黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

いよいよ、牙を剥き出しに

2009-07-31 11:28:25 | 近況
 今、どんな新聞を開いても、またテレビのワイドショーなどを見ていても、来る8月31日に行われる衆議院議員選挙のことやそれに関係する各党のマニフェストのことがメインの話題になっているが、それはそれで「政権交代」が実現しそうな状況を踏まえた結果として、僕らもそれらの「情報」をよく吟味して投票行動に繋げるべきなのだろう。
 しかし、そんな選挙に関わる喧噪を尻目に、昨日の新聞に割と大きなスペースで報じられながら、テレビ屋ラジオなどでは(僕が知る限り)一切振れられなかった話題がある。それは、陸上自衛隊に「総司令部」のような機関が創設され、それに伴って全体の部隊配置にも幾分かの変更が行われた、というものであった。僕は軍隊組織については詳しいことを知らないので詳述はできないが、新聞記事に拠れば、戦前の「大本営」のようなもので、この組織は自衛隊の前身である警察予備隊が創設されて以来の自衛隊関係者(軍事を重要視する政治家も含む)の「悲願」であったそうで、にもかかわらず、これまで創設されなかったのは、自衛隊を存続させるための「方便」であった「シビリアン・コントロール」に遠慮した結果であったという。
 それなのに、いよいよ政権を民主党に譲るかも知れないという土壇場になって、どさくさ紛れに「大本営=総司令部」を創設してしまった(してしまおうと画策した結果)という印象しか持てないが、これが「郵政選挙」の結果衆議院議員の3分の2の結果であるとしたら、小泉郵政改革とはなんであったのか、改めて考えなければ行けないのではないか、と思う。あの「ワン・フレーズ・ポリテック」と言われた小泉政治がアメリカの「新自由主義」を模倣した「ネオ・ファシズム」(ネオ・ナショナリズム)であることは繰り返しこの欄で書いてきたが、小泉に次ぐ安倍、そして(福田をまたいで)麻生首相と続く保守政権の「危うさ」も、今回の陸自における「総司令部=大本営」創設によって極まった、と言えるかも知れない。
「仮想敵国・北朝鮮」の脅威を前面に押し出しつつ、その裏で「軍事大国化」(今でも相当の軍事大国なのに)への道を歩み続ける「日本」。
 果たしてそのような「危険な道」に未来はあるのか? 東アジア、あるいはロシアを含んだ極東地域で、日本の「軍事力」はどのような位置にあるのか、一国内で考えるのではなく、近隣諸国間の関係性の中で日本(の軍事力)を見た場合、特に戦前の「大本営」を思わせるような組織を、国民の多くが知らないまま、軍隊(自衛隊)と政府の一部で創設を決定してしまったという事態に関して、他国はどのように思うか? 海自(陸自も)が「海賊対策」という名目で遙かアフリカのソマリア沖まで出動している今、近隣諸国は日本への警戒心を強めるのではないか。
 偏狭なナショナリズムが「悲劇」しか生まないことは、先のアジア・太平洋戦争の経験から日本人の誰もが知っていると思うのだが、戦後も64年、哀しいかな、様々なことが「風化」してしまっているのも現実。そんな状態を見透かしたように、ナショナリスト(ファシスト)たちがいよいよ牙をむきだしてきた。僕らは、どのように対処したらいいのか。
 悲惨な歴史を繰り返さないために、ここはゆっくりみんなで考えるべきなのだろう。幸い、「ヒロシマ・ナガサキ」デーはもうすぐだし、「8月15日・敗戦記念日」ももうすぐ来る。1年に1度でもいいから、歴史を振り返り、現在を凝視し、未来について考えをめぐらす時間を持ちたいものである。

「言葉」が届かなくなった?!

