黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

新規まき直し、元気です(2)――安倍首相の「核先制不使用」に反対、理解できない。

2016-08-18 05:54:30 | 仕事
 リオ・オリンピックのメダルラッシュ――しかし、各国のメダル獲得数を見てみると、上位トップ10以内を占めているのは、全て先進工業国=「豊かな国」で、潤沢な選手養成資金を確保できる国がメダルを獲得するという現実をどう見るか。テレビで放映される各種競技を楽しみながらも、オリンピックが「カネまみれ」になった現実にも、同時に目を配らなければならないのではないか――に湧くマスコミは十分に伝えなかったが、6日・9日のヒロシマ・ナガサキの「平和式典」で、今年は珍しく「非核三原則」「核廃絶」について触れた安倍首相が、4月に開かれた伊勢志摩サミットの際に広島を訪れたオバマ・アメリカ大統領が、自らの「核軍縮」に対する理念を実現するために議会に提案しようとしている「核先制不使用」に反対の意向を伝えていたという。理由は、もしアメリカが「核先制不使用」を内外に宣言したら、北朝鮮の核攻撃に対する「抑止力」が弱まってしまうからとのこと。
 安倍首相の言葉(思想・考え方)が「矛盾」に満ち、「誠実さ」に欠けることについては、この欄で再三再四指摘してきたことだが、今回の「核先制不使用」に反対ということについては、そこからは安倍首相(自民党)の「本音」が透けて見え、本当に激しい怒りを覚えざるを得ない。
 つまり、安倍首相が六日の広島、九日の長崎の平和式典の「あいさつ」で語った「非核三原則の堅守」や「核廃絶の願い」も、世界で最初の戦争被爆国として「仕方なく」言ったことであり、「あいさつ」の中にヒロシマ・ナガサキと同じ「核被害」であるフクシマ(原発事故及び今なお一〇万に近い人たちが非難している現実)については一言もなく、そのこととの関連で最近加速度を増している「原発再稼働」も全く言及しなかったことにも通底しているのだが、安倍首相や現政権の「本音」は、その「核抑止論」に基づく「日本の核武装化」にある、ということに他ならない
 これも、再三再四言ってきたことだが、フクシマ以降の電力事情を見れば分かるように、本当は各電力会社とも「電力は余っている」にもかかわらず、「電力不足」を理由に原発の再稼働を急いでいる「真の理由」が「核燃料サイクルの維持」→核兵器の材料であるプルトニウムの確保→潜在的核保有国としての地位を確保にある、という現実を、安倍首相の「核先制不使用」反対は図らずも露呈した、ということである。
 なお、安倍首相の「核先制不使用」反対に関して、広島県被爆者団体協議会の大越和郎事務局長が、「書くの先制非使用は核廃絶を求める被爆者や非核保有国の思いに添った政策。安倍首相は保有国以上に核に依存している」(「東京新聞」8月17日号)と怒りを露わにしていたが、全くその通りだと思う。「改憲」(憲法第9条の改悪)を急ぐ安倍首相には、ヒロシマ・ナガサキの20万人を超える犠牲者(死者)も、またその犠牲者の数を上まわる、現在もなお「原爆症」と戦い苦しんできた被爆者の姿も、さらに言えばフクシマの被害者(避難者)の姿も、全く見えていないということである。
 安倍首相には弱者=被害者の真の姿が見えていないということに関連してさらに言えば、15日の「全国戦没者追悼式」で「先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に倒れた御霊、戦火に遭われ、あるいは戦後遙かな異境でなくなられた御霊。皆様の貴い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを片時も忘れません」(式辞の言葉)と言った安倍首相の目には、約320万人に及ぶ日本人犠牲者の姿は映っていても、先のアジア太平洋戦争のおける日本軍の「侵略」によって犠牲となった中国大陸及びアジア各地の2000万人以上と言われる犠牲者の姿は、全く見えていないのではないか。だから、「式辞」において先の戦争への「日本の加害責任」について全く言及せず、「謝罪」もしなかったのだと思う。安倍首相には、「足を踏まれた者の痛み」など全く理解できないのである。
 この権力者(安倍首相)の在り方は、各種選挙で表明された沖縄県民の意思を無視して、名護市辺野古沖のアメリカ軍新基地の建設を強行し、はたまた自然豊かな「やんばる地区」(高江)に自然破壊をものともせずヘリパッド(棄権極まりないオスプレイの訓練基地)建設しようとしている、と相通じている
 僕らは本当に「恐ろしい独裁者(ネオ・ファシスト)」」を持ったものである。もちろん、そのような「暴君」の存在を許している責任に一端は、彼の政権に高い支持率を与えている僕らにも、ある。「理想論」と言われるかも知れないが、一人一人が「目を覚まし」、「モノ・カネ」よりも「こころ(精神)」の豊かさを求めるようにしないと、いつかとんでもない社会が実現することになるのではないだろうか。strong>

