黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

愚かな! 北朝鮮の核実験

2009-05-26 06:32:51 | 近況
 「北朝鮮が二度目の核実験」という報に接し、まず思ったのは「歴史」から何も学ばない「人間の愚かさ」ということであり、「窮鼠猫を噛む」というのは例え話の世界だけであって現実政治の世界では通用しない「反撃」理論だ、ということであった。
 次に考えたのは、19年前の「ベルリンの壁」崩壊が明らかにした東西冷戦構造の解体が、極東アジアだけには未だ生き続け、「世界の火薬庫」になっているのではないか、ということであった。「社会主義」とは名ばかりの「金日成思想=主体思想」に身を包んだ武装国家・北朝鮮の存在は、まさに米ソの対立を軸とするかつての冷戦構造をそのまま踏襲したところに成立したように思えるが、「瀬戸際外交」かどうかは知らないが、「核兵器」を保有することによって自国の存在を世界にアピールし、極東アジアに「緊張」を創り出すというのは、何とも馬鹿げた古い政治手法だとしか言いようがない。
 つまり、北朝鮮は1945年8月に起こった「ヒロシマ・ナガサキ」から何も学ばず(というより、核兵器の尋常ならざる威力を自国が保持することによって、国際的な地位を高めるという「迷信」、あるいは国際政治の言葉を換えれば、「核抑止力」理論の信奉者ということである)、人類や地球の「未来」に責任を持たない場当たり的な、言ってみれば「戦争屋」としか思えないほどに「核」を弄ぶ国家だということである。ただ、「核抑止論」の有効性を信じているということになれば、それは北朝鮮指導部だけでなく、日本にもアメリカにも、そしてロシア・中国、フランス、イギリス、インド、パキスタン、イスラエル、イランといった核保有国(核保有を準備している国も含む)の政治指導部の中に存在しているという事実=現実を忘れるわけにはいかない。
 とは言え、北朝鮮の核実験、北朝鮮の指導部は「核」を保有することで自分たちの国家が未来永劫に存続できると信じているのかも知れないが、愚かだな、と思うのは、オバマ・アメリカ大統領は「核軍縮」を口にしたが、僕はアメリカという国家は本質的に(無意識的にも)「モンロー主義」(自国の利益優先主義)を国是としているから、ソマリアやイラク、アフガンへの介入(破壊)を見れば分かるように、いざとなれば他国(北朝鮮)を破壊することに全く躊躇しないということを、北朝鮮は理解していないと思うからである。現に、イラクからの撤退を表明した「(核)軍縮」主義者オバマも、返す刀でアフガンのアメリカ軍を増強するという、「わけのわからない=理解しがたい」政策を採ろうとしている。お互い様だが、「目には目を、歯には歯を」という復讐の論理が如何に馬鹿げたものであるかを、北朝鮮は(そしてアメリカも、日本のある一部「核武装論者」たちも)分かっていないのではないか、そのことを恐れるのである。
 と、このように書くと、またぞろ、どこの誰だか分からないが、ナショナリストを気取って「(黒古の論理は)北朝鮮擁護・日本批判だ」という輩が登場するので、前もって言っておけば、僕は決して北朝鮮の「ミサイル発射実験」(人工衛星発射実験)や「核実験」、あるいは「拉致事件」を擁護する者ではない。それは僕の文章を「悪意」なく読んで貰えば理解して貰えると思うのだが、確認しておけば、北朝鮮であろうが他のどこの国(日本も含む)であろうが、「戦争」や「核開発」に繋がる全ての事象について僕は批判(はんたい)するのであって、そのような文脈で「床屋談義=素人の政治談義」を承知で、しかも1970年前後の「政治の季節」体験を自らの言説の原点としている者の責務として、日本の「戦争推進派」や「核武装論者」を批判しているに過ぎないのである。――タダ、面白いと思うのは、前にも書いたが、僕のブログへコメント(批判)を寄せる人の特徴として言えるのは(ネット上の「書き込み」というのは概ねそのようなものなのかも知れないが)、決して自分の意見や政治的立場・文学的立場を明確にせず、「揚げ足取り」のような批判をするということである。もちろん、「チョウワ」さんのように該博な知識を披露しながら、僕らの考え方の弱点や欠陥を指摘してくれる人もいるのけれど……。
 最後に、ここ30年ほど「ヒロシマ・ナガサキ」の出来事とそれに触発されて書かれた「文学」を中心に関わってきた者として言えば、現在アメリカの所有する最小の核兵器が2発もあれば、平壌市は壊滅してしまうことを北朝鮮の指導部は厳然と認識すべきであるし、今朝のテレビを見ていたらコメンテーターがしきりに「非核三原則を守っている我が国=日本」という言い方をしていたが、「作らず」「持たず」はいいとして、「持ち込ませず」は、沖縄返還に伴う「密約」が明らかにしているように、あるいは横須賀や佐世保が原潜や原子力空母の母港化した現実を鑑みれば分かるように、有名無実化し、戦後から今日まで日本はずっとアメリカの「核の傘」の下で経済発展を実現させてきたこと、そのことは忘れてはならないのではないか、と思った。
 そして、もし本気でオバマが「核軍縮」を実現しようと思っているのであれば、僕としては「隗より始めよ」と言うしかない。口だけでなく、オバマが何らかの形で「核軍縮」に着手したら、僕は彼のことを信用したいと思う。

