下鉄のどこかで「人身事故」が起こり、そのためにダイヤが乱れている、ということである。あれを聞いていつも思うのは、これほどまでに毎日どこかで「人身事故=自殺」が起こっていれば、年間の自殺者数が3万人を超えるというのも実感できる。この社会の底辺で、あるいは内部で何かが確実に壊れつつあると思うのは、まさにそのような「人身事故」のニュースを聞いたときなどであるが、僕が首相の「意味のない笑い」を嫌悪するのは、あの「笑い」には「人身事故」を起こすような<弱者>に対する想像力が全く感じられないからに他ならない。
「政治」というのはまさにそのような<弱者>を切り捨てたところに成立するのかも知れない、と改めて思い知らされているのは、前にも書いたがこのところ辻井喬(堤清二)の小説をずっと読んでいて、その中で彼が東大生だったときに入党した日本共産党時代の体験を下敷きにした作品があり(処女作の「彷徨の季節の中で」意外にも、初期の作品には自分が「西武」グループの総裁であった堤康次郎の息子でありながら共産党員として革命運動(学生運動)に従事していたことが陰に陽に書き込まれている)、そこからも「政治」の酷薄さを知らされ続けているからに他ならない。
 また、辻井喬の小説と並行して、近日中に発刊される季刊雑誌「月光」の第3号で特集を組む予定の「全共闘と文学」のために(さらに、刊行が予定されている「桐山襲全集」2~3巻本のために)、僕らが学生時代を過ごした60年代後半から70年代初めにかけての「政治の季節」体験を下敷きにした作品を読みまくっている、ということがあって、その結果、更に強烈に「政治」の酷薄さを痛感している、といことがある。
 いずれにせよ、どのような時代であろうと人々の「不満」や「不安」は解消されることはない。そこに「政治」が浮上してくるのだろうと思うが、そのような原理から全く無関係を装っているように見える昨今の現代文学、一体全体どうなっているのだろうか、と思わざるを得ない。今、実はそのような現代文学の有り様について一文を書こうと、これまた準備している最中なのであるが、読まなければならない作品が山のようにあり、その山の前で佇んでいる、というのもまた僕の現実であって、なんだかんだ言っても、書いた物を読んでもらうしかないのだろう。僕としては、僕なりの視点で精一杯書いているつもりなのだが、内心「期待してください」と思いながら、日々を送るしかないと思っている今日この頃です。

やはり、な。

2009-04-11 04:06:22 | 近況
 先に「大山鳴動して鼠一匹、出た」と書いたが、どうやら「鼠」は一匹だけでなく何匹もいたようで、その中でも一番滑稽な顔(実は恐ろしい顔)をしていたのは、この機会を捉えて「やられる前にやれ」といったような、まさに「喧嘩の論理」としか言いようのない「敵(ミサイル)基地攻撃論」を堂々と主張する「若手政治家」達であった。何かあると直ぐにマスコミに登場して「若手論客」などともてはやされている我が群馬県選出の二世議員を代表とする若手政治家達、彼らはどんな「歴史教育」(日本国憲法に基づく「平和教育」、あるいは先のアジア・太平洋戦争に関わる歴史に関する教育)を受けてきたのだろうか、と思わずツッコミを入れたくなるような存在であるが、彼らのような「若手政治家達」の存在があるが故に、石原慎太郎東京都知事に代表されるような「核武装論」者が一定の支持を得ていると思うと、彼らを単に「便乗主義者」「お調子者」といって片付けてしまうことはできないのではないか、と思う。
 彼らには、万が一にも「核戦争」が起こったら、というような想像力が欠如しているのではないか。前にも書いたように「冷戦」構造が残っている東アジアでは、北朝鮮だけでなくロシアの極東部隊をはじめ中国人民軍が日本(及びアメリカ)を「仮想敵国」としており、彼らが保持する「核弾頭」を搭載したミサイルは日本(就中、自衛隊基地及び在日米軍基地、主要施設)をターゲットにしていることを、まさかネオ・ナショナリスト顔を隠さない若手政治家達は知らないというわけではないと思うが、先のアジア・太平洋戦争もABCD包囲網を敷かれた「窮鼠・日本」が苦し紛れに「やられる前にやれ」ということで、破滅への道を歩んだことを思うと、何だか不気味な気がしてならない。単なるパフォーマンスであればいいのだが……。
 と、そんなことを思いつつ、新学期を迎えて何かと気ぜわしい大学から帰って溜まっていた新聞を読んでいたら、東京新聞の文化欄(4月9日)に比較的若い作家の星野智幸が「なぜ理性は働かなかったのか―北朝鮮「ミサイル」発射 日本社会の反応」を書いているのに気付いた。星野は、なぜ「振り込み詐欺」の被害がなくならないのかという問題と今度の北朝鮮「ミサイル」発射事件とを重ねて、それは「パニック」に陥ったから(マスコミ・ジャーナリズムによってパニックが作られたから)と分析し、「われわれ日本社会の住人は、あまりにも安易にパニックや感情の爆発に身を委ねる癖がついてはいないだろうか」と結論していた。どちらかといえば、「政治」や「今日的状況」に対して声高には発言してこなかった(と記憶している)星野智幸のこの文章を読んで、何だかほっとした気分になった。星野も偉いが、日本中がこぞって「北朝鮮、撃つべし」という風潮に染まっているときに、星野にこのような文章を書かせた東京新聞の記者も偉い、と思わざるを得なかった。
 折しも、1年間の懸案であった「村上龍論」を書き上げ、文章の見直しをしながら、村上龍のように「日本(の現状)」を相対化することにその創作のモチーフを置いている作家が最近は少なくなった、と思っていたところだったので、最近の芥川賞受賞作家が「外界・外部」を遮断している(ように、僕には思える)女性に集中していることと合わせて、大江健三郎ではないが、このままでは現代文学は「窮境」に陥るのではないか、と懸念していたということもあって、星野の文章は爽快感すらもたらすものになっていた。
 それにしても、苛立ちを押さえることのできないこの「閉塞感」と、そんな状況とは全く無縁な場所で生きているように見える人々の暮らし、それが「庶民の生活」・「日常」ということなのかも知れないが(僕自身もそのような「矛盾」を引き受けて生きていると自覚しているのだが)、そのような「日常」をいかに突破していくか、僕らの前には課題山積だと思わざるを得ない。
 