新規まき直し、元気です(1)――ご無沙汰していました。

2016-08-12 15:58:55 | 仕事
 前回の投稿からちょうど1ヶ月。まずは、この間の報告をします。
 参議院選挙、直後の東京都知事選挙において、ある意味「予想通り」野党統一候補が破れたわけだが、あれほど多くの人が「現状維持=現政権支持」が将来に禍根を遺すと言っていたにもかかわらず、お決まりの「争点隠し」――本音は憲法第9条第2項の「戦力保持」の条項を変えて「国防軍」の創設を、というわけだが、政権与党が参院選で前面に出していたのは「アベノミクスでふかし、成長経済を実現する、そのためには何でもする、ということで、28兆円の大型補正予算を前倒しで組み、貧困層には一人当たり13000円を給付する、などといった「馬の鼻面にニンジンをぶら下げる」ような、格差社会の進展で呻吟する庶民(国民)を体よく「騙す」ようなものであった。
 東京都知事選になると、さらに状況は悪化した様相を呈し、「女性」であることを最大の武器にして、「権力欲」剥き出しで「都政改革」などを謳い文句にの「初の女性都知事」の誕生を実現させたわけだが、当選して知事に就任した途端、自分が敵対していたのは「自民党党東京都連」であって自分が所属していた自民党出はないとばかりに安倍首相に会いに行き、選挙中は膨張するばかりの東京オリンピックの予算にメスを入れると言っておきながら、その膨張するオリンピック予算を牛耳っている森組織委員長とにこやかに握手し、お互い理解を深めたと言って、どうやら膨張し続ける予算にメスを入れるという話しも「反古」になりそうな情勢、どうなっているのか。東京都民(選挙民)は騙されたのではないか、と思わざるを得ない。
 傲慢に(偉そうに)聞こえるかも知れないが、そんな未来を見据えた「理念」も「モラル」もない政権与党の「甘い話」をちらつかせた手練手管にに易々と踊らされた国民やと民意に、半ば「絶望」し、半ば「怒り」ながら、そのように国民や都民が「愚民化」してしまった責任の一端は、「権力の暴走」を止めることができない僕ら「物書き・批評家・研究者(学者)・ジャーナリスト」にもあるのではないか、とこの間ずっと考え続けていた
 別な言い方をすれば、この1ヶ月間、頼まれて指導と審査の一端を担うことになっていた二つの大学の博士論文の「下書き」(両方とも800枚超)を、コメントをツケながら読むという作業を行い、それが終わった途端、9月末に刊行が決まった拙著『立松和平の文学―生きることは書くこと』(約810枚 アーツアンドクラフツ刊)のゲラが出るということもあって、余計に自分の文学観や世界観(社会観)を点検せざるを得ないことにもなった、ということである。
 ゲラは昨日ようやく見終わり、版元に送付し、「あとがき」も書き終わり、これであとは装幀やら価格やら販売戦略などを版元と打ち合わせするばかりになった。
 ところで、拙著の刊行が決まる過程で聞いたことなのだが、何が原因かが突き止められないまま(僕は、スマホの急速な普及やゲームの流行が原因だと思っているが)、出版不況、特に「純文学」系の作家論や評論など売り上げが大幅に下落し、そのうち「純文学」系の小説など出版されなくなる(読めなくなる)のではないか、日本の文化構造(出版文化を中心とした)も変わってこざるを得ないのではないか、と真剣に心ある人たちは議論しているという。
 これは、「歴史」や「現実」から学ばず、そのため原発再稼働を推し進めたり、アジア太平洋戦争の「敗北」から獲得した「平和憲法」を変えようとしたりしている政権与党の在り方と、どこかで通底しているのではないか。さらに言えば、そのような政権与党に対して、「目の前にぶら下がったニンジン」に騙されて支持を与えている国民にも、歴史や現実から学ばない姿勢は通底しているのではないか、と思っている。
 そんなことを考えつつ、今日から「新規まき直し」です。
 今後ともよろしく。