山菜採りで1日つぶす

2009-05-25 10:51:23 | 近況
 昨日(24日・日曜日)、朝3時に起きて、1年に1回の行事となっている「山菜採り」に新潟の湯沢まで行ってきた。僕の家を建ててくれた大工さんと二人(年によってそれぞれ家人が同行することもあるが、昨日は両方の家人とも用事があって不参加だった)で、毎年行っている「秘密の場所」へ。僕らは、山菜採りといっても、メインは「山蕗」で、それにワラビやコシアブラがあれば採る、というやり方をずっと守っており、今回もコンビニで朝昼兼用のおにぎりを買って、その「秘密の場所」に直行した。
 なぜ「山蕗」がメインかというと、自家製の「キャラブキ」を作るために大量に採集しなければならないからである。毎年、大体10キロ近く採るだろうか。朝3時に出掛けるのは、明るくなったら直ぐに採り始め、用意した入れ物に一杯になったら途中で日帰り温泉に入って疲れを癒し、帰宅したらすぐにきれいに洗い、水を切り、適当な長さ(3センチぐらい)に切った後、「秘伝」の調理法でキャラブキにするのである。
 さて「秘伝」の調理法(実は昵懇にしている土木会社の会長夫人に教えていただいた方法)であるが、本当は秘密でも何でもないのでこの際「公開」しておくと、
①大きな鍋の底に、鍋の大きさにもよるが、頭とはらわたを取った大きめの煮干しを15~20匹置く。
②適当な大きさに切った蕗を鍋一杯入れる。
③醤油、酒を等量、蕗がひたひたになるだけ入れる(この際、すぐ食してしまうのであれば、醤油はそんなに多くなくてもいい)。
④少し「甘み」の欲しい人は、ザラメを適量入れる(僕は、それに加えて、沖縄の黒砂糖をブロックのまま入れる→コクが出るような気がする)。
⑤一煮立ちしてきたら、弱火にして、3時間ほど煮る。(時間の目安は、汁が鍋の底1ミリ以下になったとき。この時注意しなければならないのは、一度入れた蕗は煮ている最中絶対にかき回さないこと。かき回すとふっくらした柔らかいキャラブキにならないし、煮干しの苦みが出てしまう)
⑥最後に「照り」が欲しい人は、適量の「みりん」を加える。
 以上。「秘伝・キャラブキの作り方」。
 ということなので、10キロ余りの蕗を洗い、切って煮始めたのが3時半、二つのコンロを同時に使い、1回が3時間、それを昨日は3回繰り返したので、寝たのは今朝の4時頃になってしまった(→煮汁が十分にあるうちはいいのだが、最後の方になって居眠りでもしてしまうと、これまでにも何回かそんなことがあったのだが、焦がしてしまい、その鍋全体を無駄にしてしまうということが起きるので、「寝ずの番」を強いられる。これがこの「キャラブキ造り」で一番辛いことである。今回は、途中居眠りをすることがあったが、焦がすことはなく、すこししょっぱく仕上がったが、概ねよくできたのではないか、と思っている。
 そして今朝、朝食の後、知り合いにお裾分けする文を抜かして、例年通り小分けして「冷凍庫」へ。田舎暮らしの僕らにとって、冷凍しても味の変わらない(似た直後より、むしろ冷凍した方が味がまろやかになるような気がしている)キャラブキは、不意のお客や友人たちへのちょっとした「手みやげ」に最適なのである。
 経費は結構かかるのだが、全くの「自然食品」(醤油や酒に不純物が入っていれば、そんなこと言えないのだが……)として、体を酷使しながら採って作ったキャラブキ、心身共にリフレッシュすることができた。
 今回は、蕗の他、ワラビが少々(食卓4回分ぐらい)とコシアブラ少々、大工さんは友人や親戚にできあがったキャラブキを配るとかで、僕の倍の量を採ったが、処理はどうしたろうか。毎年、できあがったキャラブキを味見しっこしているのだが、今回も楽しみである。
 それにしても、腰、ふくらはぎ、太ももが痛い。恢復に2~3日かかるかと思うと、ちょっと憂鬱、です。
 以上、ご報告でした。

