黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

気になること2、3(昨日の続き)

2008-08-22 11:50:35 | 仕事
 昨日の続き。
 実は昨日一番書きたかったのは、このことで、それは最近の人間(日本人、老若男女を問わず)は「謙虚さ」が足らないのではないか、ということであった。実は、昨日我が研究科の大学院(博士課程)の8月期入学試験があったのだが(もう1回、2月にも試験はある)、面接官として試験に臨んだ僕が試験中ずっと感じていたのは、「近ごろの人は(若いか年を取っているかは別にして)、どうしてこんなに自信家なのか、たいした能力があるとも思えないのに」というものであった。大学院博士課程の入学試験ということで気張っており、「弱み」を見せたくないと思ってのパフォーマンスとも思え、その点に関しては、遙か昔の自分の体験に照らしても、そうだろうな、と理解できなくはないのだが、全体としては「謙虚さ」のかけらも感じさせない「自分本位(ジコチュウ)」で、思わず「そんなにみんな分かっているのなら今さら大学院など入る必要なんかないだろう」と思わずツッコミを入れたくなるような状況に、辟易せざるを得なかったのである。
 どうも最近の人は、「市中に賢人在り」ということを知らないようで、例えば大学院で学ぶ場合、当然「論文」を書かなければならないのだから、先行研究(あるいは「参考文献」)に当たるというのは、必須の条件なのに、その先行研究への言及がおざなりになっている、ということがある。コピー&ペーストでレポートやちょっとした論文を書くことに慣れてしまった今の学生に、コピーした「先行研究」(論文)がどのように血の滲むような努力の末に生み出されたのか、想像力を働かせればすぐ分かることなのに、コピー&ペーストという「安直さ」に慣れてしまった人には、そのような想像力さえ働かなくなってしまっているのかも知れない。
 地道に文献を読み、そしてそこから得られた知見と自分の本来の考えとをぶつけ合って、そこからまた新たな考えを生み出していく、つまり弁証法的な思考方法が
「研究」のみならず、私たちの生活全般にわたって必要とされていることなのに、そんな生き方の「方法」にさえ思い及ばない人たちの増加、これは由々しきことなのではないか、と思う。
 繰り返すが、「謙虚さ」がなくなってしまった世界、それは「争闘」の世界であり、声の大きい奴が「勝ち組」になる世界と言っていいだろう。そうなれば、人間関係はますます索漠としたものになり、「潤い」がなくなる。極端に聞こえるかも知れないが、秋葉原無差別殺人のような事件が起こるのも、それはこの人間社会から「潤い」がなくなり、ということは「謙虚さ」がなくなるということでもあるが、社会全体が殺伐としたものになっていることが遠因になっているのではないか、思う。人間一人ができることなどたかだか知れている、だからこそ「共同」・「共生」の大切さを知ることが必要なのだ、と僕は思うが、どうもそのような考えは「古い」と言われかねないのが現在、本当にこれでよいのか。
 あなた(君)の周りに、あなた(君)より優れた人がたくさんいる(もちろん、それと同じくらいどうしようもない「バカ」「アホ」もいる。「注」しておくと、この「バカ」「アホ」は学校の成績のことではないから、その点は間違わないように)こと、そのことに気付き、己の言動に対して「謙虚」になる。そうしたとき、初めて見えてくるものがあるのではないか、と思う。「謙虚さ」を失った勇ましい言動は、それなりに面白いが、ただそれだけでしかないというのもまた事実であること、肝に銘じた方がいいのではないかと思う。
 併せて、蛇足的に言っておけば、謙虚という言葉の反対語が「傲慢」であること、このことの意味もまた改めて考える必要があるのではないか、と思う。更に言えば、ネット小僧たちの「匿名性」の陰に隠れた言いたい放題もまた、彼らの精神から「謙虚さ」が失われ、「傲慢」になっていることの現れ、と見ることが出来る。いずれにしろ、それもこれも「壊体」しつつある社会の最後の「足掻き」なのではないか、と思っている。