2009-07-25 08:37:28 | 文学
 文壇(を特に意識しているわけではないが)でも、また論壇でも近頃とんと見かけなくなったのは「論争」である、とはもう何年も前から言われていることであるが、昨今のテレビ(政治)討論を見ていても、あるいはささやかなこのブログの「コメント」などを読んでも、どうも「言葉」が正面からぶつかり合うことがなく(つまり「論争」的なやり取りになることがなく)、「すれ違い」や意識的な「ズレ」によって、結果的に「揶揄」や「誹謗・中傷」「蔑み」になってしまい、共同(協働)して何かを創ろうという意欲が全く見えない状態になっているのではないか、と思わざるを得ない。
 このような状態が「幸福」でなく、関係を構築する際の障害にしかならないのは自明のことだが、いつからこのような世の中になってしまったのか。時は、麻生首相によって発動された解散・総選挙状態になっているが、顧みるに、このような「言葉」が正面からぶつかり合わなくなったのは、「ワンフレーズ」首相と言われた小泉さんが首相になったころからであり、その傾向が顕著になったのは、「郵政選挙」によって与党が3分の2の議席を獲得し、野党がどんなに反対しても(野党が多数を占めている参議院で反対の議決をしても)与党案が国会を通過してしまうことが繰り返されるようになってからではないか、と思う。
 そして、国会におけるそのような「悪しき傾向」は、このネット社会の「悪=とりあえず「匿名性」が象徴するもの、としておく」と連動して、他者との「共同性=共生への意思」を破壊し、個と個の関係をバラバラにし、一人一人の孤立を深める傾向を助長するようになっている。――唐突に聞こえるかも知れないが、新作「1Q84]を含めて村上春樹の文学が若い人たちを中心に受け入れられているのは、登場人物達がこの社会を反映した「孤立状態」にあり、そのような作品世界に読者が共感するからだ、と考えられる。
「共同性=共生への意思」を失ったとき(あきらめたとき)、例えば他人の批判など端から聞く耳を持たない「烏丸御池」氏のように「唯我独尊」(もう少し格好つけた言い方をしてやれば「孤高の紳士」の独り言)であることを自認せざるを得なくなるか、それとも「みつ」氏のように何の根拠(論理)も示さず他者を口汚く罵ることに「快感」を見出すような「下品」さーーやっかいなのは、この「下品」さを党の本には全く自覚していないということである――の世界に生きるしかなくなってくる。つまり、「匿名」で他者を批判する者達は、初めから「言葉」が他者に届くかどうかなど問題ではなく、一方的に「自己主張」すれば、それでことが足りたような気持になる、という「言葉」の本質、つまり言葉の「伝達」機能を無視した人たちなのだろうと思う。
 僕がこの社会はおかしくなっているのではないかと思うのは、言葉の届く範囲が非常に狭くなっている、つまり「言葉の公共性」とも言うべきものの有効性が希薄なっているからに他ならない。なぜそのようになってしまったのか。表層的には、先に挙げた「政治」の世界における堕落、がその理由の第一番に上げられるが、本質的には、「情報」としてではなく、「知=哲学」を向上させるための「読書」が廃れてきたからだ、と僕は思っている。つまり、エンターテイメントとしてではなく本を読む習慣が廃れてきたが故に、他者への想像力(好奇心)を欠いた、他者と言えば「敵」としか思えない思えない人間が増えてきたのではないか、それが現在に「悪」を醸成しているのではないか、と思うのである。
 言葉が相手に届かないというのは「哀しい」ことである。