自戒を込めて、恣意的な批評・批判

2009-05-23 16:06:28 | 文学
 中国人留学生の院生に教えられて、今月末(29日発売とのこと)に刊行される村上春樹の新刊『IQ84』(何を意味しているのか、数字好きな村上春樹のことだから、いずれ何かの意味を付与しているのだろう)について、東大で中国文学(比較文学)を講じている藤井省三が、この村上春樹の新作は魯迅の大きな影響を受けた作品になっている(はず)と、大胆な予想をしているという「ニュース」を中国のネットでみた。
 このことは、『ノルウェイの森』が140万部も売れた中国だからなのか、あるいはもはや村上春樹文学は「世界の文学」として世界中から注目されており、その結果として「新作」の刊行があれこれの予測を交えて待たれているということを意味しているのだろう。既に3年前にノーベル賞候補としてノミネートされ、以後毎年「今年こそは」というマスコミ・ジャーナリズムの期待を担ってきた末の「新作」、僕のところにもNHKの異なる二つの部署から「新作」の刊行がらみで取材があったから、ノーベル賞を受賞するか否かは「新作」の内容如何だと僕は思っているのだが、もしかしたら大江健三郎に次ぐ日本人で3人目のノーベル文学書受賞者が今年出るかも知れない、という気もしている。
 それはそれとして、藤井省三の「予測」、ネタ元はどこなのか知らないが(もし、版元の新潮社がリークしたのであれば、新潮社全体が問題となった「週刊新潮」的体質になってしまったのか、と思わざるを得ないが、まさかそんなことはないだろう。それとも村上春樹と「親しい」と公言している藤井氏は、村上春樹から直接新作の内容を聞いたのだろうか?)、この中国文学者は自身で気付かずによく「フライイング」をする人で、およそ学者とは思えない面もあるのだが、その点では今度の「村上春樹の新作は魯迅の強い影響を受けている」という「予測」もフライイングとして処理すればいいのかも知れない――藤井氏の「フライイング」というか「誤読」・「思い込み」の例を挙げれば、例えば彼はその著『村上春樹のなかの中国』(朝日選書)で、処女作「風の歌を聴け」は魯迅の影響を受けているとか、『ノルウエイの森』の翻訳は大陸の林少華が行ったものより台湾の頼女史の方がいいとか(外国文学者なのに「翻訳」は翻訳者の個性<文学観>に左右されるという翻訳のイロハも知らないかの如く言い募っていたが、この本と文科省がらみの研究資金を得て「アジアの中の村上春樹」などというシンポジウムを何回か開いたせいなのか、今や村上春樹の専門家のような顔をしている)言っていたが、それは単なる藤井氏の「思い込み=恣意的な読み」に過ぎない、と僕は思っている。藤井氏の村上春樹論へのやや詳しい批判は、拙著『村上春樹―「喪失」の物語から「転換」の物語へ』に書いておいた――。
 しかし、どこをどう探ればそのような結論(村上春樹は魯迅の強い影響を受けている)が出るのか分からないが、東京大学教授・中国文学者(彼のことを「日本の魯迅」、など煽てる留学生や研究者たちがいるのを知って驚いたことがある)との肩書きで、「恣意的」な批評、つまり「誤読」を振りまくのは止めて貰いたい、と切に思う。
 もちろん、「恣意的な批評」ということでは、自戒を込めていっているつもりである。「批評」というのは前にも書いたが小林秀雄に倣えば「対象を借りておのれを語ること」だから、「恣意的」というのは批評が持つ職名的な性質であるとも言える。しかし、藤井氏の場合、その批評(研究というかも知れない)は「恣意的」の根拠が「誤読」や「誤った考え」(例えば翻訳に関して)に基づくとしたら、それは明らかに「恣意的」の枠をはみ出し、様々な問題を生起させることになるのではないか、と思った。
 それにしても、村上春樹の「新作」が待たれる。刊行されたら直ちに北海道新聞にその感想(批評)を書くことになっているので、余計待たれるのだが、どのような内容なのか、90年代半ばに決定付けられた「転換」(デタッチメントからコミットメントへの)を更に決定付けるものであったらいいのだが、『海辺のカフカ』のように「迷走」の印象を与えるものになっていないことを祈るばかりである。