大山鳴動して鼠一匹……出た!

2009-04-06 08:38:41 | 近況
 昨日から今朝までの、北朝鮮による「人工衛星打ち上げ実験」(弾道ミサイル実験)実行に関わる狂騒劇を見ていると、まさに「大山鳴動して鼠一匹」という観がしてならない。これは、日本政府が「迎撃破壊命令」を出し、東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地に「首都防衛」という名目で、これ見よがしにPC3(射程距離20~30キロ)を配備したときから薄々感じていたことであるが、今回の狂騒劇は、この機会を捉えてアメリカ政府(及び防衛産業)との協調の下で「弾道ミサイル防衛」システムの宣伝・売り込みを行おうとした魂胆が見え見えであった。
 興味深かったのは、この狂騒劇には「おまけ」がついていて、北朝鮮が発射するかも知れないと指定していた「4月4日」には、ミサイル把握システム(レーダー)の誤作動で、間違った「発射情報」が2度も伝達されるということがあった。最新鋭の情報網を整備しているはずの「ミサイル補足」のシステムが、うまく作動しなかったというのだが、機器(システム)は万全でも、その機器を操作するのが最終的には人間であるという「宿命」をこのミサイル防衛システムでも露わにしたということ、これはどのようなシステムでも「技術」に「100%完璧ということはない」と断言した公害学者の故宇井純の言葉を思い起こさせ、僕らが自戒しなければならないことなのではないか、と思った。
 ところで、今朝の新聞を見ると、今度の北朝鮮による「テポドン2」の発射に関して、これまでにミサイル発射実験(名目は「人工衛星の打ち上げ」だったりするが)を行った国は、核保有大国の「米、英、仏、ロ、中国」の他、インドやパキスタン、イラン、イスラエルに加え、日本の10ヶ国であり、韓国が今秋にはそれに加わるとのことで、この事実は何を物語っているのか。見方を換えれば、世界からは日本も北朝鮮と同じように「危険なミサイル発射」能力を持った国と見られていると言うことであり、北朝鮮がこれほど日本や米国、韓国からの「実験中止」の強い勧告を受けても実行に移してしまったというのは、「日本だって……」という思いがあるからではないか、という考え方もできる。
 これは、被爆国日本の反核運動において、今ひとつ説得力に欠けるのは、「アメリカの核の傘」に入っているということに加え、六ヶ所村の「プルトニュウム再処理工場」が稼働して、独自に核兵器の材料となるプルトニュウムを原爆何十発分保有しているという事実を世界の人々が知ってしまっている、ということに似ている。技術大国の日本では、核兵器製造に「GO」サインが出れば3ヶ月から6ヶ月で製造できるという事実を知った世界の人々は、日本の「反核」に半信半疑だということがある。
 ここで急いで付け加えれば、このように書いたからといって、僕が北朝鮮のミサイル実験を容認しているのではない、ということである。僕はいかなる戦争、いかなる核兵器・原子力産業にも反対したいと考えてきたが、その観点から今度の北朝鮮の「愚挙」も許し難いと思っている。
 僕が言いたいのは、「国内」だけに視野を絞るのではなく、もっとグローバルな視点から今度のような問題を考えなければ、僕らの感性は直ぐに「ネオ・ナショナリスト」や「ネオ・ファシスト」の論理に絡め取られてしまうのではないか、ということである。どこかのテレビテレビで、軍事評論家が冷戦構造が解体して(ベルリンの壁の崩壊から)20年たつのに、東アジア(日本、朝鮮半島、中国、ロシア極東地域)では、相変わらず「冷戦」状態が続いている、と言っていたが、僕らが忘れてならないのは、世界で6位とか7位とか言われている自衛隊の「仮想敵国」が北朝鮮であり、中国・ロシアであるという事実である。北朝鮮が「強気」な理由も、案外そのような日本(自衛隊)の体質にある、という風には考えられないか。
 なお、最後に付け加えておきたいのは、鳴り物入りでアメリカ大統領になったオバマが、核兵器削減の演説をしたその日に、北朝鮮がミサイル実験を行い、それをオバマが批難したということについて、日米同盟(軍需産業も含んだ)を考えれば、当たり前のことで、それで日本の立場が保証されたことにはならない、ということである。
 ともかく、冷静に対処すること。そのことだけは繰り返し言っておきたいと思う。