仕事山積の「夏休み」

2009-07-20 06:42:27 | 文学
 7月から「夏休み」になった(とは言え、7月中は事務処理や会議などで、授業があったときと同じように毎週2~3日大学に顔を出さなければならず、実質的には学生と違って「夏休み」とは言えない)。
 しかし、今年もいつもと同じように長い休みを使わなければできない仕事を抱えているので、クーラー嫌いということもあって、汗を流しながらパソコンに向かう日々を送らなければならない状態にある。知人の大学教師は、避暑地の別荘(今時の大学教師が別荘を持っているのは当たり前のようで、別荘を持つなどという発想を全く持っていない僕など、「変わった人」の部類にはいるようだ。別荘を持つというのは「ステイタス」の一種なのかも知らないが、僕などは自宅が赤城山の中腹にあるのを良いことに、別荘を持たないのと聞かれると、「自宅が別荘と同じだから」と嘯くことにしている)で、大学からも学生からも離れてゆったりした時間を過ごすようであるが、そんな「余裕」はここ20年ほど僕には全く関係なく、ルーティンな日々を過ごしている。
 とは言え、実は「夏休み」ずっと仕事をしているのは、もう一つ理由があって、それは8月6日から15日までの「暑い夏」は何故か落ち着くことができず――それは僕の批評や研究の対象の一つが「ヒロシマ・ナガサキ=核問題」であり、「戦争」であるということと関係があるのかも知れない――、じっとその推移を凝視目ながら過ごすというのが、恒例になっているからである。僕がこれまで「核問題=原爆文学」にどのように関わってきたか。僕の著作など「助成金」によってなったものなのではないか、と揶揄・妄想する輩もいるので、この際だから少し整理しておく。
*著作
①「原爆とことば―原民喜から林京子まで」(83年 三一書房)
②「原爆文学論―核時代と想像力」(93年 彩流社)
③「原爆は文学にどう描かれたか」(05年 八朔社)
④「林京子論―「ナガサキ」・上海・アメリカ」(06年 日本図書センター)
*編著
①「日本の原爆文学」(83年 全15巻 ほるぷ出版 編集委員の一人として参画)
②「日本の原爆記録」(91年 全20巻 日本図書センター 編集委員は他に小田切秀雄、家永三郎だったが、編集者の協力の下、ほぼ独力で編集した)
③「ヒロシマ・ナガサキ 写真・絵画集成」(93年 全6巻 日本図書センター 上記に同じ)
④「写真集 ノーモア・ヒロシマ」(05年 日本図書センター)
 主要なものは以上。「日本の原爆文学」などは高額(54000円)にも関わらず1万セット以上売れたので、多分高校の図書館などで見たことのある人もいるのではないだろうか(「日本の原爆記録」も5000部以上売れたので、同じくどこかで目にした人もいるのではないか)。
 大学院在籍中に「大田洋子論」(広島での被爆作家、代表作「屍の街」、「半人間」)を書いたのをきっかっけに、「原爆文学論」を書き始め、それが縁で上記のような仕事をするようになったのだが、振り返ってみれば「いい仕事だった」と言えるのではないか、と思っている。
 
 なお、今期の夏休みにしなければならない大きな仕事は、秋に刊行される「書評集」(約350本の書評が収められる。詳細については、また刊行が近づいたらお知らせします)のゲラ校正である。細かい仕事なので、神経が疲れる。暑さに負けず、頑張ろうと思う。