「白い紙」の感想再び、及び……

2009-05-20 08:42:15 | 文学
 一昨日から昨日にかけて、書評を依頼された「悲しみのエナジー」(福島泰樹著 三一書房刊)を読みながら、先に簡単な感想を書いたイラン人女性シリン・ネザマフィの文学界新人賞受賞作品「白い紙」のことを、しきりに思い出していた。「絶叫歌人」として知られる福島氏の本は、原口統三、長澤延子、岸上大作、特攻隊員、寺山修司といった「夭折」した表現者(寺山を夭折者というのには少々抵抗があるが、大学へ入って直ぐにネフローゼに罹り、結局はそれが原因でなくなったことを考えると、寺山を夭折者の一人に数えるという考え方も承認できる)の作品と履歴に寄り添いながら、自らの作品(短歌)を配したものであるが、原口や長澤、岸上、寺山といった詩人や歌人(最近またブームになっている寺山は別にして、二〇歳前後で自死した原口や長澤たちのことをどれだけの人が知っているだろうか)、あるいは辞世の句や遺書を残して逝った特攻隊員たちの「作品」を読むと、現代文学には何か欠けているのではないか、と思わざるを得なかった。
 そこで、書評を書きながら想起したのが「白い紙」であった。先にも書いたように、イラン・イラク戦争を背景にした「純愛小説」、若い男女の仲を裂いたのは、イラン・イラク戦争であり、イスラムの戒律だったのだが、僕がこの小説を高く評価するのは、「純愛=恋愛」という個人的な事柄を描きながら、「戦争」や「宗教」の問題と人間との関係をきちんと描き出していたからである。ここで描かれている「恋愛」(内容)は、既に指摘したように伊藤左千夫の「野菊の墓」(明治三九年)のようなもので、その意味では大変古いものである。しかし、その古い「純愛」が俄に今日性を帯びてくるのも、その「純愛」がまさに今世界で問題になっている「戦争と人間」「宗教と人間」の関係を抜き差しならない背景として描かれているからに他ならない。
 このような「白い紙」の読み方は、たぶん現代文学の世界で中核を形成している芸術至上主義者たちには、お気に召さないのではないかと思うが、大袈裟な言い方をすれば、「白い紙」評価は文学観の違いを決定付ける試金石になるのではないか。そんな気もする。
 その意味で、シリン・ネザマフィの自作が待たれるが、先に挙げた福島氏の著作を読むと、この国の文学史をひもとけば、例え志し半ばに倒れたとは言え、確実にこの「社会」や「世界」と切り結ぶ文学を目指した文学者が存在したこと、このことを僕らは忘れるわけにはいかないのではないか、と思う。

「友愛」vs「ネオ・ナショナリズム」?

2009-05-18 19:03:10 | 近況
 民主党の党首選挙が終わり、新執行部の陣容が発表されたが、マスコミ・ジャーナリズムの論調は「党内世論と世論とのズレ」ということで、あたかも民主党が「世論」を考慮しない政党であるかの如く言い募っているのを知り、相変わらずだなと思うと同時に、もし「世論」というのであれば、「中立」を装ってその「世論」を形成するのに大いに貢献(?)している我が身の姿勢を顧みるべきではないのか、と思わざるを得なかった。
 というのも、先にこの欄に書いたが、ソマリア沖の「海賊退治」のためにP3C哨戒機2機を派遣したことに極まった感のある、小泉政権以来「戦争への道」をひた走る保守党政権に対して、マスコミ・ジャーナリズムは何故きちんと「憲法違反」と言って批判しないのか、あるいは大事な公務をほったらかしにして「不倫旅行」を行った政府幹部に対して「任命責任」をきちんと認めない麻生首相に対して、なぜ「糾弾」しないのか、と思ったからである。別な言い方をすれば、西松建設から多額の政治資金を得ていた小沢元民主党党首に批判的な「世論」を形成しながら(そして、党首選びで「世論」とズレがあると言い募る)、そんなことより大事な「憲法違反」であるP3C哨戒機2機の「ソマリア沖海賊退治」への派遣問題を等閑にして、恬として恥じないマスコミ・ジャーナリズムの在り方、このことをきちんと見ていなければいけない、と改めて思った。
 その上で、今僕らに突き付けられているのは、麻生首相のように「首相の座」に固執しながら、「外交の麻生」を振りかざして着々と「ネオ・ナショナリズム」的な政策を数を頼りに行使する政権を選ぶのか、それともいかにもお坊ちゃん育ちだな思えるような「友愛」をスローガンにする鳩山民主党を選ぶのか、という問題なのではないか、ということである。どちらを選んでも大差ない、という考え方も確かにあるし、僕の内部でそのような考え方を承認して、「しらばっくれて」当面やり過ごす方が賢明なのではないか、というような「誘惑」があることも、この際だから明言しておくが、そのような考えがニヒリズムに結びつくものである以上、それを拒むために自己点検を欠かしていけないのではないか、とも思っている。
 それはともかく、現代の政治情勢が「友愛」VS「ネオ・ナショナリズム」の構図になっていること、つまり年金や福祉、教育などの生活問題も重要だが、最も肝心(本質的)なことは、「戦争」を準備する「ネオ・ナショナリズム」なのか、それとも「戦争」を拒否する「友愛」なのか、という構図になっていることを、努々忘れてはならないのではないか、と思う。
 今、頼まれて福島泰樹の著「悲しみのエナジー」(四月二〇日 三一書房刊)を書評するために読み終わったところだが、その中の一節には、若くして特攻隊で亡くなった人の遺書や詩、短歌などについて書かれているが、彼ら(とその家族)が抱いた「無念」の思いを二度と僕らは経験してはいけない、と思った。ソマリア沖に派遣された自衛隊員に死者が出てからでは遅いのではないか、いつでも犠牲になるのは「庶民」であること、このことを忘れてはいけない、とこの書を読んでいて痛切に思った。