表現の自由・思想の自由

2009-04-04 09:41:34 | 近況
 昨日ある会合があって上京したのだが、その席である女性から「ごめんなさい。ブログの混乱(たぶん、炎上のことを指しているのだろう)に手を貸すようなことをしてしまって」と言われた。彼女も「匿名」(実際は、本名の下の名をひらがな書きしていたのだが、どんな職業や年齢、立場であるかを明らかにしていない点で、「匿名」と言えるだろう)でコメント欄における「論争」に参加していたらしいのである。彼女に言われて直ぐにどのような発言をしていたのか分かったが、彼女にとって「匿名」で投稿したことをすごく気にしていたようなので、「気にしないで、僕は大丈夫だから」と言っておいたが、「ブログ炎上」がブログの主宰者だけでなく、心ある人を傷つけてしまったことを思うと、ネット社会の「闇」というか、「負」の部分を改めて考えざるを得なかった。
 そこで、なぜ僕が「匿名性」の陰に隠れた「筆=言論の暴力」に批判的か、と言い点に関してもう一度言っておけば、本来「匿名」で主義主張を述べたり批判を展開するのは、権力との関係において「弱い立場」の人間が本名を名乗ることで不当な弾圧を受ける可能性があるからで、「弱い立場=権力の側に立っていない人」を誹謗・中傷するためではない。このような「言葉」による権力批判は、江戸時代以降(もしかしたらそれ以前から? 「枕草子」や「方丈記」、「徒然草」などのエッセイには明らかに時の権力への反意を読み取ることができる)現代までずっと続いていることであるが、現在ネット社会で行われている「匿名」による他者の批判・誹謗・中傷は、「学校裏サイト」などが象徴するように、(たぶん)弱者が弱者を「いじめる」構造になっており、そのような構造を(意識的・無意識的を問わず)容認した上で成り立っているものである。
 例えば、このところこのブログに、何が気に入らないのか(たぶん、僕が国立大学の教員であることが最大の「不満」、「気に入らないこと」なのだろう)、「四条烏丸」と名乗る人(京都のお人か)の、執拗な「黒古批判」、この人など何方か(この人も匿名だったが)に、「高所・高見」からもの申しており、嫌らしいというような意味の言葉で批判されていたにもかかわらず、相変わらず、自分の身分や思想信条を明らかにしないまま、僕が大学教師でいることに対する「不満」を縷々述べている。もしかしたら、国立大学の教師になりたくてなりたくて仕方がなかったのに、なれなかったので、その「怨念」を僕にぶつけているのかも知れないが、もしそうでなくて、本当の「正義感・理想」から、国立大学の教師に「あるべき姿」を求めているのだとしたら、現実を知らない脳天気な人だな、という感想を述べるしかなく、僕にそんな「理想」や「正論」を求めないでよ、と言うしかない。
 「匿名」が問題なのは、件の「四条烏丸」氏の場合のように、批判された側(例えば僕)には批判した人に対する判断材料が全くなく(匿名だし、隠している節もあるので)、論争が本来持っている「対等・平等」の原則を著しく損なっているからに他ならない。そのことに「四条烏丸」氏は気付いていないから(気付かないふりをしているから)、「高見・高所」からものを言っているのだ、と氏の言説を読んだ人から批判される羽目になったのだろう。「四条烏丸」氏のような考え方で国立大学の教員を「恫喝」するから、大学から「大学の自治」も消え、「自由」な雰囲気も消えていくのではないか(僕は、ある教員が「論文審査」において、<この論文が載っている雑誌は「左翼的」だから考えなければならない>、と発言したとき、ぞっとしたが、国立大学の教員はおしなべて「体制追従」(権力に協力する)でなければ行けないと読める「四条烏丸」は、そのような教員ばかりが国立大学の教員になればいいと思っているのだろうか。)
 いずれにせよ、原則的に「匿名氏」にはコメントで応えることはしない、ということを再度確認しておきたいと思う(このような「一般論」で、例として取り上げることはあるかも知れないが)。

 それにしても、北朝鮮の「人工衛星打ち上げ実験」(弾道ミサイル発射実験)が今日にも実行される段階になってきたが、ここにきてこの問題に関わる防衛省・防衛族議員・軍需産業(に加えてネオ・ナショナリストたち)の「思惑」が徐々に明らかになってきたように思う。秋田県沖、と言われているのも関わらず、東京は市ヶ谷のこれ見よがしに配備されたPC3(パトリオット、1発2億円だそうだ。因みに、イージス艦の装備されているMS3は1発20億円だという)、この異様な姿が何を意味しているのか。ミサイルが発射されたとき、もう一度考えてみたいと思う。