「暑く、長い夏」

2009-07-14 15:41:05 | 仕事
 立ち寄り先でちらりと見た「読売新聞」に、都議選の結果を踏まえた麻生首相による解散・総選挙を「揶揄」するコラム記事があり、その締め括りの言葉は「暑く、長い夏が始まった」であった。真夏の総選挙というのは「異例」とのことで、コラム氏はそのことを「暑く、長い夏」と言ったのだと思うが、都議選の結果から類推すれば自民党が大敗北する可能性の高い総選挙についてはともかくとして、この「暑く、長い夏」という言葉で締め括ったコラムについて、どうも気になって仕方のないことがあった。
 それは、このコラム氏がどのような立場の人間かは分からないが(たぶん、文章から見て中堅の政治部記者だろう)、「暑い夏」という言い方が従来は「8月6日・9日」の「ヒロシマ・ナガサキ」デーから「8月15日」の敗戦記念日(僕は「終戦」記念日という言い方はしない。理由は、先のアジア・太平洋戦争は「終わった」のではなく、300万人の日本人犠牲者と2000万人を超える中国人を中心とするアジア人の犠牲者を生み出し、連合軍に「敗北」した、と思っているからである)までに適用された言い方で、もう少し長いスパンで考えれば、組織的な抵抗が終わった6月23(24)日の沖縄戦から8月15日までを「暑い夏」と言ってきたのである。そのような従来の使い方を踏まえて「暑く、長い夏」と言ってくれればよかったのだが、「読売新聞」のコラム氏はそのようなことについては一顧だにせず、ただ単に「解散・総選挙」に関してのみ「暑く、長い夏」といったのである。繰り返すが、そのことが気になって仕方がなかったのである。
 というのも、ずいぶんと待たされた麻生首相による「解散」から「総選挙」という日程は、民主党が主要なスローガンとして掲げているような「政権交代」だけが期待されるものではなく、小泉内閣から安倍-福田-麻生と続いた「ネオ・ナショナリズム」政権の「総括」が重要な課題として存在する、と考えるからである。アフガン・イラク戦争への参戦から今日のソマリア沖への海上自衛隊の派遣まで、小泉内閣以降の保守党政権はひたすら「憲法第9条」に違反して「戦争のできる国への道」を歩み続けてきた(「平和」や「福祉」を標榜する公明党が、何故そのような自民党の「ネオ・ナショナリズム」に賛同して政権与党にしがみついているのか、未だに良く理解できない。「与党」というのは、それほど「うまみ」のある立場なのだろうか)。そのようなことへの「総括」が4年ぶり(4年前は「郵政民営化」1本で、他のイシューは問題にされなかったから、その点では何年ぶりになるのだろうか)に行われるのが、今度の総選挙なのではないか、と僕は思っている。
 その意味では、民主党の「政権交代」1本やりのやり方にもいささかの疑問がある。民主党員の多くが「元自民党」ということなので仕方がないのかも知れないが、民主党員の中にも少なからず「憲法第9条」改正論者はいるし、自衛隊の海外派兵に積極的な議員もいる。そういう人たちが政権を取ったら、と思うと、なんだか釈然としないものを感じるということもある(鳩山代表の「友愛」というのは、1789年のフランス革命を思い出して、微笑ましさを超えて笑ってしまったが……)。21世紀も10年近くが経ち、何もかもが「溶解」しつつあるように思えて成らない。それは「政党」だけでなく、私たちも同じだと思うのは、都議選の過程で改めて知らされたのだが、いま日本の政治家の中で最も「タカ派」色の強い石原慎太郎への支持率が未だに50%近くある、という事実によって証される。「南京大虐殺」否定論者であり、核武装論者でもあり、差別主義者でもある石原慎太郎への支持率が50パーセント近くあるというのは、どういうことなのか?東京で教師をしている人たちから聞こえてくるのは、石原都政になって何が一番問題なのかと言えば、「日の丸・君が代」に関して異常な締め付けを行っていることも問題だが、何よりも学校から「民主主義」を追放して、「上意下達」を強制していることだ、という嘆きである。それは、日本の首都で「日本国憲法」の思想が踏みにじられている、この事実を肯定する人が都民の中に半分近くいるという「歪んだ」現実に他ならない。
 そういうようなこと全てを「総括」するのが今度の衆議院選挙、と僕は考えているのだが、この考えはおかしいだろうか? またぞろ誰かに「政治音痴」などと揶揄されるかも知れないが……、まあいいか。