「本性」が現れた。

2009-05-17 18:15:40 | 近況
 ヒからヒトへと伝染したことが明確な新型インフルエンザの国内汚染や民主党の党首選びという「お祭り騒ぎ」の陰に隠れた形になったが、昨日のニュースで思わず戦慄を覚えたのは、防衛大臣がソマリア沖の「海賊対策」のためP3C哨戒機が2機、100人の海上自衛隊員と50人の陸上自衛隊員と共に出動する、と発表したことであった。
 前に、ろくな国会審議を経ずに「国益のため」「邦人保護のため」という大義名分を掲げて海上自衛隊の艦船2隻が遠くアフリカ大陸(ソマリア)沖まで出動したときも「やばいな」と思い、これは明らかに「憲法違反」(前文及び第9条の)なのに、何故そのことを声高に抗議しないのか、と(誰かに言わせれば、「床屋談義」風に)書いたことがあるが、今回のP3C哨戒機2機の「追加派遣」を聞いて、ああ、これが「狙い=本音」だったのか、と憤りと共に得心がいった。
 保守党政権(「平和」を旗印にしている公明党は何をしているのだ、といいたくなるが)は、小泉政権以来、安倍、福田、そして麻生と「衆議院で3分の2」という議席数を頼りに、「ネオ・ナショナリズム(国粋主義)」への傾斜を隠そうともせず、アフガニスタン・イラク戦争への自衛隊派遣にその真姿が見られるように、着々と「戦争のできる体制」あるいは「戦争準備」とも言うべき既成事実を積み重ねてきた。繰り返すが、残念ながら「平和の党」公明党の存在は何の歯止めにもならなかった。
 そして、P3C哨戒機2機の派遣(と100人の海上自衛隊員と基地警備を名目とした陸上自衛隊員50人)である。知っている人が多いと思うが、P3C哨戒機は、主に原子力潜水艦などを発見しその航路などを測定する飛行機だということだが、「海賊対策」のためにそれほどの「兵器」が必要なのか。また、海上自衛隊だけでなく、何故陸上自衛隊なのか。
 過去のどんな戦争も(現在のアフガン・イラク戦争も)、その始まり(攻撃)の理由として上げられるのは「自衛・防衛」である。先頃、北朝鮮の「ロケット・ミサイル発射」の際に、およそ無意味としか思えないパトリオットなどの迎撃ミサイルがこれ見よがしに国民の前にその「陳腐」で「恐ろしい」姿を見せたばかりであり、これなども「戦争準備」を密かに企む勢力のパフォーマンスであったが、今回のP3C哨戒機2機の派遣は、まさに自衛隊がどんな海外でも出動できる、ということをPRするための(「平和憲法」など関係ないよ、ということを明らかにするための)パフォーマンスでしかない。
 正直言って、民主党の新党首には、自分たちが政権を取った場合、「友愛」などという抽象的な思想を語るより、絶対に今回のような防衛省(自衛隊)の「暴走」は許さない、と言って欲しかったのだが、今からでも遅くない。ぜひ、「政権奪取」を最大の目標とする来るべき総選挙における「マニフェスト」にこの件に反対する旨の一筆を加えて欲しいと思う。そうでなければ、「二大政党制」を目指す民主党の存在意義がなくなるではないか。
 僕は、「床屋談義」などと揶揄されようが、僕らの世代がになった「使命」として、このような「戦争への道」を歩む諸政策には、その都度警鐘を鳴らしていこう(「異議あり」の声を発していこう)と思う。

