年頭にも記したように、昨年に刊行が予定されていた本も、(サボっていたわけではないのだが)今年に刊行がずれ込むというようなこともあって、4月に『増補版 三浦綾子論』が刊行されたばかりなのに、6月には僕もその企画に関わってきた「新鋭作家論叢書」の第一弾として、『村上龍論―日本を相対化する』(仮題)が6月に出ることになり、先週からその「著者校」に取り組み、ようやく今日の午前中に終わった――版元(編集者)との約束で、今月中に著者校が終われば、予定通り6月15日までには刊行されることになっていた――。
「新鋭作家論叢書」の第一弾は、拙著の「村上龍論」の他に、僕より前に原稿ができていた河合修氏の「柳美里論」が同時発売になるとのこと、引き続いて綾目広治氏の「小川洋子論」が続き、そのあとも川上弘美論や吉田修一論、等が続々と続くことになっている。拙著の「村上龍論」は、村上龍が「若手」でも「新鋭」でもないので、「新鋭作家論叢書」の1冊として刊行されることにいささかのためらいもあるのだが、僕の関心と版元の意向との兼ね合いで、刊行第一弾となったのである。出来映えについては、僕自身何も言えないが、私見の範囲では、まとまった「村上龍論」としては野崎六助氏のものがあるだけで、他には「国文学」やその他の特集や論集があるだけの現状を鑑みて、拙著は「村上龍」の著作を真ん中に置き、それに僕自身が日頃考えてきた世代論と現代文学論を重ねて論じたもので、オーソドックスな方法ではあるが、一人の作家の「全体」を書くことができたのではないか、と思っている。
この「村上龍論」は、書き始めてからほぼ1年かかってしまったせいか、「著者校」でかなりの「手直し」があり、時間もかかってしまったのであるが、それだけにまとまったものになったのではないか、と思っている。内容については、刊行された暁に是非手にとって読んで欲しいのだが、一つだけ拙著の特徴(新しさ)を言っておくならば、ノーベル賞候補の村上春樹だけでなく村上龍もまた「喪失」をその文学的原点にしていたこと、そのことを踏まえて拙著「村上龍論」は構想されているということである。
どのような本に仕上がってくるか、今から楽しみである。
なお、先般「増補版 三浦綾子論」の版元である柏艪社から連絡があって、版元の方に「黒古のブログを見た」と言ってくれれば、郵送料は版元負担で送ってくれるとのことでした。この「増補版 三浦綾子論」に関しては、お送りした林京子さんからのお便りで「読みやすい・分かりやすい」本だと褒めていただきました。
多くの人が手に取ってくれればいいな、と切に思っています。
「新鋭作家論叢書」の第一弾は、拙著の「村上龍論」の他に、僕より前に原稿ができていた河合修氏の「柳美里論」が同時発売になるとのこと、引き続いて綾目広治氏の「小川洋子論」が続き、そのあとも川上弘美論や吉田修一論、等が続々と続くことになっている。拙著の「村上龍論」は、村上龍が「若手」でも「新鋭」でもないので、「新鋭作家論叢書」の1冊として刊行されることにいささかのためらいもあるのだが、僕の関心と版元の意向との兼ね合いで、刊行第一弾となったのである。出来映えについては、僕自身何も言えないが、私見の範囲では、まとまった「村上龍論」としては野崎六助氏のものがあるだけで、他には「国文学」やその他の特集や論集があるだけの現状を鑑みて、拙著は「村上龍」の著作を真ん中に置き、それに僕自身が日頃考えてきた世代論と現代文学論を重ねて論じたもので、オーソドックスな方法ではあるが、一人の作家の「全体」を書くことができたのではないか、と思っている。
この「村上龍論」は、書き始めてからほぼ1年かかってしまったせいか、「著者校」でかなりの「手直し」があり、時間もかかってしまったのであるが、それだけにまとまったものになったのではないか、と思っている。内容については、刊行された暁に是非手にとって読んで欲しいのだが、一つだけ拙著の特徴(新しさ)を言っておくならば、ノーベル賞候補の村上春樹だけでなく村上龍もまた「喪失」をその文学的原点にしていたこと、そのことを踏まえて拙著「村上龍論」は構想されているということである。
どのような本に仕上がってくるか、今から楽しみである。
なお、先般「増補版 三浦綾子論」の版元である柏艪社から連絡があって、版元の方に「黒古のブログを見た」と言ってくれれば、郵送料は版元負担で送ってくれるとのことでした。この「増補版 三浦綾子論」に関しては、お送りした林京子さんからのお便りで「読みやすい・分かりやすい」本だと褒めていただきました。
多くの人が手に取ってくれればいいな、と切に思っています。