体調崩し、しかし仕事は……

2009-07-13 09:41:28 | 文学
 1学期が終わり成績登録も済ませたからというわけではなかったのだろうが、「外」に出ることが億劫になってしまい、先々週末から先週末まで1週間あまり、ずっと家からでない生活をしていた。別に風邪を引いたとか、どこかが悪くなったということではなく、単にただ「外」へ出る気力がなくなったというだけだったのだと思うが、これまでにも何年かに1度そのようなことがあったので、別にどうということはなかったのだが、心配してくれる人もいたので、ちょっと前置き的に書いておきたかった、ということである。
 さて、学期末試験から「引きこもり」の期間まで、この間何をしていたのかということになるが、今月初めに『村上龍―「危機」に抗する想像力』が刊行され店頭に並びはじめたということも含めて、どなたか匿名のコメンテーターが「(黒古は)文壇からも学会からも相手にされない」などと知った風なことを書いていたことを裏切ることになるが、書評2本と評論2本を書くという、結構多忙な日々を送っていたのである。
・書評は、『週刊読書人』に相次いで頼まれたもので、1つは『憎しみの海・怨の儀式―安達征一郎南島小説集』(川村湊編 インパクト出版会刊)で、安達征一郎という作家については知っていたが、実際に作品を読むのは初めてで、琉球弧(沖縄)・トカラ列島を舞台にそこの出身であることを発語の根拠とする作品群、村上春樹や村上龍といった現代文明の最先端と渡り合う文学とはまた異なった作品は、大変面白かった。(この書評は現在発売中の『読書人』に掲載されているので、興味のある人は読んでみて欲しい。因みに『読書人』は、どこの公共図書館・大学図書館でも常備してあるのではないか、思う)
 もう一つは、同じく『読書人』から依頼されて書いた立松和平の新作『人生のいちばん美しい場所』(東京書籍刊)についての書評、である。これはまだ掲載されていないので詳しくは書けないが、僕らの世代が直面せざるを得ない「老い」(と、アルツハイマー)の問題を二組の夫婦の姿を通して描いたもので、非常にリアリティのある作品に仕上がっていて、身につまされる思いで読んだ。今週末か次週末に掲載されるのではないか、と思う。
 実は書評に関しては、もう1本、日本近代文学会から依頼されて今月末に10枚ほど書かなければならないのだが、それはこれからの仕事ということになる。
・次に論文の方だが、1つは「『雨ニモマケズ』論争について」、これは周知の宮沢賢治の人口に膾炙した「雨ニモマケズ」を巡って1960年代の半ばに、谷川徹三と中村稔を中心にして起こった論争に関して、それが中途半端なまま終わってしまった理由について30枚ほどの文章で論じたものである。5月半ばに着手したのだがなかなか進まず、少しずつ書いてきてようやく7月始めに終わったのである。宮沢賢治に関心のある人には是非読んで欲しいものである。「デクノボー」がキーワードになっている評論である。刊行は9月になると思うが今月末に創刊号が出る『月光』という文芸誌の2号に掲載される予定になっている。
 もう一つは、中国の社会科学院・外国文学研究(日本文学研究所)に頼まれて、今まさに書いている「辻井喬の文学」である。あと4,5日で書き終わる予定なのだが、セゾン・グループの総帥として活躍してきた「堤清二」と詩人・小説家の「辻井喬」の文学について、そのアウト・ラインを描く仕事、そこには「文学の原点」があるように僕には思われ、今では書いている評論よりは更に突っ込んだ作家論を書きたい、とも考えるようになってきている。論文の骨格はもう決まっているので、後は書くだけなのだが、さてどうなる事やら。

 というように、それなりに仕事はしてきたので「引きこもり」状態というのは、単に「外」に出ないということのようにも思えるのだが、今は世の中(の動き)とある一定の距離を置くというのも悪くないな、とその効用を嬉しがっている僕がいるのも事実で、これからも疲れたら「体調不良」で「引きこもり」になろうかな、とも思った。