「白い紙」を読む

2009-05-13 09:42:46 | 文学
 発表される(「文学界」6月号 5月7日発売)前から話題になっていたイラン人女性シリン・ネザマフィ(29歳)の、文学界新人賞受賞作品「白い紙」を読む。「村上龍論」の再校を校正しながら、時間を見つけて読んだのだが、結論的に感想を先に言っておけば、日本語の表現に多少こなれない部分があると感じつつも、「純愛」を前面に出しながら、村上春樹のエルサレム賞受賞演説に引っかけて言えば、「壁=強権・戦争・宗教(イスラム教)・貧富の差を放置している社会、等」とそれに対する「卵=一個の人間」の関係を、(もしかしたら作者は無意識だったかも知れないが、状況が強いた結果)見事に描いた佳品、と読むことができた。
 文学(小説や詩、等)を文学内部の表現や人間模様に自閉させるのではなく、社会との関係で考えるべきである、と思っている僕としては、昨今の、特に芥川賞を受賞した女性作家たちの作品から感受される「社会」が捨象された「芸術主義」および「内面主義」(言葉足らずだが、とりあえず内部を重視する作品傾向について、このような言い方をしておく)、さらに言えば、そのような自分の作品傾向に自足しているように見えるその在り方にずっと不満を持っていたが、この「白い紙」の場合、この国の女性作家(だけでなく、現代文学全般と言っていいかも知れない)の在り方に対して、自然な形で「否」を突き付けるものになっているのではないか、と思った。
 こんな書き方をすると、過大評価だというような批判を受けるかも知れない。あるいはまた、昨年の北京オリンピックに併せるようにして在日中国人(元留学生)の楊逸が芥川賞を受賞したように、今度も「厳格なイスラム原理主義」や、「核開発」、「ミサイル発射実験」などで何かと世界(日本)の耳目を集めているイランから来日した人の小説ということで、「文学界」編集部(文藝春秋)が「あざとさ」を承知で新人賞に選んだのではないか(もちろん、吉田修一や角田光代たち5人の選考委員による「厳正」な審査を経て、今度の新人賞は決定した、ということになっているが、新人賞(文学賞)の場合、別な思惑が働いて受賞作が決まるというのは、よく聞かれる話である)、ということもあるが、仮にもし僕が選考委員だったとしたら、(残念ながら他の候補作を読んでいないので、本当は何も言えないのだが)文句なしに「白い紙」を受賞作に推したのではないか、と思う。
 日本語の問題はあっても、それほどによくできた作品ということだが、今回は速読しての感想であり、時間もないので簡単にしか書けないが、いずれきちんとした批評を展開したいと思っている。
 最近の小説に物足りなさを感じている人、騙されたと思って一読してみてください(そして、もしよければ、コメントを寄せてください)

権力抗争の果てに

2009-05-12 06:11:14 | 近況
 昨日の小沢民主党代表の辞任表明を知って、まず思ったのは「権力」というものの奥深さ、というか「伏魔殿」のような不気味さであった。思惑通りに小沢辞任に追い込んだ(時の政治権力と手を携えて、としか思えない)検察は、「政局」とは関係なく淡々と「西松建設の献金問題」を追求してきた結果、小沢代表の公設秘書の逮捕→起訴に進んだのであって、決して来るべき総選挙で劣勢にあった与党を助けるための小沢辞任を目論んだものではない、と言うだろうが、今回の一連の経過、就中「景気回復」の名目で(借金した上での)予算バラマキ政策しか行ってこなかった麻生政権の支持率が少しずつ上昇してきたことの意味を考えれば、内心では「してやったり」と思っている権力側の人はいると考えるのが自然である。一時はあれほど騒がれた、元首相をはじめとする自民党議員への西松建設からの政治献金について、今ではマスコミはもちろん誰も何も言わないのは何故か。この珍妙な現象が、「小沢落ろし・排除」が現実的・具体的になってきた頃から目立つようになったことを考えると、検察に「現政権を守れ」といったような「確かな意図」があって、小沢辞任までの道筋が描かれたのではないか、と思わざるを得ない。
 それに加えて、僕らも「小さな政府」を掲げ、「改革」を旗印にした小泉政権の施策とはことごとく真逆な政策(その最大のものが将来に膨大な借金を残してまでも行おうとしている「バラマキ政策」であるだろう)を行っている麻生政権に対して、「あきらめ」なのか、それとも「自虐」なのか、60~70%の不支持を示しながら、それでも「総理の座」にしがみつく麻生太郎氏を許容し、本気で「解散・総選挙」を要求しないその在り方、村上龍ではないが、徹底してダメな僕ら、と思わないわけにはいかない。
 しかし、それはそれとして、今度の小沢辞任劇を見ていても感じたことであるが、どうも「政治」というものが我々の生活から遠のいており、例えば千葉県知事選挙に見られるように、その分だけ「パフォーマンス」によって目眩ましされるような事態を招いているのではないか、という思いを断ち切ることができない。本来的には「民」のためにあるはずの「政治」が、そうではなく、政治家一個の、例えば総理大臣になりたい、といったような「欲望」のためにあるように見える昨今、「民」の側に「あきらめ」が蔓延していると思うのは、僕の僻みか?
 さて、今度の小沢辞任劇、民主党、あるいは自民党(公明党)、はたまた「民」にとって、吉と出るのか凶と出るのか。この倦んだような現実が少しでも動くのであれば、それは総体として「吉」ということになるのだろうが、「民」にとって自らの意思を表明する機会は、選挙しかない。ならば、「首相の座」に固執する麻生さんに早期解散・総選挙を望むことは難しいから、彼には任期満了まで首相の座に止まって貰い、その後に控えた総選挙に「満を持して」臨むしかないのではないだろうか、と機能の小沢辞任劇を見て改めてその思いを強くした。
 年金、医療、教育、福祉、問題は山積しており、麻生さんが行っているような「バラマキ政策」によって解決するような問題ではない。根本的な解決策を探らない限り、将来に禍根を残すことになる問題ばかりである。やはり、「満を持して」次の総選挙に恃むしかないのかも知れない。