それは、ありません。

2009-07-06 10:39:41 | 仕事
 相変わらず、賑やかな「コメント欄」ですが、少々気になることがありますので、その「注記」だけしておきます。
①僕は、「署名記事」しか書きません。ですから、あたかも僕が「匿名」(unknown)で自身の弁護をしているかのように「邪推」している人がいるのに、正直驚いています。これは定かでないのですが、「情報」(コメント欄でのものも含む)に拠れば、僕への批判(批難・中傷なども)を一人の人間が幾つかの「匿名」を騙って行っている場合もあるようで、そのような人が僕も「匿名」で自分を擁護しようとした、と邪推したのでしょう。品性下劣ですね。このことは、「ネット小僧」さんが、よく調べもしないで、あたかも「真実」であるかのようにデマゴギーに満ちた「妄想」に基づいて僕を批判するのに似ていますね。
②僕が「自著を教科書に使わない。授業で紹介するだけだ」と書いたところ、「受講生」の一人から、「本を買えば単位をやる」というようなニュアンスの言い方だった、というコメントが寄せられました。僕の「紹介」がそのように受け取られたのであれば、「申し訳なかった」、としか言いようがないが、僕は「買っても買わなくても、成績に関係ないよ。そうしない先生も中にはいるけれど……」というような言い方をしたと思うのだが、君のような受け止め方をする人がいたということは、反省の材料です。今後は気を付けます。
 ところで、そのように受け取った君は僕の本を購入したのかな?
③「コメント欄」を閉じたらいいのではないか、という意見は、「コメント欄」にもあり、また学生(院生)からも何度か「忠告」されたことがあります。僕は詳しくは知らなかったのですが、ネット上でターゲットになりそうな「ホームページ」や「ブログ」を探し回り、そこに有ること無いこと書いて(まるで「ネット小僧」のように)、そのホームページなりブログなりが「炎上」するのを楽しんでいる「確信犯」がいるようです。「まとも」に相手をしていたら消耗するだけです、というアドバイスを頂いたこともあります。
 でも、僕としては、「僕のブログが梁山泊のようになればいい」と言った手前、しばらくは静観します。ただし、もしかしたら名前を変えて「投稿」してくるかも知れませんが、宣言したように「ネット小僧」さんのコメントは、気付き次第「消去」するつもりです。悪しからず。
 以上ですが、「寂しい」文章になってしまい、残念です。
 なお、付け足し的に言えば、これまでのコメンテーターたち(投稿者たち)の多くは、小谷野敦さんや(多分、必要に迫られ手だろうが)「ネット小僧」などの僕少数を除いて、僕の著作や論文などを読まずに「批判(誹謗・中傷)」しているように思えてならないのですが、どうでしょうか。これは、ネット社会の問題(「コピペ」の風潮)に通底する悪い傾向だと僕は思っていますが、このように書くと、おそらく「お前の本・論文など読めるか」という反論が出てくると予測されます。僕の本を読む読まないは、それこそ読者の自由ですが、僕らの世代は相手のことが最も良くわかる著作や文章を読まずに、表層を見て「批判(誹謗・中傷」するなどということは決してしませんでした。少なくとも、批判する相手の主要著作や文章を読んでから批判したものです。そのような手間暇を省いた安直な「批判(誹謗・中傷)は、昔からよく言われていた「足を引っ張り合う学者・研究者の世界」を今時の若い世代も踏襲しているようで、何とも情けない気もします。昔、テレビの時代劇で主人公が「嫌な世の中だねー」という決まり文句を吐くのがあったのですが、昨今は本当に「嫌な世の中」になったように思えてなりませんね。


うんざりだね!