今は民の間に「信」があるか?

2009-05-09 17:35:57 | 近況
 宮沢賢治について調べなければならないことがあって、県立図書館へ1950年代に出た本を借りに行ったのだが、その帰りに図書館の近くに住む大学時代の恩師宅に寄ってきた。実はその恩師、昨年の11月に93歳で亡くなっており、本人の意向で普通の葬儀はせず家族葬で済ませたということと、僕はつくばにいてそのことを知らなかったということが重なって、先生が亡くなったことを正月になって知るまで不義理をしていて、相手の都合と僕の都合がどうもうまくいかず、今日まで線香を上げに行くこともしなかったのである。恩師とは、大学時代は専門が違っていたということもあって、正直言ってそんなに親しくはなく、むしろ医学部にいたお嬢さんとの方が、集会やデモで何かと話す機会があった、という間柄であった。親しくなったのは、僕が大学院で学んでいるときにある事柄について恩師に質問をしに行ってからである。
 その後は、本を刊行する毎にお届けし2,3時間医者になって活躍しているお嬢さんの話や世間話をする関係になったのだが、先生に対して心惹かれるという思いをしたのは、世間話の折に先生の胸に未だもって中国兵の撃った小銃弾が残っており、その戦争体験が自分の文学活動(短歌作者として著名)の原点になっていると知ってからであった。大学ではそのことをおくびにも出さず、図書館長として全共闘学生と対峙したときも、毅然として「知の独立性」を主張し、しかしどんな「暴力」学生に対しても「媚びる」ことなく、また「権力」を振りかざすことなく「民主的」な対応をし続けたその姿勢の「原点」に戦争体験があったことに、学生時代はもちろん、長い間気が付かなかった「迂闊さ」をその時には恥じたのだが、その真っ直ぐな姿勢には、僕が年を取ってきたということもあって、学ぶべきことが多かった。できれば僕も恩師のような生涯を送れたら、と思わないわけではないが、望むべくもないことかな、とも思っている。
 さて、亡くなって半年後に仏壇に線香を上げるという、みっともないことをしてしまったのだが、未亡人(とてもいい人で、貧乏だった大学院生時代から知っているので、家族の消息などによく気を遣ってくれていた)は全く嫌な顔もせず、喜んでくれ、先生がお元気だった頃と同じように、2時間ほど世間話(先生の思い出、等)を話して帰宅した。残念だったのは、その世間話の中に出てきた共通の知人・恩師の消息に関してであるが、最近の人間関係を反映したことなのか、当然弔問に訪れていいはずの人が何人も来ておらず、未亡人が逆に心配していることが判明したことである。「民、信なくば立たず」は、政治の有り様に関して孔子が弟子に語った言葉であるが、未亡人の話を聞いて、僕らが生きるこの社会に「信」が亡くなりつつあるのかも知れない、と思った。
 この「(民)信なくば立たず」は、僕自身も身を以て感じていることであり、この民の中から「信」が消えつつあるということは、「共生」の可能性も本当に消えつつあることを示唆しているようで、残念な気がしてならない。本質(本筋)ではなく些末なことを殊更に言挙げして他人を批難し、自分を「高見・高所」に置いて満足するような、そんな風潮が蔓延しているように思える昨今、古めかしい言葉(倫理)に聞こえるかも知れないが、「信」とは何か、を僕らはもう一度考える必要があるのではないか。
 それにしても、支持率がいくらか上昇したからというわけではないだろうが、麻生首相に二つの失言(確信犯的な錯誤)――「私は43三歳で結婚して二人子供をもうけたから義務(責任)を果たした」「チェコスロバキアの国民云々」(今はそんな国などないのに、一国の首相が国名を間違えるとは、何のための外遊であったのか)――は、この世の中に「信」が欠如していることの証だと思うと、情けなさを通り越して哀しくなってしまった。ダメな指導者もダメだが、それを支持する国民もまたダメなのではないか。このようなブログを書くことと自著や拙文で自己の思想をメッセージとして忍ばせることだけで、他に何もできないような自分の「無力」を自覚しつつ、本当にどうしようもない世の中になっていくな、と思わざるを得ない。何とかしなければ……。