2009-07-04 09:38:09 | 仕事
 期末試験が終わり、大学院を含めて4科目の評価を提出し、久しぶりにこの欄を見たら、相変わらず「賑々しい」ことで……、もちろんそれはそれで承知していることなので、どうでもいいことなのですが、どうも「妄想」好きな輩(具体的には「ネット小僧」のことを指す。この人は前にも執拗に僕に絡んだことのある人のようで、何故そのようなことをするのか、僕には理解できない。相当な「被害妄想」に罹った人と思え、もう「偏執狂」としか言いようがないように思う)に振り回されてしまっている感がする。
 偏執狂(ネット小僧)氏は、「匿名」にはもう応接しない、と言っているのを良いことに、有ること無いこと「妄想」(被害妄想も含む)を膨らませて、「デマゴギー」を振りまいている。もし、彼が「匿名」でなければ、確実に「名誉毀損」で訴えられるような性質のものと思われるが、そんなことをして何が嬉しいのか、僕には全く理解できない。余程「自己顕示欲」の強い人なのでしょうね(しかし、「小心者」だから、「匿名」でしか大言壮語できない可哀相な人でもある)。
 応接しない、と言ったのだが、この欄の読者が(恐らく信じないとは思うが)彼の「妄想」を信じてては困るので、「事実」だけを列記して、「妄想」のエスカレートはいい加減にして欲しい、ということで「ネット小僧」への最後のメッセージにしたいと思う。そして、彼のメッセージで酷く傷付いている人もいるので、今後は気がついた時点で君のコメントは消去する、とだけ伝えておく。
*妄想1:僕がこれまでの自著の発刊で「自費出版はない」と言ったら、半可通よろしく「まさか公費助成は受けてませんよね」、とあたかも僕が「公費助成」(出版助成」を受けて著書を出しているかのようなデマを振りまいているが、期待に添えなくて申し訳ないが、「公費助成で補を出版したことは一度もありません」。基本的には「印税」を貰える商業出版です(もちろん、「印税」が払えないから、その分を書籍で代替してくれという出版社がこれまで2社あり、それはそれで仕方のないことだと思い、応じたことはあります)。
*妄想2:1とも関連するが、「黒古先生の本なんてせいぜい初版500部か100部で終わりでしょう」と、見てきたような「嘘」を書いていますが、これまた期待を裏切って申し訳ないが、自著22冊のうち初版2000部というのがこれまでの最低で、初版3000部、4000部、5000部というのもありました。因みに、刷り部数の最高は12000部(3刷り)で、他にも2刷り、3刷りになった本もありました。「奥付」を調べてみてください。「偏執狂」さん、残念でしたね。なお、いらぬ誤解を受けたくないのでこの際だから書いておくが、僕は自著を大学の教科書として使用したことはない(つまり、強制的に学生に自著を買わせたことはない、ということである)。もちろん、今回の「村上龍」もそうだが、僕の授業を受けている学生に紹介し、2割引で販売するということはある(つまり、僕は学生に自著を売って儲けないということである)。このことは、僕の「矜持」(この言葉、あの麻生さんが使ってから使いたくないのだが、代わりに「プライド」とでもしておきましょうか。
*妄想3:1,2とも関係するし、直接的には僕と関係ないのだが、僕の本を出してくれている勉誠出版の名誉のために言っておくと、確かにこの出版社のラインアップ(目録)を見ると、文科省(文部省)の「出版助成」を得たものが目立つが、国文を専門とする出版は多かれ少なかれ、「出版助成」を得た本(15000円とか、中には40000円もするような値段の本もある)を刊行して、会社を維持しており、勉誠出版もその限りでは、他の国文系の出版社「笠間書院」や「おうふう」「和泉書院」(京都)と変わらないと言える。しかし、もし時間があれば「出版目録」(あるいはメールマガジン)を見て貰えば分かることだが、近年は「出版助成」を得られない「一般書」を数多く出しており、拙著もその中の1冊、ということである。「知ったかぶり」をして、デマゴギーを振りまいて欲しくないね、ネット小僧さん。多分、彼は自著を出版する力がないから、他人の著書にケチを付けたり、出版社を貶めているのだろう。可哀相な人だ。
*妄想4:勉誠出版の「営業先は書店とか取り次ぎじゃないんです。」なんて、これも見てきたような「嘘」を書き、出版やその流通に疎い人にデマを吹き込もうとしているようだが、僕の新著「村上龍」が書店に並んでいないかどうか、ネットばかり見ていないで、たまには書店巡りでもしてみろ、と言いたい(ただし、拙著の新作が書店に並ぶのは、早くても来週末、17月10日発売の奥付がある。僕がこの欄で写真入りで紹介したのは、書店や取り次ぎから「注文」を採るための、俗に言う「見本」です)。僕の本だけでなく、「出版助成」の本は別にして、勉誠出版の「新刊・一般書」は全て書店に並びますし、在庫がない場合「注文」すれば、書店でもアマゾンでも購入できます。出版流通についてもう少し勉強してから、発言して欲しいな。