もう少し時間が欲しい。

2009-05-06 11:20:18 | 仕事
 今日で連休が終わり、明日からまたルーティンな仕事が始まる。連休中に予定していた原稿執筆は、人が来たり、家族と付き合ったり、次の仕事(著書)のために急に読まなければならない本が出てきたりして、3分の1もはかどらなかった。予定して実行できたのは、父の墓参りと近くの日帰り温泉に行ったことぐらいであった――匿名には反論しないのを原則としているが、執拗にコメントを寄せてくる「烏丸御池」氏の直近のコメントは、父のことに関わって無視できない内容なので、僕の見解を述べておく(再論しておく)。僕は、確かに「僕の父は戦争犠牲者だった(と思う)と書いたが、僕の考えは、当然、父のようにではなく、戦地から帰還して立派に戦後社会を生きた人がいることは承知して上で述べたものである。例えば、僕の友人立松和平の父親は、敗戦後ソ連にシベリアへ連行される直前、逃亡して帰国し、その後78歳(?)まで、奥さんと一緒に立松と弟の二人の男の子を育て、「天寿」を全うしたと聞いている。しかし、そのような「立派」な人たちだけでなく、父のように「戦争・兵士」体験のために、どこかがポッキリ折れてしまったような戦後を送った人がいること、その人たちも広い意味で「戦争の犠牲者」なのではないか、というのが僕の考えであって、狭い意味(?)でしか戦争犠牲者を捉えられない「烏丸御池」氏が言うように、見当違いでも的外れでもないと思うのだが、いかがだろうか。なお、念のため、この件を含めて匿名には応接しないと言明しているにもかかわらず、余程自己顕示欲が強いのか、相変わらず「烏丸御池」などとふざけた名前でコメントを寄せる氏には反論しませんので、ご承知置きを!――
 連休中なかなか原稿執筆がはかどらなかったということについては先に述べたが、その代わりにどこへも出掛けなかったので時間だけはたっぷりあり、それだけいろいろなことを考えた。その内の一つに、麻生首相の「核軍縮」発言がある。政治家というのは、おしなべて時局便乗・時流優先思想の持ち主だとは思っていたけれど、麻生さんは小泉内閣で外務大臣をしていたときは、明らかに「核武装論者」であることを隠さなかったのに、ここにきてオバマ大統領が「核軍縮」を唱えたからか、「便乗」よろしく、昔から「核軍縮論者」であるかのように、臆面もなく核軍縮を世界に向かって提唱する。麻生さんが「核武装論者」であることを知っていた国民は、誰もが眉につばを付けて彼の演説を聴いたのではないか。
 第一、彼の演説に「ヒロシマ・ナガサキ」の言葉が出てきたか?テレビで見る限り、出てこなかった。核武装論者である麻生さんの頭の中には、端から「世界で最初に核攻撃を受けた都市」である「ヒロシマ・ナガサキ」のことなどなく、たぶん両市を訪れたことさえないのではないか。せめて漫画好きの麻生さんなのだから、中沢啓治の「はだしのゲン」ぐらいは読んで(「ヒロシマ・ナガサキ」の出来事に対する基礎的な知識ぐらいは持って)、「核軍縮」を唱えて欲しかったと思うのだが、根っからの体制派(権力者)である麻生さんは、反核・反戦思想を底意に持つ漫画など、もしかしたら読まないのかも知れないが、もしそうだとすると、彼の唱える「核軍縮」とは何か?根本的な疑問が残る。
 これらのことは、北朝鮮に対して「先制敵基地攻撃論」や「核武装論」で対抗しようとしている自民党若手政治家たちにも言えることで、「ヒロシマ・ナガサキ写真集成」を2種類編んだことのある僕としては、せめてそれらを見てから、「核」について発言して欲しいと思う。でも、無理か?