*妄想5:「黒古先生の著作が全く学会でも文壇でも評価されていないことは博士号もとっていないことや藤井省三の視界にも入っていないことなどからして明らか」などと、これも見てきたような「嘘」を書いているが、拙著が日本旗代文学会や昭和文学会の機関誌で書評されたり紹介されたりしていること、あるいは藤井省三との関係で「村上春樹」についてだけ言えば、「村上春樹スタディーズ」というシリーズ本がありますが(君は知らないのだろうな)、その1・2に僕の論文が収録されていて、その一つは「アメリカ・中国、そして短編小説―もう一つの村上春樹ワールド」で、村上春樹と中国との関係について論じた一等最初の論文です(だから、この「スタディーズ」シリーズに収録された)。批判するしないは別にして(無視したのかも知れないが、それはそれで結構なこと)藤井省三は先行文献であるこの拙論を見ていないように思う。あるいは、「三浦綾子」に関して、「国文学」の特集(1998年11月号)を見てみなさい。収録された論文の参考文献の中で黒古の著書が一番多いことが分かるはずです。他にも「大江健三郎」研究でも、拙論は参考文献として上げられる率が多い。ろくに調べもしないで、よく言うよ、というのが僕の感想です。君はどんな業界(学会)に属しているのかしら。こんな嫉妬深い人はどうせ所属する世界でも嫌われているんだろうな。
*妄想6:「現在の黒古先生の状態は学生指導ができる状態ではと手もないので回顧されても当然だと思いますよ」などと、これもまた見てきたような「嘘」を書いていて、「内部者」を装っているが、一番始めに書いたように、僕は1学期の授業で大学院(前期課程)の授業(講義8人、ゼミ2人)、(後期課程)で6人とゼミを行い、学部ではカリキュラムの改組に伴う「移行授業(4年生だけ)」受講生27名と正規の授業59名の授業を(75分×2×10日間、+試験)行いました。ネット小僧は僕があたかも授業をサボっているかのような言い方をしているが、残念ながら、僕はこれまで外国出張のために1回、体調を崩して1回、以外休講したことはありません。君がどのような大学に行っているのか(卒業したのか)知りませんが、君が邪推するほど「いい加減な大学教師」は、僕の知る限りそんなにいません。君はジェラシーが嵩じて「妄想」の中でしか、僕や大学教師の姿が見えなくなっているのではありませんか。
*妄想7:「以前自分の父親は戦争の犠牲者だといっていましたが、なぜ父親がそんな荒れた生活でも黒古先生の家族は育って行けたのですか?軍人恩給や遺族年金を貰っていたからではないですか?」だって、ふざけるな、と言いたい。10年前に亡くなった母の名誉のために言っておくが、彼女はそんな夫であっても、不自由な足(障害者手帳を持っていました)をかばいつつ必死に働き(日雇いや農家の手伝い、最後は近所の会社の臨時工)、4人の子度を育てたのである。「無知」な君は知らないかも知れませんが、「軍人恩給」は無事に帰還した兵士の家族には与えられない年金です。つまり、「戦死」したか、それに匹敵する「傷痍軍人」にしか与えられないのです。知ったかぶりするのではありません。「遺族年金」に関しては、53歳でなくなった父が戦後十数年経って「立ち直り」、会社務めを再開した時の厚生年金(もしかしたら、戦前、兵隊に行く前に勤めていた会社のものも含まれていたかも知れませんが、詳細は不明)に関わるものを貰っていたかも知れませんが、詳細は母が管理していたの知りませんが、微々たるものであったと推測します。(「戦死」が「戦士」になっていたのに気がつかなかったので、直しました。なお「軍人恩給」について詳しく教えてくれた人もいましたが、貰っていたかどうかが問題なので、「貰っていなかった」ということだけを再度言っておきたいと思う。―5日午前4時)
 いずれにしても、揚げ句の台詞が「そういう自分に都合の悪い部分を隠して左翼風吹かせているから批判を浴びるんですよ」だって、そっくりそのまま君にこの言葉を返します。生半可な知識で「偉そうに」間違ったことを多弁によって言いくるめようとする、そしてどんな権限があるのか人を「解雇」せんとする、ジェラシーもここまで来ると大迷惑である。「批判」は仕方がないとして受け入れますが、「妄想」は困ります。迷惑を被るのが僕だけではないからです。
 幸い、コメントを寄せてくる人の中には、この「妄想狂・偏執狂」の言説に疑問を投げかける人もいるので救われるが、ここで再度言明しておきたいと思う。「ネット小僧」のコメントには以後応接しませんし、「消去」します。これ以上、「妄想狂・偏執狂」にこのブログが荒らされたくないし、付き合いたくないからです。うんざりです。この処置が承伏できないのであれば、どうぞどこか別な場所で僕や教え子たちの「悪口」をいくらでも言ってください。
 また、「ネット小僧」さんは、これから筑波大学関係の論文や書籍を「無差別にきりつけ」たり、「しらみつぶしに検索して調べて批判」するようですが、どうぞご勝手に、としか言いようがない。ただし、他人のブログではなく、君が言うように「自分のブログ」で、どうぞ(「ネット小僧」三は、どんなブログを書いているのかな?多少興味もないわけでhないが、恐らく「身分」や「出自」などを隠してジェラシーだけは丸出しで、「好き勝手なこと」を自己満足たっぷりに書いていると思うと、そんなブログは覗きたくもないし、関係も持ちたくない。それが本音。